第二十話 開いた扉②
其れはニカの人生で最も幸福であった瞬間が更新された日であった。
パパにニカという名前を付けて貰った日、ママに娘と呼んで貰えた日、ティナにニカ姉ちゃんと呼んで貰えた日……人間とは異なる記憶メモリを持つ彼女には全て音一つ色一つまで今でも鮮明に思い出す事が出来る。それでも、一週間の時が流れた今でもあの瞬間の記憶は他と異なる重みと共に胸の中心へ居座って動かないのだ。
あの時、自分が近づけたガトーショコラに彼がかぶりつき照れ混じりの笑顔を浮べた瞬間、あぁ自分はこの為に生まれてきたのだなという感慨が滾々と泉水の如く溢れ胸を埋めたのである。この光景さえ永遠に成るのなら、他の何を手放すのだって惜しくは無いと心の底から思ったのである。
そして、この幸せを自分が何としてでも守り抜くのだと彼の横顔を見ながら覚悟を新たにしたのだった。
だが、何故かその人生で最も幸福だった瞬間が生まれた日を境に彼は変わってしまったのだ。彼は表面上今でも楽しそうに日常を過ごしている。しかしその面の皮一枚を挟んだ下にある物が明らかこれまでと異なっているという事にニカだけが気付いていたのだ。
何故か自分と目を合わせてくれなく成った。何故か無理矢理目を合わせると作り物の笑みを浮べる様に成った。何故か私の視界の外側から物憂げな表情を向けて来る様に成った。何故か前みたく軽口を叩いてくれなく成った。何故か私が言った嫌味に張り合ってくれなく成った。何故か直ぐ隣に居る筈の彼の瞳が果てしなく遠い所を見ている様に感じ始めた。何故か………。何故か……………………。何故か……………
………。何故か……………………………………。何故か…………………………………
………………………………。何故か…………………………………………………………
………………………………………………………………………
ピロンッ
『……………』
家族皆が寝静まり自分たった一人となった夜の中で陸の見えない真っ暗な不安の海に揺られていたニカは、突然入ってきた警備センサーの通知にスリープモードの状態から覚醒する。この家ではあらゆるホームセキュリティを彼女が担当しており、玄関に設置していたセンサーが突如夜中に開かれた扉に反応したのだ。
そして、その扉を開け真夜中の外界へと出て行くフートの姿を防犯カメラが捉えていた。
『何処に行くんだろう………』
夜の散歩であろうか。若しくはコンビニか何かへ買い物に行くのだろうか。
子供じゃあるまいし別に彼が深夜に出歩く事自体何も問題はない、だがニカはフートへ何処へ行くのと訪ねたいという衝動に駆られたのである。彼の事は何だって知っておきたい、全てを理解して不安を無くしたい、そんな強い感情を覚えたのだ。
それでも結局、ニカはその衝動が外へ出る前に自らへブレーキを踏んだ。若しかすると最近フートが素っ気ないのは自分がベタベタし過ぎているのが原因かも知れない、そう考えたから。もう昔の様に彼を一々守りお節介を焼く必要も無くなったのだから此れからはもっと余裕を持てば良いと自分に言い聞かせたのである。
しかし、そんな彼女の思いはその後最も惨い方法で裏切られる事と成った。
『えッ、何で……フートが此処に?』
結局出て行ったきりフートがその夜の内に帰って来る事はなかった。そして丁度街の上空を横断しきった下弦の月が水平線の果てに消える頃、彼の姿が家から遠く離れた場所のセキュリティに引っ掛かったのである。
それはもう近付く事は二度と無いとフート自身が言っていた筈の地下秘密基地。もう片付けも行い、彼の作業スペースはすっかり空っぽにした筈のその場所へとフートは真夜中に現われたのである。
ニカは最初、自分がおかしく成ってついに幻を見始めたのだと思った。しかし秘密基地に設置された監視カメラの映像を何度も確認しそれが見間違え何かじゃないと突き付けられた後、今度は何かやむを得ない事情で彼がこの場所を訪れたのではないかと考え始める。フートが自分と結んでくれた約束を破る筈がないと信じたかったのだ。
だが事情が有るなら有るでそう言って欲しい。それで自分に出来る事があるのなら手を貸してあげたい。そう考えた彼女は要らぬお世話だと言われるかも知れないが、フートに何をしているのと訪ねる為秘密基地へ飛ぼうとした。
『なんで………………………フート? 何でなの??』
ニカの口からそう震え混じりの声が零れる。入れなかったのだ、地下室に存在する全てのコンピューターが彼女の侵入を弾いたのだ。
今までこんな事一度だって有りはしなかった。だから考えたくなくても考えてしまう、フートが全てのコンピューターに何か細工したのではと。自分を退ける事に特化したシステムを展開する事で此方からの干渉を故意に遮断したのではないかと。フートが今やろうとしているのは、自分に知られては困る様な事ではないのかと。
『恐いよ………………』
ニカはフートが自分から隠れてこんな真夜中に行なおうとしている事を知るのが恐くて仕方が無かった。
だがこのまま恐怖に目を塞ぎ蹲っていてもこの不安から逃れる事は永遠に出来ない。そう思った彼女は、あらゆる手段を躊躇無く行使し今フートが居る地下秘密基地への侵入経路を探す。そして30分程で彼女の超高性能な機械仕掛けの頭脳は自らの侵入を防ぐ為に展開されたシステムの脆弱性を発見し、其処を突き崩して秘密基地内部のコンピューターへと侵入する事に成功。
そして逃げも隠れもせず、フートがたった今使用しているPCの画面にニカは自らの姿を映し出したのだった。
『フート………何をしているの?』
「来たのか、ニカ」
突如画面に映し出されたニカの顔に、フートは何ら驚いた素振りを見せる事は無かった。その反応を見るに、きっとニカが自分の行動に気付きシステムを破って目の前に現われる事すらも彼の想定内だったのだろう。
ニカが覗き込みまた同時に覗き込まれたフートの双眸には、既に覚悟を決めてしまった者の揺るぎない光が浮んでいたのである。
そうして白刃で鍔迫り合いをする様な一瞬にも永遠にも思える沈黙が流れた後、フートは何の説明にも成っていないがそれだけで全てを理解させる言葉を発した。
「ニカ、お前のバイオスーツに対する干渉権限を削除した」




