罪
「(アレは、なんだ)」
身動きする者のない静寂のなか、自らの疑問だけがやたら大きく頭の中で響く。
「(頭上に輝く光輪、純白の双翼。何より、僕ですらはっきりとわかる、この聖なる魔力。ああ、僕は知っている。知らないはずがない)」
はるか昔、まだ神がこの世界を棄てるよりも前。
神の代行者として、騎士たちに啓示を与えた、この世ならざる存在。
世の全ての人間が再臨を望み、かつて世界の崩壊の際にさえ、ついに現れることのなかった救いの象徴。
「(何故、天使様がこんなところにいるのかわからない。それでも、これは身に余る光栄だ。本物の天使様に、お目通りが適ったんだから)」
そう、これは至上の栄誉のはずだ。
そして、天使の再臨は世界全体としても大きな意味がある。
神が、再びこの世界に戻ってきてくれるという証左なのだから。
「(そうだ。僕は今すぐ、天使様の前に跪いて感謝の言葉を述べなくてはならない。再臨の場に居合わせた人間として、再び世界をお救いいただく神々へ、忠節を誓わなければならない)」
なのに。
「(何故、僕の足は動かない? 何故、まるで死神の鎌を首に突きつけられているかのような悪寒を感じる?)」
そう、ラグの足は天使の前で跪くどころか、一瞬でも気を抜くとなりふり構わず逃げ出しそうなほど震えていた。
ラグも気付かないうちにジリジリと後退り、少しでもアレから距離を取ろうと足掻いている。
何故か。
わからない。
ラグには、天使を恐れなければいけない罪はない。
これまで、騎士の誇りにしたがって、自らの正しいと思う道を歩んできたはずだ。
例え、それが間違っていようとも、ラグに後ろめたさはないと断言できる。
では、何故。
完全に硬直するラグに、そこで初めて気付いたかのように天使が視線を向けた。
本当に何気なく、ただ視線を向けただけ。
ただそれだけで、ラグ自身も知らぬ罪は暴かれた。
真っ白な部屋だった。
静謐な空気を引き裂くように、ガチャガチャと騒音が響き渡るなか。
「すまない……すまない……」
目の前で、若い男性がただ謝っている。
ラグはこの人物を知っている。
記憶よりも随分と若いが、間違いない。
「(父さん……?)」
そう、声をかけようとしたが、声が出ない。
体を動かそうとしても、モゾモゾと手足を動かすので精一杯だった。
ふと視界の端に小さな手が映った。
まるで、生まれたての赤子のように小さな、掌。
視線を転じると、少し離れた場所に母が横たわっているのが目に入った。
荒々しく息をつき、酷く疲れているようだった。
母もまた、ラグの記憶よりもかなり若い。
母は、何かを訴えるかのように、父へと声をかける。
「あなた……」
「すまない……でも、もうこれしかないんだ……」
「…………………………」
返ってくる答えがわかっていたのか、それとも諦めたのか。
母は何も声を返すことなく、ゆっくりと目を閉じた。
「すまない…………もう、これしかないんだ……」
父の手には短剣が握られていた。
かつて、ラグが一度だけ見たことある、儀式用の魔法を宿した特別な短剣。
それを持って、父は背後を振り返った。
途端に、ガチャガチャと煩かった音がピタリと止まる。
自由にならない視線をなんとか父の背後の方へと向けると、見える部分の方が少ないほど体の至るところを太い鎖で拘束された、一人の少女がいた。
まだ10にもなっていないような、幼い少女。
透き通るように碧い髪を振り乱して暴れていたであろう少女は、それまでの狂乱が嘘のように大人しくなり、振り向いた父を呆然と見つめていた。
「すまない……許してくれとは言わない。ただ、恨むのなら僕を恨んでくれ……」
背を向けているため、父の顔は見えない。
だがその声は震えていた。
対する少女は、信じられないというように呆然と父を見つめ。
『なんで』、とただそれだけ呟いた。
ラグの父親は、その声に答えることなく、だらりと下げた短剣を手に少女へと近付いていき――――――。
「『何をボサッとしてやがるボケナス!!!!』」
そんな罵倒とともに脳天を揺さぶる衝撃を受け、ラグは現実へと引き戻された。
「あ、え…………父、さん……?」
「『誰が父さんだよオタンコナス!さっさと起きろ!逃げるぞ!』」
「ス、スルト?」
混乱していた頭が徐々に落ち着いてくると同時、先程までは感じなかった殺気がラグの体を射抜いた。
恐る恐る振り返ると、祭壇上の天使は先程ラグに向けた視線とは違う、明確な敵意を持ってこちらを見ていた。
「お、怒ってる!?なんで!?」
「『そりゃオレがいるからだろうよ!目の前の魔物を見逃す天使がどこにいるってんだ!』」
言われてみれば確かに、天使の敵意はラグではなくスルトへと向いていた。
それを理解したラグは、自分を連れ出そうとするスルトを慌てて振りほどく。
「な、ならちゃんと説明しないと!スルトは悪い魔物じゃないって!」
「『はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?』」
スルトがこれまでに見たことのないほど馬鹿にした目でラグを見てくる。
「『天使に話が通じると思ってんのか!?馬鹿だろお前!!』」
「なんでさ!?天使様なら話せばわかってくれるよ!」
「『ざっけんなよテメェ!!天使をなんだと思ってんだ!?』」
「神の御使いだろ!?せっかく世界を救うために降臨してくださったのに!」
「『ああもうこのお花畑野郎が!』」
頭を掻きむしりながらスルトが叫ぶ。
「『神にどんな幻想を抱いてるか知らねえが、はっきり言ってやる!!いいか、【神は何も救わない】!!』」
「…………は?」
思わず唖然としてしまうラグ。
何を言ってるんだ、コイツは。
「『正神も悪神も関係ない!神ってのは、自分を存続させるために人間から信仰を集めるだけだ!本質は何も変わらねえ!ただ生きるために必要な信仰が、人間の価値観で言うところの正しい信仰か、間違った信仰かってだけだ!』」
「なにを、」
「『そんな神の使いが世界を救うだぁ!?笑わせんな!奴等は仕える神の都合のいいように世界を作り替えるだけの存在だ!正神に仕えるならば、秩序を!悪神に仕えるならば、混沌を!お前の言う救済ってのは、世界を滅茶苦茶にぶっ壊されることなのか!!』」
いくら混乱しているとはいえ、このまで言われればラグでも気が付く。
「スルト、もしかして天使を知っ…………」
ラグがそう言いかけた時。
再びラグを衝撃が襲った。
先程スルトに殴られた時とは違う、点ではなく面の衝撃。
ラグはスルトとともになすすべもなく吹き飛ばされる。
「が、ぅ……!?」
「『ちっ……!!』」
指先ひとつ動かすことなく、天使はゆっくりと翼を羽ばたかせる。
ただそれだけで、衝撃の第二波がラグたちを襲った。
ラグは壁に叩きつけられ、一瞬息ができなくなり地面に倒れる。
ラグとスルトを区別しない無差別な攻撃。
いや、話しているのを見て、仲間だと思われたのかもしれない。
とにかく、こんなことを続けられては話し合いどころではない。
「だ、ダメだスルト。いったん君は部屋の外で……」
「『ああ、そうだ。そうだったな』」
だが、スルトは立ち上がり、ラグの呼び掛けにも答えずに、何かを譫言のように呟いた。
「『お前たちはいつだってそうだ。いつだって、こっちの事情なんて知ったこっちゃない。話し合うこともせず、身勝手に悪を決めつける』」
フラフラと体を揺らし。
「『誰一人救わないくせに、そのせいで道を踏み外した奴の事なんか考えもせず、ただ慈悲もなく殺すだけ』」
三度、衝撃波が襲来し、壁に叩きつけられる。
「フザケルナ」
だが、スルトは立ち上がり、天使を睨み付けた。
「フざケルなヨ!!」
天使へと一歩詰め寄るそばから聖なる魔力を浴びせられ、吹き飛ばされる。
「イツモ一方的に、上かラ目線で裁くダケ!ソイツにどんな理由ガあったのか考えもセず!」
聖なる魔力に体を蝕まれながら。
それでも、スルトは吠え続ける。
「お前タチは、防げたはずノ不条理を防ごうともせず、悪に堕ちてしまったのヲ見下しながら、あたかも堕ちた方が悪いとでも言いたげに死を突き付ける!」
衝撃が段々と強くなる。
周囲の床に亀裂が入る。
「ふざけるなよ!!誰のせいでそうなった!!誰が世界を見捨てたせいで、そうならざるを得なかったと思ってる!!」
部屋の壁が崩壊を始める。
絶え間ない衝撃に意識を刈り取られそうになりながら、ラグはスルトの叫びに耳を傾け続ける。
「ああそうだ!!その所業は確かに、悪のそれだ!!罪を知らぬ人間を傷つけ、平和を燃やし尽くし、不幸を増やし続けながら、なお自らの欲望だけを追い求める修羅の道だ!!そんなことはわかってる!!」
普段、人を食ったような物言いしかしない、従魔の。
「でも、でもな!!それでも!!」
召喚してより、1度も激情と呼べるものを見たことのない、元人間のその魔物の。
「例え、あらゆる人間に恨まれても!!例え、世界の全てを壊してでも!!」
魂から絞り出したような慟哭を、聞き続ける。
「諦めきれない願いがある奴だって、いるんだよ!!!!」
結果だけ言えば、スルトの叫びは何の意味もなかった。
天使に魔物の言葉が届く道理はなく、スルトにも届かせるつもりはない。
ただ叫ばずにはいられず、訴えずにはいられなかった。
かつて人間であったとき、誰にも言うことのなかった、言うことのできなかった感情を。
無駄とわかっていながら、ぶつけずにはいられなかった。
これは、ただそれだけのことなのだ。
いつしか叫びは聞こえなくなり、見る影もなく荒れ果てた空間で、ラグは激痛を訴える身体を起こす。
生前、彼がどんな人間だったのかはわからない。
彼自身、生前の事を全て思い出しているわけではないのだろう。
生きている間に、あの叫びを、聞いてくれる人間は果たしていたのだろうか。
ラグに、それを知る術はない。
「天使様」
静寂の戻ってきた空間に、ラグの声がこだまする。
生前、彼の叫びを受け止めてくれる人がいたかどうかはわからない。
だが、今この瞬間、確かにその叫びを聞いた者はいるのだ。
「お話があります」
従魔の心からの叫びを聞いた主は、ゆっくりと立ち上がった。




