第57話:すべてを思い出した、その先に
――いつの事だろうか、ずっと忘れられない光景がある。
眼前には優しげな表情を浮かべながら此方の頭をなでてくる男性の姿。
彼はじっと私を見つめると、少し申し訳なさそうな声色で告げる。
『出合いなさい。そして、別れを知りなさい。
あなたが産まれてきたこの世界をよく知りなさい。』
『願わくば、あなたが生きたいと願える世界が訪れますように。』
その人は誰だったのか。思い出すことができない、けれど忘れられない――いつかの記憶。
……深い霧の底から、私はゆっくりと意識を浮かび上がらせる。
何層にも折り重なった記憶の頁を捲るように、私の中に、もう一つの眩しい情景が立ち上がってきた。
――いつの事だろうか、思い出そうとしても思い出せない光景がある。
眼前には優しげな表情を浮かべながら此方を見つめてくる女性の姿。
彼女はじっと私を見つめると、少し困ったような声色で告げる。
『アインさん。……またここで、一日を終わらせるつもりですか?』
『もう、本当にしょうがないですね』
そう言いながら、彼女はどこか楽しそうな表情を見せる。その笑顔は懐かしく、そしてとても暖かい。
その人は誰だったのか。思い出すことができない、けれど忘れられない――いつかの記憶。
……なぜ、忘れていたのだろうか。
私の胸の奥、死の概念の核ともいえる部分が、まるで春の陽光を浴びた氷のようにひび割れていく。
霧の向こう側にあった二つの光景が、ゆっくりと、けれど抗いようのない力で重なり合い、私の中に溶けて混ざり合っていく。
あの時、創造主が私に遺した遠き啓示。
「別れを知りなさい」という言葉の真意が、七十年の歳月を経て、いま鮮烈な熱となって全身を駆け巡った。
あの人は私に世界という器を与え、ミリアさんは、その中に生というかけがえのない温もりを注いでくれたのだ。
――そうか。私は、お父さんの言う通り出会いと別れを知ったんだ。
そして、お父さんが願った「別れを知るための旅」を、彼女は隣でずっと支えてくれていたのだ。
『アインさん……』
脳裏に響くその声は、もう隣には届かない。
けれど、彼女の声が導いた先に、私はようやく私という輪郭を見つけた。
お父さんが願った通り、私は確かに、この生きたいと願える世界を知ることができた。
思い出した。すべてを。
この世界が残酷で、それ以上に愛おしいということを。
――そして、その温もりを失った今もなお、私はこの世界を愛している。
安らかな表情で永遠の眠りについたミリアさんの頬をそっと撫でる。
彼女の人生と言う名の皺を刻んだ柔らかな皮膚の感触は、今もなお、かすかな残り香とともに私の中に溶け込もうとしている。
私はゆっくりと立ち上がった。
指先に残る彼女のぬくもりを、消えないようにそっと胸元へ抱く。
彼女が眠りについた今、私には為すべきことがあった。彼女の生きた証を、彼女が守りたかった平穏を、この先も途切れさせないために。
数日後。
ハーストの首都ブラスの街は、深い静寂に包まれていた。
空はどこまでも高く、澄み渡っている。かつて彼女が良い風ねと目を細めた、あの日の空と何ら変わりはない。
広場に設けられた祭壇の前には、街の住人たちが列をなしていた。冒険者たち、商人、かつて彼女に救われた市井の人々。皆、それぞれの悲しみを抱えながら、ひとりの女性の門出を祝うように厳かに佇んでいる。
私は棺の傍らに立ち、彼らの視線を受け止めた。
彼らが私を「女神」と呼び、親しみを込めて頼ってくれたように、今は彼らがミリアさんという光を失った喪失感を、私に託しているのが分かった。
土を掘り、彼女を大地へと還す。
私が死の概念である以上、この終わりを見届けることが、彼女に対する最後の務めだ。
皆が去り、夕闇が静かに街を染め上げる。
私はひとり、新しい墓標の前に留まった。
ここに眠るのは、私に生の温もりという名の宝石を授けてくれた、唯一無二の伴走者。
墓標に触れると、指先から冷たい石の感触が伝わる。だが、私の内側では、かつてないほどに熱い決意が脈動していた。
「……ミリアさん。私、やりたいことが出来たんです」
彼女の命が守り抜いたこの世界を、終わらせないために。
かつて私という概念が産み落とされた故郷へ。
すべての始まりであるあの古代遺跡へ赴き、私が生み出された意味を知り、その存在意義を成す。
葬儀の灯火が消え、街が夜の帳に包まれる。
私は墓標に背を向け、一歩を踏み出した。その足取りは、もう迷いを含んでいない。
この心に灯った決意と、ミリアさんの温もりを羅針盤にして、私は始まりの地へと歩みを進める。




