夢見たあの人、青いリボン
春の夢見とは、特定のある春の日に予知夢や過去夢などの不思議な夢を見る現象である。
咲耶
高校生活も半ばに差し掛かった頃から、奇妙な夢を見た。
深い藍色の着物に、くすんだ白色のエプロンを着けて足元は黒い革のブーツを履いた私がどこかの家で働いている。どうやら掃除や洗濯など家事をこなしている召使いようだということを何度か夢見るうちに理解した。
いやに精巧で生々しく"日常"を見せるその夢は、しかし全編が白黒の世界で構成されているから、どれだけリアルに作られていても所詮は夢なのだと思えた。
「…………、…………。」
自分が誰かと話している。言葉は何一つ耳に拾われずに交わされた言葉だけが滑り落ちていく。勝手に自分の口が開いたり閉じたりするのが堪らなく気持ち悪いが、これも夢と現実の違いと思えば我慢もできた。
「これを」
唐突に、初めて夢の中で聞いた音は語りかけられる声だった。渋味を孕んでもなお甘い、年上の男の声だった。
その声と共に差し出された手に乗せられていたのは、上質な生地であつらえられた青さの格別鮮やかなリボンだった。
「……夢ではじめて声が聞こえた」
夢の中で贈られたリボンをそっと男の手に戻し、何の感慨もなくともすれば突き放すようにその手ごと押し戻したら、夢から醒めた。
何度か瞬きをして瞼にゆるく絡む眠気を払う。その後にゆっくりと体を起こして机の上に置かれた青いリボンを見る。夢から涌き出てきたわけでもなんでもなく普段から何となく気に入って使っているものだ。
あの白黒な夢の世界で、リボンの色だけは何故か鮮やかな青色だと分かったのだが、それになにか意味はあるのか。所詮は夢。意味を考えても作り出した自分の頭ですら分からないことの答えを、一体どこに求めるというのか。
「夢の中では突き返していたのだけれど」
鏡の前で髪を軽く半分結い上げてリボンで飾ったいつもの自分を見て小さく笑った。
「歴史的に見ればたった14年間の短い期間だが、その間に今に繋がる日本独特の文化が多数生まれた重要な期間でもある。いわゆるモボ、モガというのは――」
日本史の解説をする教師の声が耳を上滑っていく中、私は夢を思い出していた。書き留めなくても不思議と、この夢に関することだけは忘れたことがない。
「人類史上初めての世界大戦も、この時代に開戦している。この戦争は人類史の大きな転換点ともいえる。事の発端は――」
教師の声が滔々と流れていく合間にチョークが黒板で削れていく音が挟まる。一種の睡眠導入剤のような授業はちらほらと居眠りする者を出す。世界の織り成す歴史は、一個人にとっては大きすぎて現実感を得られないからだ。
だから授業の真っただ中にぼんやりと考え事をしている私を見咎める人間は、この空間において存在しない。
「消しゴムを貸してくれないかな」
他の誰にも聞こえないようなほんの小さなたった一言が、私の穏やかな午後の空気に亀裂を入れた。
「家に忘れて来てしまったみたいで。ごめんね」
声変わりを終えたばかりで不安定に掠れた少年らしいその声は、どうしてだか無性に夢の中の渋くて甘い男の声を思わせた。
「お嬢様にお借りしたらよろしいのでは?」
「え?」
きょとんと目を丸くした彼の顔を見て、はたと我に返った。
「……いえ。どうぞ」
「ありがとう、助かるよ」
特に気にする様子もなく笑むのを見てほっと胸を撫で下ろす。
口をついて出た言葉は明らかに夢の中の男性へ向けた言葉で、気まずさやら恥ずかしさやらで頭を抱えたくなった。夢の中の出来事を現実に持ち出して他人に投げ掛けてしまうなんて。夢と現実の区別がつかなくても許されるのは子供の間だけだ。
恥ずかしさと情けなさと気まずさに苛まれる私は、隣からの視線に気づくこともなく。あるいは、気付きかけているのを無理矢理押し込めて目を逸らしていた。
「"お嬢様にお借りしたらよろしいのでは?"」
随分と刺々しい言葉だと思う。それも私の口から出ていけばたちまちのうちにただ淡々と突き放すだけの冷たい言葉に変わっていた。
「夢の中の私もあの人に対して冷たかった、のとは少し違う。鬱陶しがっていた……?」
感慨もなく贈り物を突き返していた私は可愛げがなかったと思う。
「だとしても、あんなにはっきり物を言う私……深層心理ではあたりが強いのかしら」
木の陰に設置されたベンチに座って、一人でお弁当のウィンナーをつつく。決して友人がいないわけではない。たまに考えをまとめたり気持ちを落ち着けたいときにここでゆっくりご飯を食べているだけである。
「”私”はとある富豪の召使いで、あの人に興味がない。あの人は昔書生だった人で、お嬢様の婚約者。お嬢様はとてもあの人のことが好き」
忘れないとはいえ、結構な情報量を順不同に詰め込まれると流石に頭が混乱してしまう。なのでお弁当のおかずを咀嚼しながら記憶を思い出して並べ替えていく。
新学期を迎えてしばらく経ったこの時期、春とも夏ともつかない暖かな空気がゆるく風に乗って流れてくる。そよそよと風に流れるままにさせている髪が青いリボンと絡んで揺れている。
「ねえねえ志貴! せっかく購買まで来たんだからデザートも買っていこうよー?」
悶々と考え込んでいると、左の道の少し向こうの方から人が近くまで来ていたようで、その屈託のない元気な女の子の声が耳に刺さった。何故なのかとても耳障りだ。
もう少しすれば昼食を終えて、この道を移動に使う生徒がやってくる。そうすればこの静かな時間も終わる。そう考えて惜しみつつも半分手つかずのお弁当を仕舞い始めていた時だった。
「咲耶」
掠れた声が私の名前を呼ぶ。染み入る声が頭蓋を揺らして、あの渋くて甘い声がフラッシュバックする。視界の端には鮮やかな青。
私は座ったまま。向こうは道の半ばで立ち止まって、視線だけが絡む。生ぬるい風が肌を撫でていく間、二人して時を止めたように動けなかった。
「ね、ねえ、志貴……?」
彼の隣に立っていた女生徒の困惑したような、何かにおびえる様な声を聞いて、私は咄嗟に立ち上がってその場から立ち去った。曖昧な季節の風に乗って何故か、むせ返るような血の匂いを感じる。けれどきっとこれは、夢の中の幻だ。
その日の夢には全てに色がついていた。色味がないと味気ないな、などと考えていた私は、いっそのこと色なんてついていなければこんな気持ちにならなくて済んだのに、と考えてしまっていた。
「おとうさま、おかあさま」
小さな”私”が夕暮れの薄闇の中で血の海の中に浮かんでいる。珍しく夢の中の私と融合していない私の目の前で、幼い”私”が動かない父と母を揺するのに合わせて厚手の着物が血液を含んで重たくゆらゆらしている。二人は返事を返さず、半開きの戸から雪が吹き込む冷たい床に転がっている。
「おとうさま、おかあさま」
霜焼けた紅葉の手をさすりながら父と母を起こそうと懸命な”私”を、何もできない私は第三者の視点でずっと見つめていた。
「要りませんと言ったではありませんか」
自分の口から出た投げつけるような声に、はっと驚いて我に返った。今度はどうやらいつもと同じ一人称視点の夢で、世界は変わらず白と黒でできている。知らずほっと息をついた。
”私”は暗い木造の建物の廊下で掃除の途中といった様子だった。天気が良くない為に薄暗い。締め切った窓の隙間から冷たい風が入り込んできているから、きっと秋か冬だろうと思った。
すっと目の前に手が差し出され、その手の上には贈り物であろう何かを包んだ鮮やかな青い小さな風呂敷包み。
「君の為に用意したのに」
どうしても私が受け取らないことを悟った男が目の前で包みを解いていく。中からは丁寧にあつらえられた真珠の首飾りが姿を見せた。
「……いち召使いには使う機会もありません。どうぞ、お嬢様へお贈りくださいませ」
「君に受け取って貰えないのなら処分するさ。また気に入りそうなものを持ってくるよ」
受け取って貰えなかったことに対しては悲しそうな顔をするくせに、用意した首飾りには少しの未練もないのか乱雑に懐へ仕舞いながらこちらを見て甘く微笑む。
「いつまでこんなことを続けるおつもりですか」
「君が僕の手から受け取ってくれるまで」
この男はきっと私が気に入りそうだと思った物は何でも持ってくるのだろう。金に糸目を付けないを地で行く男なのだ。
「……では、以前持ってらした青い綺麗な布を頂けますか。受け取りますから、もうこんなことはおやめ下さい。お嬢様の婚約者という自覚を持ってくださいませ」
「ありがとう! わかったよ、君が望むなら」
目元を薄く赤らめて蕩けるように笑う男に、本当に分かったのかこの男? と問いただしたくなるのを息を吐きながら抑え込んだ。
慎重に行動していたのに、いつからか一目惚れだなどと宣う男に付きまとわれるようになっていた。いつかこのような場面が露見してしまえば、仕事に暇を出されてしまう。それだけは避けなければ。私はまだ何も成せていないのだから。
「良いリボンをつけているのね」
顔を声の方へ向ければ、上等な着物をきっちりと着て上掛けを羽織っているお嬢様が立ってこちらを見ていた。
また日が変わって、着ている服も着々と冬へを向って暖かなものへと変わっている。己の格好をみやりつつも感じる彼女の視線は刺々しく、嫉妬の炎を隠す気もなくちらつかせていた。理由は明白なもので、自分の婚約者である男が私に贈ったこの青いリボンである。お嬢様としては気分が良い訳がなく、私はこれを頂いて身に着けた日からたびたびお嬢様に絡まれていた。
”私”は聞こえない程度に溜息をついて、料理の手を一旦休めてお嬢様の方を振り向いた。
「あなたのお給金で買ったの?」
「……頂きものです」
「そうよね。あの方からでしょ? 志貴さま、とってもあなたの事気に入っているもの」
そうですね、なんて軽い相槌は口が裂けても打てなかった。
「いいな、とっても綺麗な真っ青。あなたのまっすぐな長い黒髪に似合ってる。ねえ、どうしたらそんな綺麗なまっすぐの髪になれるの?」
「生まれつきですので……」
「肌も真っ白でお顔も綺麗。志貴さまもまっすぐな黒髪がお好きだって言ってたの。あたしが欲しいもの、全部持ってるのね。それなら、そのリボンくらい、私にくれてもいいんじゃない?」
お嬢様の声はか細く震えて目には涙の膜が張っていた。どうしても気持ちが抑えきれなくて溢れ出してしまったけれども自分ではもうどうしようもないのだと身勝手にも訴えているのだ。
これをお嬢様に渡すことを考えたとき、私がこのリボンを身に着けるのを毎回この屋敷を訪れるたびに確認しては笑って喜ぶ彼の顔が浮かんだ。それをすぐに振り払い、気に入っているからだと考え直す。何だかんだ言っても初めて手にした美しいものに愛着が湧いていたから、わざわざいつも身に着けていたのだ。
「……ですが」
「お父様に言いつけてもいいのよ!!」
愛着から出た私のためらいの言葉を聞いたお嬢様が顔を真っ赤にして叫んだ。
「わ、私の婚約者を召使いが奪おうとしているって! あなたはこの屋敷から追い出されて仕事も身寄りも失ってしまうわ!」
「……」
私に向って脅しをかけながら悲劇の渦中にいるかのように声を張り上げるお嬢様の、なんと醜く滑稽なことか。容姿の話ではない。自分を何も持っていない不幸な人間と思い込み、ないものねだりで挙句他人のものを羨む。自然と感情が色を失って冷えていく。
私から父を、母を奪ったのはお前の父親なのだと言ってしまったらどんな顔をするのか。事を成すまで暴露する気はさらさらないが、自分は何も持っていないなどと嘯く者には、どうしても神経を逆撫でされる心地しかしなかった。あの親にしてこの子あり、とはまさにこの事。
私は厨房の引出しに入っている大きなはさみを手に取った。逆の手で頭の下の方でまとめていた髪束を掴むと、その根元からひと息で断ち切る。パラパラと遅れて落ちてくる髪を肩から払ってリボンのついた髪の束を差し出して口を開いた。
「これでよろしいでしょうか?」
あんぐりとみっともなく口を開けたお嬢様はぱくぱくと何かを言おうとして言葉に出来ないまま、震える手で髪とリボンを受け取って数歩後ずさった。
「私が持っているものを今2つ失いましたが、これで結構ですか」
お嬢様は浮かべていた涙をぼろりとこぼして駆け戻っていった。
私はそれを冷めきった気持ちで見つめていた。両親を失ったあの冬の日にも同じ光景を見た。決定的な瞬間を物陰から見られていたとも知らず、己の不幸を理由に両親を奪い、涙さえ浮かべながら最後まで己の不幸だけを嘆きながら駆けていった後姿。
この親子は私から奪っていくくせに、最後は己の不幸だけを嘆いて泣きながら去っていく。
そんなあの夜を許さないために今私はここにいる。
「泣きながら去っていくくせに、自分が欲しいものは持っていくのですよね」
「御堂、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
昼を終えた最初の授業。睡魔と言えば語感のせいか可愛らしく聞こえるが、少し席に着いているだけでも何が原因なのか最早くらくらと頭が支えきれない程だった。見かねたのか、教師が声をかけてくる。
「大丈夫?」
隣の席の掠れた声が私の脳みそをさらに揺すり、どこからか流れてくる血の臭いで鼻も胸も圧迫されていく。
「……大丈夫じゃなさそうなので、保健室へ行きます」
男子の顔を見ずに教師に答えたのだが、彼は気も留めず私の手を掴んで引き留めた。
「ふらふらしてる。付き添うよ」
「いい。大丈夫です。一人で行けます」
彼を見るとますます血の臭いが増して気分が悪くなっていくのだ。何よりまだ苛烈な感情を秘めたままの瞳をしているだろう私を見られたくなかった。
はっきりと拒否の意思を示して掴まれた腕を振り払い、回る視界と闘いながら廊下を進む。眩暈が酷い。吸う息が全て血生臭く感じる。まっすぐ立っているのも辛くなって、ついには壁に手をついた。そのまま壁にもたれながら膝をつき、迫る床を感じる前に意識が遠のいた。
「何を……しているのです?」
旦那様の部屋の掃除のために掃除道具一式を持って向かってみると、いつもは几帳面に鍵さえかけられている扉が半開きになっていた。
入室の許可を取ろうとノックをすると、一言「いいよ」と志貴様の声が答えた。
「やらせてあげたかったんだけど、我慢できなくて。ごめんね」
外はよく晴れていて、春の暖かな陽の光があからさまにする部屋の中では、二人の人間が物言わず転がっていた。旦那様とお嬢様である。まだ乾かずぬらりと赤い海の中、ざんばらに切り取られた黒髪が散っている。よく見るとお嬢様の髪が巷で流行のモガ風の短さになっていた。
部屋の真ん中に佇む志貴様は体中を血で斑に染め上げていた。左手に持った出刃包丁がその元凶なのだろう、未だ滴る鮮血を振るい落としもせずそのまま握っている。凶行はたった今行われたばかりだったらしい。
「これ、取られちゃったんだろう?」
いつもと変わらぬ笑顔でついっと差し出された右手には、いつか彼に贈られ、お嬢様に髪ごと譲り渡した青いリボンが乗せられていた。鮮やかな青色は今や見る影もなく血を含んで黒っぽくなっていた。
「……お譲りしたのです」
「その髪も?」
「……。ええ」
足元の血の海も全く無視してこちらに歩み寄ってきた志貴様は、私の襟足に触れながら小さく謝罪した。
「僕がいればこんな酷いこと、させなかった」
この部屋に充満した血の臭いが鼻につく。彼自身にも染み付いてしまっているのか、寄った体からさらに濃い血の臭いが漂ってくる。目元を緩めて私を愛おしげに見る目は狂気に浸っていたが、拒絶のひとつも出てくることはなかった。だって、きっとただの使用人の私が事に及ぶより、何倍もの衝撃と裏切りに対する悔しさを二人に与えられたろうから。
「こんな気持ち、はじめてなんだ。君のためにこんなことだってしてしまえる」
青かったリボンを手から受け取ると、彼は空いた手で私の頬を撫ぜて上へ向けさせた。徐々に近付く唇を、空っぽになった頭で受け入れて目を閉じた。手に持っていた道具が滑り落ちる。
いつから気づかれていたのだろうか、この殺意ごと彼は私を愛してくれていたのだ。
私は殺意の抜け落ちた心に初めて他人を受け入れた。
茜
春になってクラス替えがあって少しした頃。新しい教室に早くも慣れられたのは、幼馴染の志貴とまた一緒のクラスになれたからだと思う。
私の好きな人でもある志貴は、幼馴染で親同士の仲がとても良くて家族ぐるみの付き合いをしている。たまに友達にからかわれるけど、みんなお似合いだよと言ってくれる。お付き合いしてるわけではないけど、多分志貴も満更でもないと思うのだ。「短い髪の方が君にあってるよ」だなんて幼馴染でもなかなか言わない事を言ってくれる。志貴も別に好きな子がいる風でもないし、一番仲が良いのは私だという自負がある。
「咲耶」
そんなある日のお昼に購買についてきてもらった帰り、突然志貴が立ち止まって誰かの名前を呼び捨てにしたのでぎょっとした。志貴が誰かの下の名前を呼び捨てにしたのは初めてだった。
視線を追うと、木の陰のベンチに座っているのは同じクラスの御堂さんだった。物静かで、透き通る肌と静かな目が印象的な美人だ。
しばらく見つめ合った後、御堂さんが立ち上がって去っていった。鮮やかな青いリボンと長いまっすぐな黒髪を風に遊ばせながら歩く姿に、強烈な羨ましさを覚えた。
正体不明の焦りと気持ち悪さから志貴の名前を呼んで早く教室に帰ろうと促しても、返ってくるのは上の空な空返事だった。
その日の午後一の授業で御堂さんが倒れた。積極的に介抱しようとする志貴を拒絶するように廊下に出て行ったあとすぐに倒れるような音がした。志貴の親切を踏みにじった罰じゃない、なんて頭の中で毒づいていると目の前の席の志貴が廊下に駆け出して行った。御堂さんの名前を何度も呼んでいるのが聞こえた。ぐわんぐわんと頭の中をかき混ぜられるような感覚がする。頭が痛い。咲耶、咲耶、咲耶。一年前までは別のクラスで知りもしなかった人の名前。なのに私の中の柔らかいところを抉るような響きを持っている名前だ。
私は志貴に授業が終わったことを伝えるために保健室まで来ていた。あの後志貴は結局ずっと御堂さんについていたようで、教室には帰ってこなかった。
「気が付いた? 熱は無いようだったから貧血かな。廊下で倒れたんだよ」
「運んでくれたんですか」
扉を開けようとした瞬間に志貴の声が聞こえてきて、咄嗟に動きを急停止させて息さえ止めた。扉や窓に一番近いベッドを使っているのか、二人の声は問題なくこちらまで届いた。
恐る恐る窓の方へ移動して中をそっと覗き見る。保健室の中には二人の他に人はいなくて、日が高く光が差し込むこともない影になった部屋が言い知れぬ空気を作っていた。
カーテンも閉めていないそんなところで、志貴はあの青いリボンを彼女に差し出していた。
「寝にくいかと思って勝手にはずしてしまったんだ。ごめんね」
御堂さんが志貴の手からリボンを受け取ると、志貴はさらに笑みを深くした。
「三度目ですね、あなたの手からリボンを受け取るのは」
「……これは僕が贈ったものではないけれどね」
志貴と彼女が話すのなんて今が初めてといえるくらいのはずなのに、なぜ二人はあんなに親密で私が分からない話ができるのだろう?
「髪、伸ばしてくれたんだね。短い君も素敵だったけど、やっぱり君は長い方が似合うよ」
「偶然です。あなたのために伸ばしていたわけではありません」
「でも、これからは僕のために伸ばしてくれるんだろう?」
つっけんどんな返しにも甘く微笑む彼の表情は、正しく私が見たこともない顔だった。
志貴は、甘い笑顔のまま御堂さんの頬に手を添えて、顔を近づけていく。御堂さんもそれを受け入れて目を閉じた。するりと志貴が御堂さんの白い頬を指で撫ぜて、そうして、志貴の目とかち合った。
足をもつれさせながら何とかあの場から逃げ出した私は、荒い息を整えられないままどこかの廊下にいて、気が付けば短く切り揃えた髪に触れていた。
また急に現れた人間に私の世界が壊されてしまった。あの子はいつも私の欲しいものを全部持っているくせに、まだ持っていく。
でも、おかしいな。私だって御堂さんとはクラス替えしてから出会ったはずなのに。
「自分の裕福さを知らない事も、知ろうとしない事も君の罪だ」
どこか懐かしい渋くて大人な志貴の声が耳を打つ。思い出される刺されたお腹の痛みと血、切り取られた無残な髪の毛の幻が目の前に散っていく。志貴の手には私があの子から奪ったも同然な青いリボンが握られていた。なんで、なんで。あの子ばっかり。
初恋のちぎれる音を聞いたのは二度目だった。