「バースとヒルダ」
バースが戻ってきた。グランエシュードは早くもバースの心を掴んでいた。これはさすがとしか言いようが無い。
「バースはどうです?」
ウォーが尋ねると老兵は言った。
「初めは大人しかったが、やんちゃな性格をしているよ。これを町の予備役にするなど、到底無理だろう」
グランエシュードがバースの首を撫でた。ヒルダはその様子を見ていた。バースはすっかりグランエシュードを主と思い込んでいるようだ。
そうだとしたらあなたにとっては幸運だったのかもね。ヒルダは軽く嫉妬しバースを見詰めていた。
グランエシュードがヒルダに手綱を渡した。
「寝床へ連れて行ってあげなさい」
「はい」
ヒルダは嫉妬も忘れて祈る思いでバースが言うことを聴いてくれることを望んでいた。
だが、現実は上手くいかないものだ。バースは踏ん張った。
「バース、行こう? ね?」
ヒルダが優しく声を掛けると、バースは大きな声で喚いた。
一瞬、竜舎が静かになり、人々と竜達の視線がこちらに集まった。ヒルダは恥ずかしい思いをした。それに竜乗りの才能というものが無いのでは無いかと思い始めた。
「バース、大丈夫よ、落ち着いて」
ヒルダが首に触れようとした瞬間、ウォーが横からヒルダに跳び付いた。
空を切る咢の音。硬い石畳に背を打ちつつウォーの肩越しにヒルダはバースを見た。今、バースはヒルダに噛みつくところであった。ウォーが押し倒してくれなかったら、ヒルダの右手は千切れていただろう。
ヒルダの心は最初は恐れだったが、だんだんバースへの憎しみへと変わって行った。
「どうして言うことを聞いてくれないの?」
悲痛なヒルダの声に彼女に手を貸しウォーが言った。
「それはあなたのことがまだ分からないからだ。ガランでは余程優しい乗り手達に可愛がられていたのだろうな」
ウォーが手を伸ばすとバースは撫でられるままだった。
「手綱を引いて、あなたが連れて行くんだ。恥ずかしくなんか無い。竜乗りなら誰でも通る道だ」
「分かりました。バース行くわよ」
ヒルダはゆっくり手綱を引っ張る。そこにグランエシュードが来て餌の生肉をバース目掛けて放り投げた。
バースはそれを食べると、機嫌良く歩み出した。
「最初はこの方法に限る。ヒルダ殿も試してみると良い」
ヒルダは布のグローブで肉切れを受け取った。
「バース」
ヒルダが引くと、バースは少し歩いた。ヒルダは肉切れをバースに向かって放り投げた。青く長い首を動かし、バースは御褒美を受け取ると、今度は自ら詰めて来て、ヒルダを圧し潰すところであった。
ヒルダは途端にバースが可愛く思えた。先程まで、恥を搔かせたことを憎んでいたのに、何という心変わりの早さだろうか。グランエシュードのおやつ作戦はこうして上手くいき、バースはヒルダとウォーが掃除した自分の寝床へ収まった。
「これからは午前中は毎日通ってバースを可愛がって上げなさい」
グランエシュードの言葉にヒルダは頷いた。
「でも、午後は?」
「午後は巡回に割り当てられた竜でない限り昼寝の時間だ」
「そうですか。分かりました」
ヒルダはバースを見た。バースは満足そうに身体を丸め、尻尾を鼻先に乗せて眠り始めていた。
グランエシュードに礼を言うと、老兵は他の竜乗りのところへ歩んで行った。
「ヒルダ殿、これで午後は闘技の稽古が出来るな」
「え?」
ヒルダは驚いた。ウォーが何故そのことを知っていたのだろうか。
「私が出ているの見ました?」
「いいや、宮廷中の噂だよ。元侍女の侯爵令嬢が竜乗りになって、更には闘技にも出場したって」
ヒルダは恥ずかしさで両手で顔を覆った。肉の生臭さがあったが、そんなことどうでも良かった。みんな知っているのだ。元侍女が、貴族の侯爵令嬢が、はねっかえり者かおてんば娘の様に武器を手に取り竜に乗っていることを。
「良い宣伝だと思うぜ。これで貴方は逃げられない。立派な竜乗りになり、闘技ではチャンピオンを打ち負かす。目標が出来て生きるのが楽しくなるさ」
「……そうですね」
ヒルダは顔から手を放した。そうとも、ここまで来たら逃げられない。堂々としていよう。自分は竜に乗り、闘技場ではウィリーや、ヴァンやドラグナージークらと語り合えるような猛者になるのだ。
「さぁ、バースのことは今日はもう良いから帰って鍛練だ」
「はい」
ヒルダは頷いてウォーのもとを去り、バロに乗って屋敷へと引き上げた。
2
夜が明ける。ヒルダは早起きするが、それを知っていたかのように女中のリーフとヴィアが朝食の準備に取り掛かっていた。
「お嬢様、おはようございます」
女中二人がこちらへ身体を向けて挨拶をした。
「おはよう。ごめんなさいね、あなた達に早く起きて貰うことになって」
「私達なら心配要らないです。お嬢様はバロの方に行ってあげてはどうですか?」
「そうするわね」
ヒルダは外に出た。そこで槍を突いては戻すバルトの姿があった。
「おはようバルト」
「お嬢様」
バルトは槍を小脇に抱え、こちらを向いた。
「おはようございます」
「稽古に励んでいるのね」
「いやぁ、稽古とは言えませんな。気まぐれに槍の感覚を確かめていただけです」
バルトが苦笑いしながら言った。
バロも目覚めており、ヒルダは物置から毒性の無い野菜を桶いっぱいに入れて、バロのもとへ置いた。
愛馬は感謝するように鳴き、食事を始めた。
バースはお腹減っていないかしら。
日が昇るのが早いとはいえ、まだ四時半だ。愛竜となったバースはまだ眠っているだろう。だが、職員の手よりも自分の手でバースに食事を与えたかった。
ヒルダは食事を終えると、装備を整え、バロに跨り竜舎へと赴いた。
竜舎に着くと夜勤の番兵が慌てて姿勢を正した。
「お早いですね。まだ誰も来ておりません」
「そうでしたか。中に入ることはできますか?」
「申し訳ありませんが、新人のあなただけを通して竜達の神経が昂ってしまったら止めようがありません。他に誰か来るまでお待ちになって下さい」
番兵は丁寧にそう述べた。
ヒルダはならばと、番兵に言った。
「剣の稽古をつけては貰えませんか?」
「私がですか?」
番兵は驚いた顔をした。
「はい」
「まぁ、剣の心得はございますので、では」
番兵はブロードソードを抜いた。
「よろしくお願いします」
ヒルダはグレイグショートを抜いて番兵に躍り掛かった。




