その家政夫、静謐につき
平日午後三時のリビング。床にはおもちゃが散乱し、キッチンのシンクには洗いものの山ができている。「そういえば朝から洗いものができてなかったな」。溜め息混じりに視線を落とせば、乾燥した離乳食の食べこぼしが床に貼り付いていた。
「……これが仕事なら、プロジェクト管理で解決できるのに」
俺は床に這いつくばって、床からパリパリの離乳食を爪で擦る。すると昼寝をしていたはずの息子の泣き声が、寝室から聞こえてきた。
さっき寝付いたばかりなのに、どうしてもう起きてしまったんだ。寝不足で回らない頭で寝室に向かう。息子を抱き上げて体を揺らしながら、育児休暇の理想と現実のギャップに打ちのめされていた。ああ、朝からずっと抱っこしっぱなしで、腰が痛い。
そのとき、インターホンのチャイムが鳴った。誰だ、こんな平日の真っ昼間に?
「……はい、どちら様ですか」
『株式会社洛中サービスの九条と申します。家事代行の依頼で参りました』
渋い声が聞こえてきた。家事代行? そういえば育児でクタクタになっている俺を見て、妻が頼んでみたとか言っていたっけな?
しかしインターホンのカメラに映っているのは男で、とても家事ができるような人物には見えない。歳は六十歳前後くらいだろうか? カメラ越しでも、綺麗に整えられたオールバックに白髪が混じっているのが見えた。
「……どうぞ」
とはいえ、家事代行サービスは妻が俺を気にかけて頼んでくれたものだ。無下にもできない。九条と名乗る男を通す。そして目の前に現れたのは、安っぽいエプロンをこれ以上なくエレガントに着こなした、背筋の伸びた男だった。
男の、しかもこんなおじさんに家事なんてできるのか? 家事代行サービスの中でもハズレのスタッフを引いてしまったのかもしれない。俺は内心で落胆した。
「改めて九条と申します。本日はどうぞよろしくお願いいたします」
靴を揃えて、九条が家の中へと上がる。そして散らかったリビングへと通せば、九条はぐるりと一度、家の中を見渡した。
「なるほど。まずはリビング、その次にキッチンといきましょうか」
「……ええっと、家事をしてもらっている間、俺はどうしていればいいですか?」
九条の眼差しが俺に向けられる。同じ男でも思わずドキッとしてしまうような、温かな眼差しだった。
「随分とお疲れのようだ。よろしければ、お子さんと一緒にお休みになられてはどうですか?」
「……だけど……」
見ず知らずの人を家の中で放っておくのも気が引ける。俺は邪魔にならないようにすると言って、息子を寝かしつけながらソファーでゆっくりとさせてもらうことにした。
――九条の手つきは、文句なしだった。
収納場所を確認すると一切の無駄口を叩かず、迷いのない手つきでおもちゃを片付けていく。その動きは素早いが、決して乱暴ではない。おもちゃが箱に収まる音すら、まるで計算されたリズムのようだ。
そしておもちゃに汚れを見つければ、それを綺麗に拭う。その手つきは、まるで一流のバーテンダーがグラスを磨いているようにも見える。
床に落ちた離乳食の掃除もお手のものだった。濡れた雑巾で少しふやかしてから、まずは大まかに汚れを取る。そしてスプレーを吹きかけ、床を綺麗に磨き上げてくれた。
九条が持っているのは掃除用のスプレーだ。それなのに拳銃を握っているように見えたのは、俺が疲れすぎているからなのかもしれない。
汚れ一つ一つを確認していく目つきが、鋭い。先ほどまでの温厚な表情とは別人のようだ。そして俺はふと気づく。この人、これだけ素早く動きながら、物音を立てていないのだ。
そのとき、またインターホンが鳴った。今度は誰だろう? ぐずる息子をあやしながら、俺はインターホン越しに応じた。
『どうもこんにちはー。お客様のおうちに小さなお子様がいると伺いまして。赤ちゃんが舐めても無害な、洗剤セットはいかがですか?』
一体誰だ、俺の家の情報を流した馬鹿野郎は。いやそれよりも、まさか訪問販売がやってくるとは思わなかった。相手は売りつけのプロだ。回らない頭で対応すれば、押し切られてしまうかもしれない。
『小さなお子様がいると、なにかとお掃除が大変でしょう? 弊社の洗剤なら汚れがよく取れるので、掃除の時短にもなりますよ。まずはお試しでご利用されてみませんか?』
「……いえ、今あるもので十分ですので……」
『では少しだけ実演させてください! お時間は取りませんので!』
「……いや、だから十分ですって」
『そう言わずに! 本当に少しだけ!』
「う……っ」
そのときスッと、視界の端に影が出来た。視線を向ければ、九条がそっと微笑んだ。
――「私に任せてください」。これはそう言っている笑顔だ。おずおずと一歩下がると、九条がインターホンに向き合った。
「――初めまして。こちらの家で家政夫をさせていただいております、九条と申します」
『は?』
「お子様にも無害な洗剤とおっしゃいましたが、今ここで成分を読み上げていただけますでしょうか?」
『はい? なんでそんなことしなきゃいけないんですか?』
「私、職業上、洗剤の成分には詳しいものでして。ぜひ御社が自信を持って勧められる商品の詳細をお伺いしたいのです」
九条の背中が、とても大きく見える。その渋い声が、とても頼もしい。初めての育児で、困惑することばかりだった。時には孤独を感じるときもあった。だけど今、こうして自分の味方になってくれる存在が目の前にいる。
「詳細をお伺いできないようであれば、どうぞお引き取りください。こちらの家には掃除のプロの私がいますので、洗剤を買うことはありません」
『……ちっ』
あいつ今、盛大に舌打ちしたぞ!? しかし九条の対応が効いたのか訪問販売の人はそのまま立ち去り、強引な営業に遭うことはなくなった。
「……あの、ありがとうございます」
「いいえ。お客様に快適な時間を過ごしていただくこともまた、我々の使命ですので」
目尻にシワを寄せて、九条――いや、九条さんは柔らかく微笑んだ。なんだこの人。最高にかっこいいじゃないか。
そして九条さんは何事もなかったかのように掃除を再開する。変わらずテキパキと掃除をしていく九条さんを見つめている間に、腕の中の息子は静かに眠っていた。
「父親という仕事は、外で働きに出ているときより大変かもしれません。それでもお子様は、あなたが一生懸命になってくれたことを無意識に感じて、覚えているものですよ」
育児について、妻以外に労わられたのは初めてかもしれない。俺は胸から込み上げる何かを呑み込むように、ぐっと唇を噛みしめた。
九条さんは――最高の家政夫だ。
時間通りのすべての作業を終え、九条さんは帰る準備をする。
「本日の作業に問題がなければ、こちらにサインをお願いいたします」
明細書に書かれた作業内容は、九条さんの手書きで書かれていた。その文字は、驚くほど達筆で力強い。
「またお困りごとがありましたら、いつでもご連絡ください」
最後に九条さんの名刺を受け取ってお別れをする。去っていく背中が、名残惜しかった。
「……よし、」
腕の中でぐっすり眠っている息子を寝室に連れていく。ベビーベッドに寝かせれば、すぐに火がついたように泣き出す子なのに、今は静かに眠ってくれていた。
そして俺は洗面所へと向かい、鏡越しに自分と向き合う。無精ひげが伸びて、髪も寝癖だらけて、とてもスマートな格好とは言えない。俺は綺麗にアイロンのかけられた白シャツを着ていた九条さんを思い出して、そっとひげ剃りに手を伸ばしたのだった。




