第86話 白い幽霊
それは死せる花嫁、ヴィリスとよばれる白い幽霊そのものだった。ひらひらとなびくゆったりとした服が月光をはじいてかがやき、水しぶきをあびているかのようだ。彼女たちは、ぞっとするほどに愛くるしく、気まぐれな凶暴さで男を抱きしめるという。その抱擁は冷たく、生命を凍りつかせてしまうのだ。
だが、俺に抱きついてきた精霊は、やわらかく、そして、あたたかだった。
「兄さん」
と、なつかしい声がする。いや、ずっとそばにいて、ずっと聞いてきたからこそ、いまは遠く、なつかしいように聞こえるだけだ。
夜気に晒されて冷えたのか、レナは胸のなかで震えていた。明日からは、こうはいかないとしても、いまだけは強く抱きしめていたい。そう思った。
「たいへんな一日だったな」
「うん」
旅のことを思いだしながら、あの世界では魔女の証といわれた紫色の髪をなでる。肩からせなかにかけて、なだらかな線に沿って流れるように落ちていく。いつか街でみたリュートをなでているような感覚。
「わるかったな」
「うん?」
胸もとから顔もあげずに返事があった。今夜、ここで会わなければ言わなかったかもしれない言葉。でも、言わなければ。
「うそをついていて、わるかった。おまえは、王都で〈餓狼〉の持ち主、先代の人狼から託されたんだ」
だまったままのレナに、そのさきを伝えるのは辛かった。もう言ってしまったようなものだけれど、やっぱり明確に言葉にするのとは、また違うものがある。
「だから、俺は、おまえの兄さんじゃない」
レナの言葉を待った。抱きしめた胸のなかで、みじろぎひとつしない。ほんの短い時間が、ながくながく感じられた。
「知ってたよ」
ぎゅっと胸に顔を押しつけながらいう。
「わたし、知ってた。おぼえてるんだ。子どものころのこと。まだ小さかったけれど、きれいだった王都のことも、お城での生活も、両親のことも、全部おぼえてる。
それだけじゃないの。魔法の眠りだったからなのかな。怖い森のはずれを夜通し兄さんにおんぶされて行ったことも、おなじ外套にくるまって兄さんがじっとわたしをみていたことも、わたしを仮小屋の戸口において、兄さんが何度もふりかえりながら行ってしまったことも、全部、おぼえてる。そのあと、大けがをした兄さんが帰ってきてくれたことも、兄さんが、わたしを妹として愛してくれたことも、今日まで育ててくれたことも全部」
全部、知っていたのだという。赤子も、幼子も、意外なほど世界をみているものさ。あのときの女性の言葉があざやかによみがえった。まさに、そうだ。子どもは、すべて知っている。なら、どうして? 疑問を口にしたが、かすれた声しかでない。
「知っていたのか。なら、どうして言わずにいたんだ?」
「また、捨てられちゃうんじゃないかって」
そう思うべきは俺の方だ。もう、兄さんじゃないのだから。そう思う気持ちが伝わったのか、レナは少しだけ顔をあげて、
「兄さんは、兄さんだよ」
と言いながら、抱きしめる手に力をこめた。そして、小さく、兄さんだけど兄さんじゃない、それがわたしはうれしい。そうつぶやいたようだった。え? と声を発すると、あわてたように俺から離れて、なんでもないと首を振った。
寒さにあかくなった頬と、すこし涙がにじむような目が印象的で、遠くて近いその距離で、ふたりでみつめあう。一歩、レナにむかって足を踏みだしたとき、彼女は、くしゅん、と愛らしいクシャミをした。
どうやら、本格的に体が冷えてしまったらしい。ふるえるレナを、もう一度だけ抱きしめて、もう寝るようにつたえた。自分も、もう少しだけ夜風にあたってもどると告げて、彼女の背中をみおくった。
そのすがたは、朝露に消えるといわれる精霊のようだ。死せる花嫁の亡霊、ヴィリス。愛の床をしらないからこそ、うつくしく、あいくるしく、かなしい白い精霊たち。
昨日までとおなじように、一緒の部屋で寝ることはもうないのだろう。ここでは王女さまなのだから。そして、ここからさきも。
ふと、もっと心配すべきことに思いいたった。帝国軍と死闘をくりひろげているであろう、あるいはすでに冷たい骸となっているかもしれない大魔法使いさまのことだ。
森の魔女の住まいだったあの城で、そのバルコニーで、〈餓狼〉と対話している姿をみたことを思いだした。
俺は〈餓狼〉を取りだし、夜気を切り裂くようにしながら月に透かしみた。このナイフがなければ、もしかしたらずっと兄妹のままでいられたのかもしれない。
しかし、これがあるからこそ、これからも人狼としてそばにいることができる。それは、なにか、とても苦しく、やりきれない考えだった。魔剣の呪いは、本当に解けたのだろうか。これが呪いのせいだったら、どんなに良かっただろう。
月は無慈悲に傾き、朝へと落ちていった。




