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傭兵から商売を始めたら、いつの間にか領主になっていた件  作者: 篠ノ目
第三巻 商人から支配者へ① ――守るための取引と暴力

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第129章 見せしめの放水

「もし我が守備軍団が数年の安定した発展を遂げていたなら――おそらく、私はこんな手段を取ることはなかっただろうな」

静かにそう告げたフィルードの声は、焔のゆらめきに紛れてなお冷ややかだった。

「だが現実は違う。守備軍団は設立されたばかり。最初の一撃で敗北すれば、それだけで我々の威信は地に落ちる。人の心というものは、いったん散れば二度と容易には戻らぬ。放置すれば、組織の求心力そのものが崩壊するだろう。――その代償は、このわずかな利益の比ではない」

ケビンは沈黙ののち、はっとしたように息を呑み、深く頭を垂れた。

「……団長様はやはりお見通しでいらっしゃる。私の考えが浅うございました」

フィルードは軽く首を振る。

「構わん。組織というものを動かすのは初めてだろう。いずれ理解するさ。人をまとめるというのは、剣で敵を斬るよりもずっと骨が折れるものだ」

その夜、両軍の野営地には異様な静けさが漂った。火の粉の下、空気は緊張に満ち、誰もが息を殺して夜明けを待つ。

やがて翌日、昼の鐘が鳴る頃――再び敵軍が動いた。

怒号が響き、無数の丸太が押し出される。今回はただの突撃ではない。彼らは丸太を二列に組み、下に車輪をつけ、さらに横木を何重にも渡して移動式の防壁を作り出していた。その下を兵が這い進み、石弾の雨に耐えながら迫ってくる。

「なるほど……考えたな」

フィルードは天幕の影で静かに目を細めた。

敵が工夫を見せる――それ自体は歓迎すべき兆候だ。

絶望に駆られ、無謀な報復に出られても面倒だからな。

やがて彼は短く命じた。

「投石の重量を半分に落とせ。威力は保て。だが……殺しすぎるな」

この命令の真意を理解できる者は少なかった。

だが、彼にとってはすべて計算のうちだった。

敵に「勝てる」と思わせる余地を残し、同時に支配下の民の心を一つに結び直す。

「勝ちすぎ」もまた戦略の敗北だ。

空を裂く石弾の唸りが響き渡る。

だが今回は、敵の木組みの一部を壊すにとどまり、残りの構築物は城壁の足元まで到達した。

「……上出来だ。これで連中も攻城戦を本格化させるだろう」

案の定、敵兵たちは木組みの底から雲梯を引き出し、城壁に架け始めた。

木組みの下に潜んでいた兵士が一斉に這い出し、怒号と共に登攀を始める。

フィルードは新兵中心の治安団を壁上に配置し、各区画にベテランを少数ずつ散らして監督させた。

戦いの中で鍛えさせる――まるで鍛冶場の火加減を見極めるように。

「丸太の投下頻度を落とせ。木材が尽きたように見せるんだ」

そう命じながら、内心では冷静に戦況を観察していた。

登ってくる敵に対し、新兵たちは悲鳴と共に長槍を突き出す。

その姿はまだぎこちない。だが、彼らの背後には常にベテランが控え、機を見て加勢する。

倒すべき数、逃がすべき数――その線引きまでも、フィルードの掌の上だ。

夕暮れまで戦いは続いた。

敵は五百余名の屍を晒し、こちらの損害はわずか数名の戦死者と数十の負傷者のみ。

三日目。敵は再び攻めた。

四日目の夜、二千の死体が城下を覆った頃、ついにディオ伯爵は眉をひそめた。

「……妙だな。あの小僧、まるで我々を弄んでいるかのようだ」

腹心が頷く。

「報告では、何度か城壁上に拠点を築いたものの、すぐに重装備の精鋭に潰されるとか。完全に計算されておりますな」

ディオは唇を噛み、沈思する。

だが、ここで退けば自らの権威が失墜する。伯国はまだ若く、敗北の印象は致命的だ。

――だからこそ、彼もまた後に引けぬ。

「……いいだろう。奴が庇護しているという開拓領、まずそこを叩く。見せしめだ。奴がどう動くか、試してみようではないか」

その命令を受け、翌朝、敵軍は沈黙した。

フィルードはその時点で悟っていた。

「やはり、こっちを嗅ぎ取ったか」

彼は地図を見つめ、静かにチェリルを呼び寄せた。

「開拓領の撤退状況は?」

「ほとんどがすでに退きました。残っているのは四つのみ。それぞれが険しい地に陣を張り、食糧も水も十分です。彼らは、あの老賊がいかに軍勢を率いていようと、わざわざ小規模な木寨など相手にしないだろうと申しております。長期の包囲は補給がもたぬ、と。団長様、ご心配には及びませんと」

「ふむ……見識も胆力もある」

フィルードは思わず唇の端を吊り上げた。

「誰の意見だ?」

「アンソニー、と申します。以前、会盟の日にあなたへ何度も意見を尋ねてきた青年です」

「ああ、あの若造か……」

かつての問い詰めが脳裏に浮かぶ。臆せずに己の意見を口にする胆力――嫌いではない。

「ならば、彼の判断に賭けてみよう。だが伝えろ。ディオは必ず動く。安全を取るなら撤退、無理なら四家が合流して一つの木寨に籠もれと。敵は数十倍だ、甘く見るな」

チェリルは頷き、すぐに走り去った。

やがて開拓領主たちは警告を受けても退かず、四つの木寨を統合し、一つの堅固な砦を築いた。

二日後、ついにディオの軍がその砦を発見した。

彼は当初、周囲の開拓地がもぬけの殻なのを見て撤退を考えたが、ただ一つ残された砦を見つけるや否や、怒りのままに出陣した。

断崖に囲まれた山頂の砦を見上げ、ディオは歯噛みする。

「この忌々しい小悪党め。自分だけでなく部下までも亀の甲羅に籠らせおって……まったく、“スッポン領主”の異名がふさわしいわ!」

その横で部下が進言する。

「陛下、この砦は四方断崖に囲まれ、登れる道は一箇所のみ。その道も木寨が塞いでおります。強攻すれば石を落とされるだけで大損害です。いっそ中の開拓騎士に爵位を約束しては? 投降すれば、全員を正式な騎士に昇進させると」

ディオの目が光る。

「――それだ。よし、すぐに伝えろ。声を張れ、“恩赦の声”としてな!」

怒号が山間に響いた。だが、砦の上から返るのは、無数の槍の穂先が放つ鋭い金属音だった。

フィルードはその報せを受け、地図を見下ろして静かに呟く。

「さて……“放水”は、どちらに流れるか――」

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