第十一話 神の落とし子①
フートがプロフェッサーディックの正式な弟子に成ってから更に数日の時が流れた。毎日が初めての連続だ。知らなかった事、分からない事、実はずっと昔から知っていた事、これから知っていきたい事が止めどなく押寄せてくる。
そしてそれらに日々出会わせてくれる師匠に対する尊敬の念も日に日に強く成っていく。だが同時に、一日の殆どを共にする中でどうしても無視する事の出来ない欠点も浮かび上がってきてしまった。
それは、ディックのスケジュール作成能力が余に壊滅的であるという事だ。
「おいフート、今何時だぁ?」
「えっとぉ………2時…です、かね………」
「……2時って、何日の2時や? 午前の2時? 午後の2時?」
「待ってて下さい今数えます。えっと飯を八回食べたから、2日は過ぎてて……あれ? オレ達何時から地下に潜ってましたっけ? 最後に上あがったの……何日前だっけ」
「お前ッ何ボケた事ぬかしとるんや。んなもん……んなもん……………………何日やっけ?」
二人は揃って頭を抱えた。必死に自分達が何時からこの地下空間に居るのかを思い出そうとするが、考えている間に何を考えていたのかを忘れてしまう始末。
頭にファミコンカセット並の容量さえ残っていない。疲労の限界であった。
実際には二人は今正に三徹目に突入しようとしていて、既に犯行予定日当日の夜明け前と成っている。
始めこそフートは極力地上で皆と一緒に食事を取り、上で眠る様にしていた。しかし仕事を覚えていく中でディックのやろうとしている事に要求される作業量の桁違いさに気付いてしまったのである。一流企業の十数人規模チームが半年掛けて行なうのと同等の作業量を彼はたった二人で、しかも残り一ヶ月でやろうとしていたのだ。
ディックは始めから睡眠時間や食事の時間など勘定に入れていない、其れ所か人間の体力に限界があるという事すら眼中に無かったのである。何の根拠も無い山勘で犯行予定日を指定していたのだ。
その事実を理解した以上、もう一日の三分の一も睡眠に使う訳にはいかなかった。少しずつ地下に籠る時間は延びていき、それに反比例して睡眠時間は減少していく。
地獄には覚えがあると自負していたフートであったが、まさかそれがぬるま湯であった等と知りたくはなかった。体内時計が狂うまで作業して、目に殆ど痣と区別出来ない隈が現われる程作業して、四度気絶しても作業して、それでも未だ目の前のデスクトップには書きかけのプログラムが映っているのである。
もう苦しいとか辛いとかも無くなり、感情の消えた顔で命を只管磨り減らし手を動かす。
「限界やな、一旦休憩しよか」
始めてディックの口から休憩という言葉が出た。
ここ数日間は確かに血反吐吐く程にキツい、だがフートを不満を抱いてはいなかった。その理由は、他ならぬ師匠が自分以上に働き続けていたからである。
ディックの年齢は五十近くで体力は間違い無くフートより劣っている筈。にも拘わらず彼はサイボーグなんじゃ無いかと思う程休まず、寝ず、食事も取らなかった。
一番印象的だったエピソードはフートが疲労の限界で気絶した時。意識が飛ぶ前と後でディックの姿勢が変わっておらず、一瞬飛んだだけだと思ったら実際には十時間の時が過ぎ去っていたという事があった。
その男が休憩しようと言ったのである。フートは何か歴史的瞬間に立ち会ったかの如き感慨を覚えた。
「エナジードリンクもコーヒーも切れましたね」
殆ど転げ落ちる様に椅子から降り、フラフラと冷蔵庫に近づき覗き込みながらフートが言った。中にはペットボトルが二つだけ。
「他には、ふあぁ……何かあるんか?」
「何故か炭酸水があります。誰ですかこんなOLみたいなもん買ったの」
「ああ、それ取ってくれワシのや。最近カフェインとかアルコール飲むと尿が止まらんからそれに変えとんねん」
「歳っすね」
「やかましいわッ」
フートは炭酸水を放り渡し、残ったもう一本を断りもなく開けて自分の喉へと流し込んだ。
炭酸が喉に突き刺さり僅かに眠気が退いていくのを感じる。急に深夜特有の妙に澄んだ感覚に襲われ、二人は揃って床に寝転ぶ。そして見上げた何時もと変わらない照明が今は何故か光が滲んで綺麗だった。
そしてその何か特別な空気感が、今まで足を引っ張るまいと必死で隠していた弱音の様な物をフートの口から零させる。
「何か、意外でした。もっと派手にボンボン発明品が出来てくるイメージだった」
「フフッ、それは残念やったのお。現実はそんな甘ないって事や。どんなキラキラした世界でも裏を見れば地道な作業の繰り返し。一歩進んだら一歩戻って、二歩進んだら四歩戻って、かと思えば一気に十歩進んで、ゴールまであと一歩の所で重大なミスを発見し振り出しに戻る。頭の中がいざ現実と成ってみると何処か納得がいかん、改良を加えれば加える程おかしな方向へ進んでいき終いには何作ってるのかすら分からんくなる。それが今や」
「勘弁して下さいよ…………一ヶ月半徹状態で作業して何も完成しませんでしたじゃ冗談で済まない、オレ泣きますからね」
大声で突っ込みたい所ではあったのだが平常時の半分も声量が出なかった。眠気は多少何とか成ったが、どうやら体力までは戻って来ないらしい。
「……師匠でも分かんない事ってあるんですね」
「当たり前や。今も昔も分かる事より分からん事の方が多い、この活動を始めた時からずっとな。ワシには師匠も居らんかったし大学で工学習った訳でもないから、始めはほんと手探りやったで」
「えッ、そうなんですか? てっきり凄い大学出てるもんだと勝手に思ってた」
「大学はそこそこの所出とるが経済系やったから、今の仕事には殆ど役に立たんな。ま、金の扱いなんて知っておいて腐る事無いんやけど」
「へえ~、其れで良く此処までの事が出来ましたね。何か秘密とかあるんですか」
その言葉を受けたディックは突然ギョッとした様に目を見開いた。そしてそれから大きく口端を吊り上げ、悪のカリスマを騙る時の様な嫌らしい笑みを浮べる。
「秘密も何も無い、単純にワシが天才だったからやッ!!」
それはドヤッという擬音が目に見えそうな程不遜な態度。
彼、プロフェッサーディックは天才かと問われれば普段彼にブーイングをぶつけている中心街の人々でも渋々首を縦に振るだろう。彼が非凡な頭脳を持っている事は否定のしようがない事実。
だが其れを誰より理解しているフートでさえイラッとせずには居られない見事なヴィランっぷりであった。
「……だが、強いてそれ以外の要素を挙げるなら」
唐突に声のトーンが変わった、まるで本当の道化の如くに。
そのテンションの乱高下は清々しさが行き過ぎて再び眠気に変わろうとしていたフートの意識を引き戻す。
「愛や、愛さえあればどんな苦しみも越えていける筈や。愛が自分の在処を示す、変え替えの無いただ一つの自分を証明してくれる筈。どんな真実も乗り越える事が出来る」
脳が余にも疲れ切っているせいか、ディックが何を言っているのかフートは全く理解する事が出来なかった。そもそも何となく感覚的に、彼の意識は自分に向いていない様な気がしたのだ。
今ディックの発した言葉は此処に居ない誰か、若しくは彼自身に向いている様に思えた。
「………のおフート」
「ん、何ですか?」
「お前、ニカが一体何故生まれたのか知りたいか?」
その耳を疑う様な発言にフートは電光石火で跳ね起き、そして向けた視線の先ではまるで命乞いでもするかの如きディックの顔が浮んでいた。




