第100章 封じられた盆地の村落──フィルードの静かな支配
フィルードが領地の管理をこの二人に任せる決断を下したのは、熟慮の末のことだった。
彼はリスクをすべて計算していた。この閉ざされた谷では、反乱などまず起こり得ない――そう判断したからだ。
ジャウェン。彼はフィルードが最初期に引き連れた奴隷の一人である。
寄生虫に蝕まれ、死の淵をさまよっていた彼を救ったのは、ほかでもないフィルード自身だった。
ケビンの話によれば、ジャウェンはこの奴隷たちの中で霊性が高く、何を学んでも理解が速いという。
――優秀な者は使い潰すより、育てたほうが得だ。
フィルードは冷静にそう判断し、彼に村の管理全権を委ねた。
ジョンについては正反対だ。筋骨隆々で頭は悪いが、命令には絶対服従する。
「従順な筋肉」という単純さは、統治する側にとってはこの上なく扱いやすい。
だからこそ、フィルードは彼に命じた。
――お前の行動は、すべてジャウェンの指揮に従え。
残る十名の十夫長もまた、フィルードが厳選した者たちだ。
それぞれに異なる長所があり、共通しているのはただ一つ――圧倒的な忠誠心。
この百人の奴隷兵のうち、武器を持つのは十夫長と百夫長のみ。
他は、戦場どころか、まともな戦いすら知らぬ素人ばかり。
今日の魔獣狩りが、彼らの“初陣”というわけだ。
それでもフィルードは万全を期した。
この盆地はほとんど外界から隔絶されており、逃亡も反乱も現実的に不可能。
もし彼らが地下河川の出口を見つけたとしても、岩で簡単に封鎖すれば済む。
万が一の時にも制圧は容易だ。
奴隷たちは一か月分の干し肉を携帯し、さらに黒牛の死骸を多数確保している。
――補給の問題もない。最悪の場合でも、領地から秘密裏に物資を運び込める。
出発前、フィルードはジャウェンを呼び寄せた。
「お前のこれからの任務は単純だ。できるだけ多くの農地を開墾せよ。
ここの地形は特殊だが、農地の開墾は容易い。来年の春までに少なくとも三百畝。
それが達成できれば、この村は自立する。」
淡々とした声。だがその裏には、明確な意図があった。
ジャウェンは興奮を隠せない。
「領主様、ご安心ください! 必ずや任務を完遂してみせます!」
その目には狂信に近い光が宿っていた。
――悪くない。使える狂信者は、ただの忠臣よりも長く動く。
フィルードは無言で頷き、彼の肩を軽く叩いた。
そして次に、十数名の女性たち――かつての庫里斯の妻たちの前に立つ。
彼女たちの表情はどれも無機質で、感情が削ぎ落とされていた。
「あなたたちが土匪の頭だった庫里斯に脅されていたことは知っている。
彼はもういない。ここに残るか、それとも故郷に帰るか、選ぶがいい。」
“故郷”という言葉に、一瞬だけ彼女たちの瞳が揺れた。
しかしその光はすぐに沈む。
年長の女が一歩前に出て、静かに言った。
「私たちにはもう帰る場所がありません。家族にとって、私たちはもう死んだのです。
山賊に連れ去られたと知れ渡った以上、故郷に戻っても人間として扱われません。
……ここに残らせてください。あなたが許してくださるなら、どんな仕事でもいたします。」
フィルードは小さく頷いた。
「分かった。これからはこの村の一員として生きるといい。ジャウェン村長の指示に従え。」
彼女たちの顔に、微かに安堵が滲んだ。
――これでいい。
自分に恩義と居場所を与えたと錯覚させれば、彼女たちは決して逆らわない。
フィルードは冷静にそう計算し、踵を返した。
谷を去るその背に、誰も逆らう者はいなかった。
支配は、恐怖よりも静かに浸透していく――それを、彼はよく理解していた。
フィルードは村を離れ、再び伝承の宝庫へと戻った。
黒牛の群れを監視する者がいなくなったため、放っておけば魔草が荒らされる恐れがある。
――せっかくの資源を無駄にはできん。
少し思案したのち、彼は宝庫へ土を運び込み、すべての魔草を根ごと掘り出して移植した。
その根茎は太く、見事なまでに生気を帯びていた。
黒牛たちは葉を食むだけで根を残していたのだ。おそらく、長い年月を経てこの谷に根づいたものだろう。
数えてみると十二株、しかもすべて同一の品種。
――ふむ、均質で扱いやすい。繁殖にも向く。
移植を終えると、谷の入口付近で仕留めた超凡な黒牛を小分けにし、伝承の宝庫へと運び込んだ。
それが、今後長きにわたり彼の糧となる。
こうしてすべてを終えた時、さすがのフィルードも息を吐いた。
体力的な疲労ではない。
膨大な作業を通して積み上げた“支配構造”の完成を前に、ようやく安堵したのだ。
少しの休息の後、彼は石台の書物を手に取った。
それぞれの台座には、精緻な文字が刻まれている。探すのは容易かった。
まずは――「魔術師入門クラス」の書から。
一日を費やし、ようやく読み終える。
魔法時代の徒弟たちは現代とほぼ同じく、初期段階では身を守る術をほとんど持たない。
せいぜい魔法で身体強化を行う程度。
――つまり、この段階では戦士と変わらぬ。
上級徒弟になってようやく、わずかに魔力材料を借りて魔法を行使できるようになる。
その過程で彼は、自身の体質についても理解を深めた。
「魔法使いの最高資質――先天魔体。」
魂の力が強く、生まれながらにして魔力への感応度が高い者たち。
彼らの最低到達点は“大魔導師”、さらに上は“伝説”の域に達するという。
――なるほど。だが、この世界に魔力が枯渇している以上、そこまで辿り着ける者はいない。
フィルードはあくまで冷めた目で結論づける。
理論など、環境が伴わねば意味はない。
次に冥想法の書を開いた。
一通り目を通した中で、彼の心に響いたのは十冊。
そのうち六冊は資源を大量に消費する高等法であり、現状では到底使えぬ。
――威力は確かだが、手札が足りない。切るべきカードではない。
残り四冊。そのうち一冊は補助系に偏っており、実戦向きではなかった。
よって除外。
残った三冊。いずれも、彼に“利用価値”を感じさせた。
一冊目――《生機略奪冥想法》。
名の通り、植物の魔力を奪い取り、自身の魔力に転換する技法である。
ウィザード流冥想法の派生と記され、魔法植物を略奪する際に特に効果を発揮するという。
普通の樹木から得られる魔力は微量――それでも、今の環境では貴重だ。
――実用可能だな。
だが欠陥も明記されていた。火属性の魔法使いや戦士には極端に弱く、
同等の領域ではまず勝てず、一段上でも油断は禁物。
さらに後期になると、肉体が“木化”するという。
死後には一本の樹木と化す運命。
「……代償付きの力、か。悪くない。」
彼はそう呟き、次の一冊を手に取った。
二冊目――《増寿冥想法》。
この冥想法は魔力の節約を主眼としている。必要資源は通常の半分、昇級速度は三分の一速い。
だがその代償は明確だった。
魔力総量は同領域の半分、霊感の鋭さも劣る。
同等の魔法使いとの交戦は禁止――つまり、戦闘向きではない。
これは一般人用の冥想法。
目的は一つ、寿命の延長。
――長生きしたい者ほど、強さを捨てる。皮肉な話だ。
三冊目――《循環冥想法》。
この法は少し異彩を放っていた。
体内に十個の魔力貯蔵ノードを開き、そこに魔力を循環させ続けることで、周囲の魔力を吸引し、
絶えず自らの魔力を増幅するという。
――つまり、自動循環型の魔力炉心……か。
効率も安定性も高い。
冥想とは本来、制御の芸術だ。だが、この法は“増幅”を目的としている。
まさに、俺のためにあるような術だ。
フィルードはしばし沈黙し、目を閉じた。
深呼吸一つ。
――支配の基盤は、知識と力。その両方を、今ここで得た。
やがて彼は静かに立ち上がった。
盆地の外には、まだ誰も知らぬ無限の可能性がある。
そしてこの封じられた谷の中には、彼の支配下にある命が百余。
その全てが、彼の実験場になる。
「……ここからだ。」
薄闇の中で、彼の口元がわずかに笑った。
“人の手で世界を組み替える”という確信――それが、静かに燃え上がっていた。




