第129章 見せしめの放水
「もし我が守備軍団が数年の安定した発展を遂げていたなら――おそらく、私はこんな手段を取ることはなかっただろうな」
静かにそう告げたフィルードの声は、焔のゆらめきに紛れてなお冷ややかだった。
「だが現実は違う。守備軍団は設立されたばかり。最初の一撃で敗北すれば、それだけで我々の威信は地に落ちる。人の心というものは、いったん散れば二度と容易には戻らぬ。放置すれば、組織の求心力そのものが崩壊するだろう。――その代償は、このわずかな利益の比ではない」
ケビンは沈黙ののち、はっとしたように息を呑み、深く頭を垂れた。
「……団長様はやはりお見通しでいらっしゃる。私の考えが浅うございました」
フィルードは軽く首を振る。
「構わん。組織というものを動かすのは初めてだろう。いずれ理解するさ。人をまとめるというのは、剣で敵を斬るよりもずっと骨が折れるものだ」
その夜、両軍の野営地には異様な静けさが漂った。火の粉の下、空気は緊張に満ち、誰もが息を殺して夜明けを待つ。
やがて翌日、昼の鐘が鳴る頃――再び敵軍が動いた。
怒号が響き、無数の丸太が押し出される。今回はただの突撃ではない。彼らは丸太を二列に組み、下に車輪をつけ、さらに横木を何重にも渡して移動式の防壁を作り出していた。その下を兵が這い進み、石弾の雨に耐えながら迫ってくる。
「なるほど……考えたな」
フィルードは天幕の影で静かに目を細めた。
敵が工夫を見せる――それ自体は歓迎すべき兆候だ。
絶望に駆られ、無謀な報復に出られても面倒だからな。
やがて彼は短く命じた。
「投石の重量を半分に落とせ。威力は保て。だが……殺しすぎるな」
この命令の真意を理解できる者は少なかった。
だが、彼にとってはすべて計算のうちだった。
敵に「勝てる」と思わせる余地を残し、同時に支配下の民の心を一つに結び直す。
「勝ちすぎ」もまた戦略の敗北だ。
空を裂く石弾の唸りが響き渡る。
だが今回は、敵の木組みの一部を壊すにとどまり、残りの構築物は城壁の足元まで到達した。
「……上出来だ。これで連中も攻城戦を本格化させるだろう」
案の定、敵兵たちは木組みの底から雲梯を引き出し、城壁に架け始めた。
木組みの下に潜んでいた兵士が一斉に這い出し、怒号と共に登攀を始める。
フィルードは新兵中心の治安団を壁上に配置し、各区画にベテランを少数ずつ散らして監督させた。
戦いの中で鍛えさせる――まるで鍛冶場の火加減を見極めるように。
「丸太の投下頻度を落とせ。木材が尽きたように見せるんだ」
そう命じながら、内心では冷静に戦況を観察していた。
登ってくる敵に対し、新兵たちは悲鳴と共に長槍を突き出す。
その姿はまだぎこちない。だが、彼らの背後には常にベテランが控え、機を見て加勢する。
倒すべき数、逃がすべき数――その線引きまでも、フィルードの掌の上だ。
夕暮れまで戦いは続いた。
敵は五百余名の屍を晒し、こちらの損害はわずか数名の戦死者と数十の負傷者のみ。
三日目。敵は再び攻めた。
四日目の夜、二千の死体が城下を覆った頃、ついにディオ伯爵は眉をひそめた。
「……妙だな。あの小僧、まるで我々を弄んでいるかのようだ」
腹心が頷く。
「報告では、何度か城壁上に拠点を築いたものの、すぐに重装備の精鋭に潰されるとか。完全に計算されておりますな」
ディオは唇を噛み、沈思する。
だが、ここで退けば自らの権威が失墜する。伯国はまだ若く、敗北の印象は致命的だ。
――だからこそ、彼もまた後に引けぬ。
「……いいだろう。奴が庇護しているという開拓領、まずそこを叩く。見せしめだ。奴がどう動くか、試してみようではないか」
その命令を受け、翌朝、敵軍は沈黙した。
フィルードはその時点で悟っていた。
「やはり、こっちを嗅ぎ取ったか」
彼は地図を見つめ、静かにチェリルを呼び寄せた。
「開拓領の撤退状況は?」
「ほとんどがすでに退きました。残っているのは四つのみ。それぞれが険しい地に陣を張り、食糧も水も十分です。彼らは、あの老賊がいかに軍勢を率いていようと、わざわざ小規模な木寨など相手にしないだろうと申しております。長期の包囲は補給がもたぬ、と。団長様、ご心配には及びませんと」
「ふむ……見識も胆力もある」
フィルードは思わず唇の端を吊り上げた。
「誰の意見だ?」
「アンソニー、と申します。以前、会盟の日にあなたへ何度も意見を尋ねてきた青年です」
「ああ、あの若造か……」
かつての問い詰めが脳裏に浮かぶ。臆せずに己の意見を口にする胆力――嫌いではない。
「ならば、彼の判断に賭けてみよう。だが伝えろ。ディオは必ず動く。安全を取るなら撤退、無理なら四家が合流して一つの木寨に籠もれと。敵は数十倍だ、甘く見るな」
チェリルは頷き、すぐに走り去った。
やがて開拓領主たちは警告を受けても退かず、四つの木寨を統合し、一つの堅固な砦を築いた。
二日後、ついにディオの軍がその砦を発見した。
彼は当初、周囲の開拓地がもぬけの殻なのを見て撤退を考えたが、ただ一つ残された砦を見つけるや否や、怒りのままに出陣した。
断崖に囲まれた山頂の砦を見上げ、ディオは歯噛みする。
「この忌々しい小悪党め。自分だけでなく部下までも亀の甲羅に籠らせおって……まったく、“スッポン領主”の異名がふさわしいわ!」
その横で部下が進言する。
「陛下、この砦は四方断崖に囲まれ、登れる道は一箇所のみ。その道も木寨が塞いでおります。強攻すれば石を落とされるだけで大損害です。いっそ中の開拓騎士に爵位を約束しては? 投降すれば、全員を正式な騎士に昇進させると」
ディオの目が光る。
「――それだ。よし、すぐに伝えろ。声を張れ、“恩赦の声”としてな!」
怒号が山間に響いた。だが、砦の上から返るのは、無数の槍の穂先が放つ鋭い金属音だった。
フィルードはその報せを受け、地図を見下ろして静かに呟く。
「さて……“放水”は、どちらに流れるか――」




