第119章 追撃の影
周囲を見渡すと、あちこちで炊煙が立ち昇っていた。特に南側の人間開拓領では集落が密集しており、冬の間に築き上げた木塀の効果が、遠目からでもはっきりと分かった。
この数日で自らも木塀の建設を終え、その実現可能性と堅牢さを実感していた。欠点があるとすれば、来春——雪解けの水が木材を腐らせる頃が最も脆い時期だろう。
(春が来れば、脆弱さを露呈する。だが、それまでに防衛線を完成させれば、誰も俺の領地を脅かせはしない)
寒さの厳しい冬の間、周囲は静寂に包まれていた。外の領地では動き一つない。おそらく、あまりの寒さに戦を起こす気にもならなかったのだろう。
やがて冬が終わりを告げるころ、予定していた全ての木柵が完成した。しかし、その代償は重い。約一五〇〇名以上の豚頭族奴隷が命を落としたのだ。
凍死、過労、反抗――死の理由は様々だった。結局生き残ったのは二〇〇〇名ほど。だがその多くは従順で勤勉な者たちで、結果として精鋭が残ったと言えた。
(無駄死にではない。淘汰だ。生き残った者が俺の盾となり、この地を支える)
この冬、フィルードは自らの力もまた一段階進化させていた。体内にある十個の魔力貯蔵ノードをすべて凝縮し終えた瞬間、世界の魔力が自分に流れ込むのを感じた。
まるで自分自身が巨大な魔力陣と化したような感覚。周囲数十メートルに漂う微細な魔素が、ゆっくりと彼の内へと吸い込まれていく。
(これでようやく、次の戦に備えられる……俺という存在そのものが、戦場の要になる)
また、長く世話をしてきた黒牛も急速に成長していた。毛並みは漆黒に輝き、背丈はフィルードの肩を超えるほど。
彼はすでにその体から微弱な魔力の波動を感じ取っていた。突破は時間の問題だろう。
多くの星魔草を与え、信頼を積み重ねてきた結果、今や黒牛はフィルードに絶対的な忠誠を見せていた。
暇があれば、この黒牛に跨って領地を巡回するのが日課となっていた。
驚くべきことに、その走力は普通の駿馬に劣らず、持久力においては完全に上回っていた。さらに、荷を背負う能力も群を抜いていた。
(突撃力では馬に劣るが……長期戦ではこの牛に勝るものはない。理想的な軍馬――いや、戦友だ)
春、雪解けとともに大地が柔らかさを取り戻す。盆地一帯では大規模な春耕が始まった。
この世界では春まき秋収の作物が主であり、前世とは季節の循環が逆だ。だが、理屈は同じだ。種を撒き、育て、収穫する。全ては積み上げだ。
二千ムー(約一三三ヘクタール)の土地は耕牛の助けを借り、数日のうちに播種を完了した。
フィルードは奴隷たちに更なる開墾を命じた。冬が来るまでに八千ムー(約五三三ヘクタール)を拓く――それが今年の目標だ。
(今年中に自給体制を確立できれば、食糧のために頭を下げる必要はなくなる。俺の支配は、土と穀物から始まる)
峡谷領地ではアルファルファも順調に育っていた。既に数百ムーが栽培されており、新たに千ムーを拡張中だ。木の切り株が散在する荒地にも、この植物なら根付く。
その様子を確認しながら、フィルードは次の行動を決めた。
「……よし、行くか」
黒牛に跨がり、領地の騎兵隊三十名を率いて出発する。今回は視察ではなく、周囲の豚頭族部族と人間開拓領の戦力調査を兼ねた巡察だった。
隊にはローセイとマイク、そしてライドンが同行。
ローセイとマイクは中等戦馬に乗り、ライドンには以前フィルードが使っていた上等戦馬を与えていた。重装備の彼には、それ以外の馬では耐えられない。
フィルード自身も全身甲冑を纏っていたが、黒牛にとってはそれがまるで羽毛のようだった。さらに物資の一部まで背負わせても、まったく苦にしない。
三十名あまりの騎兵隊は、風のように谷を抜けて進軍した。
最初に到着したのは、領地に最も近い豚頭族の集落。土の丘を中心に三つの小部族が駐屯している。木柵は高さ四メートル。数十の豚頭族が青石を担ぎ、土を叩き締めていた。
「大首領にお目にかかります!」
ジャッカルマンの首領が慌てて出迎える。フィルードは黒牛の上から軽く手を上げた。
「木柵の状態はどうだ? 他の部族との関係は?」
「大首領のご指示どおり、崩壊はしておりません。ただ、暖かくなるにつれ、水が染み出してきました」
「そうか。問題ない。補強を続けろ」
黒牛を進ませ、丘の頂に立つ。見下ろせば、整然と築かれた木柵が冬を耐え抜いていた。安堵とともに、わずかな満足感が胸を満たす。
三つの部族の首領に命じ、十日後にそれぞれの子弟九十名を率いて峡谷領地へ集合させるよう伝えた。
今回は短期ではない。彼らを訓練し、完全に自軍化する――そのための長期駐留だ。
指示を終え、騎兵を率いて再び巡察を続けた。
しかし、フィルードたちが領地を離れた直後。
領地近くの林の陰で、一人の斥候が静かに身を翻し、闇の中へと消えた。
(……やはり、見られているか)
胸の奥に微かな予感が芽生える。嫌な空気が肌を撫でた。
すべての豚頭族領地を巡視し終え、人間の開拓領に差しかかったその時だった。
遠方の地平に、土煙が立ち昇るのが見えた。
フィルードの眉間がぴくりと動く。
「――狙われたな。全員、右へ。逃げるぞ!」
黒牛の腹を叩くと、獣は凄まじい勢いで走り出した。マイクとライドンには馬を交換させ、後方の敵勢を確認させる。
すぐに報告が入る。
「後方に百名以上の騎兵! 敵は組織的です!」
(百名超……偶然ではない。待ち伏せか)
一行は走り続けたが、すぐにライドンが叫ぶ。
「団長! 右前方にも土煙が! 別の部隊です!」
(挟み撃ち――完全に狙われている)
フィルードの心臓が強く脈打つ。状況を一瞬で分析し、すぐに決断を下す。
「山へ入る! 騎兵戦では不利だ、徒歩で攪乱する!」
全員が馬を降り、山麓へ駆け上がる。フィルードは黒牛に跨ったまま先行した。
急斜面など、彼と黒牛には関係ない。
(数では劣るが、地の利はこちらにある。問題は――奴らの背後に誰がいるかだ)
ライドンたちが遅れて山を登ってくる。フィルードは立ち止まり、後方を見やって命じる。
「お前たちはゆっくり登れ。俺が先に上で様子を見てくる」
黒牛の腹を叩き、さらに山頂へと突進する。
数分後、頂上に到達。
そこから見下ろした平原には、三つの騎兵隊がいた。二つは山に接近中、一つは遠く後方。総勢三百名を超える兵力――完全な包囲陣形だった。
(やはり、仕掛けたのはディオか……)
この規模の騎兵を短時間で動かせる勢力は、ディオ伯爵をおいて他にない。
挑発した覚えはない。それでも奴は執拗に牙を剥く。
おそらく、あの豚頭族襲撃戦の裏にも、奴の影があったのだろう。
フィルードは冷たい風の中、目を細めた。
(……いいだろう。ならばこの罠、利用してやる)
その眼差しには恐れも焦りもなかった。
ただ、次の一手を計算する冷徹な光だけが宿っていた。




