人間不信
知らない土地でちゃんとした住むところを契約するのは難しい。敷金・礼金のこともあるけど、名前がダメだ。本名で契約したら俺がそこにいた記録を残してしまう。なにかあった時に次に逃亡できない。いつでも逃げられるようにするのはもちろんのこと、俺の痕跡を残してはいけない。偽名で契約する必要がある。
今はマンションやアパートが無くてもネットカフェに住むことができる。カギはかからないし、置ける荷物も限られるけど、今の俺にはピッタリだ。それでも会員カードを作る必要はある。従来なら契約時に身分証明書の提出を求められた。ところが、最近はアプリでOK。メールアドレスがあれば会員になれるのだ。そうそう、メールと言えば、従来使っているメールアドレスも捨てる。新しくメアドが必要だ。これはgoogleで新しいアカウントを作ればOK。すごく簡単だ。難しいのはこれからだ。そう、支払方法だ。
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俺は自分を信じてなかった。疑っていた。妻が浮気をしていると思っても、それは勘違いだと思っていた。……思いたかった。小説では主人公が延々と思い込んだことを言い続けて、考え続ける。例えば、学園ものだったら、彼女の浮気を疑うとか。そして、その間違った考えを肯定するような出来事が次々起きる。それこそあり得ないくらいに次々と。物語なんだから、作者がそうしているのだ。ある意味必然だろう。読者もさすがに主人公が考えていることが正しいだろうと思った頃に真実を知る。そして、それが誤解だったことを知るんだ。例えば、浮気相手だと思っていたのが実は彼女の弟だったりして。彼女のことを下の名前で呼んでいたり、慣れ慣れしかったりしたのも一気に説明がつく事実が出てくるんだ。主人公も読者もあーーーってお思ってスッキリ解決。物語は終了するもんだ。
俺も妻の浮気だろうって考えを寄せ続けた。そうすることで、今後どんでん返しの真実があらわれるのだから。ところが、現実ってやつは厳しくできてる。人生なんてクソゲーだ。何一つセオリー通りに進まない。
探偵事務所に呼ばれて行って、見せられた調査書は妻の浮気について動かぬ証拠を示していた。
「調査報告書」と1ページ目に書かれていて、探偵事務所の名前、調査対象者、調査依頼者、調査機関などが書かれていた。2ページ目以降は写真や地図が中心で補足するような文章が添えられていた。シンプルだけど分かりやすい。完璧な報告書だった。
妻の浮気相手はパート先のスーパーの店長らしい。
店長とは結婚前に妻が勤めていた会社の頃からの知り合いらしい。同じ会社の人だったとのこと。そんなことまで調べてくるなんて探偵は優秀だった。さすが2週間で10万円。店長がずっと妻に言い寄っていたらしい。それでも、交際したことはなかった。妻との関係が始まったのは妻がパートに出るようになってから約半年後くらいとのこと。どうやって調べたのか、スーパーのパートの人の話や行きつけの喫茶店の店員からの情報も入っていた。
問題の浮気現場だけど、店長の車に乗ってラブホテルに入って行くところ、そして、出てくるところの写真があった。出てくるときは、妻は助手席で上半身を寝かせて顔が周囲に分からないようにしており、その後上半身を起こして笑顔になっている写真もあった。あの妻が、よその男とラブホテルに行ったのにこんな表情をするなんて信じられなかった。
さらに、これもどうやって撮ったのか分からないけど、ラブホテル内での妻と店長の会話の音声データもあった。事前に探偵から「裁判では使えませんけど」と念を押されたあと聞いた。店長は妻のことを「由紀ちゃん」と呼んでいた。俺が妻を「由紀ちゃん」と呼ぶまでに何年かかったと思っているんだ。その後、妻も店長もシャワーを浴びている音が聞こえてその後情事の声が聞こえてきた。あの声は間違いなく妻のものだった。声が出てしまうのが恥ずかしいのか声のボリュームを押さえる感じの声。それでも声が出てしまうところがかわいいと思っていた。俺は思わずその場で吐いてしまった。
「少し休憩しましょう」と言われて俺が探偵事務所の雑居ビルのトイレで口をゆすいでいる間に俺の吐しゃ物を探偵事務所の人が掃除してくれていた。音声データでは店長はセックスのことを「いたずら」と呼んでいた。浮気相手にセックスするのに「いたずら」ってどういう意味だ。妻は完全に遊ばれているのに、それでも店長を受け入れるのはどういうことだと思った。俺の大事な妻がおもちゃにされて、さげすまれて、店長に対する怒りがこみ上げてきた。寝取られた情けなさ、浮気された悲しさ、そして怒り、妻をさげすまれた情けなさと怒り、子どもがいるのに義両親に預けてその間に浮気相手と寝ているなんて無責任だと思う怒りと、その娘は俺の娘じゃないから俺が怒るのは筋違いという慌て。
とにかく、色々な感情が一度に湧き上がった。他人にこんな動揺した姿を見られるのは恥ずかしいと思いながらも、俺はとにかく涙が出て止まらなかった。報告してくれている探偵に「すいません」って言いたいだけなのに鼻水も出て、しゃくりも止まらない。ついでに咳も出てきた。探偵が「これどうぞ」と言ってアイロンがかかったハンカチを差し出してくれたけど、そんなの使えない。別の探偵が出してくれたティッシュの箱を抱えて涙と鼻水を拭き続けた。