欲しがりな私が本当に欲しい、ただ一つだけのもの
前作【妹の欲しがりが国を滅ぼすまで】の前日譚です。
お楽しみください!
やり切った、と思う。
牢の中で改めて自分のしてきた非道極まりない行いの数々を振り返ると、よくぞまあここまで計画通りに事が運んだと自画自賛する。
私が最も欲した、何よりも大切なものを踏み躙り、唾を吐いた愚かな豚共に思い知らせてやったのだ。豚は豚らしくあるべきだと。
そして愚かな蟲共の立場を知らしめてやるのと同時に、私も思い知ったのだ。所詮は自分もその蟲の一つに過ぎないのだと。その結果が今である。蟲は蟲らしく蟲籠へ。いや、蟲取りへとホイホイだ。
全く以て適切な場所に収まった自分の運命を受け入れる事こそすれども、呪うことなんてありえない。そう心から納得していたはずなのに。
「まあ、お姉さま。わざわざ嗤いにきたのかしら。趣味が悪いわ」
「ベティ。あなた一体、この国で何をしたの」
腹違いの姉にしてパトリエ皇国の現皇太子妃、デビー・パトリエが鉄格子の向こうからこちらを覗いていた。その眼には困惑と驚きと、悲しみが僅かに垣間見えた。
そんな眼で見られたら、私の決意が揺らいでしまう。
この国の王太子妃として、この国を絶望の底に叩き落して、国ごと無理心中をすると決めた、私の固い決心が。
◇
『さあベティ、今日からここが私たちの家よ』
物心のついたころから、私には前世の記憶があった。父親はおらず、平民でしかなかった私の母親は普段仕事に出ずっぱりで、前世の記憶がなまじあるせいで物分かりが良すぎる子であった私は、家の経済状況を察し手の掛からない「良い子」を演じていた。
前世では保険会社の窓口として勤務していたどこにでもいた文系女性だったおかげで、正直な話前世知識で無双するとか、そういうこともほぼ無く。基本は家でお勉強でもしているか家事伝いをするかしかしたことのない私に、突然母が衝撃の事実を告げたのはいつもと何ら変わらないある日の晩だった。
『え? 私にお父さんがいるの?』
『そうよ! 今まで黙っていてごめんなさい、でも実はお父さんは貴族でね、今度から一緒に暮らしていいことになったの!』
使うことが全く無かったせいで完全にふて寝をしていた私の前世要素が脳内で寝ぼけて大あくびをしながら首を傾げる。なにそれどっかで聞いたような超展開じゃんウケる。と。
そうして連れてこられたのは、またどっかの夢の国にでもありそうなデッカいとしか言えない館で。そこで私は初めて自分に腹違いの姉がいることを知った。
『ベティです。よろしくお願いします』
平民には下の名前が無い。自分の名前を言うだけの簡単な自己紹介をすると、彼女は完全無欠な笑みを浮かべ、薄い色素のしなやかな腕を私に差し伸ばした。
『デビーでいいわ。これからよろしくお願いしますね』
その手に触れると、まずその弾力の違いに驚いた。前世ではともかく、今世では経済的な事情で全く美容に割くお金が無かったこともあるのと、そもそも皿洗いとかしていたのもあり私の手は若干ガサついている。
それに対してお姉さまに初めて触れたときのこの……パールホワイトの、吸いつくような肌と言えばいいのだろうか。肌のきめ細かさも前世の私と比べてもレベチで衝撃を受けた。これ以上は表現がセクハラになりそうで言葉を選びたいが、平民の私には語彙力がそんなにない。
それにその美貌。茶髪の髪は後ろで結ばれておりポニーテールとなっていて、はっきりとした顔立ちで鼻のラインがすっと入っていて美しい。それにあの唇の瑞々しさときたら。その美しさはありつつも私の義理の姉というのも納得のいくような、どことなく私の顔の面影がまたある。その奇跡のような見た目に私は嫉妬を通り越して感動すら覚えた。
えっ、こんなのがあんなのの妹を名乗ってよいものなのだろうか、と。
そしてその日を境に私を取り巻く環境は激変した。
まず母が仕事をせずともよくなったことで、新しい「家」にいることがぐっと増えた。そして父として紹介された男は何とも気さくな感じで私に接してきてくれた。それだけでなく、新しい家には半分血のつながったお姉さまと、たくさんのお手伝いもいた。
正直、私としては何とも居心地が悪い所だった。
まず。自分のレベルに明らかに合わない場所で、突然お嬢様呼ばわりされて自分で着替え一つさせて貰えず、お風呂に入る際も人が同伴し私の体を磨くというのは何とも奇妙な感覚だった。
それにお風呂から出た後も複数人のお手伝いさんが全身を揉みしだいてくるし化粧水やら乳液やらボディクリームやらを全身に塗りたくってくるのはほんとマジでちょっと待ってほしい。
そりゃあ、私も前世ではたまに自分へのご褒美でリラクゼーションスパとかに行ったことがないわけじゃないけど、それでもこんなエブリデイでラグジュアリーなパラダイスなんてしたことなんてないし。保険の窓口だから顔の手入れにはまあまあ気を使っていたけど、首から下は割とテキトーだったし。過剰接待だ。
それに今まで物分かりの良すぎる子だったのもあって、両親との距離感を測りにくいのも問題だった。母親とは今更何を話していいのかわからないし、父親なんてなんか突然生えてきたし。
前世ではどんな会話をしていたっけ? 姉? なにそれ知らん。前世は姉妹いなかったしそもそもあんなリアルガチ姫みたいなのなんかにどう接しろと……
と、まあこんな調子なのでどうしたものかと内心頭を抱えていると、不意にその姉がベッドの片隅に茶色いクマのぬいぐるみを置いていることに私は気づいた。随分と大人びた印象を姉には持っていたが、なるほど子供らしいというか、年齢相応のところもあるのだなと感心した。
そして私はその時お父様に『ほしいものは何でも与えよう』と言われていたことをふと思い出したのだ。だから私はお父様に生まれて初めてのお願いをすることにした。
『あのクマさんのぬいぐるみが欲しい』と。
本当は”お揃いで”欲しいという意味で言ったのだが、そこでふと姉が何かを思案するような仕草をすると、私にそのクマのぬいぐるみをそのままプレゼントしてくれたのだ。
『私はそろそろ卒業だけれど、何だか愛着がわいてしまって。だからお世話してあげてね』
クマさんは、もとは姉の持ち物という事もあるのであえて名前を付けず、丁重に扱った。抱きしめるとほんのりと姉のシャンプーのにおいと、ほんのりとお姉さまの部屋でたかれているお香のにおいがする。そんなクマさんは、豪華すぎて慣れない天蓋付きのベッドが寝辛かった私に安眠を齎してくれた。まるで姉が傍に居るような感覚だった。
そうして姉からもらった、当時は手のひらに僅かに乗り切らないサイズだったクマのぬいぐるみは私の生涯の宝物となった。
そんな中、ようやく貴族的な環境に慣れてきたところで、父は私にお茶会に出席するためのドレスを見繕ってくれるという趣旨の話をしてきた。お茶会なんて何をすればまるで分らない。適当に茶をシバいていればいい感じでもなさそうだしどうしたものか。いやまずドレスってどんなのかわからない。そう思っていると丁度婚約者とのお茶会から帰ってきた姉と私はすれ違った。
とりあえず姉を見習っておけば間違いないだろうという思いでお姉さまのドレスが欲しいというと、次の日にはサイズ修正の完了しているお姉さまの香りのするドレスが私の手許にあった。いやお姉さまの香りがするのは最高だが、おさがりではなくお揃いが……
次はお茶会に身に着ける靴だ。知らねーよ! と平民だったころの私と、前世の私がそろってハモる。仕方がないのでこれもお姉さまと同じがいいと言ったらサイズの一回り小さい、姉と同じデザインの靴が届いた。今回はお揃いの物だった。よかった。
続きましては付けていく宝飾品だった。宝飾品なんて、もっと分からん。やれドレスだの靴だの瞳の色だのとのバランスが云々なんて、分かるはずがない。前世の価値観なんてあてにならないし。これもお姉さまの物をお借りすることとなった。
そして肝心のお茶会だ。マナーのマの字もわからないで不安でいると、父はありのままでいいとそっと私の背中を後押ししてくれた。
少々思い切りが良すぎたかもしれないけれども、結果的には良かったとは思う。お茶菓子はおいしかったし、お茶自体もとても上品な味わいがしてよかった。ぶっちゃけ私はコーヒー党なのだけれども、まあお茶も悪くない。
出席者も私と同い年とはいえ貴族だからか、話を聞いている限りでは難しいもの……というより、私が前世の時代に会社の同僚としていた話とかと遜色ない会話をしているように思えた。ましてや政治の話やゴシップなんかは、前世の私の年代よりも上の人と渡り合えただろう。
とはいえ、もう少し年齢にあった話をしてもいいような気もする。前世ではあまり経済や政治の話をする人はいなかったけれども、今世はみんな食い気味に話すというか。国というか世界が違うとこんなものなのだろうか。
それにしても、貴族の世界というのは本当に不思議だった。
領地の経営をしているお父様は基本的に欲しいものは何でも買い与えてくれた。あのお金はいったいどこから湧いてくるのか。税収といっても多少は国庫に治めるのだろうからそんな税金をじゃぶじゃぶ使っているとも思えないし、その場合はどこかで独自の商売をしているはずだが、お父様からはまるでそういう気配はない。
お母さんはお母さんで私と同じ平民上がりだし、貴族の世界で仕事なんて無理だろうしパーティに行くことはあっても商談とかには顔は出さない。
私も前世知識無双とかして財政の助けになりたいところだけれども、前世の知識が役に立たな過ぎて前世の私は脳内で再度ふて寝をするしかないし、当然稼いでなどいない。ではあのお金はいったいどこから……?
欲しいものは何でも手に入るという前世から見たらわけのわからない環境で、私は興味半分で一体この家は果たしてどこまでのレベルであれば買ってもらえるのかをいつしか考えるようになった。なんせほしいものは冗談抜きに何でも手に入る。だから私は幼少期の抑圧(と、前世の倹約)と対比するかのように何でも欲しがってみせた。
とはいえ、私にはこの世界に果たしてどんなものが存在するのか、分からない。だから私はとりあえずお姉さまの持つものを何でも欲しがった。お姉さまこそが私にとって最も身近な貴族で、貴族とはこうあるべきと示すいい指標だったからだ。すると両親もまたそんな私に賛同してか、お姉さまに一言口添えをしてくれるようになった。
『ベティに譲ってやったらどうだ』
『デビー、貴方は姉でしょう。妹に譲ってあげなさい』
『妹を泣かせるものではないぞ』
お姉さまから貰えるものは、何でも嬉しかった。
私は所詮平民の出。そんな私にお姉さまがドレスや靴、宝石をくれて私を着飾らせてくれる。まるでお姉さまのように。憧れというか目標でもあるお姉さまに自分が少しでも近づけるようで、それが何よりも嬉しかった。
そしてお姉さまのように王立学園にも入りたいと願ったところ、なんと試験も通り入学も許可された。ようやく社交界の一員として認められたような気分だった。勉強は難しく、マナーとかははっきり言って全く以てちんぷんかんぷんだったが、これからもお姉さまに少しでも近づき、立派な人間になれると、そう思っていた。
そんな私に転機が訪れたのは、お姉さまがある日王宮でお茶会をしてきた帰りの事だった。家を出たときには身に着けていなかった髪飾りを姉が身に着けていた。
『まあお姉さま、その髪飾り素敵ね!』
『これは、王太子殿下から頂いたものなの』
王太子殿下。名前は何だっただろうか。正直覚えていない。政治はさっぱりだ。
でも彼が姉にとってどんな人間であるかは知っている。
婚約者だ。
『素敵だわ。私もその髪飾りが欲しい』
美しい髪飾りだった。
お姉さまの瞳の色と、我が家の紋章と王家の紋章が絡み合うような素晴らしい芸術品。物の良し悪しなど分からない私でも、一目見てわかるような奇跡の至宝。
『これは、ダメなの。これは殿下から頂いたものだから』
『えっ……?』
一つだけ悪い点を挙げるとすれば、この逸品は完璧にお姉様と合う逸品でありつつも、お姉さまが身に着けるとなんだかお姉さまがお姉さまでなくなってしまうかのような感じがすることだ。この違和感は何だろう。
『ごめんなさい』
『ど、どうして……? なんでくれないの……?』
そうしてお姉さまは懇切丁寧に私に髪飾りを渡せない理由を私に解説してくれた。
それはこの髪飾りが王太子の寵愛の証であるということ。そこで初めて私は、お姉さまが王太子の婚約者であることを知った。なるほどそういう事であればこれはもらえない。
そしてそこで、抱いていた違和感の正体に気付く。
私はこの姉を喪うのだと思うと悲しいのだ。
気が付けば涙があふれていた。姉はそのことに驚いているようだったが、何よりも自分自身が一番驚いていた。
この短時間にそこまでの愛着を姉に抱いていたことに。
慌てて部屋を飛び出し、自らの部屋へと立て籠もる。お姉さまから貰ったクマのぬいぐるみを抱きしめ、ベッドの中で毛布にくるまり、私は三日三晩泣きはらした。
お姉さまは、ゆくゆくはあの王太子と結ばれ、王太子妃となり、王となり、国母となるのだろう。今でこそ私たちは姉妹だが、私は所詮妾の子で平民の子。お姉さまがその地位に立たれたら、会うことはおろか視界に入れることも難しいだろう。私は間違いなく平民だけど、前世の知識があるからそれくらいのことは理解できる。
当然国策による政略結婚なので、これを覆すことなど、無理だ。この結末は変えられない。
『お嬢様……お体に障ります故、どうかこのスープだけでもお召し上がりになってください……』
どこか微睡んでいた意識が浮かび上がると目の前に侍女が申し訳なさそうに立っている。
しかし食欲が無い。吐き気がしている。自分への嫌悪感に。
この国……というより、この世界では同性同士が愛し合うことを許されるような場所など存在しない。前世もなんだかんだ寛容でいて厳しいところはあったが、そんな物とは次元が違う。そんな存在がいることを想定すらしていないので、そんな法律や決まり事等どこにも存在しない。前世では中東の国々やアフリカのほう、旧共産圏ではそんな奴がいたら死刑になる、という程度には認知と嫌悪が存在していたが、この世界にはそれすらない。そんなことが世間にバレたら、どうなるか見当もつかない。
私は私自身が許せなかった。
お姉様を好きになった自分が。もし好きが暴走してしまったら、お姉さまに危害や不利益をもたらしかねない自分が怖かった。そして、自分でもこの抑えられない気持ちを拒絶しているというのに、もしこれでお姉さまにまで拒絶されたら、私は何をどうするかわからない。
でも目をつむってこの気持ちを見て見ぬふりして、あの王太子が予定調和で姉に手を出しても、私がそれを許容できるとはとても思えないほどに自覚した感情は燃え上がっていた。
そもそもどうしてこんなことになってしまったのか。前世の私は普通に男の人が好きだったはず。それなのになぜ……?
自分の感情への混乱と拒絶感からくる吐き気で、泣きはらしている間はまるで食べ物ものどを通らず、気が付けば私は発熱までしていて両親や侍女たちにまで大迷惑をかけることになってしまった。
『ベティ!』
『もう大丈夫なのか? 無理はしないほうが……』
『大丈夫、お父様もお母様も、心配かけてごめんなさい』
感情に対しての折り合いがつけられない。しかし、それでも一つだけ確かに私の中で揺らがないものがあった。
『大丈夫?』
それは、私がこの人の幸せを願っていることだ。
誰よりも深く。それだけは間違いない。
たとえ、私が傍に居ることはできなくても、デビーお姉さまが幸せなら、私は――
『うん。みんな心配かけて、ごめんなさい』
◇
それからというもの、私はあれもこれも欲しがることを辞めた。
もういい加減に潮時だな~と思っていたのもあるが、あんまり身勝手に振舞っていてもお姉さまの負担になってしまうと思ったからだ。なんせ、私が学園に入ったころには、すでにお姉さまは未来の王太子妃として政治に絡みつつあった。
お姉さまの政策により好景気が循環し、貴族は王都の中心街に別邸を構え、商人たちも貴族が集まるこの町に支店や別邸を構え、彼らと蜜月の関係を築き、財を蓄え、更に経済を回す。そうして彼らが使ったお金は下々にまでいきわたり、空前の好景気を生んでいた。
前世の記憶の中でトリクルダウンという言葉がチラつく。窓口ごときとはいえ腐っても金融屋だったせいか、時たまこういう変な単語が頭をよぎることがある。
『それに比べて、あの妹は……』
『下品も品のうちとはよく言ったものだ。あの妹はいくら何でも品が無い』
そういえば窓口に立っていた時にフゴフゴ何言っているのかわからないようなおじいさんとかの話を聞いているうちに何か耳が良くなったんだっけなあ、とぼんやりと思いながらも、耳が拾う周囲のひそひそをお構いなしに、盲目的に窓の外に映る姉の姿を目で追う。
中庭のお気に入りのスポットで今日も仲良く王太子殿下とお昼を食べているその姿はとてもいとおしく、同時にとても腹立たしかった。
ティオ・カーライル。このカーライル王国の王太子。
笑顔が何と言うか、キラキラされているお方だ。
私はこの婚約者の事を好ましく思っていない。
いや、もちろん私のお姉さまを私から奪ったことについてはもう折り合いはついている……はず……なのでそういう完全に私的な悪感情はない……はず……きっと……なのだけれども、私の中の何かが彼に対して警鐘を鳴らしていた。断じて嫉妬ではない。うん。
あの男は信用できない。
よくある婚約破棄もの――この場合テンプレと言ったほうがいいのだろうか? ぶっちゃけ私は悪役令状物が氾濫している時代に生まれたせいで、いわゆる『テンプレ作品』を読んだことが無いんだけど――まあなんせありがちな舞踏会などでも、彼は特にお姉さまを蔑ろにすることも無く、ぱっと見では親しげに過ごしているようだった。
ただ、お姉さまのほうに目を移すと、お姉さまは少々疲れ気味だ。メイクで隠してはいるけれど目の下のクマは濃くなったし、それに何より痩せた。
誰も気づいていないのだろうか。
私は毎日お姉さまの言動を逐一見ているからこうして気付いているわけだけど。
この王太子は気づいているだろうか。
お姉さまの顔色が薄くなっていることを。お姉さまの身体の線が以前よりも細いことを。
私は気づいている。
例えお姉様を抱きしめることができなくとも。ほぼゼロ距離で顔を合わせることができなくとも。それでも、それを知っている。
ではこの男は?
ちゃんとお姉さまを見ている? ちゃんと気づいている? ちゃんとお姉さまを労わっている?
……労わっている姿を、私は見たことが無い。それともそれは、人さまに見られるような場所ではしていないだけ? 二人で蜜月の時を過ごしているときに、それは行っている?
不安と、嫉妬と、疑念が渦巻く。
私なら、お姉さまをあんなにやつれさせたりはしないのに!
……いや、王太子の職務は膨大だ。私はその内容を想像することしかできないし、私ならそんなことさせない、と思うのは不敬だし、烏滸がましい。
第一私はお姉様の職務ですらすべて把握しているわけではないのだ。そしてそれは王太子がどうこうではなく、国家による拘束事項。そもそも王太子殿下を責めるのはお門違い。
……そういう問題ではない。一人の男として、ちゃんとお姉さまと向き合って支えているのかを私は知りたいんだ!
お姉さまが病める時にも傍に居て、お姉様とともに――違う、それは私が知ったところでどうにかなる問題ではない。
どうにかなるものでもないし、そんなことは知る必要もない。いや、知りたくない。お姉さまが誰とどうしてどんな相手とどんな距離感で接していようとそれはお姉様の勝手だ。私の干渉する権限はどこにもない。
というより、何様? 私はいつからそんな権限だのなんだのとか考えるようになったの? 私にお姉さまの自由を奪う権利なんてあるわけがない。たとえそれが私の心の奥底に眠る欲望だったとしても。
いや、何言うとんねん自分。そもそも自分もお姉さまも異性愛者やんけ。ほんまそんなこと考えとるのがばれたらお姉さまに嫌われるで。
ところでこの謎のえせ関西弁野郎は誰だよ。私だよ。妙なところで前世要素出てくんじゃねーよ。転生してこの方役に立ったことも無いくせに。はぁ~あ。
――支離滅裂で意味も特に無い朧げな思考と感情がとめどなく流れていき、その感情が時折私の中で粘着質にへばり付き、ゆったりと成長していく。理性と感情の境目もない、粘っこくてジメジメとした想いが自分自身の内面でとぐろを巻く。
窓の外にはお昼を食べ終わり、午後の授業の支度をするために立ち上がる二人の様子が映っていた。
なんで私はこんなことを考えているんだろう……ああ、でも。お姉さまに嫌われるのは、嫌だな――
◇
風向きが変わったのは、帝国から皇太子殿下が留学しに来たという知らせを受けた時だった。
名はマグナス・ホス・パトリエ。パトリエ帝国の皇帝の実子。臨時の集会が学園で開かれ、理事長直々に紹介された彼の視線の先には、お姉さまの姿があった。
……いや、逆か。お姉様の視線の先に彼がいたのだ。これは当然私がお姉さま監視に余念がないから気付いた。
彼は優秀だった。
異国の者でありながらもこちらの国の礼儀作法を完璧に理解し、また誰にでも分け隔てなく接した。
良くも悪くも裏表のない性格というか、まっすぐとした性格で――王族を含めた広義の――王侯貴族の中でも腹芸をしない異端な所に私は好感を持っていたのだけれども、彼と直接知り合ったのは我が家で開かれた晩餐会でのことであった。
皇太子の接待をするのは当然家の格的に考えて王太子、または王太子妃のお家ということである。帝国の旗を掲げた馬車が家の前に止まった時のパパ……じゃない、お父様の顔ときたら。
『うう……どうしてこんなことに……』
『あなた、しっかりして頂戴』
『わしはのどかに田舎で過ごしていたいだけなのにどうしてこう、次から次へと……』
さすがに腐っても貴族なのでお父様は粗相をしなかったが、お母さんは心なしか表情が硬かった気がする。私は……どうだろうか。野生児という不名誉な異名が学園で通ってしまっているからノーカンか。
『いや、しかしフィナン領は素晴らしいですね。ここまで繁栄しているとは……』
『ははは、これも王太子殿下の経済刺激策故ですよ』
『貴殿も人が悪い。この領の繁栄をみればその辣腕も自ずと知れるというものだ』
マグナス殿下を前に謙遜しつつも、同席しているうちの王太子と相互にヨイショしあう様はある種微笑ましいが……。
『この領は他の領よりも税が少し低めなのです。税を下げればそれだけ人も流入しますので、領民一人頭の税収は下がりますが、人が増えることで結果的に税収が上振れしていまして、それを領内投資にて還元しています』
お姉さまのその言葉に、あーそういうことね、と納得する。前世で会社に入社した時に受けた研修の内容を思い出す。
『ほう。流石賢妃と言われるだけはあるな』
……税金が下がると家計や企業の可処分所得が増え、消費や投資が促進され経済が――いや、こんな内容、私もよく前世のころから覚えているなー……私って地味にすごいのでは。
はじめてにしてようやく念願の前世知識チートを噛みしめていると、マグナス皇太子もうんうんと頷いてくれた。
私ですら前世の知識でなんとか話について行けているというのに、こんな金融畑の内容を理解できるとは、やはりこのマグナスという男は賢い。お姉さまの伴侶になる方がこんな人だったら、私もある程度安心できるというのに……
そう内心ぼやいていると、思わぬ人がお姉さまの説明に反応した。
『なるほど。この領にはそんな秘密があったのだな。私も些か勉強不足だったかもしれない』
『……殿下?』
王太子殿下の目がきらりと輝く。
そうして王国全土の税が一気に下がったのは、ひと月後の事だった。
◇
納めなければならない税が減ったらどうなるか。
答えは当然可処分所得……つまり自由に使えるお金が増えることになる。
王国民は上から下まで狂喜乱舞した。
貴族界隈は当然王宮に治める税が少なくなったので、その分蓄えが出来ることとなった。そしてその蓄えがあるからこそ時に領内にお金を使い、また公共事業の促進が相次ぐ。
パトリエ王国は空前の好景気に沸いていた。
『妃殿下』
お姉さまはその実績を以て晴れて入城し、気軽にお声掛けするのも憚られる高貴なお方となった。そして世紀の大減税の実行を(国王陛下に進言)したティオ王太子は名君の地位を約束され、またお姉様も賢妃と呼ばれ、王国は最盛期を迎えていた。
『やめて、ベティ。実家にいる時ぐらいは一人の人間として扱って』
一方の私は相変わらずといったところだ。フィナン領の野猿などと言われている私は相も変わらず未婚だし、なんか思っていたよりも少ない量の釣書もすべてお断りしている状態だ。
お姉さまに抱いていた想いも時間経過で蓋をすることができたけれど、じゃあ結婚して誰かと添い遂げるというのもなんだかしっくり来ず。
前世のころの記憶が『いっそイー〇ンマスク的な人をどっか闇で用意してシンママすれば?』と最近囁いてくるが、それもガン無視し悠々自適に過ごしているわけだけど、そんなある日王太子妃殿下が実家に帰省しに来たのであった。
『えへへ』
『もう、いくつになっても昔のままね……』
しばらく見ない間に、お姉さまはますます線が細くなった。これはコルセットのせいではないだろう。
肌もいつにも増して白いし、以前よりも儚いというか、存在感が薄いというか。淡い初恋と共に心の奥底にしまっておいた不安感が、そのしまわれて鍵の掛けられた箱の内側を引っ搔いているようだった。
『どうしたの? なんだからしくないよ』
『そうかしら? 実家に帰ってきたら気が抜けたのかも』
中庭の望める窓に目線を送りつつ、お姉さまが最寄りのソファに手を置き腰かけた。手が少し荒れているように見えた。よく見れば指先にだけあかぎれが起きている。あれではまるで――
『お姉さま……?』
『ごめんなさい、ちょっとお仕事をしたいから席を外してもらってもいいかしら? ほら、一応は国家機密だから、ね』
『う……うん……』
そう言いながら、お姉さまは手元のバッグから、なにやら大きな黄金色の文鎮のようなものと、従者が運んできたキャリーバッグのようなものからおびただしい量の紙を取り出す。
お姉さまに言われてしまったら仕方ないので部屋を退室する間際に見たお姉さまは、眉間にしわを寄せながら紙とにらめっこをし始めていた。真剣そのものだった。
そしてその紙に金色の文鎮がポン! と押されたことで、私は目を見開いた。
『……まさか』
あれは王印だ。
いや、正確には王太子印なのだろうか?
ともかくあの捺し方はどう見ても、判子を捺すそれだ。パパがやっているのを散々見てきたし、前世では私自身が散々見てきて、やってきたその行動。
前世の会社でも、今のパパも、印章については厳重に管理していた。王室がまともな管理をしていないはずが無い。ではなぜそんなものを家にこっそり持ち込んで捺しているのかという私の疑問は、夜中にお姉さまの部屋に忍び込んだ時に発覚したのだった。
食も以前より細くなっていたお姉さまを心配して夜、部屋に訪れたら、お姉さまはベッドにではなく机に突っ伏す形で寝てしまっていた。王太子印も出しっぱなしだ。その周辺には何枚も書類が机や周りの床に落ちている。そしてそのうちの一枚が、たまたま私の目に留まった。
王命が刻まれている羊皮紙だ。
だけど、この王命は――
ちらりとお姉さまを見ると、相変わらずぐっすりと眠っている。寝ているのを確認し、他の書類にも目を通す。
そこには王家から子爵家に対する融資の書類や、公共事業に関する契約書、王城の修繕にかかる王宮内の稟議、パーティの経費、メイドや侍女の採用申請書、騎士団の使用する武器防具の発注書……あらゆる書類が山積みで、しかもどれも書いている金額がべらぼうな金額だ。
どこからそんなお金が出るのか。私たち貴族をも含めた国民全員の税金だ。
しかしその税金は、先日王太子殿下が減税している。だからいくら好景気とはいえど王宮の税収は下がっているはずだ。じゃあこのお金は、どこから?
『ん……』
お姉さまが、僅かに動く。ゆっくりと起き上がる気配を察知し、私は素早く部屋から飛び退くように脱出する。たぶん、ばれていないはず。
そのままそっと自分の部屋に戻り、私はベッドに座り込みながら頭で前世の知識をフル回転させた。
『お姉さま』
翌朝。お姉さまが王宮に帰る日だ。両親は生憎視察高で出ているので見送りは私一人だった。
『なあに?』
『ねえお姉さま。この間の大減税、大丈夫なの? あんなに税率下げたら、王室の財政が危なそうなの流石の私でもわかるけど』
『……』
よもやアホの子として生きてきた私からそんな質問が飛び出すとは思わなかったのだろう。これでも腐っても元金融屋。
対してお姉さまは目を一瞬丸くさせて、すぐに王太子妃の仮面を被った。
『貴方が心配することではないわ』
『本当? 賢妃とも呼ばれるお姉さまが、“お金が無いなら作ればいいじゃない”なんて、安易な発想には逃げないよね?』
その言葉に、お姉さまの瞳孔が僅かに揺れた。動揺している証拠だ。
他人はそのパーフェクトスマイルで騙せても、私は騙されない。誰よりもお姉さまを傍で見ているから。
――あの王命は、貨幣の増産を指示する王命だった。
いたずらに貨幣量を増やせば、待っているのはコントロール不能なインフレと国家の破滅だ。
『何を言っているのか、分からないわ』
『お金をみだりに増やしたらそれだけ物価が上がるよ? 最近物価上がってるけど、もしかしてもうすでに何回かやっている?』
使用人たちが、最近卵だの石鹸だのあらゆる消耗品の物価が上がったと言っているのを小耳にはさんでいたことを思い出し、そう付け加えるとお姉さまはさらに瞬きをした。
『……どこでそんな知識を身に着けたのかは知らないけれど、安心なさい。物価が上がっているのは景気の好循環ができているからよ』
『通貨発行益目的でやたらと刷ると物価高で却って実質的な発行益を確保するの難しくなるよ? それに外貨に対しての自国通貨の優位性が損なわれて通貨安になるから輸入品の値段も上がるしそれに呼応してさらに通貨量を増やして対応なんて始めたりしたら目も当てられないよ? 本当に大丈夫??』
今世になってからも相応に年を重ねているのに前世の知識をこんなスラスラと言えてしまう私に私自身どころかお姉さまもなんか驚いているが、今はそんなことを言っている場合ではない。
『私の知っているお姉さまは、そんな危ないことをする人でもないし、それを分からない人でもない。それにその指先のあかぎれ、明らかにペーパーワークし過ぎ。まさかとは思うけど、お姉さま自分以外の公務や事務処理してないよね?』
腕を組んで責め立てると、お姉さまの目がフッと緩む。安堵の色だ。
『……そういう仕草は、昔から変わらないのね』
『茶化さないで』
『茶化してなんていないわ。私はこの国のためにできる事をしているだけよ。安心して』
じっと見つめてくるお姉さまの目は、嘘は言ってない。でもどこまでが真実だろうか。あるいは、どこまでの真実を話しているのだろうか。
『貨幣量については使えなくなった貨幣を潰してそれを原料に再製したりしているのよ。そんな無闇に増やしていないわ』
『本当?』
『嘘は言ってないわ。確かに税収も落ちてはいるけど、こちらでも節約できるところはちゃんとしているんだから。それこそ、今日までの里帰りに使っている馬車も馬一頭で足りる簡素なものだし、このドレスだって昔学園で着ていたものをいい年してまだ着まわしているのよ?』
そういわれると、確かにこのドレス昔学園のパーティで着ていたものだ。よく入るな……いや、考えてみたら痩せてしまったから入るのか……というのはさておき、そこまで言われてしまうとそれは私の杞憂だったのかと、自信がなくなる。
だって次期王妃ともあろう人物が学生時代のドレスって。それは倹約しすぎだ。そこはむしろ金を使えと本来なら言いたいところなのだけれども。
『ねえ、お姉さま』
『なあに?』
『無理しないでね』
今の私が言える精いっぱいの言葉。
その言葉が今生で姉と話した最後の言葉だった。
◇
私の長年抱いていた懸念が、悪夢が、徐々に輪郭を帯び始めて現実世界に顕現し始めたのは、まもなくのことだった。
はじめに起きた異変は、家の従者補充の求人に対する応募がめちゃくちゃに増えていたことだ。
うちは腐っても王太子妃を輩出した御家。もともと倍率は高いが、倍率が三倍近くに膨らんだ。
そして次に起きたのは、私への釣書の量が明らかに増えたことだった。そろそろ行き遅れと言われ始める年に差し掛かった私に対してこの釣書の量は明らかに異常で、相変わらず野猿と言われている私が突然モテ期に入り始めたことには両親も頭を傾げて見せた。
更には話を聞きにそれとなくお父様が耳を傾けると私がモテていると言うよりかは私の家の資産がモテていると言う状況が透けて見えたのでよほどの格式が無ければスルーしていいと言われる始末。
極めつけにはお母さんが外出帰りの馬車で以前平民時代にパートに出ていたところの困窮した元同僚に襲われるという事件が起きた。幸い、お母さんにけがは無かった。
警備に話を聞けば、なんでも最近は強盗や貴族の馬車を狙う盗賊が全国的に増えているとかで、兵士たちも慌ただしく動いているとのこと。この領は治安もいいからそこまでではなかったとのことだが他所では貴族の血縁者とかが強盗致死で儚くなるケースもあったとかで、控えめに言って恐ろしい話であった。
家でも次第に給与の前借りや融資を受けたいとお父様に相談しに来る侍女とかも増え始め、お父様が了承したところ泣き崩れながら感謝する侍女まで出始めたことでギョッとしたお父様が理由を尋ねると、庶民が我々の知らぬ間に貧しくなったことが浮き彫りとなった。
誓ってうちでは給与のカットとかはしていないはずだが……と確認を取ると、物価が上がりすぎていて今のままの給金ではしんどいというのが顛末だった。
そう。
物価が上がりすぎて、だ。
『お父様……』
私が恐れていたインフレだ。
『確かに最近は宝飾品や衣服が値上がりしたなとは思っていたが……まあ、うちも税収は上がっているしいい加減給金に還元もすべきなのだろうな……』
給金があがることに歓喜する彼女たちだが、お父様とお母さんは顔を見合わせた。
当然だが貴族の家に勤めることはそう簡単にできる事ではないし、身辺調査も当然あるし、私を含めた家族全員での顔合わせというか、面接もある。申し込みが異常な量になる前からも倍率も高いし、当然お給金だってかなりいい。
その「かなりいい」お給金をもらっているはずの人々が困窮する、それもこんなに多くの家来が困窮しているという異常事態にようやく何かがおかしいと気づいたお父様が調査に乗り出すと、領内はおろか国中で物価の上昇率が大変なことになっているとが露わとなった。
慌ててお父様がこの国の議会に相当する貴族院にこのことを報告すると、国王陛下と貴族たちは全員目を丸くしお父様の取りまとめた報告書を凝視したという。
なぜ物価がこんなにも高くなったのかという議論が始まり、王命で調べたところ国庫や貴族たちの懐は別に痛んではおらず、それどころか銀行や下々の平民にまでお金自体は行き届いているという事実が明るみに出るまでそう時間はかからなかった。
要するにみんながお金を持っているから、みんながそれを使うためあらゆる需要が過多となり、その過剰な需要を抑えるために値段が上がっているのだ。ふたを開ければなんてことはない、ただ経済学の基本的な法則に従ってあらゆるモノの値段が上がっているだけだった。
ではなぜ、どいつもこいつもカネを持っているのに、どいつもこいつも貧乏なのか。
カネの量が多すぎるからだ。王命が疑われ王宮は疑惑の目で見られることとなったがしかし、王命で貨幣の増産など指示された記録はなかった。
造幣局の人間を議会に召喚し王が直々に問い詰めると、ようやくそこで犯人が誰なのか露わとなったのだ。
『その……我々は王命ではなく、王太子殿下のご命令で……都度造幣をしておりました……』
『なっ……!?』
これには議会は勿論、国王陛下も大層驚いたらしい。
王太子殿下による命令書は、念入りに国王陛下が外遊や国際会議に出席しているときに限って行われていたという念の入りようで、直ちに王太子殿下が召喚されることとなったのは当然のことである。
そして。
あの運命の日が訪れた。
『た、大変なことになったぞ……!』
『あなた……?』
その日は大雨が降っており、私がお母さんと共にお父様の帰りが遅いわねなどと言っていた矢先に、お父様が玄関の扉を蹴破るかの如く飛び込んできてそう呟いた。
『お父様??』
『デビーが……デビーが公文書偽造と国家転覆未遂の罪で拘束された……!』
『……はあっ!?』
お姉様が国家転覆未遂という、意味不明な言葉が私の分厚い頭蓋骨をゆっくりと通過する。
『お前たちは今すぐ帝国に亡命する準備を始めろ。わしは……わしも連座で首が飛ぶかもしれん……その前にまずはお前たちだけでも逃げるんだ!!』
『待って、どういう事? 亡命?? 何を言って――』
『時間が無い、馬車はもう手配しておるからその中で従者から話を聞け。ああそうだベティ、お前は確か皇太子が一時期ご学友だったな。ダメもとで文を彼にも送るといい。急げ!』
それだけを言うと、お父様は再び屋敷を飛び出した。
侍女たちを含めて何が起きているのか分からず呆然とする我々が正気に戻ったのは、お父様が用意した馬車から御者が現れ玄関に足を踏み入れた時だった。
◇
帝国に何とか到着した私たちは、お父様の遠戚にあたる方の家に匿われることになった。
道中の馬車の中で聞いた話は、にわかには信じがたいものだった。
曰く、王太子殿下が議会で詰められた際に、王太子殿下は震えあがりながらもそんな命令は知らないなどとのたまったのだそうだ。
そしてあくまでもシラを切る殿下に業を煮やした陛下が調査を命じると、そこで殿下お抱えの侍女がお姉さまが王太子印を持ち出していてお姉様から押印済みの命令書を受け取って造幣局に持ち込んでいたと告白し、そこからお姉さまが捕まることになった、とか。
その侍女は、確かに嘘は言ってないのだろう。
……確かに嘘は言ってないけど、それはないだろうと私がブチ切れたのは言うまでもない。お姉様が一体なぜそんなことをする必要があるというのか。
ふざけるな。
お姉様がそんな愚かなことを考えて実行するわけがないだろう。
ふざけるな、ふざけるな、ふっっざけんな!!!
『貴様、何故そんなことを俺に隠れてした!』
『どうして? 私は、減税分の穴埋めにやれと貴方に指示されて仕方なく――』
『戯言を! そのような指示を俺がしたという証拠はあるのか!大体、仮に俺がそう指示したとして、押印された命令書をそのまま自分や陛下の元で確認すらせず、貴様に直接渡させるわけがないだろう! 王宮の監督体制を冒涜しているのか!!』
『ええっ!!?』
お姉さまは無実を訴えたそうだが聞き入れてもらえず、そのまま幽閉され被告人不在の状態で王宮の裁判にかけられることとなった。
『――主文。被告を公文書偽造、ならびに国家転覆未遂の罪で有罪とし、死刑に処すものとする!!』
まもなく離婚が成立し、お父様も爵位を返上することとなり屋敷に残っていた財産はすべて差し押さえられることとなった。
そして私はお姉さまを喪うという絶望に打ちひしがれていたところに、更に追い打ちをかけられることとなった。
王太子殿下による国内外に向けての演説だ。
――まず、私はこの国の民に謝らなくてはならない……この度の異常な物価高は、全て我々王家の責任であるという事が発覚したからだ……
何ともセンセーショナルで、甘味な響きだろう。
王家の人間、それも次期国王が沈痛な面持ちで頭を下げているのだ。それも、今我々の生活を脅かしている物価増についてだ。
国民の不満が頂点に達していたところに現れた王太子が語り始めた嘘は、耳触りのよい毒として民に浸透していく。
――王太子妃は、あろうことか王太子の印章を夜な夜な盗み出し、自らの欲望の赴くままに貨幣を作らせ、自らの散財が生んだ損失の補填を行っていたのだ。これは王家への裏切りであり、それ以前に、国民への背信行為であり、断じて容認できるものではない。このため、私は即刻王太子妃と離婚し、また起訴したところ裁判で死罪となった。しかし、それだけでは皆も気が済まないことは承知している。そこで、王太子妃……いや、『元』王太子妃は市中牽きまわしの上で火刑とすることとした。元王太子妃には何をして貰っても構わない。いや……、……――
――私も、王太子妃と共に市中を回り、皆に許しを乞うこととする。これは……これは、何よりっ、もっと早くに我々王家が……いや、ほかならぬ『私』がっ! 私がその犯罪行為に気付くべきであったのだ! これは陛下の過失ではなく、私の過失だ! 故に私に罵詈雑言を浴びせてもらっても構わない。それで皆の溜飲が……っ、少しでも下がるのであれば、喜んで私は皆に石を投げられよう!!
それに……このような世紀の大犯罪者でも、間違いなく私がかつて愛し、王家に引き入れた女性であるのだ……ゆえに、私は、彼女に最後まで寄り添い、彼女の魂の救いとなるべく手を差し伸べる義務がある。たとえ離婚しても、そこに彼女の愛など無くとも。
刑は、明後日の正午に執り行うものとする。改めて国民の皆に苦しい思いをさせてしまったことに、この場を借りてお詫びする。誠に、申し訳ありませんでした。
――その計算されつくした演説に唖然とした。
あくまでも王家は被害者であるという立場を取り、自分は悪くないというスタンスを取りつつも、しかし自身の監督責任に話を拡大し監督不行き届きであることに謝罪をし、責任を取ると称してお姉さまを市中引き回しにしさらし者にした挙句、火炙りにする。さらにそれを横で見物し高笑いしようという事だ。
なんという、化け物。
よくも、よくもあんな何もかもが嘘でできた、おぞましい会見を。
しおらしく、さも自分も盛大に傷ついているというような顔をして、ぬけぬけと。
断じて許せない。
ふざけるな。
その情報を耳にしたとき、私は王太子に対する怒りと憎しみとお姉さまを喪う恐怖に、いてもたってもいられず、潜伏先の屋敷を飛び出していた。
道中、何をどうしていたかは分からない。全く思い出せない。多分、王族が幽閉される塔には向かった気がする。看守たちの隙をついて塔を多分登って、お姉さまを脱獄させようとした気がする。
しかしお姉様は既に連れ出されたあとで、牢はがらんどうだった。
そうして気が付いたら私は王宮前の広場に、厚いクロークを羽織って潜伏していた。
王太子殿下は頭から血を流しうつむいていたが、それでも五体満足で市中を練り歩いた後だったのか、王宮侍女が傍についている。
『お姉さまは一体どこに、お姉……さ、ま……』
無意識に呟いていた独り言すら、最期まで呟けず絶句してしまう惨状が、そこには広がっていた。
お姉様はまず木の板のようなものに磔にされており四肢を杭が貫いていた、服をズタズタにされていていたるところから流血している。あの美しい顔や肌は見る影も無くボコボコになってしまっており、腫れていたり青紫色にところどころ変色していたりしている。片目も潰れており、あの美しい絹のようだった髪も不揃いに切られてしまっており、王太子がいなかったらお姉様と分からなかったかも知れない。
『ただいまより、重罪人デビー・カーライル元王妃を火刑に処す。罪人よ、最期に言い残したことは無いか』
『……、……』
お姉さまの瞳は虚ろで光を喪っていた。
あまりの惨状に、何をすればいいのかわからない。どうすればこの場からお姉さまを救えるのか、見当もつかなかった。
そんな時、私の傍に居た青年が、声を上げた。
『――この、売国妃め!』
彼は地面から手頃なサイズの小石を拾うと、それをお姉さまの顔に投げつけた。
既に腫れている所に新たな裂傷が生まれ、真新しい朱が刻まれる。
『ちょっ、何をして――』
『魔女め!』
『デビル姫!』
後方からも礫が放たれる。
中にははずれて落ちてしまうものもあったが、大半がお姉さまにあたり、これ以上傷つけようの無い身体を更に痛めつける。
『死んでしまえ!』『この野郎!』
『アンタさえいなければ!』『俺たちの金を返せ!!』『恥を知れ!!』
何が起きているの。
これはいったい。
どうして。
『やめて! やめて!! お姉さまをこれ以上――』
『うるせえ! とっとと死ね!』
『この悪魔をとっとと殺せ!!』
なんで。
『待って! ダメ! お姉さま!』
『亭主に頭下げさせて、見下げ果てた女ね!』
『地獄で詫びろ!』『死ね!』『ざまあみろ!!』『このクズが!!』
『やめて! やめて!! お姉さま、お姉さま!!!』
半狂乱になっていたところで、お姉さまと目が合う。
『べ……テ……』
お姉さまの唯一美しいままの左眼が、私を捉える。
歯が折れて真っ赤に染まったその口が動く。
『――――――――』
『火を放て!』
無慈悲な宣告と共に、舞台が炎上する。
雷のような歓声が沸き起こり、国民がそのショーのクライマックスに狂喜した。
殿下が顔を背けた先には、見知らぬ女が控えていた。美しい黒のドレスに身を包んだ女。貴族だ。それが殿下に寄り添っている。
殿下がちらりと燃え盛るお姉さまを見た。私だけがその眼を見たのかもしれない。少なくともこの狂乱の中、王太子の表情をまともに眺めているような輩など居ないだろう。
その眼を見て、私は全てを悟った。
『……』
お姉さまは黒い炭と化すまで、とうとう言葉を発することも断末魔も上げることは無かった。
その痛ましい死体はそのまま、三日三晩王宮の前で晒され続けた。かつて私の愛したお姉さまの香りは影も形もなく、焼けた人肉と、幾ばくかの木片の香りが私の鼻を介して文字通り脳裏に焼き付いていく。
その傍に私は恐らくずっといたのだと思う。もはやよく覚えていない。
最後には兵士だか何だか知らないけど誰かが来て片づけていったのだと思う。なんだか台車みたいなのを見た気がする。
『……』
何故、こんなことになってしまったのだろう。
お姉さまが、いったい何をしたというの。
――あの瞬間、王太子の眼には、愉悦と安堵と、達成感が滲んでいた。
賢妃と呼ばれたお姉さまをついに出し抜いてやったという、優越心がありありとその瞳に映っていた。
自分が犯した、取り返しのつかない政策の後始末をすべてお姉さまに擦り付け、国民の怒りの矛先とならなかった安堵と、浮気が誰にもバレずに済んだという安心感と全てをお姉様と共に闇に葬れたという安息が滲み出ていた。
そして、あの女は誰だか知らないけどあの王太子の浮気相手か何かだ。不要になったものを棄てて新しいものを手に入れた達成感と、なにより大きなひと仕事でも終えたかのような、程よい倦怠感とやり遂げた感がありありと出ていた。この後打ち上げで飲みにでも行くかとか言い出されても驚かないレベル。
何もかもが、納得のいかないものだった。
でももうどうでもいい。
私の愛したお姉さまは死んでしまった。もう二度と戻ってこない。こんなことなら……
こんなことなら、生まれてこなければよかった。
私の最愛のお姉さまを、支えるどころか民の謂れのない怨嗟を一身に受け、苦しみ抜いて死んでいくのをただ黙って指をくわえてみていることしかできなかった。
私、一応腐っても転生者なのに、知識チートどころか何もできなかった。人生二周目にもなって、何をやっているのだろう。
そこからの記憶は、途切れ途切れにしか無い。
たぶん、帝国に戻ったのだと思う。どうやって戻ったのかわからないけれど。
お父様とお母さんが何か言っていた気がしたけど、たぶんどうでもいい話だったので全く記憶にない。
あとは、なんだろう。
たぶん数か月潜伏先で閉じこもっていたと思うのだけれども、どっかであの皇太子――マグナス・パトリエ皇太子ーーにあった気がする。知らないけど。
野猿が随分と痩せたとか言われたと思うけど、心の底からどうでもいい。皇太子如きに何と言われようともう私の心は奮わない。お姉さまを喪った私にはその他のすべてなんてどうでもよかった。
ああ、でも。
せめてお姉さまの結婚相手がマグナス様のような人だったら、もっと違う結末になったのだろうか。
今日もベッドの上で丸まって、丸一日虚無のままに過ごした。いったいいつまで私の人生は続いていくのだろうか。食事ものどを通らないし、何をするのも億劫だ。とっととこんな人生終わってしまえばいいのにーー
◇
あれからどれだけ寝て、どれだけ死んだように生きていたのか分からない。枯れたと思っていた涙はいまだに止めどなく流れている。何だか身体が熱いような、寒気がするような気がするが、自分自身の体調にはもう興味が無い。お姉さまが戻ってこないのであれば、いっそ自分が、お姉さまのもとに行けてしまえば一番――
『お嬢様……お体に障ります故、どうかこのスープだけでもお召し上がりになってください……』
どこか微睡んでいた意識が浮かび上がると目の前に侍女が申し訳なさそうに立っている。
しかし食欲が無い。吐き気がしている。自分への嫌悪感に。
……嫌悪感?
『え……』
そういえば大昔、いつかこんなことがあったな、と内心で失笑したところで、意識がシャープになっていく。
今の私には侍女なんていないはず。全てを棄てて亡命したのだから。では今しがたこのスープを置いて出て行ったあの侍女は、誰だ。
はっとなって振り返り、窓の外を眺めると、そこは帝国ではなく、王国だった。それも、大昔の。木漏れ日が窓からは差し込み、鳥が囀っている。
一体何が起きたのかとベッドから飛び降りようとして、更に違和感に気付く。
私は今、そもそも身も心も衰弱していて、ベッドから『飛び降りる』なんて真似はできない。
しかも、なによこの服は。
なによこの腕は。
なによこの脚は。
この部屋は王国のお屋敷だ。
何が起きているのか理解できずに姿見鏡の前に飛び出ると、そこにはまだ幼い私の姿があった。
ドレスからは、もう長いこと忘れていたお姉さまの香りがする。私の大好きな香り。これはお姉さまから貰った、大切なドレスだ。靴もお姉様とお揃いだし、宝石もお姉さまの使っていたものだ。
『……あはっ』
ベッドに目線を戻すと、そこには私が初めてもらった、そして帝国に亡命する際にもっていこうとして止められ、遂に王国に置いて行ってしまった、お姉様を除いて私と最も親しい間柄でもあるクマさんが、無垢なボタンの目をこちらに向けていた。
滝のような涙が、私の目から零れ落ちる。
奇跡が起きたのだ。
私には分かる。逆行転生だ。
だってそもそも私、土台が異世界転生者なんだもの!
『あはっ、あはは……あっははははは!!!』
これが夢であるはずが無い。
もし私がこんな夢を見ていたら、今頃私は衝撃で飛び起きていることだろう。
逆行転生だ!
お姉さまが生きている時間に、戻ることができた!
全てが無かったことになったんだ! 神様って、実在したんだ!
過去が現在となったことで、遠い昔に蓋をした感情が私を追いかけてくる。
燃え上がるような恋慕が私の身を焼く。ああ、お姉さま、神の如く尊くあらゆる宝石よりも美しい、私の唯一が、すぐそこにいるだなんて!
――でも私は許さない。
お姉さまを弄んだ挙句焼いたあの王太子を。
お姉さまに石を投げた民衆を。
過去となった未来の感情が私を呪いにくる。
絶対に、何があっても王族どもを私は許さない。
全てが無かったことになどなるものか。
このままではあのゴミ蟲共はまた同じことを繰り返す。何が何でもそれだけは許さない。命に代えてでもそれだけは防いで見せる。
私が受けた苦しみを、いや、お姉さまが受けた苦しみを、何倍にでもして返す。
お姉さまが知恵を絞って国のために身を捧げていたのに、その民はお姉様に何をした?
愚かな豚のくせに、お姉さまにおんぶに抱っこだったのに、そのお姉さまを切り捨てた蟲共がお姉さまに何をした?
『あははははは!!! あはぁ……ふぅ……うっふふ……さてそうと決まれば、ふふふ……早速行動に移さないと、ね? うふははは……!!』
王侯貴族への復讐だけでは生ぬるい。
もちろん、だからと言って民の抹殺など、一瞬の苦しみでしかない。
であれば、何をすればいいのか。
『お姉さま』
『ベティ?』
その日の夜に、お姉さまの部屋に訪れると、そこには幼いころのお姉さまがいた。
お姉さまが、目の前にいる。
生きて、呼吸をし、私に怪訝な顔を向けている。
それだけで、また涙が出そうだった。
『ねえお姉さま。私気付いたの。私がお姉さまの物を欲しがっていても仕方がないって』
お姉さまのためなら、どんな苦しみでも受け入れて見せよう。
私は少なくとも一度は死んだ身。今更命など惜しくもない。もう私は我慢なんてしない。
――そうだ、お姉さまの受けてきた苦しみを私も受けよう! お姉さまにあてがわれた家庭教師の鞭ですらもはや欲しい。お姉さまを守るには私ももっと賢くならないといけない。お姉さまの婚姻を防ぐには、私がお姉さまを超えないといけない。
『……!?』
幸い、私には前世の記憶がある。未来の記憶もある。
貨幣を刷ってインフレを起こすなんて舐めた真似をしやがって。よりにもよって金融政策でお姉さまを苦しめるとは。金融屋の姉を痛めつけるとは。上等だ。であれば私も金融で仕返しをしよう。
そうだ、一度上げてから落とすのなんて最高じゃない?
『私がそんなことをしていても……本当に欲しいものは手に入らないって』
『本当に、欲しいもの?』
生かさず……殺さず……!
愚か者どもに逃げ場なんて与えてやるものか。
豚共の場所は、永久にこの私のもとにしかない。蟲は蟲らしく私のような人間にまとわりつくべきなのよ。
私と共に、未来永劫苦しみを味わってもらう。
苦しみと、絶望の歴史をこの世界に刻む。
でも私が本当に欲しいのは、そんな豚共のどうでもいい感情なんかではない。
『ねえ、お姉さま。王太子殿下って……さぞ素敵な御方なのでしょうね?』
ああ、お姉さま。
愛しているわ。