第20話:緊急クエスト
思考が闇に沈みかけていたはずだった。だが、ミリアが倒れたその瞬間、私の内側で何かが突き動かされた。
私は床に崩れ落ちた姿勢から、弾かれるように跳ね上がった。周囲の悲鳴も、酒場の喧騒も、今の私にはノイズにも聞こえない。
カウンターを蹴り、軽々と跳躍して裏側へ飛び込む。
そこには、冷たくなり始めたミリアが横たわっていた。私は迷いなく彼女の胸元に手を触れた。
「刻の逆流を命ず。それは死より生への回帰。過去の器を今一度、此処に……」
私の唇から紡がれた言葉は、呪文というよりは世界そのものへの宣告だった。
指先から漏れ出した銀色の魔力が、ミリアの体を薄く包み込む。それはただの治癒魔法ではない。時間を巻き戻し、死という事象そのものを強引に無効化する、私が知りうる限り最上位の権能。
……しかし。
いくら時間を遡らせようとも、彼女の心臓は沈黙したままだった。脈拍は戻らない。その瞳に、再び光が宿ることもなかった。
「……やっぱり、この程度ではダメですか」
奇跡を起こせなかった事実に、私は落胆することも、涙を流すこともなかった。ただ、冷え切った日常を確認したかのように、冷静に、ため息を交えて呟く。
その時、どしりとした重い足音がカウンターの裏側へと響いてきた。
「何があった?」
ギルドマスターのゲオルグだ。
彼は血の気の引いた酒場の惨状と、倒れているミリア、そしてその横で呆然と手をかざしている私を見下ろし、眉間に深い皺を刻んだ。
「……アイン。これは一体、どういうことだ」
私はゲオルグの方へ、ゆっくりと顔を向けた。視界の端には、まだ鈍く輝き続ける天球儀が映っている。
「彼女はそこに転がっている遺物に封じ込められていた、死の概念に触れました。その結果、彼女の肉体は死という事象に……強制的に書き換えられたのです」
私の言葉は淡々としていた。それがどれほど理解し難い現象であっても、事実を口にする以上の感情は湧かない。
ゲオルグは私の言葉を信じ切れないような、しかし、事態の異常性は肌で感じ取っているような険しい表情で、ミリアの隣にどかりと膝をついた。
彼はミリアの首筋に指を当て、数秒の間を置く。そして、静かに首を振った。
「……確かに、息をしていないな。アイン、これはもうどうにもならないのか?」
至近距離で見たゲオルグの表情には、怒りもなければ、かといって悲しみに打ちひしがれている様子もない。その瞳は、ただひたすらに鋭く私を見つめていた。何よりも、私の内に残る可能性を信じているかのように。
「……何故、私にそれを問うのですか?」
私は困惑を隠せなかった。今の私にとって、これは理の不一致であり、覆すことのできない結果だ。なのに、彼はどうして私に期待を向けるのか。
問い返した私に対し、ゲオルグは軽く鼻で笑うようにして返した。
「そんなもん、決まってるだろ。お前が諦めていないのが、顔で分かんだよ」
その言葉は、私の胸の内にあった、自分でも言語化できていなかった「何か」を突き刺した。
私は、諦めていないのか?
この冷徹な概念の集合体である私が、ミリアという一つの命を、まだ必要だと思っているのか?
ゲオルグは私の表情を観察しながら、さらに踏み込んでくる。
「ただの亡骸を前にして、そこまで必死に魔法を叩き込む奴なんていない。お前が本当は何者だかは知らんが、今はただの、仲間の死を認めたくない小娘に見えるぞ」
ゲオルグの言葉は、私の心の奥底に沈んでいた淀みをかき混ぜた。
私は、死そのものだ。であれば、ミリアの死もまた、私の一部であるはず。私の隣に、常に寄り添う静寂のひとひらであるはずなのだ。
なのに、どうしてこんなにも、胸の奥が冷たく締め付けられるのか。
ミリアが動かない。
私の悪態を、呆れ顔でいなさない。
不機嫌そうに眉を寄せ、私を子供扱いして笑わない。
その事実に気づいた瞬間、内側で何かが音を立てて崩れた。これが、「悲しみ」というものだと理解する。
死とは私そのもの。だからこそ、彼女が死の世界へ行ってしまったのなら、それは私と彼女の距離が、今までになく近づいたということになる。
――けれど、それは違う。
私が欲しかったのは、そんな「死」の共存じゃない。
あの時、私の拙い毒舌に呆れて溜息をついた、あの温度。受付のカウンター越しに交わした、どうでもいいはずの日常の会話。
それらが失われたことこそが、どうしようもなく悲しいのだと、ようやく理解した。
「……そうですか。これが、そうなんですね」
私は独り言ちて、改めてミリアの冷たくなった頬に手を添える。
さっきまでの冷静さは、どこかへ消え失せていた。感情という名の熱が、私の死の概念を内側から焼き焦がしていく。
「ゲオルグさん。私、ミリアさんのいない世界なんて、一日だってごめんです。」
私はゆっくりと立ち上がった。その瞳の奥には、先ほどまでの死の概念を司る静かな虚無ではなく、ミリアを取り戻すという、業に満ちた執着が宿っていた。
ゲオルグは、私の瞳の色の変化に気づいたのか、それとも最初からそれを期待していたのか、何も言わずにただ静かに頷いて道を空けた。
「好きにしろ。責任は、俺が取ってやる」
その言葉を背に、私は再び、あの呪わしい天球儀へと手を伸ばした。
「まずは、これがあった場所……ここから北にある古代遺跡へと向かいます。」
ゲオルグは私の背中を見つめ、短く問いかけた。
「北の遺跡……確か、かつて死にゆく世界を封じた場所と言い伝えられている所か。あそこはお前にとっても、決して安全な場所じゃないはずだぞ」
彼は私の危険性を、最初から理解しているようだった。それでも、彼は制止しなかった。
「……はい」
私は小さく頷く。その視線は遠く、北の空の彼方を見据えていた。
「そこは、私が生まれた場所……いわば、私の実家のようなものです」
私の言葉は、静かな冷たさを帯びていた。
天球儀から漏れ出す澱みを強引にねじ伏せ、自身の権能でその形を固定する。それはもはや鑑定対象ではなく、ミリアの魂を連れ戻すための錨だ。
「……随分と物騒な実家だな」
ゲオルグは自嘲気味に笑ったが、その瞳の奥には、すべてを察したような昏い静寂があった。
「ええ。ですが……私は今、ミリアさんの魂をこの天球儀に固定することに、私の持てる力のほとんどを割いています。……ですので、今の私一人では、道中の澱みに耐え抜く自信がありません」
私が淡々と告げると、ゲオルグは一瞬目を見開き、そして呆れたように肩をすくめた。
「……そんなことまで出来んのかよ。ただものじゃないとは思ってたが、ここまでとはな」
彼は深く溜息をつき、苦笑を浮かべる。私の異質さを突きつけられてもなお、彼は怯むことなく、むしろ状況を面白がるような強さを覗かせた。
私は、震える指先を天球儀の黄金の檻へと強く押し当て、ゲオルグを真っ直ぐに見つめる。
「ゲオルグさん。私が北の遺跡の奥深くまで辿り着くための、最高の護衛を探してくれませんか? 私の……いえ、私たちの仲間を救うために」
私の言葉に、ゲオルグは獰猛な笑みを浮かべた。彼は酒場のカウンターを強烈な音を立てて叩き、店内に響き渡るような大声を張り上げる。
「全員聞けぇ!! 緊急クエストだ!! 内容はアインの護衛、そして我らがギルドの大事な職員、ミリアの救出だ! 報酬は弾むぞ! 死地を潜り抜ける覚悟のあるやつ、受けるやつはいるか!?」
酒場を覆っていた重苦しい沈黙が、その咆哮によって一気に吹き飛ぶ。
呆然としていた冒険者たちの顔に、困惑と、そしてかつての勇気ある戦士としての火が灯り始めた。
「勿論、俺は行くぜ?」
酒場の喧騒を一瞬で塗り替えるような、自信に満ちたゲオルグの声。
そこにいたのはギルドマスターとしてではなくこのギルドで最も腕が立つと噂される、かつての英雄の姿だった。
釣られる様に冒険者たちが次々と声を上げる。ミリアを失った動揺は、今は熱い闘志へと姿を変えていた。
この光景を見て、私の胸の奥で、止まっていたはずの心臓が奇妙な熱を帯びる。
「……ありがとうございます」
私は彼らを見渡し、深く、静かに頭を下げた。
救いたいという、純粋で無垢な彼らの想いが、私の「死」の権能とは別の場所で、鮮やかに輝いて見えた。
北の遺跡――私の原点にして、禁忌の場所。
そこには、どんな絶望が待っているか分からない。だが、今の私には、守るべきものが明確にある。
天球儀を抱きしめる腕に力を込める。
扉の向こう、北の空を見据え、私は一歩を踏み出した。
それは、死の概念が「生」を取り戻すための、最初で最後の旅路。
――待っていてください、ミリアさん。
必ず、私が連れ戻します。




