2.治療前
「なぜ施術用具は動くのだろうか……」
電気が通っていないにも関わらず、『キーン』と音を立てて動くタービン――歯を削る道具を見て、守は思わず声を漏らす。
さらに、施術用の椅子に備え付けられているうがい台からは水が流れている。一体どこから水が供給されているのだろうか。どう見ても水道栓が繋がっているようには見えないのだが……。
「何をボーっとしていますの。さっさとしなさい」
「ハイハイ、わかりましたよっと」
ある種モンスター患者を連想させる言葉を浴びせられ、守はタービンを止めてから、そそくさとロゼッタにデンタルエプロンをかける。実は施術用の椅子だけでなく、椅子の周りに置いてあった道具一式も召喚されていたのだ。
つまり、すぐさま治療できる状況が整っていたということである。何故だかわからないが整っていたのである。なんというご都合主義だろうか。
――……深く考えたら負けなんだろうな。
そんなことを思いつつ、守は普段通り治療を開始させる。照明をつけて、デンタルミラー――口の中を隅々まで確認するための、棒の先に鏡が取り付けられている物を片手に、ロゼッタを見つめた。
当然見惚れるくらいの美顔が目に映る。まるで神が意図的に配置したかのように、バランスの整った目、鼻、口。しかも小顔。つまるところ感嘆が漏れてしまうということだ。
しかし、守は歯医者である。歯医者であるが故に、美を語る上でどうしても外せない要素があった。
もちろん歯である。
歯の色。歯茎の荒れ具合。虫歯の有無。他人からはあまり理解されないフェティシズムだが、守にはどうしても譲れない。なぜならそれらを見ることで、その人の内面まで見えてしまうからだ。
例えば歯の色が濃いということは、色の濃い飲み物。コーヒーなどを常飲している可能性が上がる。それだけならよいが、ヘビースモーカーである可能性も上がるのだ。タバコは体だけでなく、歯にもよろしくないのである。
また、歯茎の荒れ具合。虫歯の有無に関しては言うに及ばず。歯磨きをしない生活や、だらしのない生活習慣が透けて見えてしまう。いくら美人であろうとも、幻滅の対象になってしまうのだ。
「はーい、口を大きく開けて」
「んんっ」
ロゼッタが口を開ける。
その瞬間――。
――あちゃ~。これは汚い。
女性に対して物凄く失礼な言葉が頭に浮かぶ。だが現実は現実だ。この国が黒化病――虫歯で苦しめられているということは、ロゼッタだけがこのようなわけではないはずである。おそらく、エリクシル王国には歯磨きの習慣がないのだろう。
それが指し示すものは、虫歯が蔓延し放題ということである。疑いの余地など万に一つない。
「まずは状態を確認するから、しばらく口を開けていてね」
「ふぁい」
営業トークに返事をするロゼッタを確認し、守はロゼッタの口内を確認する。右上の奥歯から順に、左上の奥歯まで。その後折り返して、左下の奥歯から右下の奥歯まで。隅々まで観察。歯医者として見逃しは許されない。患者を救ってこそ医者を名乗れると、守は考えているからだ。
――C2に達しているいるものが三本。C1が一本。C3以降はなさそうだな。
冷静に虫歯の進行度を判断する。その上で、大がかりな施術はいらないようだと一安心した。
虫歯の進行度は、C0からC4の五段階で評価される。
C0:治療の必要がない初期虫歯
C1:歯の表面の虫歯
C2:象牙質の虫歯
C3:神経まで進行した虫歯
C4:歯根に達した虫歯
といった具合にだ。しかしこの説明を受けたところで、大半の人が理解していないだろう。非常に身近な歯だが、興味を持たない人が多いのだ。……非常に嘆かわしい限りである。
だから簡単に説明しよう。よく歯医者で治療されるのはC1とC2である。歯を削って詰め物をする、誰しもが経験したことがあるであろうものだ。
C1やC2の段階では、大きくしみるということはない。もちろん個人差はあるが、我慢できてしまうレベルの痛みのため、我慢してしまう人が多いのである。特に、現代社会で忙殺されていると、ついつい後回しにしがちなのだ。
歯が多少ズキズキしても、市販薬で誤魔化す。歯医者に行きたくがないための引き延ばし。経験者も多いだろう。
しかし、C3に達すると話が変わる。何もしていなくても激痛が襲って来るのだ。それこそ眠れなくなるほどの。なにせ、神経まで細菌に侵されてしまっているのだから。
そのため、C3まで達してしまうと歯の神経を抜くしかなくなる。最悪抜歯まで見えてくるのだ。
歯は一生ものである。失ったら戻らない。だからこそ大切にしてほしい。
……ちなみにC4は末期状態である。歯の神経が壊死し、痛みすら感じない状態だ。C3の状態で我慢し続け、ある日痛みがなくなったから治ったのだろう、などと馬鹿なことは考えないでほしい。すぐさま治療が必要なので歯医者へGOだ。
「ロゼッタさん。これを持ってくれるかな」
守はロゼッタに鏡を渡し、口内環境を丁寧に説明していく。どの部分が悪く、これからどうしなければならないか。それを説明することで、患者自身にも自覚を持ってもらうためだ。
歯は治療すれば終わり、ではない。生きている限り一生付き合わなければならないからこそ、現実から目を背けてはならない。先にも述べたが、失ったら取り戻せないのだ。
「わらくしのは、こんなにひほいほほひ(私の歯、こんなにひどいことに)……」
ロゼッタが今にも泣きだしそうなほど表情を歪める。その気持ちは、守には十分すぎるほどわかった。守が歯医者を目指したきっかけ――子供のころに歯がボロボロになり、ひどい思いをした時のことが鮮明に思い出されたからだ。
「大丈夫。ちゃんと治療して、これから歯を労わっていけば、ずっーときれいなままでいられるから」
「ほ、ほんとうれすの(ほ、本当ですの)……」
「ああ。だから、治療中は大人しくしていてね」
コクリ頷くロゼッタ。グーパンをかました時の態度はどこへ行ったのか、かなりしおらしい。ハッキリ言ってしまえば、男性の心を鷲掴みにしてしまうような態度である。もちろん守も例外ではない。鼻の下を伸ばしまくりだ。
「じゃ、じゃあ。治療するからね」
若干挙動不審になりつつ、守はロゼッタの目元にタオルを掛ける。それから麻酔の入った注射器で、ロゼッタの歯茎の神経を麻痺させた。これで準備万端である。
「よし。一度うがいして」
守の指示に従い、ロゼッタがうがいをする。そして、再び椅子に体を預けた。
そのタイミングを見計らい、もう一度タオルをかけてから、守はタービンのスイッチを入れる。想像するだけで耳障りな、あの『キーン』という音が響き始めた。さらに、タービンをロゼッタの口元に近づけていく――。
「ま、待ちなさい! 何をするのですか!」
すると、身の危険を感じたのか、ロゼッタが急に口を閉じた。初めて歯医者を体験するなら、ある種仕方のないことだろう。
だが、守にとってはたまったものではない。医療事故に繋がりかねない大変危険な行為だ。
「急に口を閉じるな! 危ないだろう!」
「だ、だって……」
怒られたことでだろうか。はたまた恐怖を感じたことでだろうか。ロゼッタが涙を流し、しゃくり上げ始める。さめざめとした姿は、守の心をえぐるには十分だった。
「す、すまない。でも、今のは本当に危険なんだ。黒化病を治すには歯を削るしかない。歯は固いから、削るのには切削器具が必要なんだ。歯以外に当たってしまったらとんでもないことになる」
「……そんな物を口の中に入れても大丈夫なのですか」
ロゼッタが当然の疑問を口にする。
だが、守は自信満々で――。
「大丈夫。俺は今までに千人を超える患者を診てきた。その間に事故を起こしたことは一度もない。だから信じてほしい」
まるでロゼッタを安心させるように、堂々と答えた。
だからこそ――。
「……わかりましたわ。お願いいたします」
ロゼッタが応えた。若干声が震えてはいたが。
「よし。じゃあ始めようか。でも、音は怖いだろうから……」
守はポケットから耳栓を取り出し、ロゼッタに渡す。それから、痛かったり怖かったりしたら、手を挙げるように伝えた。
ロゼッタがそれに頷き、耳栓を装着する。こうして、ロゼッタの施術が始まるのであった。