残りの夏 ~デリヘル嬢は美しい人妻で、哀しみの淵を見せてくれた~
残りの夏
瀧乃 健
1
「その角を曲がったところで止めてください」
女の声に、車は緩やかに減速して停まった。周囲は、静かな住宅地だった。目を上げると、すぐ近くにセブンイレブンの看板が見えた。車通りはさほど多くはない。人の往来は、それなりにあった。よく知る私鉄沿線の駅が近いのだと思うが、この辺りには明るくない憲一には、どのあたりなのか見当がつかなかった。駅からの方角なのか、電車の走り去る音が聞こえた。人の波が流れてくる。
夏が終わりかけていた。陽が落ちて間もない時刻で、まだかすかに明かりの残る西の空に、ぼんやりと赤味が滲んでいた。
タクシーのドアが開くと、女はシートから滑り降りた。きれいそろえた脚が長く、肌色のストッキングが室内灯の光で白かった。
「送ってくれてありがとう、また呼んでくれるでしょう?」
女の言葉にうなづくと、憲一は小さく手を振った。女のつけたコロンの香りが、外から流れ込む空気に乗って、柔らかく届いた。柔らかく熟れた果実のような香りだと、いつも憲一は思う。
この匂いには、想像力を掻きたてられる。それが何なのか、はっきりと像を結ぶわけではないが、どこか猥雑な、女の隠されたものを象徴するようだった。
コンビニの方角に歩いて行く女の姿を見送りながら、憲一は運転手に行先を告げた。ここからは、道路が空いていれば30分もかからない。タクシーは、ゆっくりとUターンして、来た道と反対方向に走り出した。
「ちょっと止めてください」
憲一は思いついたように言った。
「ちょっとあのコンビニで買い物したいので、待っていてもらえますか」
運転手がバックミラー越しに憲一を見た。胡散臭い客だという目を見せたが、すぐに笑顔をつくった。
「わかりました。メーターは止めておきます」
「悪いね」
まだ、夜の浅い空気は、肌に柔らかかった。かすかに風があり、まだらに掛かる上空の雲が、西から東へと流れていた。耳を澄ませると、どこからか虫の音が聞こえていた。
憲一は、タクシーを降りると、コンビニの方向へ、道路を渡った。住宅街の中にぽつりと建ち、駐車場もない店舗だった。店に近づくと、その脇に細い道があった。女が消えて行ったのはその奥だった。
憲一は、小走りに細い道を入った。薄暗い道に、外灯はまばらだった。道に沿うようにして、構えの大きな一軒家が並んでいる。その一帯は、表通りから奥まったところにあり、歩く人の姿は少なかった。車一台が通れる程度の道路は、まっすぐに伸び、すこし先の角を曲がる女の姿があった。
憲一は、女が曲がったところまで走り寄り、ゆっくりと目を上げた。細くなった道の奥から、静かに風が吹いていた。果たして、数件先の家の門を開けている女が見えた。女はすぐに門の中に消えた。
道路に面した塀が高く遮り、家の中の様子はわからない。コンクリートで厳めしく構えられた門は、ビルのようにも思えた。ガレージには、ずいぶん珍しい旧式の外車が停まっていた。憲一は、表札の文字だけを確かめると、タクシーに戻った。表札には、戸倉と書かれていた。女が言っていた名前が本当だとすると、彼女は戸倉美里ということだろうか。
女と会うのは、この日で4度目だった。
三十代の半ばくらいだろうか。もっと上かもしれない。年齢を聞いたことはなかった。聞けば教えてくれるだろうが、あえて聞かなかった。
2か月ほど前に、川崎の安ホテルで女を呼んだのが最初だった。その日は、立て続いた深夜残業のせいで、疲れがたまっていた。プロジェクトが一段落して、午後から仕事をさぼってひとりで安眠しようと思った。しかし、部屋に入るとなんとなく目が冴えてしまい、たまに利用する「R」に電話をかけた。いわゆる出張風俗だ。ホテルや自宅に女がやってきて、サービスをしてくれる。時間は60分から宿泊までさまざまで、本番以外は何でもやらせてくれる。
その店は、これまでにも何度か使ったことがあった。会員制で、身元のはっきりとした客しか受けなかった。事前登録がいるのが煩雑だが、その方がこちらも安心だった。いつも指名している女の名前を告げたが、あいにく出勤していないと言われた。代わりに特別にいい子を派遣すると言われた。
そのときに派遣されたのが、彼女だった。
部屋に入ってきた美里を見て、憲一は息を呑んだ。若いとは言えないが、きれいな女だった。女には、身づくろいを怠らずに生きてきた女たちが持つ、特有の染みついたような美しさがあった。それは、細やかな美しさ、と形容しても良い気がした。切れ長の黒目が大きくて、頬から顎のあたりにかけてはゆったりとしていて、言い様のない美しさを持っていた。不幸な女とも、スレた女とも、明らかに違っていた。普通に主婦をやっているようでもあり、一見どこにでもいそうに見えるのだけれど、これまでに出会ったどの女とも違っていた。
「どうしたの?」
憲一の反応に、女は首を傾げた。女の微笑を見たのも、そのときが初めてだった。笑うと、目元の皺がくっきりと浮き上がったが、いやらしくはなかった。塗り立てのファウンデーションが、白く光っていた。
「どこかで、会ったかしら?」
憲一が首を振ると、女は安心したように頷いた。
「シャワー浴びますか?」
「済ませたから」
そう言って女を引き寄せると、小柄な女の身体はいとも簡単に崩れてきた。コロンの香りがあった。女らしい匂いだった。肉厚の唇を吸うと、女はかるく身じろぎをしたが、抵抗はしなかった。当たり前のことなのに、そのことが嬉しかった。
以前に、こういう風俗で働いている女の動機についてアンケートを取ったというウェブの記事を読んだことがある。働くきっかけは、人によってさまざまらしい。一番は、生活費を稼ぐためだ。なかには、病気での出費や夫の失業やローン返済のためという女もいる。それはわかる気がした。そうでない女の中には、ただ贅沢をしたい、という女もいれば、暇つぶしという女もいるらしかった。そして、セックスそのものが好きだという女も少なくないと書かれてあった。
その記事が、どれほどの信ぴょう性を持っているのか、憲一にはわからない。しかし、街中に溢れたチラシやネット広告を見れば、そういう類の店が星の数ほどあることは明らかだった。女の数も無限にいるということだった。
美里と初めて会ったとき、この女はどれに当たるのだろうかと、憲一は考えた。お金が目的には違いないだろうが、そればかりではないという気もした。浮気している夫への腹いせ、という女もいるらしいから、あるいはその類かもしれない。
美里には、想像力を掻きたてるものがあった。
面長のふっくらとした顔の奥に、いくつもの顔があるように感じないではいられない。それが何故なのか、はっきりとはわからなかった。初めて会ったとき、憲一はそれを感じたのだが、2回、3回と会ったときにも、同じことを感じた。もう一度会ったら、また同じことを感じるだろうかと思いながら会い、結果は同じだった。
しかし、この先何度も会うことを繰り返していくうちに、この感覚は変わっていくものだろうか。
あと10回、20回と会うことを重ねていったときに、美里との関係はどうなっていくのだろう。憲一は、自分の心が美里に向かって引き寄せられていくのをはっきりと意識しながら、美里の心が見えないことがもどかしかった。
次に会うときには店を通さずに誘ってみようと思った。彼女がどういう反応をするかは、わからない。店を通さずに稼げたら、実入りが増えるから喜ぶかもしれない。反対に、そういうことを煩雑に思うかもしれない。もしかしたら、そういうことをきっかけに、美里との関係が変わることもあるかもしれない。憲一は、ぼんやりとそんなことを考えた。
2
店の名前は、「R」といった。
川崎駅にほど近い繁華街の雑居ビルの中に、事務所はあった。古いビルで、6階建てだった。事務所は2階にあったが、店の女たちが詰める待機所は3階にある。小さなエレベータがひとつあるきりで、他人と乗り合わすのが嫌だったから、美里はいつも階段を使った。
店に出るのは、週に2日か3日だった。曜日を固定した方が、リピート客がつきやすいと言われて、店にでるのは火曜日と木曜日にしていた。それ以外の日でも、指名の予約が入れば、店に出ることもあった。
「R」に出ると、雨宮塔子と居合わすことが多かった。塔子も、同じ曜日で働いているらしかった。塔子は、すらりとして手脚の長い女だった。とくに目を引くのが、その肌の白さだった。塔子の肌は、透き通るようで、それはどこか病的なほどだった。
塔子の肌の、キャミソールの襟もとに漂うような白さを見ていると、どれくらい柔らかいのかと想像しないではいられなかった。美里の肌も白く、柔らかい。そう言ってくれる男もいた。しかし、塔子の肌とは、質が違っていた。
こういう肌を持った人を知っていると、美里は思った。その人は、いつも黒っぽい洋服を身につけていて、そのせいもあって肌の白さが際立った。もの静かで、無口な人だったが、美里は好きだった。年上の女に憧れる少女にありがちな体験をした、初めてのことだった。その人は、母の妹にあたる人だった。
その日、女たちの待機所になっている雑居ビルの一室には、5人ほどの女がいた。待機所はたいていどこもそうなのだろう。20平米ほどの殺風景な一室に絨毯が敷かれ、安っぽいビニール張りのソファーとテーブルがあった。壁際にはテレビがあり、読み古した雑誌やコミックが散乱している。誰かが食べたコンビニ弁当のかすがあったりもするが、それを片づけるものもいなかった。あまり、清潔感のある空間ではなかった。
女たちは、めいめいにスマホをいじったり、電話をしたり、中には熱心に勉強をしている女もいた。女が多いときには、ソファーに座りきれず、床にうずくまっている女もいた。美里よりも若い女も中にはいたが、同じくらいか、もっと年増の女もいた。明らかに四十を超えた女もいたが、彼女たちは三十代ということでプロフィールを出していた。本当の年齢を言っている女は、ほとんどいない。
店のしくみは至ってシンプルだった。客は、2階にある店の事務所に来て、女たちの写真とプロフィールが載ったアルバムを見せられる。その日に出勤している女には、そうとわかるように印があり、彼女たちならすぐに連れ出せた。そうでない女でも、日時が合えば指名することができる。
女を指名したら、ホテルに行って女を待ってもいいし、どこかのレストランやバーで待ち合わせをすることもできた。しかし、たいていの客は雑居ビルから数分のところにあるラブホテルを店が紹介してくれるので、そこで女を待った。
このしくみはとてもよくできていると、美里は思った。男にしてみたら、ケバケバしい風俗店に入る抵抗感がないし、女にしても、外で普通に異性と会うのと変わらない気軽さがあった。
「尾上さんの指名を受けているの?」
その日、塔子にいきなり言われて、美里は眉をしかめた。
お客のことを口にすることはお互いに滅多になかった。たとえ自分のお客が別の女に鞍替えしても、黙っているのが普通だったが、塔子の言い方は率直だった。
「わたしがいなかったときに、美里さんに当たってから、ずっとあなたを指名するようになってしまったのね」
塔子は、控えめだが口惜しそうに言った。
「そうだったかしら」
美里は首をかしげた。塔子の客を横取りしたという感覚はなかった。たしかに、尾上という客はずっと塔子を指名していたようだったが、美里が派遣されてからは、彼女が続けて指名されるようになった。若い塔子から、年増の美里に鞍替えした格好だったが、こういうことはよくあることだった。
「あら塔子ちゃん、あんなおじさんがタイプだったの?」
美里の言葉に、塔子は俯いた。
「わたし、あの人結構好きだった。なんというか、疲れているときのやつれた感じが色っぽくて」
塔子が懐かしいものを思い出すように言うのを聞きながら、たしかにあの男には色気があると思った。
「わたしはべつに、横取りしたつもりなんてないのよ」
「それはわかっている。わたしも、そういうつもりで言ったわけではないのよ」
塔子は、長い睫を伏せるようにした。何か照れているのだろうか。
「またわたしを指名してきたら、塔子さんが寂しがっていると伝えておこうかしら」
そう言うと、塔子は嬉しそうに微笑んだ。ほんとうにそうするかなんて、わからなかったが、塔子がそれで喜ぶなら、そうしてもいいと思った。塔子のことを、取り立てて親しい間柄だと思ったことはない。ただ、彼女の持っているどこか人をほっとさせる雰囲気が、美里は嫌いではなかった。
そのとき、女たちが控えている部屋のドアが開いて、男が顔をのぞかせた。
「塔子さん、ご指名です」
塔子に声を掛けたのは、スタッフの山本だった。
「リピートのお客さま?」
「初めての方です」
山本は、明るい声で答えた。歳は三十になったくらいだろうか。ずいぶん小柄な男で、後姿だけを見たら、中学生にも見間違われかねなかった。黒縁のメガネの奥に、黒目が大きかった。人懐っこい、愛嬌のある顔をしていた。
「どんな人?」
「若いお客さんです。学生かもしれません」
山本は、笑顔で言った。
「すぐ行くわ」
塔子が、重そうに顔を上げると、長い前髪が顔に降り掛かった。
「塔子さん、ストッキングのオプション希望です」
山本はそう言うと、小さな包みを塔子に手渡した。
「わかったわ」
塔子はそう言うと、長い脚を支えるようにして、立ち上がった。仔馬が、立ち上がるときにするような仕草だった。
ストッキングをはいたままサービスを受けたがる客は多い。ローションで濡らした太腿できつく男性を挟みこむと、大抵の男は喜んでくれる。女としては、口や手を使ったサービスよりも、その方が楽だった。
美里は、粘り気のあるローションを滴るように塗りつけて、男に股間を押し付けるときのことを想像した。何度やっても、慣れることはなかったが、最初から不思議と嫌悪感はなかった。男の身体の上で、ゆっくりと泳ぐようにして身体を滑らせると、自分の肌と、男たちの肌との境目がなくなって、柔らかい肉の感触だけが残る。それはどこか残酷で、ひりひりとするような感覚だった。ローションは無臭だが、人の肌には匂いがある。女の匂いと男の匂いが溶け合って、息苦しくむせ返るような感覚が、なぜか美里は嫌いではなかった。
尾上憲一から美里に指名が入ったのは、塔子が出て行ったからすぐのことだった。時計を見ると、昼さがりの一時になろうという時間だった。
待機所には窓がない。外が晴れているのか、雨が降っているのかわからなかった。朝、家を出てくるときには、薄曇りの空から、小粒の雨が降り始めていた。蒸し暑い日になりそうだと思ったのを憶えている。
この時間に呼ばれるということは、夕方までになるだろう。尾上と過ごす午後の時間を思って、美里は自然と気持ちが明るくなってきた。相手によって、気分が変わるのも、女の性だと思った。ときどき、感情移入できるときもある。尾上憲一のときもそうだった。初めて会ったとき、誰かに似ていると思った。感情移入できたのは、そのせいかもしれなかった。しかし、誰に似ているのか、どうしても思い出せなかった。
尾上は、物腰は柔らかいが、どこか不器用なところがあった。たいていの客は、女を玩具のように扱うか、甘ったるく恋人のように扱うことが多かったが、憲一はそのどちらでもなかった。初めて会ったお見合いの相手のように、どこかぎこちなかった。サービスの最中に、疲れないか、と美里を気遣うこともあった。その言い方が、美里には新鮮だった。
彫りの深い整った顔立ちも、嫌いではなかった。年の取り方が素敵だった。若くなくても、いい男の顔を眺めているのは気持ちの良いものだった。美里から見ても、ずいぶん年が離れているが、気にならなかった。
3
待ち合わせたのは、ビジネスホテルのロビーだった。暦では十月になっていたが、張り付くような暑さの残る午後だった。
その日の憲一は、珍しくラフな格好をしていた。ジーンズにポロシャツという恰好で、小型のスーツケースを携えていた。
「どちらか、お出かけ?」
美里は、憲一の姿を見るなり、明るく言った。
「海外出張で一週間ほどマレーシアに行ってきた」
憲一の笑顔は、眩しいようだった。日焼けした顔が、精悍に見えた。
「お昼は、もう?」
美里は、首を振った。
「昼間は、あまり食べにないの。でも、お付き合いならします」
「天ぷらでも、食べに行こうか。近くにいいところがある」
美里は、憲一がどんなつもりで自分を指名してくれるのかと考えた。東南アジアなら、若い女と遊べたのに違いない。日本食と、年増女に懐かしさを覚えたということだろうか。
美里は憲一についてホテルのロビーを出た。食事をしてからホテルに戻ってくると、時間延長になる。憲一は気にしないかもしれないが、高額になるのは申し訳なかった。店には適当に電話を入れて、上がったことにすればいいと思った。
キャスターのついたスーツケースを引く憲一の後ろ姿を眺めながら、この人は思っていたよりも背が高いと思った。足元を見ると、ネイビーのローファーはよく履き慣らされていて、ジーンズも脚にフッィトしていた。
この人は、幾つくらいだろうかと、美里は目算した。五十にはなっていないだろうが、それでも美里よりはひと回りは年上だろう。美里は、今年で三十八になる。もう若くはない年齢だった。いつまでもこんなことをしていられるだろうかと、考えることもあった。しかし、店には美里よりも年長の女が何人もいる。四十代をあえて指定してくる客も少なくない。
天ぷらを食べさせてくれる店は、静かな裏通りにあった。古い町屋を改修したような造りになっていて、入口よりも奥が深かった。目だった看板もなく、知らなければ通り過ぎてしまいそうだった。
ランチのピークは過ぎて、客は少なかった。カウンターに座り、季節素材のコースを頼んだ。鱚があり、銀杏があった。銀杏は、苦みの中に甘みがあり、絶品だった。
ビールを飲み、日本酒をもらった。北陸の地酒は、すっきりとして飲みやすかった。こんふうに、ゆっくりと堪能するように食事をしたのは、いつ以来だろうかと、美里は思った。
ホテルに戻ると、シャワーを浴びてベッドに入った。憲一の身体は熱かった。熱をもった病人の身体のようだった。こんなに熱かっただろうかと、美里は思った。
「長く留守にしていたのに、家に帰らなくていいの?」
「君に会いたくなってしまった」
「まるで、愛人に言うような言葉ね」
言ってから美里は、そういう発想をする自分の心が、どこか愛らしいと思った。
「でもあなた、他にも愛人がいるのでしょう?」
「まさか」
男は、とぼけたような顔をした。
きっと他に女がいるに違いないと思ったが、そのことはなんとも思わない。そういう男がいるのはわかる。奥さんがいて、愛人もいて、それでもこういう風俗にくる男は、やはり何かに満たされていないのだろう。欲張りなのか、女に気を遣い過ぎなのか、あるいは女たちには見せられない本当の自分を持て余しているのか。そういう男に限って、一皮むけたら豹変する。美里は、男のそういう顔を見るのが、嫌いではなかった。
しかし、憲一はまだ、そういう顔を美里に見せてはいない。見せていないのか、いま見えているのが男のすべてなのか、美里にはわからない。これがこの人のすべてであったとしても、美里は充分に楽しいと思った。
「塔子さんのこと、覚えている?」
美里は、思い出したように言った。
「前に何度か、指名したでしょう」
「ああ」
憲一は、すぐに思いついたように言った。
「彼女が、あなたのことを懐かしがっていたわ」
憲一の目が、かすかに動いた。塔子のことを思い出している目だったが、猥雑なものがそこにはなかった。
「彼女のこと、嫌いじゃないでしょう?」
「まあね」
憲一は言った。
「やっばり」
「どういうこと?」
「塔子ちゃん、あなたのことが満更ではないみたい。ときどき指名してあげたら?」
憲一は、驚いたように、美里を見た。
「きみは、それでいいの?」
「だって、わたしも毎日店に出ているわけではないもの」
そう答えると、憲一はすこしばかり失望したような顔をつくった。その表情が、わかり易かった。
この男から、と美里は思った。これまでに4度指名をもらった。初めてのときは、男がずいぶんと緊張しているように見えた。遊び慣れている様子ではあったが、こういうことには慣れてなさそうだった。清潔感があり、美里の好みのタイプだったが、男はなかなか立たずに、ずいぶんと時間がかかって、苦労した。
「すまない、相手のことをよく知ってからでないと、立たないんだ」
男は、恥かしそうに言った。その言い方が、なんとも愛らしくて、美里は瞬間、男のことが好きになったと錯覚したくらいだった。ところが、2度目に会ったときには全然違っていた。美里のサービスにすぐに反応して、終わってしまうのも早かった。
美里にしてみたら、憲一だけに特別なサービスをしたつもりはなかった。憲一はたしかに美里の女心をくすぐるようなタイプだったし、他の客と比べたら気分は盛り上がるけれど、そこに何か期待しているわけではない。誰かと恋愛をしたいとか、誰かの愛人になって可愛がられたいという願望があるわけでもない。かといって、ただストレスを発散するという理由だけで「R」で働いているわけでもなかった。自分でも、そこのところはよくわからなかった。ただひとつ言えることがあるとすれば、これまでの人生があまりにも偏っていたから、すこし中和したいという欲求があるのかもしれなかった。
その日の憲一は、いつもより饒舌だった。天ぷらを食べながら呑んだ日本酒がきいているのかもしれなかった。
「いちど聞きたかったんだが、どうしてこの仕事を?」
憲一の目には、好奇の色があった。
「深い理由なんて、ないわ」
「お金か」
「それもあるわ」
「会員登録したときに見せられた規約では、女の子と本番はやったらいけないって言われたけれど、実際はみんなやっているって、ほんとうなの?」
美里は、眉根を寄せるようにして憲一を見た。
「あなたがいちばんよく知っているでしょう?」
「人によると思うが」
「そうよ」
「でも、僕とは、初めてのときからやらしてくれた」
「何が言いたいの?」
美里は、冷たく憲一のことを見つめた。この人に思い違いをさせてはいけないと思った。
「あなただからって、言わせたいの?」
「そういうわけでは、・・・」
憲一は、言葉を詰まらせた。
「わたしがスケベなだけよ。わたしたちみたいな女に、ロマンチックなことを期待しないで」
美里は、睨むような目を憲一に向けた。
情に流されたら、いずれ自分が哀しい思いをするのに決まっていた。女とは、そういうものだと、教わったことがある。肌の白い叔母はそのとき、哀しそうに美里に語ったのを憶えている。
「今日は、ずいぶんと冷淡だね」
憲一が、不満そうに言うのが、美里にはすこしおかしかった。
「それは、あなたがわたしを甘やかすからいけないのよ」
美里はそう言って、憲一の困ったような顔を見つめた。そして、やはりこの顔が、わたしは好きだと思った。
ホテルを出たときには、空は暗くなっていた。肌を撫でる風には、まだかすかに熱がこもり、そこに夜の空気が混じっていた。見上げると、西の空に月があった。夜ごと月の輝きが増していく季節だった。
「もう仕事はあがりだろう。タクシーで送っていくよ」
憲一が言った。
「いいのよ。今日は電車で帰るわ」
美里は、きっぱりとそう言うと、駅の方角に向かって歩き始めた。憲一が、自分の背中を見つめているのが、美里には見えるようだった。
そのとき、美里はあることに思いついた。憲一が誰かに似ていると思ったのは、彼の待つホテルに初めて行ったときだったが、誰と似ていると思ったのか、ようやく思い出した。
結婚する前、美里には交際している男がいた。勤めていた医薬品会社の同僚だった。彼も、憲一のように背が高くて、肩幅の広い男だった。ときどき、疲れたような、憂いのある表情を見せるところも似ていた。二年ほど付き合ったあるとき、彼から結婚を申し込まれた。美里は迷った。結婚相手としては、申し分がなかった。しかし、美里には、他に付き合っている男がいた。その男は美里よりも二十歳以上も年上で、家庭のある人だった。美里は、悩んだ末に、そのことを彼に告げた。
彼は、美里の告白を真摯に受け止めてはくれたが、かなりのショックを受けたようだった。当然のことだった。美里は、その人とは別れるから、時間をくれないかと言った。彼は、黙ったまま返事をしなかった。苦しそうに顔をゆがめるだけだった。それきり美里の前から姿を消した。
あのとき、もし彼に本当のことを告白しなければ、美里の人生は全然違うものになっていたかもしれない。黙って結婚したらいいのよ、と言ってくれる友人もいた。そう思って、悔いたこともあった。しかし、美里にはできなかった。もう、十年以上も前のことだった。
4
風の強い日だった。すっかり冷たくなった空気は、その中に氷の粒が詰まっているようだった。街路の木々は、はっきりとそれとわかるほど、葉の色を変え始めていた。桜やハナミズキの葉は赤みをおびていた。それぞれの葉は、遠目にも見分けられるほどに、葉脈をくっきりと浮き立たせて、心もとなく風に揺れながらも、落ちるようで落ちなかった。
週末になると、憲一はいつも庭に出た。大きな庭ではなかったが、花木を並べて楽しむのには、ちょうどいい広さだった。玄関わきから庭にかけて、荒削りの大谷石を並べて小路をつくってある。数年前にホームセンターで見つけたのを気に入って買ってきたものだ。石の表面のざらついた感じが良かった。最初は、表面に小さな気泡のようなものがあったが、やがて青みがかって変色し、色が滲みたように広がった。
憲一は、とりわけその石の表情が好きだった。かすかな苔が表面に張り付き、緑青の染みのようになっていた。竹ぼうきで掃くと、乾いた音がした。その音と一緒に、いろいろなものが掻きだされていく気がした。
庭には、10種類ほどの花木を植えてあった。東側の角では、水仙が花をつけていた。背丈の揃った小振りの水仙で、20株ほどが群生していた。
妻は勤めに出ていた。娘も学校のクラブ活動で家にはいなかった。憲一は、ひとりで食事を済ませると、昼過ぎに、車を出した。
はっきりとした当てがあるわけではなかったが、自然にその方角にハンドルを向けていた。やがて、見覚えのある街並みが現れ、道路の角にセブンイレブンの看板が見えてきた。
細い道の入り口付近に車を停めると、エンジンを切った。周囲は閑静だった。休日のせいか、人の往来はほとんどない。子供の姿もなかった。この住宅地には、どういう人たちが住んでいるのだろうか。ひとつひとつの家の敷地は大きく、それぞれが、意匠を凝らした外観の邸宅だった。新しい家もなかにはあったが、どちらかというと古い構えの家が多かった。
美里が消えていった家も、古い造りだった。あのときは、暗くてよくわからなかったが、和洋折衷の家らしく、道路に面した門構えはコンクリートのしっかりとしたつくりで、塀越しに見える建物は、瓦葺の数寄屋づくりのようだった。
運転席に座りながら、憲一はその家を眺めた。どれくらいそこにいただろうか。その間に、数台の自動車が通っただけだった。そのとき、不意に門が開いて、女が出てきた。美里だった。遠目にもすぐにわかった。
美里は、黒っぽいコートを羽織っていた。コートの下からは、同系色のスカートが見え、細い脚が伸びていた。長い髪は巻き上げて、頭の後ろで留めてある。白いうなじが露わになって、新鮮だった。化粧っ気はないようだった。その感じは、いつも憲一が見慣れている美里とはすこし違っていた。そこにあるのは、普通の主婦の姿だった。
女は、老人と一緒だった。杖をついた老人は、美里に脇を支えられるようにして、足元はおぼつかない様子だった。義父だろうかと、憲一は想像した。老人を労わるようにして外へ連れ出すと、女は門扉を閉じた。
老人の介護を押し付けられた主婦が、ストレスのはけ口を求めて風俗店で働く。あるいは、父親の介護費用を捻出するために、お金を稼ぐ必要に迫られた。そんなところだろうか。ただ、家の構えから見ても、お金に不自由はなさそうだった。ただ遊びたいお金が欲しくて、そういうことをする女もいると聞いたこともある。美里に当てはまるのか、よくわからなかった。
女と老人が視界から消えてしまってからも、憲一はしばらくその場を動けなかった。美里の残像が頭から離れなかった。普段着のような恰好をしていたが、美里の美しさは際立っていた。3か月ほど前に初めて会ったとき、彼女を見て息を呑んだ。そのときから、美里の残像は、憲一の頭から離れなくなっていた。これは恋だろうか。憲一は自問したが、他に考えられなかった。
しかし、彼女との関係は、しょせん風俗嬢と客にすぎない。しかも、美里は憲一よりも、ひと回りも若い女だった。たまたま彼女の私生活をほんのわずか覗き見て、そこに裕福そうな一軒家に住む主婦の姿があったからといって、憲一には、何も係りのないことだった。美里との関係のなかに、風俗嬢と客というもの以上のものを求めようとしても、それは憲一の勝手な思いでしかなかった。それでも、と憲一は思わずにはいられなかった。
マレーシア出張の帰りに、美里に会いに行ったのは、半月前のことだった。羽田空港には、早朝に到着の予定だったが、出発の遅れで昼近くになった。
あのとき、美里が見せた表情が、憲一には忘れられなかった。憲一が分け入るとき、美里はほんのすこしだけ、表情を歪めることがある。あのときもそうだった。切れ長の目をわずかに寄せて、鼻筋がかすかに上向きになる。それは、苦しがっているような、悦楽に浸っているような、どちらにも取れるような表情だった。
憲一は、その表情が好きだった。そこに、何か特別なものを求めるのは、馬鹿げたことだとわかっているが、彼女のその表情がどうしても忘れられなかった。
「わたしたちみたいな女に、ロマンチックなことを期待しないで」
そう言われたのは、そのすぐあとだった。
彼女の言う通りだと思った。自分はいったい、何を期待しているのだろうか。義父の介護に疲れて、自由にならない哀しみを慰めている女を勝手につくりあげて、そこに何か特別な感情があるような錯覚を抱いてしまっているのだろうか。だとしたら、それはとても馬鹿げたことであるような気がした。
そのとき、自動車の窓ガラスをノックする音に、我にかえった。近所の住民が、いつまでも停車している車にクレームを言いに来たのかと思った。
目を上げると、ガラスの向こうに女の姿があった。戸倉美里だった。
「何をしているの?」
ウィンドゥを降ろすと、美里が言った。
「ちょっと近くまできたから」
「こんなところに一時間も停めて、迷惑駐車で通報されるわよ」
憲一には、美里の目が、迫ってくるように見えた。
「知っていたのか」
「うちの2階から、丸見えよ。あなた、先週もここに来たでしょう」
憲一は、言葉がなかった。美里の言う通りだった。
「どういうつもりなの?」
憲一は、言葉を詰まらせた。
「こんなこと、ルール違反でしょう」
「すまない」
美里のかたちの良い目が、取りつく島もないように冷たかった。
「あなたのお家も調べたわ。30万円ください。そうしたら、奥さまには黙っていてあげるわ」
美里は、無表情だった。
「30万円?」
「罰金よ」
憲一の目に、美里の表情が静かに焼きついた。無表情だが、目や眉や唇のそれぞれに、匂うような色があり、どれも鮮やかだった。それは、どこかにずっとしまわれていたものが、何かのきっかけで不意に出てきたような驚きに似ていた。
そのとき、ルームミラーの中に、こちらに向かってゆっくりと近づいてくるパトカーが見えた。誰かが通報したのだろうか。
憲一は、エンジンをかけた。美里がゆっくりと自動車から身体を離し、運転席にいる憲一を見下していた。憲一は、その目の中に、自分だけに向けられた特別なものが見えないかと目を凝らしたが、何も見えてこなかった。
5
その日は、朝から霧のような雨が降っていた。冷たい雨だった。
雨は夜半から降っていたのかもしれなかったが、憲一が気付いたのは、裏庭に通じるガラス戸のブラインドを上げて、外を見たときだった。クロチクの幹が、雨に濡れて黒々としていた。葉の色は、描きたての日本画の緑青のように毒々しかった。竹の根元に敷き詰めた白砂利に、幹の黒さと葉の青さがよく映えていた。クロチクは、5、6株ほどあり、背丈はどれも2メートルほどだった。竹は根が暴れるから庭木には向かないと言われていたので、スチールの囲いを埋め込んで80センチメートル角ほどの空間をつくってあった。
「料亭のお庭みたいね」
いつの間にか、妻の早紀がそばにいた。
「陽が当たらないのに、よくここまで根付いてくれた」
「きっと、相性が良かったのよ」
早紀は、歌うように言った。
「ここの土と?」
「あなたとよ」
早紀は、白いブラウスに紺色のスカートを履いていた。仕事に行くときには、たいていこういう恰好だった。スカート丈は膝下ほどで、黒いストッキングに包まれた二本の脚が覗いていた。
「今日は、ゆっくりだね」
時計を見たら、八時を過ぎていた。どうやら、遅番らしい。
「そうね、月末で棚卸があるから、すこし遅くなると思うわ。加奈のことをお願いします」
「もう中学生だ、親が気をつかうこともないだろう」
「そうでしょうけれど、やはりひとりでは寂しいのよ」
娘の加奈は、早紀によく似た顔立ちだった。中学生になり、大人びてくると、その印象はますます際立ってきた。輪郭の大きな目と、刷毛でさっと引いたような眉が、人の目を引いた。
「加奈がね、この庭を写メに撮って、インスタに上げていたわ。あなたに似て、こういうのが好きなのね」
早紀はそう言うと、リビングの方へ去って行った。後姿を追う憲一の目に、早紀の履いた黒地のストッキングが映った。細かいチェーン状の模様が織り込まれている。しばらくすると、早紀が玄関から出て行く音が聞こえた。
顔立ちの派手な女だったが、何事にもよく気が付く女だった。娘の出産のとき、一旦は休職したが、復職して百貨店の店員をいまでも続けている。共働きのお蔭で、戸建ての住宅を買うことができたし、憲一の自由になる金も多かった。それに、お互いにを必要以上に干渉しないでもいられた。それが良いことだったのか、いまとなってはわからないが、20年やってこれたのも、こういう夫婦のかたちがあったからだと思う。
妻が、かつて付き合っていた男と再会したらしいと知ったのは、偶然のことだった。相手は、早紀よりも十歳ほど年上で、妻子持ちらしい。
不倫をしていたことは、憲一が結婚を申し込んだとき、早紀の口から聞かされた。憲一の前で、早紀は泣いた。男とは別れたい、だから時間が欲しいと言った。憲一は、早紀の言葉を信じた。半年後、二人が結婚したとき、彼女がどうやってその男と別れたのか、ほんとうに別れられたのか、そのあたりのことはよくわからない。どちらも、そのことを口にしなかった。気にはなったが、そのことは考えないようにしてきた。
職場の先輩の大学時代の友人に、女の噂の絶えない男がいた。その男が、十数年ぶりに再会したかつての不倫相手と恋を再燃させているという話を聞かされた。女は百貨店の地下売り場にあるフォションの店舗で働いているらしく、なかなかの美人だということだった。小柄ですらっとしていて、長い髪をいつも巻き上げている。それから、二人で京都に行ったということも聞いた。
その話を聞いて、憲一は胸騒ぎがした。
早紀が、友達と京都へ行ってくると言ったのは、数か月前のことだった。東寺でやっている空海の特別展を見ると言っていたが、妻が空海などに興味があるとは知らなかったので、そのときは珍しいこともあるくらいにしか考えなかったが、いま思えば、妻はあのころどこかそぞろな感じがした。そればかりではなかった。
化粧の感じが違ってきたり、ストッキングに柄や模様のあるものを選ぶようになった。帰りが遅いときに、お酒を飲んでくることもあった。
気付かれないように振る舞っているようだったが、明らかに何かがあると思わずにはいられなかった。少しずつ片鱗がこぼれ見えてくる妻と、どう向き合うかと憲一は悩んだ。早紀に不満はなかった。家事も娘のこともきちんとやっているし、仕事もこなしていた。夜が遅い日があるといっても、月に2度か3度のことだった。そういうときに、男と会っているのかもしれなかったが、言われなければわからないことだった。
たとえば、妻にそのことを追及して、認めさせてみたところで、その先に何が待っているのだろう。離婚して、生活を別にするということもありうるが、それもあまり現実的なこととは思えなかった。娘のこともあった。
そういうことを考えると、憲一は深い霧の中で立ち止まってしまったような気持ちになる。前にも後ろにも、動けない気がした。この感情はしかし、早紀と一緒になりたいと思い、彼女の口から付き合っている妻子持ちの人がいると聞かされたときから、ずっと引きずっているものだった。
あのとき、早紀のことを諦めるという選択肢はなかったのかと、いまになれば思うこともある。しかし、あのときの憲一はできなかった。早紀の暗い部分を黙って呑みこんだまま、憲一は前に歩き出してしまった。それくらい、早紀のことが好きだった。彼女を失ってしまうくらいなら、すべてを丸ごと呑みこんでしまおうと、それしか考えられなかった。
あれから20年が経った。その間に、早紀との関係も変わったはずだった。娘も生まれた。しかし、と憲一は思った。ほんとうに早紀に向き合えていたのかと言えば、自信はなかった。早紀との間には、意識していないだけで、見えない溝がいつもあったように思う。
その証拠に、憲一には10年以上に渡って付き合っていた女がいた。
二つ年下で、独り身の女だった。会社の同僚で、昔から波長の合う女だった。食事をして、ホテルで求め合うような会い方をするようになって、10年が過ぎた。彼女との関係があったから、早紀と向き合わずに済んでいたのかもしれない。しかし、去年の冬、彼女は会社を辞めて、実家里ある四国に帰ってしまった。
理由は、脳梗塞で倒れた父親の介護だった。他に身よりはいないらしかった。四国に行っても、憲一は会いに行くつもりだった。しかし、あれから一年が経つが、一度も会いに行くことはなかった。メールのやり取りも、日を追うごとに間遠になり、いまはたまさかやりとりをする程度だった。
職場の先輩から聞いたことは、結局早紀には言えなかった。問いただしたい誘惑に何度もかられたが、そうしたところで、その先にどんな会話が待っているのかと考えると、口火を切れなかった。白を切ってとぼけるかもしれないし、もしかしたら、男とは別れると言うかもしれない。あるいは、開き直るかもしれない。そのどれだとしても、自分たち夫婦の関係は変わってしまうだろうし、これまでのようには暮らしていけなくなるだろう。それに、早紀がほんとうにその男と関係を持ち続けたいのだとしたら、そこにははっきりとした彼女の意志があるに違いなかった。もはや、憲一の入り込む余地はないはずだった。
6
雨宮塔子と出会ったのは、偶然のことだった。年の瀬で、街は言い様のない喧騒に溢れていた。
塔子は、紫地に細かい花柄を織り込んだ丈の長いワンピースの上から、ベージュのコートを羽織っていた。パンプスも紫色で、白いストッキングがくるぶしのあたりだけ見えていた。髪は巻きあげて、大きな花型のヘアクリップで留めていた。そのせいで、長い首筋がくっきりと見え、それが気味悪いほどに白く透けていた。
まだ午後の早い時間だった。憲一は、客先を回って事務所に戻ろうかと考えながら、駅中にあるスターバックスで、カフェを買う行列に並んでいた。
先に気付いたのは、塔子のほうだった。
「尾上さん?」
そのとき、憲一はスマホに送られてきた会社の同僚からのメールに気を取られていた。
「あ?」
女が若くて美人だったので、憲一は自分のことを言われたとは思わなかった。憲一は、ちらりと目を上げただけで、再びスマホに目を落とした。
「尾上さんでしょう?」
女がもう一度声を掛けた。
列に並ぶ他の客たちが、塔子と憲一の顔を見比べた。憲一は、塔子のかたちの良い唇が動くのを見て、ようやくそれが自分に向けられているのだと気付いた。
化粧っ気のない顔は、女子学生のように可憐で、丸い輪郭の顔に、眉も目も唇も、きれいに収まっている。
「ああ」
憲一は、そこにとても懐かしいものを見つけたような気分だった。
買ったドリンクをそれぞれ手に持って、二人はどちらともなくテーブル席についた。店はそれほど混み合ってはいなかった。
「これからお店に?」
憲一が問いかけると、塔子は首を振った。
「わたしは、火曜と木曜しか出ていませんから」
塔子はそう言うと、カフェラテに射したストローに口をつけた。白いストローをつまむ塔子の指は、白かった。塔子の爪も、うっすらと白かった。脱色して色がなくなったような白さだったが、白いマニュキュアを溶かしているようだった。この白さに、憲一は塔子と言う女を改めて見る気がした。
「家はこのあたりなの?」
「ええ」
塔子は、じっと憲一を見つめた。憲一は、なんだか落ち着かなかった。とりあえずこうして席についたが、塔子と話すことが何かあるわけではなかった。
「美里さんから、何か聞いています?」
「ああ。よろしくと言われた」
「それだけですか?」
憲一は、どう答えようかと考えた。塔子を指名してとも言われたが、そんなことは、本人を前にして言えることではなかった。
駅中のカフェは、中二階のような造りになっていて、吹き抜けの天井は高く、むき出しの駅舎の屋根がそのまま見えた。腰高の欄干越しに駅内を行き来する人の姿が、動く波のように見えた。
口にくわえたストローを離すと、塔子が口を開いた。
「美里さんに、30万円渡したのですか?」
「そんなことを、どうして」
「美里さんが教えてくれました」
「そういうことは、みんな話すの?」
「プライベートのことはほとんど話さないわ。わたしたちは、特別。でもどうして?」
塔子の黒目が、肌の白さに際立った。濃い輪郭も、目の印象を際立たせていた。この目は、相手にいろいろなことを考えさせると思った。
「ルール違反して、彼女の後をつけて家に行った」
「まあ」
塔子の驚き方に、憲一は苦笑した。
「それだけのことで?」
「家族にバラすと言われた」
「ほんとうにそんなこと、するかしら」
憲一は、塔子の言葉を聞きながら、思わず微笑した。
「わからない。べつに、脅されたからお金を渡したわけでもない」
塔子は、目を細めた。
「美里さんのことが、大好きなんですね。いっそ、奪ってしまって、結婚したらいいのに」
塔子はそう言うと、もう一度ストローを咥えてラテを吸い始めた。
一万円札が30枚入った封筒を美里に差し出したとき、あらほんとうに用意してくれたの?と驚いた顔を見せた。安い金額ではなかったが、用意できない額ではなかった。
それから美里は、中身も確認せずに、封筒をハンドバックにしまった。
「ひとつ、教えてくれないか」
憲一は美里に言った。
「この前に一緒にいたお年寄りは、君のお父さんなの?」
美里の切れ長の目が、憲一を見つめる。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「お父さんの介護で、大変なのかと思った」
「それでお金が必要だと?」
憲一は、曖昧に頷いた。
「そんな、単純な話でもないのよ」
美里は、どこか陰のあるような目をした。
「老人の介護で疲れている、哀れな主婦だと思ったの?」
「まあそんなところだ」
美里は、目を細めた。
「あのお爺さん、わたしの夫なのよ」
美里の言葉に、憲一は眉をしかめた。どう見ても、八十近い老人だった。
「結婚したのは、もう10年以上も前、そのころは、まだ逞しくて、もっと、しゃきっとしていたのよ」
美里は、なんでもないことのように言った。
「5年前に脳こうそくで倒れてから、下半身が不自由になって、あれでもずいぶんよくはなったのだけれど、・・・ずいぶん老けてしまったわ」
淡々と語る美里の言い方からは、感情のようなものは読み取れなかった。
「同情したの?」
「いいや」
「この女なら、遊べると思った?」
「そんなこと・・・」
「でもね。あんな老人になっても、わたしに焼きもちを焼くのよ。欲しいモノは何でも買ってくれるけれど、お金は最低限の生活費しかくれない。かわいそうでしょう。だから、バックやアクセサリーを買って、リサイクルで換金しているのよ」
「だから、あの店で?」
憲一は、女をじっと見つめた。切れ長の目の端に、かすかな青みがあった。白目の中に、青みがあるようだった。光の加減でそう見えるのかもしれなかった。
この目を見るたびに、ときどき憲一ははっとさせられることがある。それが何なのか、いまだにわからないが、その驚きのような、不意をつかれたような感覚はいつも新しかった。
「だからって、いまの生活が嫌だというわけではないのよ、お店で働いているのも、他にすることがなくて、なんとなくそうしているだけなのよ」
美里は、憲一をつき離すように言った。
「君は、美里のことを、どれくらい知っているの?」
憲一は、塔子に目を戻した。目の前にいる塔子は、美里よりも若く、美しかった。こうして向き合っているだけで、心が引き込まれていきそうになる。しかし、美里と向き合うときの、胸が痛くなるような苦しさは、ここにはなかった。
憲一の言葉に、塔子はわずかに顔を曇らせた。
「何も。どこかのお金持ちの主婦ってことくらい」
「そうか」
「いつもいいものを身に付けているし、ブランドのバックとか、このまえ、わたしが羨ましそうに見ていたら、フレラのお財布をくれたわ。まだ新品だったのに」
「それは、君のことが大切だと思うからじゃないか」
「どうかしら。美里さんみたいな女の人は初めて。なんというか、浮世離れした、いいところの奥さまみたいで、それなのに、男の人のことにはずいぶんと慣れているみたいで」
「そうなのか」
憲一は、心がざわつかずにはいられなかった。初めて出会ったときから、彼女は積極的だった。憲一だけが特別だということは、考えられなかった。
「彼女には、男がいるのだろうか?」
憲一は、ずっと気になっていたことを口にした。塔子は、憲一の顔をちらりと見ると、すこし怒ったような顔を見せた。
「知らないわ。それに、知っていたとしても、教えてあげない」
憲一は、その言い方に、面食らったようになって押し黙った。
夕刻に近づき、カフェ少しずつ混み合ってきた。勉強をしている学生たちが、店員に店から追い出されていた。
「ところで、今日は何をしていたの?」
憲一は、話題を変えた。
「わたしは、毎日何もすることがないの」
塔子は、遠くを見るような目をした。カフェラテの氷が、音を立てて揺れた。寒い日だっが、塔子は冷たい飲み物を口にしていた。
「家には、誰もいないの?」
「ええ」
塔子は、すこし俯いて、憲一を見た。
「ネコがいるわ」
「そうか」
「もう、おじいちゃんの猫だけれど」
塔子の首筋に、窓からの光が射し込んでいた。ときどき、光線の加減なのか、その首筋が、濡れたように見えた。
「うちに、来てみますか?」
「いまから?」
「ネコを紹介してあげるわ」
塔子の声が、甘いようだった。
「動物は苦手だ」
「とっても人懐っこいのよ」
塔子はそう言うと、優しそうに目を細めた。輪郭の濃い目に吸い込まれそうだった。この女は、こんな感じだったろうか。憲一はかつて、3度ほど塔子を指名した。透き通ったように肌が白くて、その肌は湿り気があり、張り付いてくるようだった。おとなしい女で、あまり会話は弾まなかったように思う。美里を指名するようになってからは、塔子のことは記憶からなくなりかけていた。しかし、手も脚も細く長くて、胸ばかり大きい塔子の身体は、よく覚えていた。
「混み合ってきたから、出ようか」
そう言うと、塔子は、含み笑いのような表情を浮かべた。
7
ある日、見覚えのない番号から、携帯に電話がかかってきた。
男の声があり、話しがしたいと言われた。すこし高い声だったが、落ち着きがあり、どこか品のある声だった。憲一は、直感的に、妻の不倫相手じゃないかと思った。
男と会ったのは、都内のホテルのロビーにあるカフェだった。憲一の職場を知っているのだろう。男が指定した場所は、憲一が勤めるビルのすぐ近くだった。オフィスの多い街でもあり、昼下がりのカフェは客のほとんどがビジネネスマンだった。男は先に席についていた。憲一が店に入ると、すぐに立ち上がって手をあげた。憲一の顔も知っているらしかった。
男は、白いものが混じった髪を短く刈り上げていたが、年齢は六十をゆうに過ぎているように見えた。体格が良くて、彫りの深い顔立ちは浅黒く焼けている。憲一から見ると、すこし見上げるような高さに、その顔はあった。
「早紀のことですか?」
憲一の言い方に、男ははっとしたような気配を見せたが、すぐに表情を作り直した。
「今日は、そのことでお話したいことがあります」
男の言い方は、威圧的でもなく、かといって、卑屈になっている感じでもなかった。
「奥さまと、別れてもらえないでしょうか」
憲一は、こんなに直接的なことを言われるとは思っていなかったので、男の顔を見返した。
「あなたには、家庭があると聞きましたが」
「離婚して、いまは独りです。息子が二人いますが、どちらも独立しています」
憲一は、黙っていた。
「早紀さんと、残りの人生を歩きたいと思っています」
男は、きっぱりと言った。
「妻からは、何も聞いていません」
憲一は、辛うじてそう言った。
「それは、僕が話すから、何も言わないようにと頼んだのです」
「ずいぶんな、自信ですね」
嫌味を込めて言ったが、男は表情を変えなかった。正面から見ると、男の眼は薄茶色掛かっていて、瞳孔が大きかった。眼力があるというのは、こういう目を言うのかと思った。
「早紀さんとは、何度も話し合って、気持ちを確認しています。あなたのことも、すばらしい方だと伺っています」
憲一は、その言い方に嫌味のようなものを認めようとしたが、男の物言いは、思っていた以上に真摯だった。
「慰謝料も、できるだけのことは考えます」
そう言って、男は頭を下げた。憲一は、こんなことを、他人から言われることになるとは、想像もしていなかった。
「急に言われても」
すると、男はゆっくりと顔をあげた。
「そうでしょうね」
男はそう言うと、すこしばかり険しい表情をつくった。
「とにかく、妻の話を聞かないことには、始まらない」
憲一は、きっぱりと言った。
「あなた、交際されている人がいますよね」
男の目が、かすかに光ったように見えた。
「ずいぶんと、親しくされているようですね。失礼ですが、すこし調べさせてもらいました」
男はそう言うと、持っていたカバンから、茶色い封筒を取り出した。封筒には、興信所の社名が印刷されていた。束になった書類と写真を取り出すと、それをテーブルに並べた。そこには、憲一と美里が映っていた。
「脅しですか?」
男は、首を振った。
「そんなつもりはありません。人は皆、それぞれのものを背負って生きています。あなたもわたしも、どれが正しいとか、何がいけないとか、審判など下せない」
「どういう意味ですか?」
憲一は、男を睨んだ。
「そのままの意味です。誰も、他人のことを責めることはできません」
男は、勿体つけたような言い方をした。
「それは、そっちのやっていることも責められない、と言いたいのか」
憲一は、苛立ってきた。男は、ゆっくりと首を振った。
「わたしなど、責められるばかりの欠陥人間です。これまでもロクでもない人生を生きてきた。あなたにこんなことをお願いする資格などない」
「だったら、どうしてこんなことを」
「我儘です」
「はあ?」
「わたしの、我儘です」
「意味がわからない」
「いまさら、いい人間で生きようなんて思いません」
男はそう言うと、憲一を見つめ返した。その目は、意外にも澄んでいるように見えた。
「あなた、それなりの立場のようにも見えますが、こんなことをやって、身内や周りの人たちから、賛同を得られると?」
「わかりません、精いっぱい説明をしようと思っています。わたしの本気度がわかれば、わかってくれると思っています」
「都合のいい人だ」
憲一は、吐き捨てるように言った。
「すいません。子供みたいなことを言いました」
男はそう言うと、無理にそうするかのように、しかめ面をした。
その日の夜、憲一は妻を呼び止めた。遅番から帰ったばかりの早紀は、コートを脱いで、着替えをしようとしていた。
部屋に入ってきた憲一に気付いて、早紀が身体を固くするのがわかった。
「あの男と、会った」
早紀は、黙って頷いた。男からは、憲一と会ったことを聞いているに違いなかった。
「いつからなんだ?」
憲一の問いに、早紀は唇を噛んだ。男からは、半年ほど前に百貨店の売り場で再会したと説明されていたが、もっと前からの関係だと疑っていた。
「あの人の言った通りよ」
「そうか」
追及をしたところで、仕方のないことだった。
「加奈を引き取りたいと聞いたが」
「ええ」
そのとき、早紀の目に、強い意志のようなものが見えた気がした。
「本人が望むなら、そうしてもいいと答えておいた」
早紀は、ほっとしたような顔をした。
「僕が、外で女と会っていたことを?」
「あの人が教えてくれるまで、知らなかったわ」
「だから、離婚を決めたのか」
「そうではないわ」
早紀は、複雑な表情を見せた。そこに、まだ迷いがあるのかどうかは、わからなかった。迷いがあるなら、取りつく島もあるかもしれない。しかし、早紀の目には、やはり強い意志のようなものしか見えなかった。こんなにも意志のはっきりとした女だったろうか。これまで、憲一が早紀の中に見てきたものは、もっと曖昧で、つかみどころのないようなものだった。しかし、これが早紀の本当の顔だとしたら、自分はこれまで、早紀の幻影ばかりを見てきたということだろうか。
「どうして、いまさらなんだ?」
憲一には、どうしても妻の行動がわからなかった。
「離婚なんて面倒なことをしなくても、陰でこっそり会っていればいいって言いたいの?」
早紀は、静かに言った。
「そんなに好きなのか?」
そんなことしか聞けない自分も、嫌だった。
「あの人とは、何度も話し合ったわ。このまま、ときどき会えるなら、それでもいいじゃないかって。あの人にもそう言われたわ。周りを滅茶苦茶にしてまで、かたちにこだわらなくてもいいじゃないかって。男の人は、みなそういう考え方をするのかしら」
早紀は、口元を引き締めた。唇の輪郭が、大きかった。紅をつけなくても、赤い色をしている唇だった。
「あなた、わたしのことをずっと疑っていたでしょう」
早紀の言葉に、憲一は目をあげた。
「そんなことはない」
「結婚してからも、ずっと、わたしがあの人と陰で会っていたと思っているのでしょう」
憲一は、答えなかった。早紀にそんな気配があったわけではない。しかし、仕事の遅番で帰りが遅ければ、男と会っているのじゃないかと思うことはあった。そう思うことで、憲一は自分を納得させてきたようなところがあった。信じたいという気持ちがないわけではなかったが、信じてしまうことが嫌だった。どこかで疑っていることで、心の平衡を保っていた。すべて、早紀が妻子持ちの男と不倫している、と憲一に告白したときから始まっていた。
「わたしはずっと、あの人には会っていなかった。すっかり忘れていたわ。半年前に偶然再会するまでは」
早紀は、言葉を絞り出すように言った。
「でも、会ってみて、気付いたわ。わたしも、あの人も、別れたあのときから、何も変わっていなかった」
「それは、僕たちの結婚が、初めから間違っていたってことか」
憲一は、声を荒げた。
「ごめんなさい。あのときは、そんなふうには思わなかった」
早紀の目には、絶望的なものがあった。
憲一には、理解できないことだった。20年も一緒に暮らしてきて、今さらそんなことがあるだろうか。
「これから、どうするんだ?」
「わからない。でも、このままではやっていけないわ」
早紀はそう言うと、ゆっくりと髪を掻きあげた。
「君の言っていることは、まったく自分勝手じゃないか。あの男と、一緒だ」
そう言いながら、憲一は美里とのことを重ね合わせてみた。自分たちも、果たして同じことを考えられるだろうか。彼女や自分の生活のすべてを変えてしまってまで、二人で一緒に生きようと考えたことはなかった。
「あなただって、このままでは、もうやっていけないと、思っているでしょう」
そう言って、早紀の目が、遠くを見るように緩んだかと思うと、そこに情感が籠ったように色づいた。早紀の声は、どこか遠くから聞こえてくる音のようでもあり、普段は意識していないところに響いてくるようでもあった。
8
戸倉美里の叔父は、かつて大手の薬品メーカーで重役まで務めた人だった。背が高く、髪も豊かにあり、見た目もスマートだった。叔母は、美里の母の妹にあたる人で、目が極端に大きくて、少女のような美人だったが、身体が弱かった。腎臓の病だと聞いたことがあるが、詳しい病名までは知らなかった。
彼らが住んでいたのは、叔父が親から相続した家で、厳めしい数寄屋造りだったが、叔父の代になって和洋折衷に改築した。広い家だったが、二人はそこに住んでいた。
叔母は、2階にある南向きの部屋をアトリエにして、いつも絵を描いていた。美大を出て、一時はデザイナーとして名前が売れたこともあったが、身体を悪くして仕事を辞めてからは、自宅に近所の子供たちを集めて絵画教室を開いていた。
美人で優しく、物腰の柔らかい叔母の教室は評判が良くて、かなりの数の子供たちが通っていた。美里も、小学生から中学まで、そこに通った。叔母たちには、子供がいなかったから、美里はずいぶんと可愛がられた。
美里は、透き通るように白い肌をした叔母のことが好きだった。人形のように大きな目は、人を吸い込むようで、細部まで整った美しい顔立ちは、幼心にも憧れだった。この人が母だったらと思うこともあった。そして、背が高くてハンサムな叔父のことも好きだった。二人の姿は、美里の目には絵に描いたような理想の夫婦に見えた。
大学を卒業して、叔父の口利きで医療関連の会社に勤めるようになってからも、美里はときどき叔母たちの家を訪ねた。
美里の家から車で数分のところに、古いお寺がある。天台宗の古刹で、室町時代の創建だった。境内は小さいが、寺格を思わせる鐘楼が残っていて、春には桜が見事だった。
いまから17年前のことだった。叔父と叔母の住む家を訪ねた帰り道、駅まで送っていくと言われて、叔父の運転する車に乗った。アメリカ製のクラシックカーだった。フロントから見るとエイのようなかたちにも見え、後部には羽根のようなものついた珍しい車だった。古い車をいじるのが叔父の趣味だった。暑い夏の夜で、エアコンの噴き出し口から吐き出される風が、心地よかった。
叔父は、駅への道を外れ、細い路地に車を滑り込ませると、人気のない寺の駐車場に車を停めた。そして、いきなり美里を抱きすくめた。それからスカートをたくし上げて、ベンチシートを倒した。何が起こったのか、美里にはわからなかった。驚きと恐怖とで、抵抗もできなかった。
ずっと好きだった。耳元で、何度も叔父は囁いた。叔父の息が、美里の耳に熱かった。暗い空が見えて、蝉の声があった。そこには、いつまでも終わらない夏があったような気がする。
10年ほど前に、長く患っていた叔母が亡くなった。その翌年、叔父に言われるままに、美里は後妻に入った。美里の両親は猛反対をしたが、美里がそれを押し切った格好の結婚だった。叔父との関係は、17年前のあの夜から、続いていた。
あの夜のことを思い出す度に、美里の心には、息苦しさとむせ返るような熱い息がこみ上げてきた。そして、思考が止まってしまう。結局、あの夜の出来事から、自分はいまだに抜け出せていないと思った。しかし、だからといって、心が縛られているわけでも、痛みを伴っているというわけでもなかった。むしろそれとは逆で、柔らかくふわふわとした優しさに包まれている安心感があった。この、息苦しさと心地よさとが共存するような感覚はどこか不健全で、美里はいつまでもここから抜け出すことができないような気がした。
もしかしたら憲一は、そういう美里の心に勘付いているのかもしれない。憲一は、ときどき美里を見つめながら、哀しそうな目をすることがあった。憲一には何も話してはいないが、彼の目には美里のことが思っている以上に見えている気がした。
年が明けてから、美里は「R」に出ていない。なんとなく、足が遠のいた。事務所からは、決まった曜日に出てもらわないと困ると、何度も催促があったが、美里は体調不良を理由に断っていた。こういう女が多いのか、しばらくすると、事務所からの連絡もなくなった。
美里が「R」で働くようになってから、半年以上が過ぎていた。もともと、いつまでも働くつもりはなかった。街でスカウトされて、興味を持って始めただけだった。当初は、もっとお金になるかと思っていたが、実際にはそうでもなかった。週に2日程度では、たかが知れていた。思いっきり稼ぐには、もっと客をとらなければならない。しかし、美里にはそこまでやる気持ちはなかった。
憲一からは、外で会えないかと言われていた。店を通さないほうが、実入りが増えるだろうとも言われた。それは、憲一の言う通りだった。外で会えば美里のもらえるお金も多くなるし、憲一とだけ会うなら、店を通して嫌な客に出会う不安もなくなる。
しかし、美里は躊躇っていた。外で憲一とだけ会うようになれば、二人の関係はきっと変わっていく。美里には、憲一にことさらのめり込むつもりはなかった。憲一のことは好きだ。誘われれば会いたいと思うし、憲一が望むなら、抱かれてもいいと思う。ただ、客として出会った憲一との関係が、このままどんなふうに変化していくのか、自分でも想像ができなかった。二人に、未来があるようには思えなかった。
この半年のなかで、美里は何人もの客をとった。中には、身体を任せた男もいる。そういうことをしたのは、憲一だけではなかった。好きになりそうになった男もいた。口にはしないが、憲一もそのことを知っているはずだ。男にしてみたら、そんな女との未来など、思い描けるとも思えなかった。
憲一から連絡が来たのは、一月の中ごろだった。携帯のアドレスに短いメールが入った。
「明日の昼過ぎに会えないか」
美里は、メールの画面を見つめながら、思わず目を細めた。
「ランチをごちそうしていただける?」
すぐに、返事が返ってきた。
憲一と待ち合わせたのは、海岸通りにあるイタリアンレストランだった。店はすぐにわかった。ウッドデッキのテラス席があり、ブルーのオーニングが鮮やかだった。しかし、デッキで食事をしている客はいなかった。
店内も、意匠が凝っていた。天井が高く梁がめぐらされ、床は黒光りするフローリングで、中央に向けて段状に低くなっていた。ドーム状の空間に、テーブルが無数に並んでいる。どこかダンスホールのようだった。
「ワインが好きだと言っていたろう」
憲一は、優しかった。やはりこの人と一緒にいるのは楽しいと、美里は思った。
「好きだけれど、お昼からお酒なんて飲んで、大丈夫なの?」
「もう、仕事は終わりだ」
「あら、不良社員なのね」
美里は口を押えた。
料理はコースで頼んだ。鶏のコンフィがよく味が滲みていて、美味かった。ワインは、サンジョベーゼの比較的濃いものを頼んだ。酸味がきいていて、これもうまかった。
憲一と会うのは、これで何度目になるだろうかと美里は頭の中で考えた。会うごとに、美里は自分が変化していくのを感じていた。憲一は、美里にいろいろなことを気付かせてくれる。いつしか、この人から可愛いと思われたいと、願うようになるだろうかと、ぼんやりと考えた。
「妻の不倫相手に脅されたよ」
不意に、憲一はそう言った。
「わたしとのことで?」
憲一は頷いた。
「あなたが脅されるなんて、おかしな話ね」
「君とのことを細かく調査された」
美里は、あきれたような顔をした。
「ねえあなた、ほんとうに奥さまとうまくやってきたの?」
「ああ、そのつもりだ」
「ほんとうかしら」
美里は、憲一が本当のことを言っているようには思えなかった。妻に不倫相手がいると知らされていながら、男はどうやって気持ちの平衡を保ってきたのだろう。「R」へ電話をかけてくる客の中には、妻との関係に悩む男も少なくない。妻に男ができて、いたたまれなくなって女を買いに来たという男もいた。男から泣き言を聞かされたこともあった。
「あなた、他に愛人がいるでしょう?」
そう言ったとき、男の表情がわずかに曇るのがわかった。
「前にも、同じことを聞いたね」
「どうなの?」
「いたよ」
「過去の話なの?」
「もう、一年近く会っていない。親が倒れて介護のために仕事をやめて、高知に帰った。それきりだ。10年以上も続いた関係だか、あっけないものだった」
美里は、憲一の目をじっと見つめた。
「あなた、その人と結婚すれば良かったのよ」
「そう思うこともあった」
男の声は、弱弱しかった。
「今からでも遅くないんじゃないの? その人、あなたのことを待っているかもしれないわ」
「どうだろうか」
憲一は、どこか上の空だった。
「君はどうなんだ? これまでずっと、歳をとった旦那だけだったということもないだろう」
そのとき、美里はすっと胸が締めつけられるのを感じた。
「わたしは、ずっとあの人に支配されてきたのよ」
美里は、17年前の夜のことを思い出した。熱い男の息が、今さらのように生々しかった。あのときから、何も変わっていないのかもしれない。まるで時間が止まったようだった。
「どうした?」
「なんでもないわ」
そう言うと、美里は目を閉じた。息苦しくなるような熱のかたまりが、周囲一面に浮遊していた。それは、いつまでも終わらない夏のように、ぼんやりと肌に張り付いてくるようだった。
目を開けると、男の真剣な顔があった。彫りの深い顔の目元に、皺が刻まれていた。あの人も、かつてはこんなふうに精悍で若さの残る顔をしていた。
この人も、あと10年もしたら、ずいぶんと変わってしまうだろう。人の老いは恐ろしい。女だって、同じだと思う。美里は、男の目に映っている自分の姿を想像して、もう一度目を閉じた。
「そういえば塔子さん、最近具合が悪いみたい。あまり店にも来ていないみたい」
憲一は、かすかに眉をひそめた。
「病気なのか?」
「よくわからないけれど、疲れやすいとか言っていたわ。お店に来ても、すぐに帰ってしまったり。病院で検査してもらったらと、言ったのだけれど、どうしたのかしら」
美里は、透き通るように白い、塔子の肌を思い出した。彼女と最後に会ったのは、一と月ほど前だった。
9
三月四日の新聞に、小さな記事が載った。
三月一日、千葉県で県警のパトカーに追跡された小型乗用車が、崖から海へ転落した。遺体で見つかったのは男女二人で、そのうちの女性は、雨宮塔子さん(三十二歳、飲食店従業員)。しかし、彼女の死因は首を絞められたことによる窒息死とだったことが、数日後の司法解剖でわかった。
県警は、車を運転していた都内の私立大学生A(十九歳)が殺害したとみて、殺人容疑で捜査し、容疑が固まり次第、被疑者死亡のまま書類送検する方針。
捜査関係者によると、容疑者は死亡前、複数の知人に対して「女を殺した、自分も死ぬ」との趣旨を話していたという。二人は交際していたとみられるが、警察は二人の間に何らかのトラブルがあったとみて、詳しい事情を調査している。
写真もない、それだけの記事だった。
記事がでてすぐに、憲一から連絡があった。今晩会えないかと、憲一は言ってきた。
「あれは、無理心中なのか」
憲一が眉をひそめた。
「あの大学生と付き合っていたなんて、驚いたわ」
「知っているのか?」
「あったことはないけれど、前からよく塔子ちゃんを指名する大学生がいるって聞いていたから、たぶんその人ね」
「痴情のもつれってやつか」
憲一は、つぶやいた。
「くわしくは知らないわ。でも、塔子ちゃんはあまりタイプではなかったみたい」
「一緒に、暮らしていたのか?」
「さあ、よくわからないわ」
「それなら、男が勝手に塔子に入れ込んで、無理心中だろうか」
美里は答えなかった。塔子がどうして殺されてしまったのかなんて、わからない。しかし、彼女が首を絞められて殺されたときの様子が、なんとなく想像できそうで美里は怖かった。
美里は、塔子の白すぎる肌を思い出しながら、憲一を見つめた。美里の肌も白い。しかし、二人の白さは、どこか違いがあった。それは、見た目にはよくわからないが、触れてみればわかることだった。美里は、自分の肌が、塔子のようには冷たくないことを知っていた。
一度だけ、塔子の肌に触れたことがあった。「R」の待機所で、二人きりのときだった。ソファーで眠っていたと思っていた塔子は、薄目を開けて、うっとりとしたような表情で、美里に笑いかけた。あのとき、美里は全身がしびれたようになって、身動きが取れなかった。
「あの子には、不思議なところがあるのよ。生きているのか、死んでいるのかわからないような、ときどきぼうっとしていると思ったら、眠っていたり、それも、目を開けたまま眠ったりするのよ」
美里は、声を落として言った。
「だから、泊まったお客さんが、気味悪がったり」
憲一が、興味を持った顔をした。
「あの子、いわゆる不思議ちゃんなの。けれどね、自分勝手でもないし、嫌味のない子だし、なんとなく品もあるし、年上のお爺さんのようなお客さんには人気があるのよ。それに、あの雪のように白い肌でしょう。リピートが多いのよ」
美里は、忘れていたことを思い出したように喋り出した。自分がこんなふうに塔子のことを語るなんて、思ってもいなかったことだ。
「彼女とは、ずいぶん親しかったんだね」
美里は、ゆっくりと首を傾げた。
「なんだか、わたしの若い頃に似ているのよ。それが、ちょっといやになるときもあった」
美里はそう言いながら、目の奥に感情を溜めたような表情をつくった。切れ長の目の輪郭が、わずかに濃くなったようだった。
「ひとつだけ、やりたいことがあるって」
「ん?」
「子供が欲しいって、いつも言っていたわ」
美里は、塔子が口癖のようにそう言っていたことをいまさらのように思い出した。
「子供ができたら、身体じゅうを舐めてあげるんだって、すこし変わった子でしょう?」
あの日、駅中のカフェで偶然に塔子に会ったあと、憲一は塔子に誘われるまま、彼女のマンションへ行った。年の瀬が差し迫った日の、夕方だった。
マンションといっても、そこは古い公営住宅を改修した建物で、エレベータは設置されておらず、4階にある塔子の部屋に行くには階段を登っていくしかなかった。
部屋は南向きで、西陽もよく射し込んでいた。明るい白色のクロスが真新しく、清潔な印象の部屋だったのを憶えている。
6畳ほどの間と、キッチンとバス・トイレがあるだけの間取りだった。南向きで、小さなベランダがあり、隣接する小学校が見えた。コンクリート建ての古い校舎が二棟あり、樹齢の古そうな銀杏やユリノキがあった。すぐ下の茂みには、紅の花が咲いていた。藪椿のようだった。肉厚の花弁が、精巧な蠟細工のようだった。
憲一は、小さなソファーに腰を降ろした。
「ネコは、いないの?」
さっきから部屋の中を見回していたが、猫がいる気配はなかった。ネコを紹介するからと言ったのは、塔子だった。
「あら、どこかへ行ってしまったのかしら」
塔子は、何でもないことのように言った。
「ここに、ひとりで?」
憲一の問いに、塔子はかすかに表情を崩した。大きく見開いた目の印象が強すぎて、まっすぐに目を合わせていられない。
「何もなくて、子供の部屋みたいでしょう」
確かに殺風景ではあったが、女物とは思えないセーターや玄関には、塔子がはきそうにないスニーカーもあった。
「ちいさいときから、ここに暮らしているの。わたしの両親は早くに亡くなって、祖母に引き取られてここで大きくなったの。小学校も、ほらそこに見えているところへ通っていたわ」
「なんだか、静かな学校だ」
「昨年、廃校になったわ。取り壊されて、じきにマンションが建つらしいわ」
塔子は、窓の外に目をやった。
「ここにマンションが建ったら、ずいぶんと景色が変わってしまうだろうね」
憲一は、学校の庭に立つ木々や、グランドの向こうに広がる茂みに目をやった。そこは、竹林のようだった。竹林の向こうに、川があるみたいだった。川の流れはここからは見えないが、堤が続いているのがわかった。
「何か、呑みます?ビールくらいしか、ありませんが」
「そうだね」
グラスを差し出す塔子の手も、細い腕も、白く透くようだった。爪の白さが、肌の一部のように溶け込んでいた。
「初めて指名してくれたときのこと、・・・」
「ん?」
「わたしの肌が白いって、しかも雪女みたく冷たいって、身体じゅうを舐めてくれたでしょう」
「そうだったか」
憲一は、そんなことをしたようにも思った。
「そんなことをされたのは、初めてだった。昔、父からそういうことをされたとき以来」
「お父さん?」
「まだ小さいときに、お風呂や布団の中で、父はわたしの身体じゅうを舐めるのよ。くすぐったくて、堪えるのが大変だった」
塔子は、そう言って含み笑いをした。
「でもね、いま考えると、ちょっと変な気もする」
「変?」
「だって、子供を裸にして、身体を舐める父親なんて、普通じゃないでしょう」
「でも、嫌ではなかったのだろう?」
「ええ。父のことが好きだったから」
そう言うと、塔子は小さく息を呑んだ。
「わたしが中学になるとき、父はビルから飛び降りて死んでしまった。後から知ったのだけれど、父は近所の女の子たちに悪戯をして、警察から追われていたって。母が泣きながら誰かと電話で話しているのを聞いた。その母も、それからすぐに病気になってしまって、あっという間に死んでしまった」
塔子は、窓の外にやった目をわずかに細めたが、そこに特別な感情は読み取れなかった。
10
早紀に会うのは、半年ぶりだった。連絡をしてきたのは、早紀だった。暑い夏が盛りを越えようとしていた。街路樹のこずえから、蝉の声が聞こえるようになった。
半年前に、男に離婚して欲しいと言われたあと、憲一はなかなか決心がつかなかった。早紀とやり直す道はないとわかっていたが、このまま言われるままに投げ出してしまうのには抵抗があった。
娘の加奈のこともあったが、それよりも、妻との接点が煙のように消えていくことが、どうしても耐えられなかった。
「もうすこし、考えてみないか」
しかし、早紀は頑なだった。
「あの男も、いずれ老人だ」
美里と老いた夫のことを、考え合わさずにはいられなかった。
「わたしだって、おばあさんになるわ」
「君はまだ若い。なにもあんなジジイと一緒にならなくても」
早紀は、ゆっくりと首を振った。そこには、希望をさしはさむ余地などないという目があった。もはや、別人のように、憲一から離れてしまった女の顔だった。 その数日後、早紀は娘を連れて家を出た。
離婚届けと娘の親権に関する合意書がリビングのテーブルに置かれてあった。印鑑を押して、返送してくれというメモが残されていた。
そこには、新しい住所も書かれていた。男の家なのか、新居なのかわからなかった。隠れるつもりもないということだろうか。憲一は、もうこの流れには逆らえないと思った。
妻と娘が出て行ったあと、50坪ほどある敷地に建つ一戸建てに、憲一がひとり残された。ひとりで住むには、持て余す広さだった。早紀の部屋も、加奈の部屋も、二人が出て行ったときのままだった。洋服や、身の回りのものだけが、なくなっていた。
二人のいなくなった家で、二人がいなくなったことを考えないようにしようとしても、それは難しいことだった。庭にでることもなくなった。手入れが行き届いていた庭は、雑草が生えるままに荒れて、春から夏にかけて、それは顕著だった。
憲一は、自分が弱い人間なのだと改めて知る思いだった。ひとりになって、何もやることがなかった。しかし、早紀と加奈がこの家にいたからといって、それで何か変わるわけでもなかった。ただ、同じ屋根の下に家族がいるというだけのことだった。それだけのことなのに、その違いは大きかった。
早紀と待ち合わせたのは、新宿駅に近いビルにあるカフェだった。ハワイアン調の店内に、フラの伴奏音楽が流れていた。ちょうどお盆休みにあたっていたので、オフィス街は閑散としていた。店にも、客は少なかった。
「すこし痩せたかしら」
早紀は憲一を見るなり、サングラスを外した。ブルーのワンピースは、胸元が露わで、女の肩が白かった。憲一の見たことのないワンピースだった。
早紀は、憲一を見つめながら、口元に微笑を浮かべた。家を出て行ったときよりも、若々しく見えた。
「生牡蠣にあたったらしい。しばらく生きた心地がしなかった」
オイスター専門店に美里と食事に行ったのは、一週間ほど前だった。熱が出て動けなくなったのはその二日後だった。不思議なことに、一緒に食事をした美里は、なんともなかった。二日間仕事を休んだが、熱が下がらずに、三日目に病院へ行き、腸炎ビブリオだと診断された。点滴をされ、薬をもらい、ようやく回復したところだった。
「災難だったわね。誰も看病してくれなかったの?」
憲一は苦笑した。
「今日は、話しがあるのだろう?」
そう言うと、早紀は細い眉をすこし動かした。
「加奈が、あなたと暮らしたいと言っているわ」
憲一は、驚いた。早紀に似た、目鼻立ちの際立った顔つきを思った。中学三年生だったが、大人びた顔つきだった。月に一度、二人で食事をする以外には、加奈との接点はなかった。
小さいころから可愛がってきたが、溺愛というほどのことはなかった。大人しくて、手のかからない子だった。しかし、父親と娘の距離は、微妙だった。
「新しい父親とうまくいっていないのか?」
「そんなことはないのよ。二人で買い物に行ったりしているくらいだから」
そういうことが、得意そうな男だった。
「もっと若いパパがいいって」
そう言うと、早紀は複雑な顔を見せた。たしかに、あの男と加奈が歩いていたら、祖父と孫娘という恰好になりそうだった。
「だから、ジジイはやめろと言ったんだ」
「真面目に相談しているのよ。あの子も難しい年頃だし、父親の存在が大事なのよ」
「加奈がそうしたいというなら、構わない」
憲一は答えた。娘が戻ってくるなら、あの家も明るくなるかもしれないと思った。すこし片づけなければならないだろうと、憲一はぼんやりと考えた。
「ところであなた、再婚するの?」
早紀は、探るような目を憲一に向けた。
「君には、関係ないことだ」
憲一は、ずぶずぶと生ぬるい深みにはまっていくように、美里との先行きが見えなくなっていることを考えた。
「加奈のためにも、知っておきたいわ」
早紀は、引かなかった。
「あの女の人なの?」
「あの女?」
「あなたが熱をあげていた人妻よ」
早紀の言葉には、どこか棘があった。別れた夫でも、嫉妬を感じるのだろうか。
「君には、関係のないことだ」
もう一度、憲一は言った。
美里は、早紀とは違うタイプの女だった。早紀には、自分を誤魔化さない頑固さのようなものがあったが、美里には、矛盾する二つの心をあわせて呑み込んでしまうような底知れなさがあった。そのどちらにも、女の強さがあるように思った。
「あなたがどんな女に入れ込んでいるのかと思って、「R」へ行ったのよ」
憲一は、眉をしかめた。「R」という店を知っていることも、驚きだった。男が興信所を使って調べたことを、聞いたのに違いなかった。
「川崎まで行ったのか?」
「そうよ」
「いつのことだ?」
「二月だったかしら。珍しく雪の降った日だったわ」
二月といえば、早紀が家を出て行ったすく後だった。
「雑居ビルの中で、どこにでもありそうな事務所みたいで、殺風景なところだったわ」
憲一は、そこへは一度しか行ったことがない。初めて「R」を利用するときに、会員登録をしたときだった。身元のしっかりとした客しか相手にしないところが、「R」の安心感でもあった。それは、女にとってもそうだった。
「女の人がいるのは別の階で、親切な男のスタッフがそこまで案内してくれたわ。ソファーのある部屋に、女の人が何人かいた」
「そんなところまで、よく案内してくれたな」
「身内のものがいるって、嘘をついたわ」
早紀が、そんなことまでするとは、信じられなかった。
「でも、戸倉美里って人には会えなかったわ」
憲一は、すこしほっとした。
「雨宮塔子さんという方と、お話をしたわ」
「なんだって?」
「とっても肌のきれいな人ね、美人だし、わたしはてっきりあなたが入れ込んでいたのは、この人じゃないかしらって思ったくらい」
早紀は、憲一の反応を探るように、そう言った。
「ねえ、違うの?」
「塔子のことはよく知っている、しかし、彼女とはそういう関係ではない」
言ってから憲一は、自分でもおかしなことを言ったと思った。そういう関係ではないと言ったものの、そういう関係とは、どういう関係を意味するのか。憲一は、かつて、何度も塔子を指名した。一晩を過ごしたこともある。それでも、特別な関係ではないと言ったのは、塔子への執着を言ったつもりだった。
「でも、この先はわからないでしょう」
そう言われて、憲一は小さく息を吐いた。
「彼女は、死んだよ」
憲一がそう言うと、早紀の目の色が変わった。
「どうして?」
「詳しくは知らない。三月の初め、新聞に載っていた。パトカーに追われて、車ごと崖から海に落ちた」
「そんな・・・」
早紀は、信じられないという顔をした。
「転落したときには、もう死んでいたらしいが」
憲一は、吐き捨てるように言った。
塔子の事件は、被疑者死亡のまま書類送検されて、決着したらしかった。殺害の動機については、いまだにわかっていない。美里の話しでは、塔子が運転していた大学生と交際していたという事実は確認されていないらしい。だとしたら、彼女はどうしてその男と一緒に千葉まで行ったのか、謎だった。
そのとき、早紀が声を低めた。
「あの人、妊娠していたのよ。3か月だって」
「ほんとうか?」
憲一は、公営住宅の一室で見た、塔子の白い肌を思い出した。
「あなたの子供だって、言っていたわ」
早紀は、目を細めた。
「ばかなことを」
「ほんとうよ」
そう言うと、早紀はじっと憲一を見つめた。その目には、憲一の表情の中に、何かひとつでも変化があれば、見逃すまいという気持ちが表れているように見えた。
「あなた」
憲一は、早紀の声に顔をあげた。
「なんだか、顔色が良くないわ」
「まだ、全快していないんだ・・・」
憲一は、小声でつぶやいた。
「ねえ、あなた本当に、だいじょうぶなの?」
女の目が、暗い淵を覗き込むように憲一を見つめていた。
11
こうやって美里の家に来るのは、これで何度目だろうかと、憲一は考えた。私鉄の小さな駅の改札を出たのは、昼過ぎだった。この時間、街は閑散としている。改札を出て、東西に広がる商店街は、100メートルほどもあるだろうか。そこに、人の姿はまばらだった。
大型の台風が去り、雲ひとつない晴天だった。残りの夏の陽ざしは、生々しかった。強い光が、アスファルトを照り付けて、何かをべっとりと塗ったようだった。
美里と出会って一年になると、青い空を見上げながら、憲一は思った。
カバンから、スマホを取り出した。
「旦那は出掛けたかい?」
女の声に向かって、憲一は小声で尋ねた。
「さっき、デイケアに連れ出されたわ。玄関の鍵を開けておくから、適当に上がってきて」
そう言うと、女は電話を切った。
憲一は、商店街をしばらく歩いた。小さな店ばかりが並んでいるが、活気があった。ドラッグストアや、クリーニング店、スーパーマーケット、自転車屋や金物屋、いろいろとあった。駅に連なるこういう街並みには、どこか懐かしさを思わせるものがあった。
憲一は、地元では有名らしい洋菓子店に寄って、ケーキを買った。美里は、モンブランケーキが大好きだった。
美里の部屋は、二階の南側にある。かつてここは、叔母の部屋だったと聞かされたことがある。20畳ほどの広さがあり、ベランダに出ると、前の通りがすぐ下に見えた。部屋はフローリングで、ベッドとカウチソファがあり、無垢材のテーブルがあった。クローゼットは造り付けになって、北側の壁面を占有していた。壁紙はベージュのモノトーンで、上品なシティホテルの一室のようでもあった。
壁には、大きな絵が懸っていた。60号サイズで、油彩画のようだった。
憲一は、部屋の中を見回すと、脚を崩してソファーに枝垂れかかっている美里を見た。灰色のキャミソールに膝丈のパンツをはいていた。裸足の指先には、ピンクのマニュキュアが塗られ、白い肌に際立って目を引いた。
「この部屋、暑いでしょう。エアコンが故障しているのかしら。風はでてくるのに、すこしも涼しくないのよ」
美里は、額にかすかに汗を浮かべている。
「窓がこんなに広いのだから、無理もないだろう」
南一面に、天井高のガラス戸がはめ込まれている。開放的なつくりではあるが、夏の暑さにはたまらない。
「ビールでも飲む?」
「ああ。これを買ってきた」
そう言って憲一は、商店街の洋菓子店の包をテーブルに置いた。
「うれしいわ。ビールにケーキもよさそうね」
美里はそう言うと、ソファーから身を起した。カーテンの隙間から、午後の陽射しが射し込んでいる。冷房が効いてはいるが、外の空気が漏れ混んでくるようだった。
「最近ね、叔母の夢を見るのよ」
ぽつりと、美里が言った。蝉の声がやかましかった。
「お盆になると、亡くなった人が帰ってくると言うじゃない」
憲一は、黙って聞いていた。
「なんでもない夢なのよ。この部屋に叔母がいるの。そのソファーに座っていたりして。ここはもともと叔母のアトリエだったのよ。わたしがここへ来たときには、部屋中が絵の具で汚れていたわ。床やクロスは張り替えて、家具も入れ替えてしまったから、叔母さん怒っているのかしら」
そう言って、美里は目をしばたたせた。
「君と叔父さんのこと」
「え?」
「叔母さんは、知っていたの?」
美里の表情が、静かに凝固した。
「わからないわ」
そう言うと、美里は、壁に掛かった絵を見た。
「これは」
「叔母の描いた絵。モデルはこのわたし」
60号のキャンパスの中で、美里にはあまり似ていない少女が、下を向いて本を読んでいた。少女の肌の色は、透き通るように白かった。憲一はふと、塔子のことを思い出した。この絵の少女は、美里よりも、塔子に似ている気がした。
「いつごろ描いた絵なんだ?」
「そうね、わたしがまだ高校生の頃かしら」
美里は、記憶を辿るように目をした。
「初心で大人しい女の子だったのよ。クラスの男の子から手紙をもらったら、緊張して口もきけなくなってしまうくらい」
そう言って、美里は口を押えた。憲一は、美里の切れ長の目の奥にある瞳を見つめた。まだ、少女だった頃の美里は、どんな色の目をしていたのだろうか。ときどき、この瞳孔の中に垣間見える、濡れたような光沢のことを思った。
「ねえ、涼しくなったら、旅行にでも連れて行ってくれない?」
美里が、不意に言った。
「どうしたんだ、急にそんなこと」
「どこでもいいのよ。行ったことのないホテルか旅館に泊まって、思いっきり贅沢をするのよ。あなたがくれた30万円をパッと使いましょうよ」
そう言うと、美里は悪戯っぽく微笑んだ。そのとき、女の耳たぶのあたりから、白いものが走ったような気がした。一瞬のことだったので、見間違いかもしれなかった。
「どうかしたのか」
「夫がね、デイケアに行きたくないと言い始めたのよ。今日も、嫌がってたいへんだった」
「留守の間に、わたしが男と会っていると疑っているみたい。それは当たっているから、しかたないのだけれど」
美里は、どうしようもないことだと言うように、首を振った。
「いっそ、二人でここから消えてしまおうか」
「そんなことが、あなたにできるの?」
美里は、からかうように言った。
「何だってできるさ」
憲一は、事実そう思った。美里の夫を殺してしまうことだって、できる気がした。
「でもね、取り立てていまの生活が苦痛だとか、そういうことでもないのよ」
美里は、ぽつりと言った。それがこの女の正直な気持ちというところだろうか。
「ほんとうに、このままで満足なのか?」
「そんなふうに言われたら、違うかもしれないけれど、いまさら生活を変えたところで、どうなるかしらって考えてしまうわ」
その言い方は、どこか諦観しているようにも思えたが、投げやりになっているという感じでもなかった。
「ねえわたしたち、もっと違うかたちで出会っていたら、どうなっていたかしら」
美里のつぶやきは、まるで地平線の向こうから聞こえてくるようだった。憲一も、そのことは何度も考えた。考えないようにもしてきたことだった。
「でも、結局は、同じことだったのかしら」
美里の声が、籠った空気の中に吸い込まれていくようだった。
「ほんとうに暑いわ、溶けてしまいそう」
部屋の空気は、異様に熱を持っているようだった。エアコンの噴き出し口から出てくる風が、虚しく感じられた。
「なんだか今年の夏は、いつまでも終わらないみたい」
残りの夏だと、憲一は思った。
「ねえ、もう一度抱いて」
美里は、そう言うと憲一に身体を寄せてきた。白い肌が、かすかに赤味を帯びて、触れるとその表皮はひんやりとしていた。
憲一は、美里を仰向けにしてベッドに横たえた。切れ長の目の輪郭が、どこかぼんやりとしていて、額には汗が光っていた。
女の白い肌が、透き通るようだった。触れると、弾力をもって膨らんでくるようだ。この肉体には、と憲一は思った。信じられる確かさがあるような気がした。それは、美里と出会ったときから、直感的に感じていたことのような気もした。
表の道路で、車が停まる音が聞こえたような気がしたが、二人とも注意を払わなかった。
全身から汗が噴き出た。吐きだされた憲一のものが、美里の腹の上で汗と混じって流れ落ちた。頭がぼうっとしていて、どこか熱っぽかった。そして、眠かった。こんなに眠くなるのは、普通ではなかった。薬でも飲まされたような気分だった。朦朧として、このままベッドのクッションの中へと、全身が吸い込まれてしまいそうだった。
どれくらい経ったろうか。肩の肌に、冷たい風を感じた。目を開けると、部屋の入口に男が立っていた。
憲一は、目をこらした。
焦点が定まると、男が表情のない目で、憲一と美里を見下していた。美里の夫だった。憲一も美里も、布団の下は全裸だった。はぎ取るようにして脱いだ二人の洋服や下着が、ベッドの下に散乱していた。身を隠すものも、抵抗するものも、あたりにはなかった。
男は、何も言葉を発することなく、憲一たちを見つめていた。しかし、ずいぶんと背の高い男だと思った。男の顔の位置が、高すぎるところにあると思った。
美里が、目を覚ました。その切れ長の目は、どこかうっとりとしているようでもあり、ああようやくこのときが来たんだと言っているようにも見えた。その微笑に、彼女の白い肌の色が、ぼんやりと映っているようでもあった。
そのとき、ぎゃあ、と美里が叫び声をあげた。
男の目元の皺は、鳥のような深かった。目は大きく見開いて、良く見ると、唇もかすかに開いていた。口の中が、血のように赤かった。
首の周りがわずかにうっ血して、首に巻かれた白いロープは天井の梁に固く結ばれていた。男は、まるで生きているように、二人を見下していた。 (完)