召使
被害者の妻である花咲夕利果は、すでにツカダ第2マンションは売却し、別の場所へと引っ越していた。
夫が殺されたマンションには住み続けられない、というのは、妻としては当然の感情だろう。
なゆちが篠塚にDMで夕利果の引っ越し先を尋ねたところ、あっという間に返信が来て、細かい番地まで教えてくれた。
「俺、なゆちの役に立つためならなんでもするよ」という余計な一言とともに。
夕利果の新しい住所は、電車を使えばここから30分ほどで行ける距離であったが、もう夕刻を過ぎていたため、この日は解散することにした。
解散する前に、なゆちと湊人はもう一度1階のコインランドリーに行き、軽い打ち合わせをした。
「打ち合わせ」といえども、湊人が穂奈美から事情を聞いていた最中、なゆちはずっと択斗君と遊んでおり、話を一切聞いていなかったため、穂奈美が話していたことを湊人がそのままなゆちに伝えることが主な内容でだったが。
翌朝、なゆちと湊人は、夕利果の家のある最寄駅で待ち合わせた。
昨日ほど激しくはなかったが、今日も雨が降っている。
駅から出るとき、なゆちも折り畳み傘を持っていたが、差そうとする素振りを見せなかったため、湊人は自分の傘の中になゆちを迎え入れた。
正真正銘の相合傘である。
こんなのドキドキするなという方が無理である。
ただ、なゆちとしては、おそらく恋人感覚ではなく、下僕感覚で湊人に相合傘を要求したに違いない。
湊人の肩となゆちの肩が触れ合っても、一切気にする素振りを見せないのもそのためだろう。
とはいえ、大好きな相手との相合傘であることには違いはない。
湊人はこの幸せな時間がいつまでも続けばいいのに、と思ったが、夕利果が駅チカの好立地に新居を構えてくれたおかげで、幸せな時間は3分程度で終わった。
来訪目的が来訪目的なので、門前払いされることも十分に覚悟していたが、夕利果は、穂奈美同様、なゆちと湊人を快く家の中に迎え入れてくれた。
夕利果の住んでいる家は、外見からして新しそうであったが、中に入ってみるとやはり新築独特の匂いがした。
「素敵なお家だね」
「元々買う予定だった人が直前にキャンセルしたらしくて、タイミングが良かったんです。破格の値段で買えました」
「獅子男によく怒鳴っていた」という穂奈美からの情報から、強面の女性を想像していたが、実際の夕利果はイメージとは違い、むしろ柔和な雰囲気のお婆さんだった。
66歳という年齢相応には老けているが、かといって、老け過ぎているということもなく、コミュニケーションも取り易そうである。
「ごめんなさい。まだ引っ越したばかりであまり準備がなくて」
と夕利果は謙遜したが、案内されたアンティークの椅子に座っていると、一木作りのテーブルの上には、ティファニーのカップが置かれ、熱々のカモミールティーが注がれた。
「まるで貴族になったみたい」
とはしゃぐなゆちを、夕利果は微笑ましい目で見ている。
夕利果から見れば、なゆちはちょうど孫くらいの年齢であるため、孫を見ているような感覚なのかもしれない。
もっとも、篠塚の情報によれば、獅子男と夕利果との間には子どもがいないとのことなので、当然、孫もいないわけであるが。
カモミールティーの香りをしばらく堪能した後、湊人は、本題を切り出した。
「このたびはご愁傷様です。ご主人とは、あまりにも突然のお別れでしたね」
「……そうですね。あまりにも突然過ぎて、未だに消化しきれていません」
「ご主人とは仲が良かったんですか?」
果たしてこの質問に夕利果がどう答えるかと興味深く湊人が顔色を窺っていると、夕利果は、
「恥ずかしい話、主人とは上手くいっていなかったんです」
とあっけらかんと答えた。
「……どうして上手くいってなかったんですか?」
「主人は元々廃棄物処理の会社で働いていたんですけど、仕事一筋人間で、家のことは一切鑑みなかったんです。私は子どもが欲しかったんですけど、主人は、そういう目的で私と結婚したわけではなかったみたいで」
「そういう目的ではない?」
「主人は、私という、家事雑務をやってくれる召使が欲しかっただけなんです」
「それはヒドイ……」
相槌を打ったのはなゆちだったが、湊人も全く同じ感想だった。
「すぐに別れれば良かったんじゃない?」
「本当にお嬢ちゃんの言うとおり。でも、私はその度胸がなくて。経済的に主人に依存してたんです。そして、主人と別れて外で働く自信がなかったんです」
だけど、と夕利果は続ける。
「主人が定年で会社を辞めて、家にずっといるようになると、主人の態度が目に余るようになってきて。主人は仕事以外は何もできない男だったんです。片付けもできない。脱いだ服はその場に脱ぎっぱなし」
「赤ちゃんみたい」
「そうなんです。当然、自分ではご飯も作れないし、出前を取ることすら自分でできず、全部私にやらせるんです」
仕事一筋で不器用なのだと思うが、あまりにも度が超えている。
おそらく先ほど夕利果が言ったとおり、夕利果のことを召使だと勘違いしていたのだろう。
「だから、主人が定年過ぎて家にいるようになってから、主人とはたびたび口論をしてたんです」
夫婦の関係は、だいたい湊人の予想どおりだったようだ。
「夕利果さん、さらに失礼なことを訊いていいですか?」
「どうぞ。何でも訊いてください」
「ご主人は生命保険に入ってましたか?」
ツカダ第2マンションは賃貸物件である。引き払ったところで、普通は都内で駅チカの新築物件には引っ越すことはできないと思う。
ゆえに、湊人は、獅子男の死亡によって、夕利果に多額の生命保険金が支払われている、ないし、支払われる予定なのではないか、と推理したわけである。
夕利果は、この質問にも、表情を変えることなく、
「ええ。生命保険には入っていました。受取人は私です」
と答えた。
「この新築物件も、生命保険金がなければ買えなかったと思います。そういう点では、今まで働いて保険料を払い続けてくれていた主人に感謝しています」
「夕利果さん、僕が言いたいことは分かりますか?」
「ええ。私が主人を殺したんじゃないか、っていうことですよね?」
僕はゆっくりと頷いた。
「たしかに私には主人を殺す動機はあります。ただ、長年連れ添った夫婦だったら、多かれ少なかれ、似たような事情はあるんだと思います。お互いがお互いを煙たがりながらも、ギリギリのところで折り合いを付けていくのが夫婦というものではないでしょうか」
あまりにも悲観的な結婚論であるが、隣で渋い顔をしているなゆちはともかく、僕には納得できた。
それに、今回の事件においては、「透明人間」の謎が解けない限り、いくら動機を探求したところで解決には至らないのである。
「夕利果さん、たしか事件当日にはアリバイがあるんですよね?」
「アリバイ……そうですね。私はカラオケボックスにいました。前に住んでいたマンションからは電車を使っても30分くらい掛かる場所です」
「カラオケには何時から何時くらいまでいたんですか?」
「朝の9時頃から、警察から電話が来た13時過ぎくらいまでずっといました。元々、朝9時からのフリータイムで夜の7時までいる予定でしたので」
「カラオケボックスには一人でいたのですか?」
「いいえ。友達と2人でいました。去年くらいからカラオケが趣味で、週1のペースでレッスンにも通ってるんです。一緒にいた友達は、そのレッスンで知り合った方です」
事件現場から往復で1時間も掛かる場所にいて、しかも、友達と一緒にいたということか。
カラオケボックスには当然監視カメラも付いているだろうから、まさに鉄壁のアリバイである。
「友達とは常に一緒にいたんですか? 別行動をとることはなかったんですか」
「基本的に一緒にいました。ただ……」
「ただ?」
「実は、主人が殺される直前に、主人に電話をしたんです。そのときには、私は中座をしました」
「殺される直前というと?」
「本当に直前です。数分前です」
「何の用件で?」
「大した用件ではないです。ちゃんとご飯を食べてるかどうかの確認とか、その程度の用件です」
獅子男が殺される直前に、夕利果が獅子男に電話をしていた。
夕利果と電話をできるということは、少なくともその時点では獅子男が何らかの異変を感じていなかったということになるだろう。
犯人が強盗犯だとすれば、夕利果との電話を切った後に、獅子男は強盗犯と遭遇し、殺されたことになる。
「すみませんが、先ほど言っていた、カラオケに一緒に行ったご友人のお名前と連絡先を教えていただけませんか? ……一応断っておきますと、僕は夕利果さんを疑っているわけではないんです。ただ、探偵助手として、どうしても一通りの調査はしないといけなくて」
「分かってます。関係は良くなかったとはいえ、長年連れ添った主人ですから。主人を殺した犯人は早く捕まって欲しいですし、そのためにできる限りの協力はします」
夕利果は、スマホを見ながら、メモ用紙に友人の名前と電話番号を書くと、「どうぞ」と湊人に手渡した。