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決行日当日

 いよいよ決行日だ。スマホの目覚ましが鳴る10分前に目が覚めた。当然アラームを止め、妻が目を覚ますのを防いだ。ベッドを揺らさないようにゆっくりと動いて床に脚をついた。


「おはよ……行ってらっしゃい……」


 妻はそのわずかな俺の動きで目を覚ましたらしい。ただ、起きたというより、目を覚ましただけ。起き上がる力はなかったらしい。そう言えば、彼女は低血圧だといっていた。今まで毎朝俺のために朝食を作ってくれていたが、無理して起きていたのかもしれない。


 これからはその必要はなくなるからよかったな。これまで悪かったな。


 妻が起きないようにリビングでスーツに着替えた。このスーツは途中のリサイクルショップなどに売ってしまうか。いや、なにか残るのはよくない。どこかのゴミ箱に捨てよう。普段俺はスーツを着る仕事じゃない。システムの設計の仕事をしているので作業着が基本だ。ブルーカラーじゃないから制服はほとんど汚れない。1日中パソコンの前にいるのだから汚れるはずがないのだ。


「社会人ならスーツの1着くらい持ってないと!」と言って買ってくれたスーツだった。俺は太っている上に腕が長いのでセミオーダーみたいになって割と高かった。「だから買うのやめよう」と言った俺に対して、妻は「あんまり買う機会がないんだったら、逆に良いのを買って長く使える様にしよう」と言って結局買ってくれた。


 一応職種で言うと「製造業」となるので、妻としては工場勤務の様な事を想像しているらしい。あの店のシステムを作る時なんかは一緒に店で打ち合わせとかもしたのに。


「作業着なのにほとんど汚れないんだね。ホントに仕事してるーーー?」

「ちゃんとしてるよ!」


 そんなやり取りをしたことがあった。

 あのいたずら顔というか、揶揄ってるのが分かる顔は嬉しそうというか、微笑んでいるというか、楽しそうに思えたんだけど。今思えはそれも全部嘘だったということ。俺は人を信じられなくなっているだろう。スーツに着替えているだけで涙が出てきた。


 朝食は要らないと思いつつも、なんとなく冷蔵庫を開けた。飲み物でもあれば持って行こうくらいの感覚だった。多分入っていないのも知っていた。土日も妻の料理が食べられなくて、昼ご飯とかは俺が作ったこともあった。だから、ここ最近は冷蔵庫を開ける習慣が付いて来ただけかもしれない。


 冷蔵庫の中にはおにぎりが1個入っていた。ラップに包まれて、ポストイットが付いていた。


「気を付けてね」


 一言だけ書かれていた。間違いなく妻の字だ。几帳面というか、きれいな字で、顔がいいと字のバランスもいいんだなって思ったことがあるのを思い出した。毎日、毎朝自分の顔を見るんだ。あれだけ整っていれば正しいバランスを覚えるのだろう。字を覚える時にもその感覚で良い悪いを判断して覚えて行く。だから、美人は字がうまい。俺の勝手な持論だ。まあ、俺の字は恥ずかしいくらいにへたくそなのであながち間違いとも言えないだろう。


 このおにぎりをそのまま置いていくことは人としてできない。食べることはできないと思うけど、持っていくことにした。


 娘の部屋を静かに開けた。静かな寝顔だ。かわいいと思っても、この子は俺とは無関係の血もつながっていない他人だ。3年間は自分の子どもだと思っていたから情がある。でも、この子に情を抱くことは俺にとっては屈辱のはず。それでもかわいいと思ってしまう自分が情けない。この子は妻と浮気相手の子。俺にとっては忌むべき存在。そんな相手に対して少し気を許したらかわいいと思ってしまうのだから、俺は自分が情けない。


 カバンは前の日から玄関に置いていた。靴は玄関に出してあった。普段はスニーカーみたいなのを履いているので、革靴は出張に行ったりするときくらいしか履かない。それなのに、靴はピカピカだった。いつの間にか妻が磨いてくれたのだろう。俺はこれから出張に出るのではなく、逃亡するだけだというのに。この靴だってあと数時間後にはどこかのゴミ箱に捨てる予定なのに。玄関でも涙がこぼれてきた。


 静かに玄関のドアを開けて、音がしないように閉めた。俺は誰に何のために気を使っているのだろう。静かにカギを掛けて出かけたのだった。


 最寄りのバス停から駅に行って、そこから新幹線の駅まで移動した。ついついスマホで改札を通りそうになってしまったけど、カバンから財布を出して切符を買った。万が一にも俺のことを追跡できないように。ここまでは順調だった。


 ちょっとしたトラブルは新幹線を降りる時にホームで起きた。俺はチケットこそ東京までのものを買ったのだけど、そこまで行かずに途中の駅で降りることにしていた。平日の午前中なので、新幹線を降りるのはビジネスっぽい人が多い。俺は別に行くあてがある訳じゃないので急いでいる人を先に降りさせて、最後に降りた。


 乗る人が我先にと乗りこんで来たのだけど、その中に一組の親子がいた。20代くらいの若いママさんと1歳くらいの抱っこされた子ども。ママさんの片手には折りたたまれたベビーカー。女の人が1人で出かけるとなると大変なのだ。そして、乗る時に新幹線とホームの間にベビーカーのキャスターがはまり込んだ。ママさんもベビーカーしかなかったら容易に持ち上げることができただろう。いや、その場合、そもそも隙間にキャスターをハマらせることもなかったかもしれない。


 彼女は片手に赤ちゃん、もう片手にベビーカーの状態なので、ハマりこんだキャスターを外せないでいた。その上、新幹線には出発時間もある。明らかに彼女は慌てていて、状況を改善できるようには思えなかった。


 俺は思わず自分の荷物はホームに置いたまま、ベビーカーを持ち上げる手伝いをした。そしたら簡単に外れてママさんは何度も頭を下げて「ありがとうございます。ありがとうございます」と言いながら新幹線に乗り込んだ。


 追跡されないようにしている俺にとってこんなことをして良かったのか疑問だが、気付いたら助けていた。困ったもんだ。まあ、彼女の顔も見なかったし、多分相手も同じだろう。俺が太っているといっても魔人ブウほどは太っていない。特徴などないのだ。恐らく彼女は俺を覚えていないだろう。こんなことは伏線になるはずがない。そう割り切って俺は予定通りいくつかの駅を移動してネットカフェを探したのだった。


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