第106章 冷徹なる観察者と毒の果実
「よし、私とデライヴンにはまだ話すことがある。君に他に用がなければ、下がって計画の準備を進めるように。他の傭兵団にも、後日出発するように伝えよう。」
ウェイン侯爵の声には、貴族特有の余裕があった。だが、そこに潜む真意までは読めない。
――俺に与えられた「自由」とは、すなわち“責任の独り占め”ということか。
フィルードは無表情のまま一礼し、懐から一枚の木札を取り出した。
「侯爵様、私のこの計画は実施が非常に複雑です。下の傭兵団連合に伝えていただけませんか。この木札を持っている部族は、こちらから攻撃を仕掛けない限り、滅ぼさないようにと。これらの獣人は、私の計画における非常に重要な一部なのです。」
ウェインは木札を受け取り、しばらく眺めた後、頷いた。
「問題ない。すべての傭兵団の首領に伝えておこう。」
フィルードは深く頭を下げた。――これで、少なくとも俺の“実験場”は守られる。
彼は広間を退出し、そのまま城外へ向かった。
戦利品を売却して手に入れた金貨は五百。だが、残された二千人以上の豚頭族の捕虜は、どの奴隷商人も引き取りを拒否した。
「……まあ、当然だな。」
この数を抱えれば、食糧だけで領地が破産する。放置すれば治安悪化は必至。
少しの沈黙ののち、フィルードは決断した。
捕虜はすべて、配下の獣人部族に奴隷として分配する。管理も処理も、彼らに任せる。
――力の均衡を崩さないことが最優先だ。俺が全てを握るより、複数の手駒を走らせた方が、結果は安定する。
彼は領地には戻らず、北方の山岳へと馬首を向けた。
「なぜ、獣人はあのモニーク城に固執するのか……?」
それが、彼の心に残る唯一の“未解決の数式”だった。
いくつかの貴族に尋ねても、答えは皆同じだった。
「モニーク以外の道は、軍勢が通れぬ」
――だが、本当にそうなのか?自分の目で確かめる価値はある。
◆
モニーク城を出発して半日、フィルードの視界に、連なる山脈が姿を現した。
その中に一箇所、平坦で面積も小さくない開口部がある。
彼はその周囲に駐屯する人族兵士たちを見た。同時に、対岸の丘には、獣人のテント群が広がっていた。
――まるで二つの文明が、剣を抜いたまま眠っているようだ。
立ち止まらずにさらに進む。
五日間にわたる探索で、少なくとも三箇所の峠を発見。最大の峠は数十里にも及んだ。
「……やはり、ここが侵入経路か。」
ふと、彼の脳裏に前世の記憶が閃く。
――万里の長城。もしアモン王国が本気でこの山脈に壁を築けば、獣人の侵入を抑えることができる。
しかし、すぐにその考えを打ち消した。
この国の権力構造では、そんな“国家的規模の意志”など、望むべくもない。
◆
偵察を終え、フィルードは南へ戻った。
五日後、峡谷の領地が見えてきた。
出迎えたケビンが、驚きの声を上げる。
「団長様、出て行かれてまだ半月ほどなのに、どうしてもうお戻りになったのですか?」
「侯爵様から中規模部族の討伐を命じられた。今回は少し休養を取ってから、再び出発する。」
フィルードは淡々と答えながら、同時に次の命令を重ねる。
「それと、人を出して我々と交易のある人間の開拓領に伝えろ。――この地域は近いうちに大混乱になる。弱小の開拓領には、共同で木砦を建て、防御を固めるよう勧めてくれ。力を分散させずに集中するのが生き残る鍵だ。」
「了解です! それと奴隷の件は?」
「売れ残った獣人捕虜は、甲等の附属部族に送れ。彼らの手で消化させる。」
――奴隷ですら、戦略資源の一つだ。扱い方を間違えれば、ただの災いになる。
ケビンは木炭のペンで急いで記録した。字はまだ拙いが、彼の忠実さは確かだった。
「団長様、あの地下の暗渠がようやく開通しました。大規模な輸送は無理ですが、数人の通行には支障ありません。この通路を通れば、あの盆地までわずか四時間です。馬が通れるよう拡張すれば、一時間以内に短縮できるでしょう。」
「よくやった。引き続き拡張を進めろ。暗渠の上に木橋を架けてもいい。板材はうちに十分ある。」
「はい! それからシャルドゥンの耕うん機は百組以上完成しました。」
ケビンの報告は続いた。
一頭の牛が五人分の働きをし、すでに盆地では土地開墾が始まっているという。
「……二千ムー以上か。悪くない。」
フィルードは小さく息を吐いた。――これでようやく、自給体制が見えてきた。
「それと、例の“毒ドングリ”の収集は?」
この問いにケビンの目が輝く。
「大量です! 予想を超えました。おそらく二百万ポンドは下りません!」
フィルードは一瞬、眉を上げた。
「二百万……。なるほど、麦酒と貧困は良い釣り餌になる。」
ケビンは興奮気味に続ける。
「毒ドングリ十ポンドにつき麦酒一ポンド。獣人たちは喜んで交換しています。領地が支払った物資の総額は百五十金貨にも満たないかと。」
――完璧だ。敵の嗜好を利用して資源を吸い上げる。
フィルードは心の中で静かに笑った。
「引き続き収集しろ。サンプルを少し送ってくれ。毒の除去を試してみたい。仮に無理でも、奴隷の“餌”にはなる。」
ケビンは頷き、足早に去っていった。
フィルードは残された地図の前に立ち、指先で周囲の中規模部族をなぞった。
「……まずは、二日圏内の部族からだ。」
その瞳は、冷たい光を宿していた。




