「偽物」
ヒルダは慌てて目を開いた。薄暗い天井に見覚えは無い。だが、記憶が素早く甦った。
闘技に出たのだ。一人には勝って、もう一人には負けた。身を起こすと、頭と首と肩が痛み、思わず呻いた。木の長槍が脳裏を過ぎる。あれが頭上から振り下ろされ、叩いてきたのだ。
部屋を見ると、ベッドがたくさん並んでいた。さざ波の様に聴こえる音は観衆の声で間違いないだろう。そうすると、ここはコロッセオの休憩室なようなところだろうか。
部屋には誰もいない。だが、いつまでもここに厄介になるほどの痛手は受けてはいない。ヒルダは部屋から出ることにした。
それにしても、今の試合を闇騎士は見ていたのだろうか。騎馬戦とは言え、自分が教え導いた言わば弟子がこんな無様な敗退をすることに失望してはいないだろうか。しかし、チャンピオンが闇騎士だとは驚きの事実であった。
簡素な木の扉を開けると、薄暗い廊下があった。この部屋は控室の並びなのだろう。だとすれば、会場に出る資格は今は無い。
ヒルダは受付へと引き返す。途中、ジェーンが選手を案内するところに出会った。笑顔が向けられるだけかと思ったが、ジェーンは立ち止まった。
「ヒルダ、大丈夫だった? 二回戦目の相手がマルコ・サバーニャなんて、あなたついてなかったわよ」
ヒルダはジェーンの心配する顔を見て微笑んだ。
「私は大丈夫です。良い経験になりました」
「そう、それなら良いけど」
ジェーンはまだ不安げな顔をしていたが、出場者を案内する役目に戻り、薄暗い廊下を歩んで行った。彼女の言葉が呼び起こされる。ついてなかった。勝負は時の運とも言う。最初に戦ったフレデリック程の戦士となら、辛うじて勝てるだろう。だが、結局、敗北したのは簡単だ。闇騎士が言ったように戦いの勘が磨かれていないこと、そしてまだまだ筋肉を鍛える必要があることだ。今回、筋肉は自分を裏切らなかった。逆に裏切ったのは自分の何処か平和ボケした危機感の無さであろう。
ようやく周囲が明るくなり出口が見えた。
「ちょっと! ヒルダさん!」
通り過ぎようとすると受付嬢が慌てた様子で名前を呼んだ。
「どうかしましたか?」
ヒルダが問う。
「賞金、忘れてるわよ。一回戦突破分の褒賞金」
そういえば、そうであった。
銀貨が一枚であった。
「次こそ、上に行けるように頑張ってね」
受付嬢にそう言われ、ヒルダは頷いた。
さて、これからどうしようか。現在身体を痛めている。コロッセオの外で考えていると、黒い影が隣を進んだ。
「闇騎士殿!?」
ヒルダは思わず声を上げた。
「ん?」
相手足を止め振り返った。
「何か用か?」
あれ?
初対面のように言われ、見て見れば黒塗りの鎧兜で身を固めてはいるが、ヒルダの知る闇騎士とは格好が違っていた。
「闇騎士殿……ですよね?」
「そうだが」
声も少し違っていたし、訝し気な雰囲気である。
「私に馬上戦を教えてくれた?」
「俺が貴殿に教えを? そんな覚えは全くないが、誰かと勘違いしているのではないか?」
闇騎士はそう言うと入り口を潜り見えなくなった。
ヒルダは茫然とした後、今の男は確かに自分の知っている闇騎士では無かったと思った。今の闇騎士が決して冷たかったわけでは無いが、ヒルダに教えてくれた闇騎士には温かみがあった。
だが、そうなると、どちらかが闇騎士という名前を詐称しているのだろう。ヒルダは少し考える。今のがチャンピオンの闇騎士である。おそらく誰もが知る闇騎士であろう。ならば、本物かもしれない。では、何故、自分を教え導いてくれた闇騎士は自らを偽ったのか。全くの謎であった。
ヒルダは入口へと駆け戻った。
「闘技に出られるのは一日一回までよ」
受付嬢が言うと、ヒルダはかぶりを振った。
「観覧席、空いてますか?」
ヒルダはいずれ出て来るであろうチャンピオンの闇騎士の方が偽物なのか見極めたいと思っていた。
そうして明らかに高値のゲスト席のチケットを買うと、案内人が現れ、丁重に一階の大きな個室へと連れて行ってくれた。
2
この席は窓にはガラスが無く、謁見の間にある様な金色刺繍の赤いカーペットが敷かれていた。そして窓越しに長いテーブルがあり、高価そうな椅子がある。実はヒルダはここへ入ったことがある。シンヴレス皇子とサクリウス姫の結婚式の際、皇帝陛下とここで式の様子を見詰めていた。
「お飲み物は?」
「いいえ、何も要りません……と、思いましたが、お茶を下さい」
「分かりました」
宮仕えのような案内人兼給仕にそう言うと、ヒルダは目の前の試合を見ていた。
「お持ちしました」
「ありがとうございます。ところで、今は何回戦目ですか?」
「ウィリー選手の十回戦目です」
「では、ウィリー選手がここで相手を倒せば」
「はい、チャンプに挑戦です」
ヒルダが尊敬するウィリーが、両手持ちの木剣を振るい、相手の甲冑戦士に次々打ち込んでいた。相手もどうにか挽回しようと、甲冑装備を思わせぬほど、軽快にステップを踏み、ウィリーの剣を惑わせた。そして相手が身軽に赤色のマントを靡かせ頭上高く飛んで、反対側へ下り、胴を薙ごうとした。
ヒルダは思わず、「あっ」と声を上げた。ウィリーに勝ち残って欲しかったからだ。ウィリーが防衛に成功すればチャンプの闇騎士との試合がすぐに見られる。だが、そうじゃ無ければ、最初から仕切り直しだ。
だが、ウィリーは素早く剣を繰り出し、半身だけ回して受け止めた。
そして轟雷の如く咆哮を響かせ、剣を剣に叩きつけた。
木の軽い音色が響いた。
その時、扉がノックされ開いた。
背が高く少しガラの悪そうな若々しさを残す中年の男が入って来た。甲冑に身を固め、マルコ程ではないが長く重そうな太い槍を手にしている。
「これは、ヴァン様」
ヒルダを案内してくれた者がそう言って、軽く頭を下げた。
「ウィリーとドラグナージークだろ? どうなってる?」
ヴァンが尋ねて来たのは案内人では無くヒルダであった。
「私も今来たところですが、両者ともに譲らないですね」
「いつもと一緒か。このままだとドラグナージークが負けるな」
ドラグナージーク? ヒルダは首を傾げた。竜傭兵という意味だ。
ヴァンはガラスの無い窓に首を伸ばし、声を上げた。
「ドラグナージーク! お前が空だけじゃないって証明してやれ!」
そしてヴァンはこちらを見た。
「嬢ちゃんはどっちに勝って欲しい?」
鋭く睨まれ、息が詰まったが、ヒルダは堂々と答えた。
「ウィリー殿です」
「ウィリーのファンか?」
「それもあります。けど、私はチャンピオンの闇騎士殿に用があるのです」
「闇騎士に?」
「ええ」
「ふーん……」
ヴァンはしばしヒルダを不思議そうに見た後、観戦に戻った。
目の前の戦いは激化している。自分やフレデリック、マルコでは及ばない戦いがそこで繰り広げられている。
闇騎士殿の戦いを早く見たい。本当に私に手解きをしてくれた闇騎士殿なのか見極めたい。
ヒルダは祈りながら激闘を見詰めていたのであった。




