世界一痩せているぽっちゃり令嬢
今にも破裂しそうなほどパンパンに膨れ上がった風船のような人間ばかりの世界に、僕は住んでいた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
僕には生まれて間もない頃の記憶が、ほんの僅かに残っている。
まるで球体のように膨らんだ女が、揺り籠に近付いてくる。その見た目があまりに恐ろしくて、僕は泣き喚いた。耳を塞ぎ、顔をしかめて、さらに一回り大きくなった彼女にヒステリックに怒鳴られた、その忌まわしい出来事だけを今でも鮮明に覚えている。
物心がつく頃には、彼らの奇妙で恐ろしくてバカバカしい見た目が、その心の内に溜め込んでいる『ストレス』を表しているのだと分かった。そして、他人の姿がこんな風に歪に見えているのは僕だけだということも理解した。
知り合いの夫人に世間話を装った自慢を聞かされる度に、仕事で父親の帰りが遅くなる度に、そして僕が食事を残したり片づけを忘れたり口答えをする度に、母親の体はどんどん怪物のように膨らんでいった。
家に帰った父に対して愚痴や小言をぶつけると、徐々に母の体は萎んでいったが、引き換えに今度は父の体が膨らんでいった。
二人とも限界まで膨らむと、耳をつんざくような破裂音とともに激しい口論が始まり、次第に空気が抜けたように少しずつ小さくなっていく。彼らはひたすらそれを何度も繰り返した。
何故だか自分の身体だけは膨らむことが無かった。これほどまでに息が詰まる日々の中でストレスを感じていないはずはない。きっと目に見えないだけなのだろう。鏡を覗くたびにボールのような自分の姿にうんざりせずにすんで、本当に良かったと思う。
学園に通い出す頃には、すっかり人づきあいが苦手になっていた。元々気弱な性格だったうえに、自分が話す内容次第で、相手の体がみるみるうちに膨らんでいってしまうのだからしょうがない。常におどおどとした情けない話し方をする僕を見て、両親は相変わらず威嚇するかのように膨張していた。
入学して初めて、僕と同じように普通の姿をした同級生を見つけて目が点になった。彼女の名前はルイズと言うらしい。男爵家の三女で、いつもニコニコとしている可愛らしい女の子だった。
「学園一の太っちょに声をお掛けになるなんて、さすが由緒ある公爵家の嫡男様はお優しいですね。でもお付き合いなさる相手は慎重にお選びになるほうがいいですよ。元平民の妾の子などと、変な噂でも流れてしまっては大変でしょう?」
名前も知らない女子生徒の極めて不愉快な言葉に堪え切れず言い返した。
「ぼ、僕が誰と付き合うかは、自分で決める!」
ふんっと鼻を鳴らして踵を返し去っていく彼女の体はハリセンボンのようになっていた。ルイズ以外の学園の生徒達も、程度は違えど僕の両親と同様にストレスを抱えているようだった。一部の生徒達はその鬱憤の捌け口にルイズのような弱い立場の人間を選んでいた。
だからこそ、僕は彼女がありのままの姿でいられることが不思議で仕方なかった。
「き、君はあんな風に馬鹿にされて、悔しくなったり腹が立ったりしないの?」
「限りある人生なのですから、辛いことや苦しいことや腹が立つことよりも、出来るだけ楽しいことを考えていたいのです」
そう言って、いつもと同じように微笑むルイズ。内心誰だって彼女と同じように思っているだろう。あるいは口で同じようなセリフを吐くだけの人間なら他にもいるのかもしれない。
でもそれを実行できる人間は、少なくとも僕の周りには彼女しかいない。そんな彼女の傍にいるだけで、彼女の姿が目に映るだけで、自然と僕の心は安らかになった。
そして僕は当たり前のように恋に落ちた。彼女も、はにかみながら僕の気持ちにこたえてくれた。
両親は当初、ルイズとの結婚に猛反対したが、僕は彼女と添い遂げるためならば手段を選ばなかった。彼らの秘密を暴くことなんて、心の動きが手に取るように分かる僕には造作のないことだった。
血の繋がった実の子供に脅迫されて、彼らは今にもパンと破けてしまいそうなくらい膨らんで僕を罵ったけれど、その頃にはゴムまりのような姿で迫られても全く怯えることはなくなっていた。
彼らの外見に『恐ろしさ』よりも『悲しみ』や『憐み』を感じるようになっていたからかもしれない。
そうして僕とルイズはめでたく夫婦になった。
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彼女に怖くてずっと尋ねることの出来なかった質問を、勇気を出して口に出した。
「……ねえ、君は、どうして僕なんかと結婚してくれたんだい?」
「全くあなたったら、今更そんなことを聞くのですか? あなたがこの世界で一番、綺麗な色をしていらっしゃったからですよ」
そう答えた彼女は、出会った頃と全く変わらない優しい微笑みを、目の前の僕に向けた。
「そうか……ああ、本当に良かった」
彼女の言葉を聞いて、心の底からほっとした。僕にとって彼女が唯一無二のかけがえのない存在だったように、彼女にとっても僕が特別なパートナーでいられたことが嬉しかった。
「……大好きな君と一緒に過ごすことができて、僕は最高に幸せだったよ。今まで本当にありがとう。ちょっとだけ先に行って待っているね」
そう言い残した僕は、そっと重い瞼を閉じて、この世界と彼女に別れを告げた。