「社交界」
身体全体が痛む。だが、心地良い。この痛みがいつか力となってくれるのだ。ヒルダは起床すると、ヒルダに合わせて起きてくれている女中二人と門番に見送られ、城と比べてどちらかと言えば遥かに遠い、平民街を脚で駆けた。以前よりも足取りが軽い。一定ペースを保ちながら走っていると、貴族街の夜勤の門番達が声援を送ってくれた。それが励みにもなっている。だが、知っている。他の家の令嬢達や、子息達が、ユシュタリア侯爵の娘は婚期に行き遅れて頭が変になっているのだと噂をしている。そんな時は、愛竜バースの姿を思い浮かべる。必ず竜乗りになって見せる。
ヒルダはランニングを終えて、食卓に着いた。
「お嬢様」
リーフが言った。その顔が少し浮かぬ顔をしていた。
「どうしたの?」
ヒルダは不安に思いながら言葉を待った。
「今日は実は夜から王宮でパーティーがあるみたいです。我が家への報せはきっとどこぞの家で揉み消されたのだと思います。どうしますか?」
ヒルダは思案した。昔なら何ともなかった。それが貴族の令嬢たる務めで、王族に気に入られ、そして意中の相手を探す世界、それがパーティーであった。
「お嬢様どうします?」
今度は年下のヴィアが尋ねてきた。ヒルダは今は竜乗りを目指している。だが、もしも、パーティーにウォーが出席していたらどうしようか。誰かに取られてしまうのではないだろうか。少し不安になった。
「出席します」
すると、リーフとヴィアは目を開いて互いに微笑み合った。この二人もヒルダの伴侶のことを心配していたのだろう。
基礎鍛練を詰み、素振りを二百本終えると、ちょうど、偽の闇騎士が現れた。
「精が出るな。さすがはヒルダ殿」
偽の闇騎士はそう言うと、バルトからラウンドシールドを渡され、距離を八メートルほど取った。
ヒルダの隣ではバルトがショートソード二十二本を抱えて静かに足元に置いた。
「闇騎士殿、御覚悟」
「いつでも来い」
ヒルダはショートソードを掴み柄を握り締めて、顔を伏せずに足を前後に開いて投げ付けた。
剣は相手の顔付近にまで持ち上げられた盾にぶつかった。偽の闇騎士は盾を下ろして言った。
「私のことなど気にせず、狙いを付けてどんどん投げて来るが良い」
その言葉に気持ちに火が着いたヒルダは足元のショートソードを拾い上げて次々、丁寧にそれでも力いっぱい投げ付け続けた。
驚いたのだがしっかり偽の闇騎士の顔辺りに当たっている。盾に突き刺さりはしないものの、ヒルダとしてはこれが間合いを詰める牽制と目くらまし程度にしか考えていないため、気にはしていなかった。
「ヒルダ殿は、今日の城での夜会のことを御存知か?」
「ええ、存じております」
「出られるのか?」
「出るつもりです」
「そうか。侯爵家令嬢として己を恥じずに楽しんで来ると良い」
「はい」
2
日が暮れると、ヒルダの屋敷の前を次々、他の家の貴族令嬢を乗せた馬車が過ぎ去って行く。彼女達もヒルダにも遠方の領地に留まる家族の代理としてこなさなければならない役目がある。それは皇帝陛下やシンヴレス皇子への御機嫌伺いだ。家名をもっと知ってもらうため令嬢達にも頑張らなければならないことがある。
そんな中、馬車の無いヒルダは、薄緑色のパーティードレスを着て、髪の毛を一つに結い、愛馬バロに跨って逞しく登城した。
コロッセオで観客のうず高い声援に慣れているため、プレッシャーにはならなかった。厩舎にバロを預け、ヒルダは明るく煌々とした城へと歩んで行った。
パーティーの行われるダンスホールでは給仕達が盆に乗ったグラスを運びながら、令嬢達は優雅にそれを受け取る。これも技だな、と、ヒルダは感心していた。
檀上で様子を見ていたエリュシオン皇帝と、シンヴレス皇子、サクリウス姫とその胸に抱えられた小さな赤子、チコル様のもとへヒルダも真っ直ぐ挨拶に出向いた。
跪くと、ヒルダは述べた。
「この度は夜会にお招きいただきありがとうございます」
「よく来た、ヒルダよ。どうだ、竜乗りの方は順調か?」
皇帝が尋ねる。ヒルダは知っている、酒を嗜み、互いにおべっかを使いながらも牽制し合う他の令嬢達が聞き耳を立てていることを。
「その節は格別なるご配慮を賜り」
「ヒルダ、竜乗りになるんだね」
言葉を遮ったのはシンヴレス皇子であった。
「この間、ガランから来たフロストドラゴンの乗り手はもしかすると、ヒルダなの?」
「そうでございます」
ヒルダは自分の表情が自然に微笑んでいるのか、心配になりながら言った。
「最初は大変でしょう?」
「はい。なかなか認めてもらえず、今は、竜に貫禄と安心感を与えるために修練に明け暮れております」
「そうなんだ。今度一緒に空を飛ぼう」
「必ずやそうして御覧に入れます」
ヒルダは立ち上がろうとした。その時、チコル様が泣き始めた。サクリウス姫が席を立ちあやし始める。その後を護衛するようにヒルダの隣から進み出たのはウォー・タイグン。その人であった。ウォーはヒルダにウインクし、サクリウス姫達の後を追った。
「あの方は、べリエル王国から来た方だ」
皇帝が紹介してくれた。
「はい。ウォー・タイグン殿ですね」
「知っていたか」
皇帝は意外そうに述べた。
そうしてヒルダは他の令嬢に場を譲るために挨拶し、その場を後にした。
ヒルダは特に親しい令嬢もいなかったため、ウォーも忙しいようなので、これで帰ろうと思っていた。その時、近くの令嬢達の声が聴こえた。
「竜乗りだそうですわよ」
「仕方ありませんわ。売れ残りが選ぶ道にしてはマシな方でしょう」
「わたくし、見たのですけど、馬車では無く、自ら馬に乗ってお城まで来られたのよ」
「まぁ、殿方みたいな方ですこと。野蛮ですわ」
ヒルダが通り過ぎようとすると、令嬢らは哄笑を発し、ヒルダを苛つかせた。やっぱりここは私の居場所では無いわ。帰って素振りでもしていた方が良いかもしれない。
その時だった。
「ヒルダ殿!」
呼ばれて顔を上げれば正装のウォー・タイグンが腰にあるおしゃれな鞘に収まった直剣提げてこちら歩んで来た。
「ウォー殿」
ヒルダが言った途端、彼女を馬鹿にしていた令嬢達が瞠目してこちらを凝視していた。
「サクリウス姫様とチコル様の方は良いんですか?」
「ああ、不動の鬼殿が代わってくれた」
「そうでしたか」
ウォーは給仕から赤ワインの注がれたグラスを二つ受け取って、ヒルダに一つ渡した。
「チコル様に乾杯」
「はい」
二人はグラスを軽く当てた。涼やかなガラスの音色がした。
「最近はどうだい?」
「はい、良い師に恵まれ、投擲の練習も始めました」
「そうだったんだ。その師は良い人かい?」
「ええ。顔は見せてくれませんが、とても熱心に指導して下さります」
「良かった」
「え?」
「いや、こっちの話しさ」
ウォーは慌てたように言った。
「バースはどうしてます?」
「元気だよ。まぁ、君の帰りを待っているというわけではないかな、今のところは」
「そうですか」
ヒルダが残念に思った時に楽器が演奏された。
グラスを偶然通りかかった給仕の盆に乗せ、ウォーが跪いた。
「ヒルダ殿、私と一曲踊っては下さいませんか?」
「ええ、喜んで」
ヒルダも給仕にグラスを返した。
ウォーが手を伸ばし、その手を掴む。
ホールの中央へ歩んで行く際に、令嬢らの驚いた視線を見ることが出来て、満足、というよりは冷や冷やしながら安堵した。




