「空」
風が頬を優しく撫でる。その一方弄ばれる長い髪の毛を束ねるべきだったと、ヒルダは思った。
遠くに山が見え、薄い雲が上空に掛かっていた。だが、陽光の端々が照らし出す青い空というのは綺麗な宝石の埋め込まれた穏やかな川のようにも思え、ヒルダは見惚れていた。
「コロッセオだ」
ウォーが言うと、円形の大きな建物が前方の下に見えた。小さく影のように動くのは人々だろう。シンヴレス皇子の発案と責任で造られた施設と宿場町だが、結果は大成功であった。様々な猛者が集い、手合わせするのを大勢の観客達が見ている。と、言ってもコロッセオに足を運んだのは一回きりで、シンヴレス皇子とサクリウス姫の結婚式の時であった。その時でさえ、円状の観覧席の人々の集った声は凄まじいものがあった。
「ヒルダ殿、少し高度を上げるぞ」
ウォーの声と共にヒルダは彼の両肩を強く握って上昇する圧力に片目を閉じた。
飛行が安定し、ようやく目を開けると、そこには小さくなったコロッセオがあり、遠くの方に別の町を囲む防壁が見えた。
空からだと何もかもが見渡せる。前方に薄い雲があった。
「ウォーさん!」
ヒルダは慌てて叫んだ。
「どうした?」
「ぶつかります!」
するとウォーは大笑いし、手綱から右手を放してヒルダの手の上に重ねた。
「心配御無用」
そのまま竜と二人の人間は薄い雲にぶつかり、抜けて行った。
「あれ?」
ヒルダは眼を瞬かせ後ろを振り返った。そこには雲がある。
「避けてくれたのですね」
「いいや、通り抜けたのさ」
「は?」
「雲ってのは別に雷雲じゃ無ければ、特別害は無い。ま、悪い奴が姿を隠すのには好都合だが」
「あの」
「ああ、悪い。言った通りだ、雲は煙みたいなものなんだ」
「煙」
「だったらもう一つ、突破して見せよう」
また薄い雲の壁が立ち塞がる。
「ウォーさん!」
焦るヒルダの手にウォーは触れたままだった。
「目を開けててみな。心配ないから」
ウォーの言葉にヒルダも雲の正体が本当に煙のようなものなのか気になった。ので、閉じたくなる目を力強く見開いた。
雲の中に入ると、そこは青空であった。
後方に目をやると、雲はそのまま残っていた。
「本当に煙みたい」
「な?」
ウォーは面白そうに言うと、手綱に手を戻した。ウォーのガントレットの感触が無くなり、ヒルダはまた少しだけ不安になった。
「どうする、帰るか?」
「……お願いします」
悩んだ末にヒルダはそう答えた。そう思いながらも、空の何たる自由なことか、ヒルダは鳥になりたいと思ったことがあったが、こんな気分なのだろう。今日はもう充分だ。
「おっしゃ、少し力を入れて捕まりな」
ヒルダが言われた通りにすると、バッシュと名付けられた竜はゆっくり旋回し、正面に見える城と竜舎の影の方へと向かって飛んだ。
2
ヒルダは石の床に足を着いたが、まだ浮遊している気分であった。
「どうだった、空は?」
レッドドラゴンのバッシュもまた、感想を聴きたいようでこちらを見ていた。
「少し怖かったですが、綺麗でした。竜乗りの方々は毎日こんな光景をいつでも見に行けるなんて幸せだと思いました」
「そうかい。確かに幸せさ。こいつもいるしな」
ウォーはバッシュの首を撫でて言った。
「また来ると良い。だが、その時は装備を整えて、髪も結ってな」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあな、気を付けて帰れよ」
ウォーはそう言うとバッシュを連れて奥の方へと歩んで行った。
ヒルダは竜舎を一望し、様々な竜の声と、人の優しい声掛けを聴いた。ここはとても臭いが、楽しい場所だと彼女は思った。
帰り道、ヒルダはこれから侍女頭として働くことに苦痛を感じ始めた。まだ従事して一日も一分も経過していない。
まぁ、たまに乗りに行く程度で良いか。
彼女の頭の中は地上の小さな町の風景と、太陽に輝く何処までも続く青い宝石を思わせる空に締められていた。
空は悪いところでも無いし、竜もまた愛しいとまではいかないが、意外と可愛げのある生き物だと思った。そしてウォーの声、重ねられた手の平。そうだった、再び竜に乗るなら髪を結ってそれなりに武装する必要もある。竜舎の竜乗り達はみんなが騎士のように鎧で固めていた。
ヒルダは、やっとのことで城へ戻ると、侍女の待機部屋に戻った。
その前に、不動の鬼が皇子殿下とサクリウス姫様の部屋の前に警護に就いていたので、彼らの帰還を知った。
そうして日勤の侍女が心配そうに顔を見せた。
「ヒルダ、戻っていたの」
「あ、ごめんなさい、引継ぎできませんでしたね」
「あなたが居ないなんて珍しい日もあるわね。さぁ、聴いたわよ、侍女頭に抜擢されたんですって」
同僚が嬉しそうに言った。
「ええ、まぁ」
ヒルダは曖昧に答えた。
「嬉しくないの?」
「そんなことはないわよ」
嘘だと自分で思った。何故だろう、何故自分を偽る必要があるのだろうか。空へ行きたかった。鳥の様になりたかった。
「それじゃあ、後はよろしくね」
ヒルダは再び待機部屋を出た。
そうだった、装備を見なければ。倉庫に行けば良いのかしら?
ヒルダはそう思って倉庫に行った。倉庫番の守衛は当然驚いたように尋ね返した。
「名のある侍女の方とお見受けしましたが、ここには支給品の武器や防具しかありませんよ?」
「ええ、知ってます。入らせていただきますね」
ヒルダは茫然としている守衛の前を通り、倉庫に入った。だが、間もなく膨大な武器と防具の数と種類に訳が分からなくなり、目が回って来た。駄目だ、私では何にも分からない。ヒルダはダガーナイフを取り、重さを感覚で測ったが、これが竜乗りに相応しい武器なのか分からなかった。大切なことを忘れている気がした。だが、武器も防具もどれも同じに見えてきたため、ヒルダは諦めて倉庫を後にした。
「そうだ、ウォー様に選んでもらえれば良いんじゃないだろうか」
そんなことを思っていた時、一人の女性の声がした。
「え? ヒルダさん?」
「カ、カーラ殿」
カーラはべリエル王国の者だが、今はイルスデンのシンヴレス皇子殿下に仕えている身だ。背も高く、武芸を好んでいる。皇子が結婚する前に、待機部屋を何度か訪れたことがあったため、面識があった。
その時、ヒルダは思いついた。
「あんたもこんなところに来るんだ」
カーラが少しだけ驚きを残して言った瞬間、ヒルダは口を開いた。
「カーラ殿、私でも武装できる装備を一緒に見てくれませんか!?」
今思えば、それは空への思いへの現れだったのかもしれない。だが、ここで自分の人生が少しだけ分岐点を意外な方角へと歩んでいったのだけは分かった。