死願者
_どうやらコンビニが三日に一度のサイクルに入っちまったようだ。
上下のスエットに突っかけといったラフな恰好の佐川敬三は、短いハンドルでサドルは高く、変速ギア付きで高級スポーツタイプの黒っぽい自転車から降りると、ロープでダイヤル式の鍵を掛けて足早にコンビニの店内に入った。
レジには3名の男性客たちが清算を済ませるために縦に並んでいたが、敬三は客たちの後ろを通って弁当売り場の陳列棚に向かい、あれこれと昼の弁当の品定めをした。
安くて美味い弁当に越したことはない。
品定めで暫く迷った敬三は、一つの弁当を手にするとレジに向かった。
―――
今年になってパチンコホールの倒産が急激に増え、コロナ禍から回復基調ではあったが、高齢者の来店数の回復の遅れが影響して、昨年の倒産を超えたそうだ。
苦戦するホール側は、人件費や電気料金などのコスト削減が利益回復になるとの理由で、非正規雇用だった敬三は同系列の他店に配属されることもなく、いとも簡単に解雇された。失業保険などは無く、解雇された当初は店側から出された僅かな金額の見舞金だけが頼りの生活だった。失業も長引き、預金も残り少なくなってきた敬三は、朝は抜き、昼は近くのスーパーの特売品の弁当か回転寿司、そして、今日のようにコンビニの弁当が加わり、夕食は大衆食堂か、持ち帰りのチキン、餃子などで食費を安く済ませるのが日課になっていた。
―――
店内は客が少ないためにレジは一ヶ所だけしか開かれておらず、カウンターの前には2人の客が並んで待っていた。
前の客たちの支払いが終わると、店員は驚いた顔で敬三に声をかけてきた。
「おう、久し振りだな。佐川……」
「お前んち、この近くだっけ?」
「新メニューのここのコンビニ弁当が安くて美味いと噂で聞いた。だから、少し足を伸ばしただけだ」
敬三に声をかけてきたコンビニの若い店員は、以前にパチンコ店に勤めていた同僚の井上達夫だった。敬三の後ろに客がいないことをいいことに、井上は存大な態度で聞いて来た。
「温めっか? これ……」
「いいよ。冷めた飯には慣れてっから。それよりお前、バイトしてたのじゃなかったのか? 居酒屋で……」
「今日は定休日だ」
「家にいてもカネは要るし腹も減る。パートでもいいからここでバイトしてりゃ、一石二鳥ってワケだ」
「そんなに稼いでどうすんだ? 食っていけりゃあ充分だろう」
「俺の稼ぎより、テメーの仕事を心配しろよ」
井上は店内の壁に掛けてあった時計を見た。時計の針は2時前を差していた。
「この弁当が朝飯か昼飯なのか知らねーが、そんな恰好でここへ来るようじゃあ、まだ職についてねーようだな?」
「その通りだ。遊んでいるよ」
スマホで支払いを済ませた敬三に、井上はビニール袋に入った弁当を手渡しながら命令口調で言った。
「俺のアガリは3時だ。そこの『花時計公園』でこの飯でも食って待っていろ。元同僚だった誼だ。仕事の相談くらいは乗ってやるぜ」
先輩風を吹かせた上からの目線の言葉にカチンときたが、相手は二つの仕事を掛け持ちしながら働き、自分は未だに無職の『プー太郎』のままだ。
カネは無いが時間ならたっぷりとある。
敬三は力の無い声で返事をした。
「わーった」
―――
公園の片隅の砂場では、3名の保育士たちと一緒に10名近くの幼児たちが鬼ごっこなどで甲高い声を出して走り周り、反対側に設置されているベンチの横に自転車を置いた敬三は、スマホのアプリをスライドさせながら熱心にバイト先の検索を続けていた。
検索する手を止めた敬三は、呆れた顔で画面を見つめた。
「マジかよ?」
「高齢者を騙すオレオレ詐欺の『闇サイト』ばっかりじゃねーか」
「いいのか? これで……」
「大手の求人サイトと掲示板サイトが、高収入を謳ってこんな求人広告を出しても?……」
「俺から言わせりゃ高収入ってのは悪事を働けってのと同意語だ。『ハンドキャリー』とか『回収』のアルバイトと称して高収入で人材を募っているが、カネに困って一度『闇バイト』に手を染めると、抜け出せなくなるのが恐ろしい」
「雇い主は契約時に身分証明証や携帯番号、住所、両親の連絡先などの個人情報を押さえ、こっちが仕事を躊躇したら、『個人情報を公表する』『犯行を通報する』などの脅し文句で、逃げ道を完全に塞いでしまいやがる。こういう仕事は大麻やコカインの売人か、それともオレオレ詐欺の『かけ子』か『受け子』に利用されてしまうのがオチだ。カネは欲しいがヤベー仕事だけは遠慮するぜ。警察の厄介になるのだけは、もうイヤだ」
熱心にスマホで就職口を検索している敬三の前に、500㎖の缶ビールが差し出された。
「俺ンとこへ、来い」
「ン?」
怪訝顔で見上げると、缶ビールを差し出したのは私服に着替えた井上だった。
「コロナ禍も収束の兆しが見えてきて、飲食業界も活況を帯びて大盛況だ」
「お陰で俺ンとこの店もメッチャ忙しい。時給単価は威張れるほどじゃねーが、生活に困るほどの薄給じゃねー」
受け取った缶ビールのスティオンタブを開けながら、横に座った井上に言った。
「誘ってくれるのは有り難いが、接待業ってのは、どうも苦手なんだ」
「何を言いやがる」
「以前のパチンコの店員だってある種の接待業じゃねーか。今はあれがイヤだ、これがイヤだと選んでいる場合じゃねーだろが?」
缶ビールをぐびぐびと飲んで一息ついた敬三は、言い訳するようにして言った。
「上からあれこれと指示されたり、客に色々と気を遣う仕事がイヤなんだ」
「それだったら、フードデリバリーをやれ」
デリバリーとは、注文した料理をすぐに調理して、指定の場所に届けてくれる「宅配業者」のことで、ピザや寿司、うどんや蕎麦、オードブルといったものを簡易容器に入れて配達してくれるため、容器の返却をしなくても良いデリバリー業者が多く、手軽に利用することができるのが特徴。デリバリーは自宅まで配達員が届けてくれ業者によっては配達員にGPSをつけ、注文した料理がどこまで届けられているか、現在地を確認できる仕組みにしているところもある。
パチンコ店の元同僚が折角進めてくれた働き先だったが、敬三はもう一つ乗り気にはなれなかったようだった。
「……デリバリーか?」
「今ンところ、コロナ禍はやや下火になってきたようだが、第9波、第10波が襲ってくる恐れがある。それに、フードデリバリーの需要はまだまだ旺盛だ」
「勤務時間と服装は自由だ。1件あたり最大2310円もくれる時がある。いつでも、どこでも、好きなだけ働けばいい。簡単な登録だけで、高報酬で効率よく稼げる。支払いは月2回だ。副業も未経験者もOKだ。それに時間拘束は無い。 配達件数のノルマも無い。 履歴書の提出も無しだ」
「詳しいんだな? お前……」
「第6波のコロナ禍の時に俺はやっていた。デリバリーよりも居酒屋の方が俺の性格に向いていた。だから転職したってことだ」
パチンコ屋の店員になる前に十数種類のバイトや職業を経験してきた敬三は、3か月間ほどだったがピザの宅配のバイトを経験したことがある。金額は僅かであったが出前先の若い主婦から笑顔で、「お釣りは要らないわよ」とチップを貰って喜んだ記憶が蘇ってきた。
敬三は一気に缶ビールを飲み干すと、弾むようにして井上の誘い話に乗った。
「やってみるよ」
「デリバリーってのを……」
―――
閑静な高級住宅地の裏通りを、スポーツ用の自転車に乗ったデリバリー姿の男が颯爽と、風を切って走り去って行った。
裏通りといっても高級住宅地の道幅は広い。前方に運送業者の中型トラックが石垣塀の横に駐車されているだけでなく、配達先の門のチャイムを押す宅配業者の若い男の姿までもが前方に見えていた。
デリバリー姿の佐川は、一見して男女の区別が付かないほどに、全身が黒一色に統一されていた。
頭には黒いロードサイクルのヘルメットを着用し、顔はUVカットの偏光サングラスと黒の万能ヘッドウエアをマスク代わりにして首元まで伸ばして、塵や埃と紫外線から身を守っていた。服装は黒の長袖に黒のスエットズボンと黒いシューズ。背には黒のデリバリー用のディュックを背負って黒い手袋をしていると、佐川の姿は忍者が黒のヘルメットを被ってサングラスを装着し、黒いディュックを背負って走行しているようだった。
「ムカつくぜ」
「世の中、すっかり変わっちまったもんだ。支払い決済はデジタルばっかりだ。チップの一つもありゃしねー」
宅配を終えた敬三は、ブツクサと不平を言いながら、駐車しているトラックに近づいて行った。
宅配業者が商品を小脇に抱え、車まで戻って行く後ろ姿が見えた。
「留守だったのか?」
「大変だな。宅配便の人たちも……」
車に戻る宅配業者の男を追い越しながら、敬三は我が事のように感じ取った。
「留守にするのだったら送り主か引き受け側のどちらかが、曜日とか時間を指定してやれよ。それが親切ってもんだろが」
暫く走った後で敬三は路肩に自転車を止めて振り返り、宅配業者が届けようとした家の所在地を確認した。
「……ってことは、あの家は留守だってことの証明だ」
分りきったことを呟きながら、走り去って行く宅配業者のトラックを敬三は、ニヤリと不敵な笑いを浮かべながら見送った。
「蠢きやがるんだよなぁ」
「こういうことを知ってしまうと、俺の中で眠っていた『悪い虫』ってのがゴソゴソと……」
―――
デリバリーの恰好のままで留守だと思われた邸宅の前を、自転車でじっくりと下見しながら敬三は通り過ぎていった。
邸宅の正面の左側は高さが2㍍以上もあるモルタル仕上げの白い外壁塗装の塀が門構えになっていて、ステンレス製の頑丈なパイプが横に格子状態に組まれ、昇降するパイプがシャッター代わりになっていた。パイプの隙間から見える広い敷地内には2階建てのモダンな洋館が樹木に隠れて僅かに見えていた。
洋館の周辺には程よい高さの樹木が地植えで幾本にも植えられていて、ステンレス製の格子越しに見える広い駐車場には余裕のスペースを残して、2台の外車が並んで駐車されていた。
右側の正門は唐草模様風に透かし彫りにされた豪華な黒塗りの鉄扉で、防犯カメラには「若林」の表札が破目込められている正門と、シャッター代わりのステンレスのパイプ格子に向けて設置されていた。
―――
裏筋の通りには三方を大きな屋敷に囲まれた更地があり、敬三は更地の入り口近くに自転車を乗り入れると、隣りの家の高いブロック塀に沿って自転車を置いた。短いハンドルに取り付けてあったスマホを取り外すと、デリバリーの人間がこれから届ける場所をいかにも捜しているような素振りをしながら、時々画面に目をやり、留守宅に向かって歩き始めた。
「周辺を二度も廻って下調べをした。セキュリティ会社のステッカーはどこにも貼ってなく、敷地内に放し飼いにしている大型犬は一匹もいなかった。作動中だと思う監視カメラは玄関先に2台設置されているだけだった」
「俺は臆病者だ」
「安全第一で絶対に無理はしない。何事もこれはヤバイと感じたら直ぐに止める。だが、あの家は不用心にもホドってものがある。留守にするのは勝手だが、あれでは俺に『入って下さい』と依頼しているようなもんだ」
―――
正門の右側は左と同様の高さの塀が5㍍ほど続き、塀の角は裏筋に通じる道になっていた。防犯カメラに入らないようにと正門から離れて道路を通った敬三は、塀の角を素早く曲がって裏筋に出た。裏筋といっても車が通れるほどに道の幅は広く、長い塀の中ほどに一本の電柱が塀に沿うようして立っていた。
電柱を支えるために地中から太さの異なる3本のワイヤーロープが出ていて、ロープには通行人たちを保護するために黄色と黒の虎模様の塩化ビニール用具が頑丈に取り付けられていた。
黒いディュックを背負ってデリバリー姿のままの敬三は、太い方のロープに片足を掛け、塀の上の洋瓦に黒手袋を乗せると、ヒョイと身軽に洋瓦の上に立って敷地内を見た。
敷地内には小さな池や花壇などは設置されていず、下が「石畳」のスタンプコンクリートになっているのを確かめると、勢いよく「石畳」の上に飛び降りた。
偏光サングラスを外してポシェットの中に入れ、万能マスクを顎まで降ろし、改めて邸宅の外観を見直した敬三は、驚きの声をあげた。
「うっひょーッ!」
「こいつぁ、凄い豪邸だ」
2階のベランダは高く、敬三が立ち尽くしているところから見えている1階の総ての窓には、アルミ製の頑丈なサッシが取り付けられていた。
「これで監視カメラが2台しかない理由が分かった。しっかりしてンだろうな?内外部のセキュリティ対策も……」
「これじゃ盗みの『七つ道具』があったとしても、相当に手こずりそうな家だ」
「と言って、何もしねーで引き返すってのは超ムカつく。こうなりゃ腹いせだ。盆栽の枝の一本でも折ってやるぜ」
ブツクサと不平を言いながら邸宅に近づいていった敬三は、広い敷地内の光景に驚かされた。塀に沿ってところどころにプランターと花壇は置いてあったが、四季の花は何一つとして植えられていなく、元気よく生い茂っているはずの雑草さえも水枯れで、すでに枯れていたり、ヘタリと萎れていたのだった。
「何だよ? この殺風景な庭は……」
「盆栽どころか、花の一つも咲いてねーじゃねーか。手入れが面倒だったら通いのお手伝いでも雇えよ。カネは持ってんだから……」
敷地内を下調べするようにゆっくりと歩きながら建物の裏側に回った敬三は、勝手口のドアの前に立って呟いた。
「どうにもこうにも、手に負えねー建物だ」
「焼けクソの憂さ晴らしだ。接着剤でもあったら、たっぷりと鍵穴に流し込んでやっているのだが……」
何気なくドアのノブを回した敬三は驚いた。鍵は掛け忘れられていて、ノブは簡単に回った。
「マジか?」
敬三はニンマリとほくそ笑んだ。
「誰の所為でもありゃしねー」
「悔しかったら、鍵を掛け忘れたことを嘆くことだ」
ドアに背を向け後ろ手にノブを持った敬三は、周囲の様子をじっくりと伺いながら静かにドアを開けると、後ろ向きの態勢のままで素早く部屋の中に消えた。
―――
ドアを閉めると小さくパタンと音はしたが、敬三は余裕を持って振り返った。だが、その余裕は一瞬にして吹っ飛び、肝を冷やすほどに驚いた。
「ゲッ!」
部屋の間取りは広く20畳近くもあり、誰もいなかったハズのダイニングキッチンには楕円形のテーブルが中央に設置されていて、テーブルのイスには長い髪を亜麻色に染めた若い女がこちらに背を向けて座っていた。
敬三はシマッタとばかりに、思わず両の目を閉じた。
しかし、若く見えた女は一度として振り返ることも、悲鳴を上げて大騒ぎすることも無く、全く動く気配さえも見せようとはしなかった。
うっすらと目を開けた敬三は、静まり返った部屋の様子をじっくりと伺うと、背を向けている女は両肘をテーブルの上に置き、頬杖を付いているように見えた。
『……人形か?』
『マネキンだったら、悪趣味な家だ』
身動き一つしない女を気味悪がった敬三は、泥の付いた靴跡をフローリングに残しながら、静かに横に動いてキッチンへと向かった。
キッチンは驚くほどに、綺麗に片付けられていた。
『……不気味な家だ』
『生活感の一つもありゃしねー』
シンクの下の観音開きの扉を開けて凶器に代るような物を捜した敬三は、差し込み用の器具に差し込まれてあった3本の包丁の中から、一番大きな出刃包丁を取り出した。
『脅かすだけじゃねー』
『何かあったら、護身用にもなりそうだ』
出刃包丁を手にした敬三はキッチンからダイニングの様子を伺うと、女は相変わらずの姿勢のままだったが、僅かに身を動かすのが見えた。
『思った通りだ』
『マネキンじゃなかったぜ』
出刃包丁を手にしながらゆっくりと女に近づいた土足の敬三は、女の背後に立つと肩越しから目の前にグイと突き出した。
「静かにしろ!」
女は28才で名前は「若林早苗」。
早苗は驚きもせずにそのままの態勢で、目の前でキラリと光る出刃包丁を見ながら、投げやりな言葉で返事をした。
「だから、さあ」
「さっきから静かにしているじゃないの」
敬三は包丁のミネで早苗の手首を軽く2度叩き、ドスを効かせた声で聞いた。
「お前、一人か?」
「……」
「誰かいるのか?」
「……」
返事をしない早苗に業を煮やした敬三は、髪を後ろに引っ張りアゴを前に突き出させた。
「ぶっ殺されたいのかッ!」
後ろ髪を引かれて反り返った早苗は、薄笑いを浮かべながら答えた。
「……殺したら?」
脅しに全く動じること無く、逆に不敵な笑いを浮かべながら答えた早苗に敬三は、掴んでいた髪を呆気に取られた顔で手離した。
「バカか? こいつ……」
気が抜けてバカらしくなりこのまま引き返そうと思ったが、何の戦果も得ずにこのままスゴスゴと引き返すのは余りにも腹立たしくなった敬三は、大きな声で早苗をどやしつけた。
「こっちを向け!」
イスの向きを変えた早苗は、無言で敬三を見上げた。
早苗と目を合わせた敬三は、出刃包丁を目の間で左右に振りながら聞いた。
「怖くねーのか? これが……」
敬三の脅しに全く怯えることもなく、早苗は平然とした顔で答えた。
「別にィ……」
「なんだとォ?」
「お前、この俺が誰だか、分ってンのか!」
早苗は嘲笑しながら言った。
「どうせコソ泥か、空き巣狙いのつまんない男なンでしょ?」
図星を突かれ、今度は敬三の方が言葉を失くしてしまった。
「……」
早苗は胸を前に大きく突き出し、開き直ったような態度で敬三に迫った。
「さあー!」
「早く私を殺しなさいよ!」
思いも寄らぬ早苗の剣幕に驚いた敬三は、思わず包丁を引っ込めながら聞いた。
「お前、死にたいのか?」
早苗はニッコリと笑いながら答えた。
「……のようね」
敬三には、理解不能の女だった。
「こんなにいい家に住みながら、何が不満でそんなに死にたがるんだ?」
「ウフフフ……」
「ハハハ……」
「アッハハハ……」
含み笑いから大きな声で高笑いする早苗を、敬三は呆気に取られた顔で見つめていた。
「……何がおかしい?」
イスから立ち上がった早苗は、敬三の顔を覗き込むようにして聞いた。
「あなたが私の相談者?」
敬三を小馬鹿にしたように、早苗はフンと鼻でせせら笑った。
「笑わせないでよ。人間のクズが……」
形勢は一転にして主導権が早苗に移ると、押され気味になった敬三はただ苦笑しながら言い返すだけだった。
「言いたいことを言ってくれるじゃねーか」
敬三にグッと顔を近づけた早苗は、憎々し気に言った。
「コソ泥か空き巣かしれないけど、そんな男にこの私が相談するとでも思っているの?」
筋の通った早苗の意見と剣幕に圧倒された敬三は、咄嗟に言い返す言葉さえも失っていた。
「……」
敬三を査定するように、早苗はジッと顔を見つめた。
「あなた……」
「人殺しも出来ないような、優しい目をしているわね」
「……」
更に顔を敬三に近づけた早苗は、耳元で囁くようにして聞いた。
「どう?」
「私を殺せる?」
「……」
無言の敬三から離れた早苗は元のイスに座り、敬三を見上げながら意味有り気な薄笑いを投げかけた。
「人の作り方ってのは、一つしかないけど……」
「人の殺し方は無数にあるのよ」
媚びた目で誘惑するような早苗のその一言で敬三は、女は身体を条件に殺しの依頼をしてきたと察した。
「そうかい」
「そんなに死にたいのかい?」
右手に包丁を持っていた敬三は、左手を早苗の肩に置いて顔を近づけ、耳元で答えた。
「望みは叶えてやる」
「だが、死に急ぐことはない」
早苗の背後に周った敬三は、胸元が大きく開き胸の谷間が見えている上着から左の手を差し入れると、早苗は慌ても騒ぎもせずに敬三の行動の全てを受け入れたかのような態度で催促をした。
「手袋を取ったら?」
「おっと、俺としたことが……」
苦笑しながら早苗から離れた敬三は、右手に持っていた包丁をテーブルの上に置くと、素早く脱いだ黒いディュックと両手の手袋を包丁の横に置き、ヘルメット、インナーキャップ、万能マスク、ポシェットも取って包丁の横に置いた。
再度、早苗の背後に立った敬三は、両手を交差させるとゆっくりと胸元に手を差し入れてニンマリとほくそ笑んだ。
「ノーブラか?」
「大きくも無く、小さくも無く、俺好みのサイズだ」
敬三は満足げな表情で暫く乳房を弄ぶと、早苗の髪を掻き上げ耳元に口を近づけた。
「死んでいくのにカネは要らねー」
「どこだ? カネは……」
敬三の両手首を掴み取った早苗は、胸元から手を抜き取るとスッと立ち上がってテーブルに近づき、置いてあった出刃包丁の柄を握りしめた。
思わぬ早苗の行動に、敬三は目を吊り上げて驚いた。
「!」
クルリと振り返り、切っ先を敬三に向けた早苗は、ジワリと後ずさりする敬三に尋ねた。
「いくら欲しいの?」
「えッ?」
ホッと肩の力を抜き、敬三は安堵した。
「なんでぇ。驚かすんじゃねーよ」
慌てて早苗に近づいた敬三は、早苗から包丁を強引に奪い取ってテーブルの上に置くと、スマホを手にしていた早苗は、どこかに連絡しているように見えた。
「な、何やってンだ?」
「残高を調べているの」
「そんなの調べる必要はねー」
「キャッシュだったら、いくら有る?」
「三百万ほどかしら?」
「持って来い」
クルリと背を向けた早苗は、黙って別室に向かった。
「待て!」
立ち止まった早苗は、怪訝な顔で振り返った。
「?」
「お前は何をするか分らねー女だ」
「オレも行く」
「どうぞ」
―――
ダイニングキッチンから広い廊下を通って、早苗が押し開けたドアの向こうには、インティアはシンプルだが和モダンにコーディネートされて高級ホテルと見間違うほどの豪華な寝室になっていた。
「ス、スゲーッ!」
「ここで寝てンのか?」
「寝室ですからね」
早苗と一緒にダブルベッドに近づいた敬三は、早苗の両肩を掴んで背をベッドに向けさせると、ドンと突き落とすようにして倒した。
「カネはアトだ」
「先に服を脱げ」
両手を後ろに付いて半身を起こした早苗は、微笑みながら言った。
「私はパンティ」
「あなたは、その靴を脱ぐことね」
―――
後部荷台をグリーンのゴムシートで覆った軽トラックが、閑静な高級住宅地の裏通りを走っていると、助手席にいた中年の女が運転している中年の男に大きな声で言った。
「止めて!」
急ブレーキを踏んで車を止めると、男は怒った。
「バカヤローッ!」
「ビックリするじゃねーかッ!」
「バックして」
「何があった?」
「いいから、バックさせて」
男は女の求めるままに、車をバックさせた。
助手席の女は、更地の入り口近くで隣りの家のブロック塀に沿って置かれている敬三の自転車を指した。
「あれを見て」
「……乗り捨てのようだな?」
「……高級そうな自転車ね?」
「高いだろうな?」
「お父さん、器用だから、解体できるのでしょ?」
「できるとも」
女は助手席からキョロキョロと、車外の様子を伺った。
「更地で監視カメラも、防犯カメラも設置されてないようだし……」
「資材の砂利を降ろし終えたら、もう一度、ここを通らない?」
「……戻る?」
女の企みを咄嗟に判断した男は、ニヤリと含み笑いを浮かべながら言った。
「お主、悪じゃのう?」
「お父さんには、負けます」
「ダハッ!」
「ダハ、ハ、ハ、ハ……」
高笑いを終えた男は、勢いよく軽トラックを発車させた。
―――
下着を付けずに上半身を曝け出し、下半身をベッドの布団の中に隠した早苗は、細身の黒ズボンを履きかけているパンツ姿の敬三に怪訝な顔で聞いた。
「いつ、私を殺す気なの?」
「さっき俺の腕の中からで死んだじゃねーか」
「……腕の中?」
「そうさ」
「シヌ、シヌ、シヌと、大きなよがり声を上げていたぜ」
ズボンを履き終えた敬三は、死にたがる早苗の顔を改めて見つめ直した。
「何をそう死に急ぐ?」
「どんな理由があったのか知らねーが、人生をもう一度見直したらどうだ?」
化粧台に近づいた敬三は、ポシェットから既に入れてあったサングラスを取り出すと、代わりに帯封の付いた札束三つを次々と詰め込んでいった。
「こういうイイことだってあるんだぜ」
「あなたまで、私を裏切るつもり?」
「……あなたまで?」
敬三は小さく頷き、納得をした。
「そうかい」
「誰かに裏切られたのかい?」
「よくある話だ。だが、どんな事情があったのか知らねーが、裏切られたくらいで死んでいたら、命が幾つあっても足りねーよ」
早苗は怒鳴りつけるようにして叫んだ。
「望みは叶えてやると言ったじゃないの!」
「お金を渡したじゃないの!」
「約束通り、早く私を殺してよ!」
人差し指を一本立て、キザっぽく左右に振って、敬三は拒絶した。
「ノー、ノー、ノー」
「俺に人を殺させるなよ」
「どうしても死にたかったら、自分で自分を殺すことだ」
ドアに近づいた敬三は、クルリと振り返って言った。
「口では死を願っているようだが、あんたの身体は正直だ。生きる喜びってものをよく知っているぜ」
「悪いばかりが人生じゃねーぜ」
「さっきも言ったが、もう一度、人生を見つめ直したらどうだ?」
反論も抗議もせずに黙って聞いている早苗に言いたいことを言うと、勢いよくドアを閉めた敬三は、寝室から出ていった。
全裸でベッドから起き上がった早苗は、床に落ちていたパンティを拾い上げると、手にしたままで敬三が勢いよく閉めたドアを暫く無言で見つめていた。
「……」
―――
フリルの付いた清潔感のある白いブラウスに着替えた早苗は、広い廊下を通って別の部屋の前に立った。
ドアのノブを回して奥に押し開けると、室内はシックなインテリアにコーディネートされた書斎室だった。
デスクの前には革張りの豪華なイスが置かれていて、肘掛けの外側に腕の両をダラリと下げている人物の姿がそこにあった。
イスに近づいた真田が背もたれに手を置きクルリとこちらを向かせると、人相が判らないほどにガックリと項垂れた男が座っていた。
男の左胸には鹿角の柄のキャンプナイフが、根元近くまで突き刺さっていた。
男を見下す早苗の顔は無表情で、能面のように冷めていた。
「恋して……。愛したわ」
「殺して……。終わりね」
遠くを見るような表情で、立ち去る際に言った敬三の言葉を思い出した。
【悪いばかりが人生じゃねーぜ】
【さっきも言ったが、もう一度、人生を見つめ直したらどうだ?】
冷めていた早苗の表情はゆっくりと和らぎ、やがて、希望に満ちたように瞳が輝き始めた。
「そうね」
「どうしても自分で死ねない私。もう一度、生きてみようかしら?」
―――
キッチンのシンクの前で、早苗が立っていた。
早苗の手には、刃先に付着した血液が黒っぽく変色したキャンプナイフと、泡立つスポンジがあった。
「洗剤でいくら洗ってもルミノール反応は消えないそうだけど、だからといって血の付いたナイフをそのままにはしておけないですからね」
勢いよく流れ出る水道の水でナイフを洗い終わると、早苗はキラリと光る鋭い刃先をジッと見つめて呟いた。
「……戻しておくわ、書斎室に」
「すべてが終わった、その後で……」
開けたシンクの扉の収納具にナイフを差し入れた早苗は扉を閉じると、掛けてあったタオルハンガーからキッチンタオルを手にして、ダイニングのテーブルに近づいた。
キッチンタオルで出刃包丁の口金を掴むと、早苗はニンマリと微笑んだ。
「これで指紋は消えないと思う」
―――
オーダーメードされた豪華な壁面収納の本棚には、専門書らしき本がびっしりと綺麗に並び揃えられていた。
本棚の前に立っていた早苗は、辞書らしき分厚い本を取り出すと、イスに座りガックリと項垂れている男の元へ戻った。
男の左胸にはナイフに入れ替わって、すでに出刃包丁の半分くらいが刺さっていた。
「男の力でどこまで入るのかしら?」
「分かんないのだから、適当に入れておきましょうか」
早苗は本を横に振り払って出刃包丁の柄尻を勢いよくバンと横に叩きつけると、出刃包丁は根本近くまで男の胸に突き刺さった。
ヘッドホンを持ってきた早苗は男の頭に装着すると、冷めた視線で見下した。
「殺され方が不自然だけど、これ以上、どう小細工していいのか分からない」
「分っているのは、あなたを殺して、今は後悔していないことね」
「あなたを殺す理由なんて、いくら説明しても誰も分って貰えない」
早苗は、再度、ニンマリと笑みを浮かべた。
「分って貰えないのが、逆に好都合かも?」
「黙ってさえいれば、真相は『藪の中』なのだから……」
―――
ダイニングキッチンに戻ってきた早苗はテーブルの近くで立ち止まると、着ていたブラウスに手を掛け、強引に前に引っ張った。
バリッと音を立てて引き裂かれたブラウスが、フワリと足元に落ちていった。
ノーブラの早苗はパンティにも指を差し入れたが、思い止まった。
「怖くて、怖くて……」
「寝室まで連れてこられた私は、自分の方から脱いだことにすればいい」
不敵な早苗の笑いは止まらない。
「私の身体の中には、あの男のザーメンがたっぷりと残っている」
「……でも、お金は奪われて、残っていない」
早苗が目を落とした床には、泥の付いた敬三の靴跡がそこら中に残っていた。
「あの男に有利な点は、夫の死体のところまで靴跡が無いことくらいかしら?」
「これは私とあの男との人生ゲーム」
「どちらが勝つのか私は知らない」
スマホを手にした早苗は戸惑った。
「……こういう時は、グスンと涙ぐみながら通報するのかしら?」
「それとも、半狂乱のようになって通報すべきなのかしら?」
サッと形相を変えた早苗は、大きな声で叫んだ。
「た、大変です!」
「しゅ、主人が殺されました!」
―――
高級住宅地を更地に向かっていた敬三は立ち止まり、上機嫌な表情で青い空を仰いだ。
「雲一つない青空だ」
「スカッとしていて爽快だ。今の俺の気分と一緒で気持ちがいいぜ」
車の上の点滅灯を回転させ、けたたましくサイレン鳴らしながら、一台のパトカーが敬三の前を通り過ぎて行った。
「ン?」
走り去って行くパトカーを、敬三は怪訝な顔で見送った。
「……事件か?」
「事件とは関係なさそうな、高級住宅地だってのに……」
―――
敬三が更地に戻ってみると、置いてあった自転車が消えていた。
「マジかよ」
「盗まれてンじゃん?」
「警察に届け出てもいいが、とやかく詮索されるのはイヤだ」
敬三はニンマリとほくそ笑みながら、ポンと上からポシェットを叩いた。
「これだけの現ナマがあるんだ」
「くれてやるぜ。自転車の1台や2台くらい……」
敬三は両手を大きく上に上げて伸びをした。
「さあー」
「今夜は久し振りに、キャバクラにでも行くかーッ!」
立ち去って行く敬三の後方で、サイレンの音を消したパトカーが止まった。
助手席から飛び出した警官が敬三に向かって走り出すと、運転席から飛び出した警官が後に続いて敬三に向かって走り出した。
敬三の前方でもパトカーが急停止すると、警官たちが腰に携帯していた拳銃に手を当てがいながら、敬三に向かって走って行った。
前から警官たちが自分に向かって近づいて来ることを気にも止めない敬三は、鼻歌を歌いながらルンルン気分で歩いていた。
完