第25話 おぼえている言葉
血しぶきが飛ぶと思えたそのとき、 ペテロが目をひらいた。
キメラが不意に動きをとめる。
一瞬、戸惑うような動きをみせ、左右を振りかえると、そのながく硬質の尾で、居並ぶ兵士たちを弾き飛ばした。
金属的な音がひびく。
怒りであおざめた表情のアリが激しくムチをならす。自分に従え、敵を殺せとの合図であったろう。びくりと身をふるわせたキメラが長い顎をひらき、それは影となってアリの顔をおおい、ゆっくりと閉じた。
頭蓋骨を粉砕され、木の実がわれるような音を立てて死ぬその瞬間まで、アリには、なにが起きたのか信じられなかっただろう。
「ただの目くらましよ」
と、ペテロが笑う。「キメラは単純じゃからの。敵を味方に、味方を敵にみせかける子どもだましの呪いこそが役に立ったというわけじゃ」
さて、やつらが混乱しておるうちに逃げるぞ! と、軽快な声をあげたペテロだったが、先に立って走りだした俺のあとを追ってくる気配がなく、異変を感じて振り返ると、ぐっ、と呻き声が聞こえ、小柄なじいさんの腹から鋭い剣が突き出ていた。剣先が押し上げられ、胸もとへむかって動いていく。
姿勢を低くして背後から剣を突き入れていたのは、審問官のアリだった。充分に深く心臓を切り裂き、とどめを刺したと確信したのだろう。ゴミでも踏むようにペテロの背中に足をあてて剣を引き抜き、その場へ蹴り倒した。
不思議そうな表情をしたペテロが無抵抗に地面に倒れ伏し、俺が駆け寄ったときには、すでに事切れていた。
「やれやれ、呪い師とはね」
うんざりしたような声が聞こえた。
アリが、生きていたのか?
しかし、キメラの足もとには、アリの死体が、さっき見たままに倒れていた。
「どうして……?」
「あ〜、どうしてというのは、どうして生きているのか、あるいは、どうして、二人いるのか。どちらでしょうか」
ふわふわとした話しぶりは退屈そうで、自分が言っていることに興味もなさそうだった。そばの兵士に剣をわたし、代わりに手にしたムチで地面を打つ。
からだの大きさにそぐわない機敏さでキメラが動き、あわてて飛び退いた俺には目もくれず、ペテロの死体をかみくだいた。
「ふふ、私を殺してくれた御礼です」
すこしだけ嬉しそうにいうと、つぎはその子です、とレナに視線を向けた。
「抵抗するのであれば、手足の一本くらいは覚悟してくださいよ。なにせ、このキメラは、あまり頭が良くないのでね」
もう一度、ぴしりとムチを鳴らすと、キメラが動き出し、レナの眼前に立った。助けに行こうにも、あいだには重装備の兵士たちが立ちはだかっている。
キメラの巨体が影となってレナをおおい、その顎がゆっくりとひらいた。
と、それを地面から伸びた足が蹴りとばし、面くらったようにキメラが動きをとめた。ハインラの仕業だ。
しかし、それで終わったわけではない。
不格好な化け物の全身から怒りの声がひびいた。オオカミの遠吠えか、ヒトの悲鳴か、あるいはヘビの威嚇音か。レナとハインラをまとめて嚙みくだこうという勢いで、ふたたび顎をひらく。
結局、あまり頼るなといわれた力に頼らざるを得ないらしい。
ペテロの死体を見下ろし、二人とも、なんとか逃げろよ、そう思いながら、ふところの黒いナイフを握りしめた。……あなたは、きっとこの子をまもってくれる。数多の犠牲をはらってでも。何年たってもおぼえている言葉は、それ自体が、のろいであり、魔法なのではないか。
全身の感覚がとぎすまされ、異常な力が流れこんでくる。意識が飛びそうになるが、二人に、逃げろ、と、叫ぶことはできた。
重装備の兵士たちを、4,5人まとめて鎧ごと蹴りとばす。ひるんだ連中のあいだを駆けぬけ、キメラの皮膚から突き出したオオカミの首を切り落とし、ながく硬質な顎を両断してやる。ふたたびキメラが叫び、兵士たちの動揺が大きくなった。
包囲が手薄になったあたりを指さし、レナを突き飛ばすようにする。はやく行け! と怒鳴りつけて、やっと走りだしてくれた。行く手を阻む兵士はハインラが蹴り倒す。
ぐらぐらと脳みそを茹でられているような感覚に耐えながら、ふたりの背中を見送った。一方で、黒いナイフが勝手に動いて、飛びくる矢を打ち落としているのがわかった。それはまるで他人事のようで、現実味がなかった。
包囲を逃れて遠くで振りかえったレナと目が合い、ほっとしたのを最後に意識がとぎれる。




