4.就寝
化粧室に移動した守とロゼッタは、時間をかけて丁寧に歯磨きを行った。その時間、地球の時刻に換算すると約十分である。
『歯磨き長すぎっ!』
などと突っ込みたくなる人も出てくるような長さだが、守にとっては標準の時間である。本来、歯磨きにはそのくらいの時間をかける必要があるのだ。適当に磨いてパパッと終わらせても、何の意味もない。歯磨きの本質は、汚れの清掃なのだから。
「歯磨きとは、とても難しいものなのですね」
守の歯磨き講座を実践し終えたロゼッタが、しみじみと呟く。歯ブラシの持ち方――三本指で持つところから始まり、歯を磨く際の角度、力加減。磨き残しの無いように隅々まで磨きつつ、歯茎をマッサージするやり方。
現代の日本人で、ここまで丁寧に歯磨きをやっている人はそう多くはないであろう。と、思わせるレベルの手順だったからだ。
「慣れだよ。習慣にしてしまえば、そんなことは感じなくなるさ」
「……そうですわね。朝、昼、晩。食べた後はきっちり磨く。これで黒化病ともおさらばですわ」
ロゼッタが小さくガッツポーズを作りながら言う。そのどこか決意に満ちた表情は、守にとって非常に喜ばしいものであった。
「……さて、話が変わるけど、俺はこれからどうすればいいかな。ロゼッタさん」
どのタイミングで切り出すか。
いろいろと計っていた言葉を、守は口にする。ロゼッタとの関係が柔らかくなったので、まさに今だと口にしたのだ。
「その件に関しましては、明日話すことにしましょう。今日はもう日が暮れてからだいぶ経っていますわ。そろそろ眠らないと」
――なるほど。今は夜なのか。
しれっと情報を分析しつつ、守はロゼッタの提案に従う。そしてロゼッタと別れ、不慣れな廊下を進み、あてがわれた部屋へと戻るのだった。
それからしばらくして――。
部屋に戻った守は、いつの間にか準備されていたパジャマへと着替える。やや薄目の生地でできた長袖長ズボンだ。
「いろいろと思うことはあるけど、とりあえず今は寝るか」
独り言を呟き、ベッドの傍まで移動した。
しかし、その時になって気付く。どのようにして部屋の明かりを落とせばよいかわからないのだ。
辺りを見渡してもリモコンはない。そもそも、電気という概念があるかすらもわからない。なぜ部屋の中が明るいのかすらわからない。わからないことずくめため、今更になって途方に暮れてしまう。
異世界に来た。
その実感が、胸からこみあげてくるのだった。
「マモル。入りますわよ」
そんな折、ロゼッタが部屋の中に入ってくる。相変わらずノックはなしで、我が物顔だ。
だが、守はノックについて注意する気になどなれなかった。なぜならロゼッタの格好が――。
「ちょ、ちょっと待て! なんだその服は!」
ピンク色のネグリジェ。しかも薄く透けている生地のため、ハッキリとボディラインが、白い下着が見えてしまうのである。こんな姿の女性が夜に部屋を訪れたら、男としておかしくなってしまうのは致し方ない。むしろおかしくならないほうが異常だ。
「マモル。一緒に寝ますわよ」
ロゼッタから飛んでくる爆弾発言。守の脳内は完全にショートし、残された体ができることと言えば、直立不動を貫くのみ。反論などもちろん返せるわけがない。
故に、ロゼッタは肯定と受け取った。
『消灯』と唱えて部屋の明かりを落とす。さらに、ゆっくりと守をベッドへと導き、一緒になってシルクのように薄い布団に包まる。その際に――。
「歯、痛くないですわよね……」
不安げに呟く。見れば体中が小刻みに震えていた。
――……俺はまだ、患者の身になれていなかったのか。
守は、不埒な想像をしてしまった己を滅する。いまだ日本にいたころの常識が抜けきっておらず、医者の本懐を果たせていない未熟者と。
「大丈夫。だから、安心して眠ってほしい」
この時、守は実に大胆な行動を取った。ロゼッタを優しく抱きしめ、あげくの果てに頭を撫で始めたのだ。
女性の身に触れる。それどころか乙女の命とまでされる髪に触れ、笑みまで見せる。どう考えても行き過ぎな行為。ここが日本なら逮捕されてしまうのではなかろうか。
……いや、暗黙の同意があればいいか。ロゼッタの震えが止まり、心なしか蕩けるような表情をし始めたのだから。
「おやすみ、ロゼッタ」
「……おやすみなさい、マモル」
ロゼッタが先に寝息を立て始め、やがて守も眠る。部屋の暗さと同じように、何も見えなくなるのだった。
そして翌朝――。
「マモルは英雄です!」
開口一番。寝起きで頭がボーっとしている守の耳に、ロゼッタの歓声が入った。さらに、ドタドタと慌てて部屋を出ていく。それはもうすごい勢いで。
――どうやら歯の痛みは治まったみたいだな。
だがこの時の守は、オーバーリアクションだなぁ、程度にしか思っていなかったのだ。黒化病――虫歯の苦しみから解放されて、喜びに満ちているのだろうと。
だからロゼッタが出て行ったことの意味。ロゼッタが誰の子供で、どれだけ発言力がある立場なのかを失念していたのだ。事態がおかしな方向に動き始める前兆を完全に見逃していたのだ。