第114章 火の粉を踏む者
伝令兵は力強く頷いた。
「我が子爵領の主力は、現在五十里以上離れた場所に駐屯しております。
子爵府の城もまた、一団の獣人どもに包囲されているのです。その数、およそ五千。
そのうち六百がボア・マン戦士で、残りも戦闘経験豊富な獣兵ばかり。
一方、我々の兵力は四千にも満たず、ボア・マンに対抗できる鉄甲兵はわずか四百。
……ですから我が子爵様の意向としては、まず貴殿が領地を包囲している獣人を撃退し、
その後、貴殿の軍勢で我々の包囲を解いていただければと――」
話の途中で、フィルードの眉がわずかに動いた。
(……やはりか。この獣人の侵攻は、私の領地だけを狙ったものではない。)
内心で冷たい震えが走る。
これは単なる略奪ではない。組織的な動き――つまり「戦争」だ。
しばらく沈黙を置いてから、フィルードは静かに首を振った。
「あなたも見ただろう。
我が領地の防御は堅固だ。獣人どもが全力を尽くしても、内部を脅かすことはできなかった。
開戦前に大量の食糧を備蓄しておいた。領民全員が一年、いや二年は十分に食える量だ。
我々は包囲を恐れぬ。
しかも、敵の兵は疲弊している。そう遠くないうちに自ら退くだろう。
――よって、私はリスクを冒してまで貴殿らと協力する必要を感じない。」
伝令兵は言葉を詰まらせ、口ごもった。
「で、では……もし我が子爵様が、報酬をお支払いしてでも貴殿を雇いたいと申し出た場合、
どれほどの代償が必要になりますか?」
フィルードは即座に首を横に振った。
「どんな代償を積まれても引き受けぬ。この戦は血と裏切りにまみれる運命にある。
我が傭兵団全体が壊滅的な損害を受ける恐れがある。
他に用がないなら、もう帰れ。」
伝令兵は歯を食いしばり、指を三本立てた。
「子爵様は、あなたが兵を出すことに同意してくださるなら――
報酬として三千金貨をお支払いすると仰せです! さらに、我々もあなた方の包囲を解くのを助けます!」
フィルードの胸に、一瞬だけ欲の火が灯る。
三千金貨――悪くはない。だが、危険を秤にかければあまりにも軽い。
彼はその火を無理やり押し潰し、淡々と答えた。
「……代償が足りない。増額せよ。」
伝令兵の目に、かすかな安堵が走った。
(値切り交渉か。――乗った。)
「フィルード団長、包み隠さず申します。
子爵様より授かった最高限度は四千金貨です。
ただし条件が一つあります。
貴殿は城壁上のあの五十基の弩車を共に連れていくこと。
王国の禁令については心配無用、我が子爵様が責任を負います。」
「四千では話にならん。」フィルードは即答した。
「最低でも五千金貨。それに鹵獲した装備は折半。
主攻はあなた方が務める。我々は支援に回る。
我が領地を包囲する獣人の装備はすべて我々のものとする。
……この条件はあなたの権限では決められまい。すぐに戻って報告せよ。
同意できぬなら、二度とここに来るな。」
伝令兵は口を開けたまま凍りついた。
やがて諦めの溜息を漏らし、無言で去っていった。
(――当然だ。これはわざと飲めぬ条件を突きつけた。
この話には関わりたくない。リスクが大きすぎる。
しかもハロルド子爵とは縁がない。裏切られても、王都の誰も私を助けはしない。)
だが、意外なことに。
伝令兵は去ってからわずか一時間足らずで戻ってきた。
(早い……まさか近くに本隊が?)
フィルードは鋭い視線を送った。
「どうだ。子爵は私の条件に同意したか?」
「……い、いえ。報酬はやはり四千金貨が限度です。
ですが、あなた方の領地を包囲している獣人の装備はすべて差し上げると。
我々の方の獣人の装備は、もちろん我々のものに。
主攻も任せません。負傷のリスクは同等に分かち合うとのことです。」
その言葉に、フィルードは静かに息を吐いた。
やはり――ここで打ち切るべきだ。
そう思った瞬間、伝令兵がさらに続けた。
「……それと、もう一つ。
我が子爵様は申されました。
もし今回あなたが我々を助けてくださるなら――
あなたに“男爵”の爵位を授ける、と。」
フィルードの瞳が鋭く光る。
(……やはり、そう来たか。)
心臓が一瞬だけ跳ねた。
爵位、それも男爵。
それは兵卒上がりの傭兵にとって、夢のような報酬だ。
だが同時に――「鎖」でもある。
(その瞬間、私はハロルドの傘下となる。
兵を動かす権利すら奪われる。奴の言葉ひとつで、全てを失う。)
フィルードはきっぱりと首を振った。
「子爵に伝えろ。男爵の件は不要だ。
ただし――私を正式な“王国騎士”にできるなら、この条件を呑もう。
それができぬなら、報酬は四千金貨で構わん。
だが、その他の条件は一切変更しない。」
伝令兵は苦い表情を浮かべ、やがて黙って頷いた。
去っていく背を見送りながら、フィルードの中に疑念が芽生える。
(……姿勢が低すぎる。何か裏があるな。)
伝令兵が城壁を降りた瞬間、フィルードは命じた。
「チェリル、暗夜小隊を率いて後を追え。
敵の陣と駐屯地を偵察し、戻れ。」
今の暗夜小隊は、もはや別物だった。
鉄を埋め込んだ野牛革の鎧に、夜行服。
重防御と高機動を両立し、夜の闇と一体化する精鋭たち。
チェリルは森を抜け、伝令兵の影を追った。
そして――見た。
あの伝令兵が、まっすぐ獣人の野営地に入っていくのを。
「……見間違いじゃないのか?」
「いいえ、団長様。何度も確認しました。」
フィルードの背筋に氷の刃が走った。
(……やはり罠か。危うく、全滅していた。)
部屋の中を歩き回りながら、彼は考える。
やがて足を止め、命令を下した。
「チェリル。すぐに再び出発しろ。
今度はダービー城の方角だ。
ハロルド子爵の領地にも行け。だが――絶対に接触するな。
夜間のみ行動し、昼は隠れろ。
十日以内に必ず戻れ。結果がどうであれ、だ。」
冷静に、的確に。
そして、炎の中を歩くように慎重に――
フィルードは戦場の火の粉を、踏み砕く覚悟を固めていた。




