+1 あなぐらの神官
人の感情に興味がある。
己の持たざるものにこそ憧れ、妬み、惹かれるものだというが、自分もそうなのだろう。
感情がないとはいわない。
まったくなければ、それに関心をもつことすらないだろう。人よりも薄い、あるいは枯れかかった感情の残り火が激しい炎を求めてもがいているのかもしれなかった。
感情は動機付けであり、生物の方向性をさだめる舵のようなものだ。実際の熱量はゼロにひとしく、食物という燃料がなければ、感情だけでは一歩も動けない。
けれども、食物だけでも人は動けない。すくなくとも人としては、ということだが。感情の代わりとなる指示命令があれば動けるだろう。人としてかどうかは別として。
知識として、人は食物だけでは人にならないことは知っている。専制的な君主の命令で食物のみで育てられた赤子は、人として言葉を発することなく死んでいった。動物に育てられた娘は、動物にしかならなかった。カルト教団に人ならざるものとして育てられた子どもたちは、あるいは天使に、あるいは悪魔になり、人にはなれなかった。
神は人に興味などないのだ。
ときに生まれる無痛症の子どもたちが自傷行為を行うのは、痛みに焦がれるからなのかもしれない。人は、無いものに憧れる。
いったい感情とはなんなのか。甘美で、腐敗した夏の果実のような魅力がある。
あなぐらの神官たちは、すべて人殺しだ。
もちろん自分も例外ではない。感情を殺し、命令に従うことができるか、他者を殺してでも生きることができるか。通過儀礼に似たものでありながら、後悔を植えつけ、救いを求めさせるための作られた罪でもある。
他者との交流を制限され、親兄弟などは知らず、感情はうすく、地下墓地の尖兵としてのみ生きることを許された。そのなかでも、通過儀礼の日まで寝食をともにする相手とは深いつながりを持つ。ときには二人だけの言語さえもつ者たちもいる。
自分の場合も、二人だけの言語とまではいわないが、なにも話さなくてもお互いに考えていることがわかるような関係だった。ほとんど同じ人間ではないかとさえ思えていた。
それを、通過儀礼では殺さなければならない。いや、ここまで来て隠すことはない。彼を殺すことで、生き残ったのだ。
たがいに殺しあったのか、一方的に自分が殺したのか、なにも覚えていない。
だが、結果がすべて。
自分は薄ぎたない人殺しだ。ひとり殺すも、ふたり殺すも同じ。慣れればなんということもない。教会の判断が正しければ、弑されるべきは罪人であり、ひとり殺せば一段、ふたり殺せば二段、天国への階段をのぼっていけるのだから。そうでなければ? そうでなければ、地獄の第九圏で凍りづけにされるだけのことだ。あなぐらで生まれ育ち、あなぐらに落とされる、美しく閉じた環ではないか。
なみだひとつ流したがために、次の日からいなくなってしまった者がいた。それからは、なみださえ凍りつかせることを覚えた。
なぜだろうか。彼の最期の顔がデスマスクのように脳裏に刻まれて消えない。殺しても殺しても、すべての死者は彼の顔をしている。
暗殺の機会に、必ず依頼主の名をつげる。
それが自分の決まりだった。絶対に依頼主は明かさないという地下墓地の決まりを破っていたのは押し殺された反抗心ゆえだったのか、また何かべつの何かなのか。
死人に口はないのだから、仕損じることを恐れなければ何を話そうと構うまい。だから、自分は最期のときに必ず依頼主の名前を告げることにしていた。どんな反応があるか知りたかった。ゆたかな感情などとは無縁に育ち、激しい感情に焦がれるところがあった。
きょうも名前を告げる。
この娘はどう応じるのだろう。自分を殺すように依頼したのが、実の母であり、この国の敬すべき女王さまであると知れば?




