第82話 角杯
鏖殺侯との呼び名は、かつて島に死病が蔓延したとき、何代もまえの辺境伯がとった措置について言われているものらしい。当時、半地下にあった貧民街を死病に襲われた住民ともども生き埋めにしたのだという。だから、皆殺しを意味する鏖殺を冠して、鏖殺侯と陰で呼ばれることがあるとか。
ディーガ辺境伯に言わせれば、たしかに死病の蔓延した貧民街を埋めた事実はあるらしいが、当然、住民ごと埋めるようなことはしていないそうだ。それでも、まことしやかにささやかれ、いまだに鏖殺侯と揶揄されることもある。
ウーシスのいう、歴史は必ずしも真実の味方ではないというのは、そういうことだ。
その後、会議へ出席するまえに彼女の話したことも、歴史の判断にかかわるものだった。聞き終えた辺境伯は、
「こいつは会議が紛糾しそうだな」
と楽しそうにつぶやき、大魔法使いの代理として会議に出席できるようにしてくれた。
こうして議場へむかったわけだが、その途中、意外な人物に出会った。
遠目からでもよくわかる特徴的な歩き方をしていたのは、ハインラだった。ぴょこん、ぴょこん、ウサギのように歩く。それは人狩りにさらわれて奴隷とされた過去の名残りなのだが、銀色にちかい髪と黒い目とが、気高い精神を感じさせるのだった。
民族衣裳だろうか。独特の織り込みがされた鮮やかな一枚布を体に巻きつけており、ペテロのところにいたときとは雰囲気が違う。
どこか誇りと脆さを合わせもった美しさと冷たさを感じたのは、その衣裳ゆえかと思ったが、それだけではなかった。
こちらに気づいたハインラは目を大きく見開き、なにかを口にしかけたけれど、それを飲み込むようにして、同行者らとともに、すっと行ってしまったのだ。その目に親しみはなく、まるで別人のようだった。
しかし、みまちがえるわけもない。
レナもショックをうけた様子で、呆然と、うしろすがたを見送っていた。そんな出来事から始まった会議は、決して順風満帆なものではなかった。
俺とレナが正使で、実際の発言は情勢をよく知るウーシスに任せることとした。出席者たちから向けられる視線は好意的なものではなく、護衛を任じるオルフェが円卓からはなれて立ち、周囲を警戒中だ。敵意とまでいうと言い過ぎかもしれないが、懐疑的な者がほとんどで、なにを言おうと素直には受け入れられそうもなかった。
会議の場を乱しかねない闖入者を歓迎しないのも当然だ。
本当に大魔法使いの使者なのか、帝国の間者ではないのかといった意見はもちろん、結論は出ているのだから話をきくまでもないといった反応が多かった。
だが、旅装のままの俺とレナに対して、本当に使者だとしても、こんな小汚いガキどもを使者に立てるなど無礼きわまりない、との発言が聞こえてきたとき、室内の空気が変わった。
「は?」
たった一声がその場を凍りつかせたのだ。
ざわついていた雰囲気が、ピリッと張りつめたものになる。決して大きな声ではなく、主張の強いものでもないのだけれど、凝縮した怒り、あるいは凍りのような一声。
顔をみあわせる出席者たちは、にこやかな笑みをうかべるウーシスがそれを発したことに、すぐには気づけなかった。
「無礼なのはどちらでしょうか?」
しずかな声音が恐ろしい。はりついたような笑みは微動だにせず、続けて、暴言を吐かれたのはどなたでしょう、と淡々と問いかける。応じて、出席者の一人が勢いよく立ちあがり、俺たちの方を指さして口をひらいた。
だが、なんの言葉も聞こえてこない。
気づくと、パクパクと口を動かし、のどもとに手をあてて苦しそうにしている。ひらいた口からは、もうもうと煙がでていた。
ウーシスの仕業だ。あとで聞いたところでは、変化魔法の応用で、口中の水分を蒸発させたらしい。それで、口から煙を吐いているようにみえたのだろう。
かっ、はっ、と苦しげな男に近づき、ウーシスが水のはいった角杯を手渡した。
ひったくるように角杯を手にした男は、しかし、一滴たりとも水を飲むことはできなかった。角杯を口に近づけるや、その水が霧散し、空になってしまったからだ。
絶望的な表情をうかべて、男が昏倒する。
ウーシスの仕業だとわかったのだろう。議場の目が彼女に集まる。それなりに気が済んだのか、にこりとしていたものである。彼女を怒らせるのはやめようと心から思った。




