「バースの変化」
バースの隣で一夜を過ごしていた。
翌朝、バースに朝食を与えていると、ウォーが現れた。
ウォーはまずは愛竜バッシュの世話に移っていた。バッシュは軽く嘶きウォーの身体に頭を摺り寄せていた。
竜って気を許してくれるとあそこにまでなるのね。
ヒルダはバースを振り返った。バースは桶に顔を突っ込んで食事をしている。その目が少しの間だがヒルダに向けられた。ヒルダは微笑んで、バースの名を優しく呼んだ。バースは再び食事に集中し始めた。
「よぉ、ヒルダさん」
ウォーが歩んで来た。片手を挙げて差し込む太陽のせいか浮かべている笑みが輝かしく思えた。
「ウォー殿、お役目御苦労様です」
「ヒルダさんもだろう。エシュード殿から聴いたが、竜舎で寝泊まりしているんだって?」
「寝泊まりというか、食事の時は二時間ほど帰宅しますけど」
「まぁ、その……悪かったな」
ウォーがバツが悪そうに言った。ヒルダは覚えが無かったのでただウォーを見るだけであった。
「竜乗りとしての威厳に欠けているとばかり思っていたんだ。今みたいに付きっ切りでという方が正解なのかもしれない。バースはどうだい?」
「バースは大人しいです」
「君が甲斐甲斐しく世話をし、話し掛けているのをバースだって悪く思っていないはずだ。竜は賢い。嫌なら嫌な反応をして見せる」
確かに今のところ、無視はされているとは思うが、邪険にはされていない。
「ところでどうだい、俺とまた空を見に行かないかい?」
空を。しばらく空を飛んだことは無かった。己を鍛え上げるのに時間を割いていたからだ。ヒルダはウォーの誘いに乗ろうとした。
一歩踏み出した時だった。
バースが立ち上がった。
「バース、ご飯食べたのね。えらい、えらい」
だが、桶にはまだ食事が三分の一も残っていた。
ヒルダは驚いていた。バースの体調が悪いのだろうか。
「ウォーさん、すみません、バースが食事を終えていないようなので、お誘いは後日ということでよろしいですか?」
「ああ、分かった」
そしてウォーは囁いた。
「ヒルダさん、バースだが、嫉妬しているように見えるぞ」
「え?」
「バースがあなたに好意を抱いてきた証拠だ。もう少しだと思うよ」
ウォーはそう言うと、去って行った。
ヒルダは振り返り、バースが食事を終えるのを待っていた。
バースが嫉妬を? 私がウォー殿の竜に乗ろうとしからかしら。ヒルダは、ウォーの言葉を思い出す。竜は賢い。そして神竜と呼ばれる賢き竜は人語も話すという。実はべリエル王国との争いの最中、その賢き竜が現れたらしい。帰還した兵士達は賢き竜の奇跡について話していた。戦死したはずの人や竜、軍馬などが、五体満足で、息を吹き返したというのだ。帝国も王国も関係なくである。
ヒルダもそうだが、竜教を信じている帝国の者達は、賢き竜に感謝の祈りを捧げ、もう一頭の神竜、噂では黒い竜らしいが、暴竜と呼ばれる竜に対しても謝罪の祈りを繰り返した。
バースがゲップをした。ヒルダは空になった桶を見て、バースを真っ直ぐ見ると、微笑んだ。
そうして桶を返しに行き、その足で屋敷に朝食のために戻ろうとした時、甲高い鳴き声が轟いた。
ヒルダは振り返った。
職員らも驚いた様子だった。
バースが真っ直ぐこちらを見詰めていた。
「今のは甘える鳴き声だったな」
職員らが話すのが聴こえ、ヒルダはバースのもとへと戻った。
「バース、寂しいの?」
ヒルダが問うと、バースはまるで今発した言葉は忘れてくれと言わんばかりに干し草の上に丸くなり目を閉じた。
「貴方の分のお弁当が必要だな」
ウォーが隣に来て言った。
「お願いできますか?」
ヒルダはバースが気掛かりでウォーに頼んだ。
「勿論、さっそく持って来よう」
ウォーは明るく微笑みながら出入り口の方へと歩んで行った。
バースは起きなかった。
グランエシュードが現れ、バースを空へ連れ出そうとしたが、バースは頑として丸くなったまま動かなかった。
「ううむ、バースは食事は食べたか?」
「はい、完食です」
「便の具合は?」
「普段通りでした」
竜達は早朝、飛び出口の扉が開くと起き上がり、揃って排便をするのだ。バースもまた同じだったので、ヒルダは夜勤の職員らと共に竜のフンを始末していた。別段、変わったところは無かったというのがまだまだ半人前以下のヒルダの見解だったが、グランエシュードは参考にしたらしく、ならば具合が悪いわけでは無いな。と、言った。
「ガランの町が恋しくなったのかもしれんな。だが、今、ガランに戻れば一生、ワシらには懐いてくれなくなるだろう」
「では、どうしたら?」
ヒルダがそう訊いた時に、バースが立ち上がった。
どこで心境の変化があったのか、ヒルダもグランエシュードにも分からない様子だったが、一変して、バースは空を飛ぶための装具をグランエシュードが取り付けるのを待っていた。
「どれ、バース。飛ぼうぞ」
グランエシュードが手綱を引くと、バースはゆっくり四つ足で歩み始めた。だが、飛び出口で、ヒルダの方を間違い無く一瞥した。どこか悲し気にヒルダには思えたが、バースは飛んで行った。
ヒルダは他の職員らと共に、干し草を換えて、バースの寝床を水とブラシで磨いていた。
その間、ずっとバースのことばかり考えていた。
以前のバースとは様子が違う。注意深く見ている方が良いのか。
職員らの言葉を思い出した。「今のは甘える鳴き声だったな」
バースはやはり寂しいのかもしれない。ガランの町に戻りたいのかもしれない。ドラグナージークが恋しいのかもしれない。
私では、その寂しさを埋めてやることはできない。
ヒルダが一息吐いていると、ウォーが戻ってきた。
「ほら、弁当」
「ありがとうございます」
ヒルダは弁当の箱を開いて、葉野菜と肉の挟まったパンを食べ始めた。食べながら、バースにはどうすることが一番適切なのかを考えていた。相談しようと思っていたウォーは、到来を辛抱強く待っていたバッシュに乗り、空へと出て行った。
バースの帰還までまだまだ時間が掛かる。ヒルダは、やはりバースは故郷を離れて寂しいのだと結論付けた。
その悲しみを埋めるにはガランへ飛ぶか、ドラグナージークに会わせるかの二つの選択肢しか今は思い浮かばなかった。




