No.5 ヴィクトール
俺はヴィクトール。
立派な名前をつけてくれた母さんは水色の髪がとても綺麗で、いつも明るくて優しい、まるで妖精みたいな人だった。そんな母さんに見た目も性格も似ている弟のことも大好きだ。だけど少しだけ、そのことが羨ましかった。
俺の本当の父親は、俺が生まれてくる前から母さんと離れて暮らしているらしく、どんな人かも分からない。一度も俺や母さんに会いに来ないし、きっと良い人ではないのだろう。父親というのはどいつもこいつも悪い奴らばかりなのか、今の父親は働きもせずに母さんのお金でお酒ばかり飲んでいて、酔っ払うと俺たちに暴力を振るった。
いつかこの地獄から抜け出して、大好きな母さんとイースレイ、三人で幸せに暮らすんだ。
でも、現実は俺たちを否定し続ける。
「いかないで、どこにもいかないで、母さんっ…… っ、お願いだ…… 目を、目を開けて!」
「うぅ、っかあさん!!おかあさんっ!!!」
母さんが死んだ。この世の終わりだと思った。
悲しくて寂しくて辛くて、どうにかなってしまいそうだった。それに、このままお金が尽きたら、いつかあの碌でもない父親に売られてしまうかもしれない。働けるような年齢じゃない子どもの需要なんて恐ろしくて考えたくもない。
子ども二人で生きていくことなんて考えていなかったけれど、それでもせめてあの男の目が届かない場所へ行きたかった。俺にはもうイースレイしかいない。弟を守って生きていけるなら、孤児としてでもしぶとく生きてやる。
決心したら俺はすぐに実行した。
少しのお金と、母さんが亡くなる直前に受け取った高そうなペンダントを持って、あの男が帰ってくる前にイースレイを連れて家を出た。
「疲れたら教えて、いつでも休憩するから」
「うんっ、ありがとうにーさんっ」
どれくらい外で過ごしたか分からない。多分、一週間くらいだと思う。とにかく俺は知っている場所から離れたくて、明るい時間はただただ歩き続けた。
お金を節約する必要があるから、一日一食、二人で一つのパンを分け合い、暗くなってきたら路地で眠れそうな場所を探す。どうしたって夜は冷えるから、風邪を引いてしまわないようにイースレイをぎゅっとして朝まで過ごした。次第に俺たちの身体や髪は汚れ、夜は地べたで寝ているせいで着ている服もボロボロになっていたけれど、そのことを気にする余裕は全くなかった。
だけど、大きな街に辿り着いた時、自分たちの姿を自覚した。
「汚らしい孤児ね!あっちへ行きなさい!」
「っ、あ…… 」
「だから邪魔よ!!」
突然、貴族の女が俺たちの前に立ち塞がり、罵声を浴びせてきたと思ったら手に持っていた冷たい飲み物を勢いよく掛けてきた。
「わ、っ!」
「なんなのよその生意気な目は!!この私を視界に入れようだなんて、生まれ変わっても許されないんだから!!」
俺たちが何をしたっていうんだ。
大好きな母さんを亡くして、暴力を振るう父親から逃れたくて、ただひたすらにこの街まで歩いてきただけだ。
掛けられた飲み物は、髪から頬、肩、ありとあらゆるところへ伝って身体を冷やしていく。汚いのが悪いのか、孤児というのが悪いのか、何が悪いのか分からなくても、それでも。
この女からすれば、俺が悪者なんだろう。
「…… 行こう、イースレイ」
俺はただ、弟を守りたいだけなのに。
その日の夜、いつものように俺は父親が追ってきていないか周りを警戒していたが、あの貴族の女から受けた嫌がらせのせいで余計に気になった。それに春なのにとても寒くて、あまり眠れなかった。
「にーさんっ?だいじょーぶ……?」
もう明るい時間なのに、歩かなきゃいけないのに、そんなこと分かっていてもしばらく動きたくなくて、俺は路地から出る気持ちになれずにいた。
イースレイは心配して声を掛けてくれていたけれど俺は返事をする余裕すら無くて、頭の中では「眠い」「お腹空いた」「疲れた」この三つがぐるぐると回って埋め尽くされていた。
だから油断していたんだ。
俺たちが警戒すべき人種が近付いていたのに、先にイースレイが気付いてしまって言葉を交わしてしまったんだ。
「こんなところで何してる?」
「あ…… えっと、ごめ、なさい」
まずい。貴族らしき人間とは会話しちゃダメだと言っておけば良かった。また何か酷いことを言われたり今度こそ危ない目に遭うかもしれない。
そう、思っていたのに。
「……?確かに俺は貴族だけど、そんなことを言いにきたんじゃない」
ここに来るまで、すれ違う人たちは「孤児だ」「可哀想だ」などとこそこそ話していたり、俺たちが視界に入ると、何か汚いものを見るような目で睨んできたのに。
少し会話を続けていても嫌味すら感じなくて、この人は俺たちに酷い言葉を掛けたりするどころか、わざわざしゃがみ込んで目線を合わせてくれる。
「これ!これ、しってる……?」
母さんから貰ったペンダントを見て少し言葉を失っていた。さらに俺の名前を聞くと顔色が変わって、それから何故か笑顔になった。その笑った顔がとても優しくて、それに少しだけ格好良いと思ってしまった。
いや、惑わされちゃダメだ。いくら優しそうに見えてもこの人は貴族だし、何を考えているのか分からない。一体どういうつもりだろう、明らかに怪しい。
そもそも貴族が俺たちみたいな孤児に優しくするわけがないんだ。
「俺のお家においで」
???何?何で?どういうこと?
この人に着いていけば、あの男からは確実に離れられる。だけど、本当に?このまま連れて行かれていいのかな。
どうしようかと迷っている暇もなく、俺たちはとても大きくてキラキラとした綺麗な馬車の中へと案内された。
「グランヴァイスって…… 領地の名前じゃ……?」
「よく知ってるな。その通りだ」
グランヴァイス、ここの領地と同じ名前の貴族。
このペンダントに彫られている絵が、まさかこの人の家のものだとは思わなかった。
それなのに何でだろう、さっきからずっと俺たちみたいな孤児相手に普通に話してる。貴族というのは皆んな、孤児はもちろん平民自体も嫌いなんじゃないの?
どう考えてもおかしい。しかも、普通の貴族じゃない。この人は警戒すべき怖い貴族だ。
後から何か酷いことをされるんじゃないか、奴隷にしないならこのまま何処かへ売られてしまうんじゃないか、知らないだけで他に俺たちの使い道が何かあるのかもしれない。
イースレイと、離れ離れになったらどうしよう。
「お前たちは、俺の弟になるんだ」
???弟?意味が分からない。
何か企んでいるんじゃないかと思っていたけど、弟になる?この人の言っている意味が本当に分からない。
まさかこのペンダントにそういう意味があるとか?いや、そんなはずあるわけない。
母さんは、俺たちにこれを渡してくれた時に「いつか貴方たちを守ってくれるかもしれない」「絶対に他の誰にもあげたりしては駄目よ」と言っていた。
だけど目の前にいるこの人も、母さんと同じことを言っている。俺たちを守る、何故かそう言っている。どうしよう、でも。
やっぱり怖い。そんな都合の良い話、簡単に信じちゃいけない。この人の言うこと何もかも全部、嘘かもしれないんだから。
俺がイースレイを守らなきゃ、どうなってもそれだけは絶対に変わらない。
「ここが、グランヴァイス侯爵家だ」
本当に着いてしまった。お城のような家も、大きい門も、広い玄関も、同じような格好をした沢山の人たちも。ここにあるもの全てが初めて見る光景で、俺は知らず知らずのうちに眠気が覚めていた。
それから、この人の使う魔法は凄かった。
俺たちを浮かせたり、一瞬で別の部屋へ移動したり、とにかく凄かった。きっと他にも色んなことが出来るんだろう。
例えば、俺たちを傷付ける魔法、とか。
そんな俺の気も知らないで、イースレイは素直に目を輝かせて魔法に感動していた。
でも、俺は知っている。俺には魔力があって、イースレイには魔力が無いということを。
俺は小さい頃、自分の身体が何かおかしいかもしれないと心配になって伝えると、こっそり母さんが教えてくれた。どうして俺に魔力があってイースレイには無いのか、結局その理由は分からなかったけれど、母さんが俺に魔力があることは大きくなるまで秘密にしないといけないと言っていた。
そんなことを考えているうちに、目の前に沢山の料理が並べられていた。
「さあ、どうぞ」
こんなにも温かいご飯はいつ振りだろう。
今まで味わったことがないくらい美味しいのに、何故か母さんの料理を思い出した。
知らない料理もあるし、母さんの作るものとは全然違うのに、とても心がぽかぽかする。母さんとイースレイ、三人一緒にご飯を食べていた頃も幸せだった。
も、幸せ?俺は今、何を。何で。なんで。
どうしてそんな風に思ったんだろう、今は全然幸せじゃないはずなのに。それなのに、何で?何でそう思った?この人は怖い貴族のはずだ。そんな人の前で、俺が幸せを感じるはずがない。
この後、俺たちがどうなるのかも何も分からないのに。
「…… っ、うう」
分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない。
頭の中が、心が、ぐちゃぐちゃになる。苦しい。
泣きたくない。泣きたくないのに、いっぱい目から涙が溢れてしまう。イースレイを守らなきゃ、俺がしっかりしなきゃいけないのに。
この部屋は暖かくて、ご飯は美味しくて、母さんと一緒に食べた時みたいに嬉しくて、イースレイがお肉に喜んでいて、この人だけは優しくて、だけどこの人は怖い貴族で、全部、怖くて。
「どうした?お腹が痛いか?どこか苦しい?」
だけど、もし。
もし本当に何か酷いことをするつもりなら、こんな風に泣いている俺のことなんか構わないはずだ。それなのに、この人は俺たちにたったの一度も嫌がらず何の抵抗もなく接してくれる。
今だって、綺麗な服が汚れるかもしれないのに、わざわざ俺のことを膝の上に座らせて、心から心配している顔をしながら俺が泣き止むのをずっと待っていてくれた。
勇気を出して言おう。
この人は、ちゃんと聞いてくれる。俺たちとちゃんと会話してくれる。きっと、この人だけは、俺が言いたいことを言っても、何故か許してくれる気がするんだ。
「っこわ、こわい…… 嬉しいのに、っ、ご飯も、全部っ、でも、すごく怖いんだ……っ」
上手く伝えられた気はしないけれど、この人は俺の言葉に納得したようで、悪かったと謝ってくれた。それから、俺たちのことを大切にしたいと、酷い真似をする奴らは全部始末すると、そんなことまで言ってくれた。
イースレイのことも抱き寄せて、俺たち二人の汚れたままの髪を触り、さらさらと頭を優しく撫でてくれる。その大きな手が心地良くて、母さんを亡くしてから初めて安心することが出来た。
この人は貴族。しかも、普通の貴族じゃない。もっと怖い貴族のはずなのに、その怖さはもう感じなくなっていた。
「父上と話してくる。食べながら待っててくれ」
「わ、わかったっ!」
「うん…… いってらっしゃい」
お手伝いの人に呼ばれると、ルディノア様は部屋から出て行ってしまった。
「あぁ。食べ切れないなら残してもいいからな」
俺たちは言われたとおり、残りのご飯を口へ運びながらボーッと今日のことを考えていた。
「…… いっちゃったね」
「うん、そうだな」
「…… ぼくね、ルディノアさまのこと、いい人だって…… おもう、けどっ…… にーさんはっ?」
路地で会った時、この人は怪しいと思った。
馬車の中で、嘘吐きかもしれないと思った。
魔法を見た時、傷付けられるかもと思った。
ご飯をくれた時、優しいのが怖いと思った。
「………… 多分、良い人…… かも」
ルディノア・グランヴァイス。
母さんが言っていたように、俺たちのことを守ると言った人。
俺は、あの人のことを信じてみたくなった。