二回目の夏
*
何でこんな暑い日に通勤しなくちゃいけないんだ。まあ、金を貰えるからなんだけど。(金といえば彼女が大量に持っているから僕が仕事を止めて彼女のお世話になってもなんら影響はないだろう)
ミンミンと蝉が騒ぎ汗の分泌を促進させる。蝉の声を聞くと汗が大量に出るのだがそれは蝉の声の効力なのだろうか。まあ、分からないが蝉は好まない。グロテスクな見た目と騒音を発生させる元凶としか思えないからだ。
彼女は蝉を見たら何て言うのかな?
よし、今日の帰りに蝉を取りに行こう。
『……バカじゃないの……』
彼女が僕の傷口を消毒しながら言う。いや、僕だって自分がバカだって理解しているよ。理解して更に落ち込んでるよ。
蝉を取ろうと考えただけで済めばよかったものの僕は実行に移した。帰宅時に近くの山に入って蝉を見つけて取ろうとした…ら、足下がぬかるんでいたせいで僕は山から転がり落ちた。
幸い骨などは折れてなく全身泥まみれで帰ってきた。(彼女に看病してもらった時も思ったけど僕って頑丈なんだな)
黒いスーツの右膝の部分が破れ全身泥と葉で覆われた僕を見たときの彼女は勿論呆れてた。呆れすぎて少し引いていたかもしれない。
『っ!……もう少し丁寧にやってよ』
『奴隷が私に命令するの?良い根性ね』
にやにやと意地の悪い笑顔を浮かべる彼女。最初の頃よりも笑顔を見せるようになったな、と少し感動。(彼女が頑張って口角を上げた引きつった表情を笑顔と判断してます)
『ごめんね』
わざわざ僕の手当てなんてさせてしまって。
『……何よ』
彼女の光彩が揺れた。動揺しているときに見せる表情だ。何故、動揺している?
『なんとなく?』
『……なんとなくで謝る人なのね』
彼女が伏せ目がちに低く呟いた。怒っているのか、泣いているのか分からないけど僕が悪いことをしたというのは確実だった。
『何故、動揺しているの?』
『……嫌なこと思い出して』
『その嫌なこと聞いても良い?』
彼女が僕を手当てする手を止めた。僕の膝に向けていた視線を僕の目と合うように移動させた。
物好きね……と小さく溢してから彼女は話した。
『私を育ててくれたあの人がそんな人だったの。自分が悪い場面じゃなくてもずっと謝っているような感じの人。能面の様に変わらない表情で私にごめんねと囁いてきて怖かった。……あのときの事を思い出したの』
能面の様に変わらない表情……その言葉に身震いをした。僕の唯一の友人の事を思い出したからだ。
あれは小学生の時だったろうか。僕が生き物係だったというのに夏休み中に学校にきて動物に餌を与えなかった為に皆死んでしまった。勿論、泣いてクラスメート皆に謝ったが誰も許そうとはしなかったがそんな中で一人、彼はバカみたいに笑った。ゲラゲラと声をあげたと思えば急に止まり空を眺めて『ごめん、ごめん』と譫言の様に呟き始めた。彼は能面の様に表情は変えずに絶えず口だけが動いていた。
明らかに精神異常をきたしてるとしか思えなかった彼は今はどうしているだろうか。まあ、あいつだったら金持ちだから何とかやっているんだろうな。
彼女は話を終えて、ぱぁんっと手を叩いた。恐らく話の終了の合図だろう。
『おしまい』
決意を決めた彼女はひどく大人っぽく見えた。
『ありがとう』
そう伝えてから彼女の頭に手を乗せてゆっくりと撫でていく。彼女が目を細めてぷるぷると首を振る姿が小動物のようで可愛い。
『……バカじゃないの』
悦びを顔に出さないように口をもにゅもにゅ動かして堪えている姿が可愛くて仕方がない。神様にこんなにも可愛い生物を造ってくれたことを感謝。
『そう言えばさ、今日は素敵な日だね』
『……どうしたの』
彼女が頭に乗せていた僕の手を下ろしながら聞いた。そのままの意味で言ったつもりなんだけど。彼女には伝わらなかったのか。
『今日の一年前は……何あったか覚えてる?』
むしろ女性の方が覚えていると思うが。
『……今日って何日』
そう言えば、彼女は外に出ることがないから日付感覚がないのだ。この部屋の中が暑くない限り彼女は今を夏だと認識していないだろう。良かった、ぼろアパートに住んでいて。
(彼女には金があるのだからこんなところよりももっと良いところに住めば良かったのにと思ったが、彼女がここに住んでくれたことで彼女と知り合えたのだから感謝だ)
『夏だよ』
彼女に日にちで伝えても理解できないと思ったから季節で教える。流石にここまで言ったら理解できるだろう。
『夏……そう言えば暑いものね。何かゲロにまみれて奴隷に介抱されていたわ。そして、奴隷に助けられた記憶がある』
うん、まあこの彼女がここまで思い出せたのだから良いとしよう。僕の望む答えではなかったが可愛いから許す。
『そうだね』
よく考えたら僕の思ってることを言葉にするのは恥ずかしいと思った。僕が飲み込んだ言葉は出会って一年目の記念日だねってこと……さすがにこんなこと彼女に言うのは恥ずかしい。
さっきまでは僕は血迷っていたのか。うん。言って彼女に嫌われないで良かった。女々しい男になるものな。
*
『暑いわ』
『暑いね、吐きそう?』
言葉にすると更に暑い日曜日。僕は久し振りの休暇を彼女と楽しんでいた。彼女が布団の上にゴロゴロと転がる。僕はそんな彼女を微笑みながら眺めてアイスを頬張る。やっぱり抹茶味って最高。
『まだ大丈夫……って、何食べてるの』
彼女が僕を向いて止まった。ゴロゴロ回っていたせいで後ろ髪が前髪の様に顔全体を隠し、軽く怖い。貞子みたいだねって言っても通じないだろうからとりあえず言わないでおこう。
『棒アイスだよ……食べる?』
彼女に向かって食べかけのアイスを差し出すと彼女はびくりと体を震わせた。いくら食べかけだからってそんなにも嫌がらなくても。
『あいす……湯気出てるけど暑いのに熱いモノなんて食べてバカじゃないの』
彼女が顔をしかめた。食べかけを嫌がってたのではなくってアイスを知らなくって熱いと思っていたから、震えたのか。
『これは冷気だよ、冷たい物だからね。食べかけが嫌だったらコンビニで買ってくるけど……どうする?』
彼女は一瞬眉間に皺を寄せてから、小さく呟いた。
『……それで良い。食べたい』
『分かった。はい、口開けて』
彼女に近づき口元へとアイスを運ぶ。その姿を彼女はじろじろと観察するように見て、口を開けた。
『んぁ、あー……ガチンッ!』
彼女が小さい口を必死に開けてる表情が可愛い。そんな彼女の口に入りかけていたアイスを食べる直前に引くと、彼女が思いきり歯をぶつけてガチンッ!と音を鳴らした。痛そうだ。
暫し沈黙があってから彼女は僕を恨みがましそうに睨んだ。僕が悪いから睨まれるのも分かるが、僕にとっては睨まれることすらも悦びに変わるから意味もない。
『……何なのよ』
『一回やってみたかったんだ、ごめんね』
『許さない』
彼女は食べる標的をアイスからアイスを持つ僕の指に変えてガブリと噛んできた。正直、痛いという気持ちよりも彼女の唾液に僕の指が包まれているという至福の方が勝った。
だが一応痛がるフリはしておこう。
『……痛い痛い』
『ひほーひほふぇひょー』
恐らく『自業自得でしょ』って言っていると思う。彼女が喋る度にもにゅもにゅと舌が動き、僕の指に絡まる。爪と指の間の柔い肉に舌が入り思わず震えてしまった。
それを彼女は見逃さなかった。彼女は口から僕の指を開放させてから濡れた手を包んだまま、引いた。引かれたことによって体のバランスが崩れて彼女の横に寝転がる様な形で倒れた。
彼女の顔が近くなって年柄にもなくドキドキする。どうしよう。僕の顔は赤くなっていないだろうか。
『顔、赤いね。何を思ってるの?』
にやにやしながら彼女が僕の指を弄ぶ。アイスを持っている手を弄ばないでくれ。アイスが溶けてきているだろう。僕は彼女で遊ぶのも好きだし彼女が僕で遊ぶのも好きだが、彼女に玩ばれるのは慣れてないから好きじゃない。
と言うよりも得意じゃない。
『何を思っててほしい?』
逆に彼女に聞いてみた。苦し紛れに発した言葉だけど彼女の行動を一瞬でも遅らせることが出来た。
『さあね』
人形のように首を傾げてから、溶けて僕の手首まで垂れてきたアイスを舐めるように僕の手首に口をつけた。綺麗な彼女の唇が僕の手首に押し付けられて歪な形になったが、尚更綺麗に見えた。
夏の暑さのせいで彼女の舌まで熱い。僕の手首に垂れていたアイスを綺麗に舐めとってから、徐々に上へと舌を滑らせていく。小さい彼女の口だとやはり舌も小さいんだなとか、考えられるほど妙に冷静になっていた。
必死になって僕の掌を舐めている姿を見ていると変な気分になる。全身が熱くなって一部に熱が集中したような、変な感じで気持ち悪くもあり快感でもある。はちきれそうに溜まったこの感情が心地よい。
(きっとはちきれるとしたら、それは理性なんだろう。流石にこの状態で理性を飛ばすのは危ない。僕の将来的にも。彼女の精神的にも)
『不思議な、味』
彼女が僕の手を包んだまま、顔を上げた。突然の事だったから僕の心臓は大きく跳ねた。こんなにも近くで彼女を見ると、ヤバイ。彼女の隅々が見えてしまう。
うっとりとした瞳が。優しく紅潮した頬が。柔らかく上がった口角が。艶やかに濡れた唇が。全てが見えて、怖くなったから視線を外した。これ以上彼女を見たら最後の僕の理性というものが弾けとんでしまう。
『……抹茶味だよ』
声が震えてしまう。
『んーん。奴隷の味がする』
にやりと笑った彼女の顔が僕の視界の端に見えた。そのせいで耳に熱が集まる。熱い、熱い、彼女にバレていないでほしい。後に戻れなくなるような気がするから。
僕の味というところに去年の冬の事を思い出した。クリスマスの時は僕が彼女の指を舐めたことだ。少し調子に乗って彼女に嫌がられるほど舐めてしまったけど、彼女はそれを根に持って僕に仕返ししたのだろうか?
(仕返しとは言えない甘い罰だけど)
『気のせいだよ。それよりも、君のせいでアイス溶けちゃったんだけど』
『良いじゃない。私が食べてあげたんだから感謝してよね』
『はいはい。じゃあ、残りは僕が食べるよ?』
『好きにすれば』
彼女に微笑んでからほとんど溶けたアイスを口に運んだ。アイスは小さくて舌の上で転がしただけで溶けてしまった。
ところでこれって間接キスになるのだろうか。彼女は溶けて僕の腕に垂れたアイスを舐めただけだからアイスに直接口を付けたことにはならない。何か、残念だ。
きっと僕がこの手を舐めれば間接キスになるんだろうけど流石にダメだろう。僕は一応常識があるはずだ。
『べたべたになったね』
『うん。暑いのにべたべたのせいで余計暑くなった』
『じゃあ、お風呂入ろうか』
『うん。入る』
寝転がりタイムは終了して、立ち上がってから彼女の脇の下に手を入れて起こした。食べて寝てを繰り返している筈なのに楽々持ち上げられる軽さ。ちゃんと食べているのか不安になる。
そう言えばこないだ彼女にはブラジャーを買ってあげた。(彼女のお金だけど)前から必要だと感じていたし、彼女が徐々に大人の女性へと変わってきたからだ。
買いに行ったときに思ったことは初めて入った女性の下着専門店は男の僕が入るにはあまりにも早すぎた。(買いに行くのに早いもくそもないが)ずっと緊張していた。
店員さんに『小学生の娘に買ってきてと頼まれたのですが、どれを買えば良いのでしょうか』と壮大な質問をぶつけてゲットした……という言い方は悪いが店員さんが勧めたもの全て選んだ。
結果、大量のブラジャーが僕の部屋に隠されている。うん、危ない人の道を順調に進んでいる僕だ。むしろここまで変態の道を極めようとしている自分を誉めてほしい。
ブラジャーとパンツという何ともお恥ずかしい格好にさせてから彼女とシャワーに入る。(僕はちゃんと下着は着用しているのでご心配なく)
ちゃんと彼女を洗って僕も一通り洗ってから蛇口を捻る。お湯を止めてから、水を出した。
『んにゃあっ!?』
びくびくっと彼女は全身を震わせ毛を逆立てた。いきなり水をかけたから当然のことなんだろうけどあまりにも猫の様に見えて可愛かった。
『ごめん、ごめん……くふふふふ』
『……笑うな』
濡れた髪の隙間から僕を睨む彼女の目とあった。最初に会った時よりも柔らかくなったその瞳は僕を映し出していた。
大きくなったね。成長したね。と撫でたい衝動にかられるこの気持ちは母性本能と言うのだろうか?それとも父性本能?……聞いたことないが。
『奴隷のバカー』
ばしゃっ。彼女が蛇口を大に捻った。当然、水が大量に出てくるわけで……その水は僕らにかかった。
びちょびちょになったまま何が起こったのか理解できずに暫く静止して彼女と顔を見合わせる。そして、体感温度が下がっていることに気がついて水を止めた。悪寒が全身を走り、彼女が身震いをしたのを見て思わず笑っていた。
彼女が水を出したのにほとんどが彼女にかかるのをみて何か面白くなっていた。まあ、僕にも一部かかったのだが少しだけだ。
『笑うなってばぁ……』
恨みがましそうに見る彼女はやはり可愛かった。
風呂を出て冷えきった体を待っていたのは生温い空気だった。彼女と遊んでいたお風呂が懐かしい。どうして夏はこんなにも気持ち悪いのだろうか。べたべたしてイライラさせる天才だ。
『ん?』
聞き慣れない音がした。だが何度か聞いたことがある音。ああ、携帯の着信音だ。一体、誰だろうか。
『元気なら良かった。じゃあさ今度会わないか?』
鷹翼だった。冬にメールが着てその時に返信したその返事が6ヶ月以上たって返ってきた。さすが彼だ。全く変わらない自由人間加減に笑えてくる。
『良いよ、今度会おう』
どうせあいつの事だから返事はまた6ヶ月以上後なんだろうな。……と思って携帯を放り投げた瞬間、携帯がなった。一日に二度も携帯が鳴るなんて珍しい。
『おう、じゃあ二ヶ月後の今日で』
彼はやるな。変わらない適当さ、本当に年をとっているのだろうか。金に物を言わせて永遠に中学生のままなのではないのだろうか。
『分かった』
それから彼の返事は来なかった。お風呂から上がってくる彼女を驚かせないためにも僕はすぐに携帯を鞄の中にしまった。