「ヒルダの竜」
屋敷に戻ったヒルダは、特別室で出会った二人の男の会話がとても羨ましく思えた。ヴァン、そしてドラグナージーク、あるいは憧れのウィリー。彼らの会話には何気ないものだが、百戦錬磨の輝きがあるように感じた。
自分も彼らの会話にいつか加われる日がくればと、屋敷に帰宅するなり、彼女は素振りを始めた。カーラや偽者の闇騎士の教えを守り、忠実に着実に、心を籠めて剣を振るった。
バルトに相手を務めさせ、実際にも打ち合ったが、闘技場とは無縁の門番にすらヒルダは苦戦していた。フレデリック程度に苦戦していては駄目だし、マルコ相手にも素早く間合いを詰めて斬り込む練習をした。
「お嬢様、真面目なのは結構ですが、本来の目的をお忘れではありませんか?」
剣と槍越しにバルトが言った。
「忘れてなんかいないわ。私は竜乗りになるために剣の腕を磨き続けなければならないの」
そう言いながら、本当はヒルダは竜がまだ来ないで欲しいと思っていた。まだまだ足りないのだ。実践が。あの男達との会話に誇りをもって加わりたい。そのためには闘技で勝ち上がって行くしか道は無いのだ。
だが、一方でヒルダは自分が信じられなかった。闘技に参加することも、竜乗りになることも、何もかもが夢のまた夢のような心地であった。だからこそ、現実にしようと、剣を振るう。基礎トレーニングを積む。動きやすい布鎧でも良いが、いずれは鉄の鎧に身を固めたかった。人生に張り合いができることがこれほど辛くも楽しくもあるとは思わなかった。ヒルダはひたすら鍛練に打ち込んだ。
そんなある日、緑色の髪を伸ばしたウォー・タイグンが訪ねて来た。
「ヒルダ殿、相変わらず頑張っているな」
庭先で剣術を披露していると、いつの間に見物されていたのか、ウォー・タイグンが立っていたのだ。
流れるような彼の緑色の髪を風が弄んでいた。
「ウォー殿、何か御用ですか?」
「ん、ああ。君の竜が届いたよ」
それは竜乗りとして嬉しいことだったが、今はコロッセオの闘技に向けて修練中であった。竜など邪魔なだけだった。などとは言えない。自分は竜乗りなのだから。手にしているグレイグショートがその証であった。
「見に行くかい?」
「当たり前です」
自分の竜だ。自分で世話をしなければならない。馬のバロの時のように親睦だって深めなければならない。そして一度、空を飛びたかった。
「じゃあ、行こう。バロに乗って」
「私の馬の名前を御存知だったのですね?」
「え? あ、ああ、いつぞや君から聴いた」
ウォーには珍しく迂闊を踏んだような取り乱したような答えであった。
もしかしたら、以前、会った時に話していたのかもしれない。ヒルダは厩へ駆け、バロを宥めて手綱を引いてきた。鞍と鐙を装着して馬上の人となると、ウォーが頷いた。
「行こうか」
「はい」
二人は貴族街を抜け、城の門の前で左手に進路を変え、馬を叱咤し急峻を駆け上がった。
「ウォー殿に、ヒルダ殿、どうぞお通り下さい」
番兵が閉ざされた竜舎の入り口から退いた。二人は彼に馬を任せて竜舎へと入る。
竜の小さな鳴き声がそこら中から聴こえ、職員らが藁を取り替えたり、食事を与えたりしていた。
「竜のフンを踏まぬようにな」
ウォーが言った。
この部屋のにおいは、藁と竜の糞尿によるものだとヒルダはここでようやく気付いた。そうだ、竜だって排泄する。ウォーに案内されて行くと、一匹の濃い青色の鱗に身体を覆われたフロストドラゴンが四つ足で立っていた。
老兵グランエシュードが職員ら数人と竜の前で話していた。
「エシュード殿、ヒルダ殿をお連れしました」
ウォーが言うと、グランエシュードはこちらを振り返って微笑んだ。
「ガランから来た竜だ。名前をバース。七メートル級の竜だよ」
「バース……」
ヒルダが口にすると、竜は素早くこちらへ顔を向けた。あれだけ最初は恐ろしかった竜の顔が途端に可愛いものに思えてきた。
「バース、あなたの主よ。友達として一緒に空を飛びましょうね」
その時、ウォーがヒルダの身体を引っ張った。
バースは口を開け、冷気を吐いたのだ。
「お互いに信頼を勝ち取るまで、油断はしないように」
ウォーが言い、ヒルダは心臓が早鐘を打つのを聴きながら頷いた。
穏やかそうな顔をしているけれど、今の私は初めて出会う人物だ。これぐらい警戒されてもおかしくはない。
「バースは餌をたらふく食べた。そろそろ飛びたい頃だろう」
「私が乗っても大丈夫ですか?」
「いや、ヒルダ殿、あなたはまずはバースと仲良くなりなさい。空を飛ばすのはワシがしばらくやろう」
老兵グランエシュードが言った。
「行くぞ、バース」
バースは小さな声を上げてグランエシュードに引かれて行った。ヒルダはバースが飛び立つ最後の瞬間まで見守っていた。
「さぁ、ヒルダ殿、バースの居場所を掃除するぞ。竜はああ見えて綺麗好きだからな」
ウォーが言い、ヒルダはどうすれば良いのか分からず、ウォーに教えられるまま、尿臭い干し草を担ぎ上げて、所定の場所へ戻すと、石の床に散らばった一部潰れたフンを手で取ろうとした。
「ヒルダさん、無理しないで。手袋があるから」
ウォーが軽く笑った。
大きな大きな竜のフンを土嚢袋に入れて、持ち上げてこれも所定の場所へと積んだ。
「知ってるかい? 竜のフンは土壌を良くする効果があるんだ。これをありがたがる人々に売るんだよ」
「農家の方ですか?」
「そうだね」
「今の内に床をピカピカにしておいた方が?」
「ああ、ブラシがあるから水を汲んで来て擦ると良い。ブラシにも二種類あって、清掃用のものと、竜の鱗を洗うものがあるんだよ」
ウォーはそう言うと竜舎の左隅に案内し清掃用のブラシを渡してきた。その足で、室内にある井戸へと赴き水を汲み上げる。
「私が持ちます」
ヒルダはブラシと桶を持ってバースの寝床へと戻った。そして一生懸命床を磨き始めた。
「それだけ熱心ならバースもあなたを認めてくれるさ」
「そうだと信じたいです」
磨き終わると新しい藁束を持って来て設置する。藁の使い道は床に敷くもの、周囲を囲むものの二つだ。
これだけで一時間近くかかった。だが、ヒルダは思った。全然疲れが来ない。筋肉が裏切らない証拠ね。
ヒルダはそれでも一仕事終えて大きく息を吐いた。
あとはバースが帰って来るのを待つだけであった。




