楽園の聖職者
イギリス。
ロンドンのあるグレートブリテン島より、アイリッシュ海を隔てた先。
北アイルランドの、自然によって鎖国された町。
町の中心部は、中世からの景色を色濃く残す貴族たちの邸が軒並み連ね、縦横無尽に走る石畳を馬車と俥が行き交う。
郊外には庭持ちの貴族たちの住まいが広がり、道端や邸の窓、丁寧に整備されている庭先に、季節ごとに色鮮やかな花や緑が飾られ、殺風景な石レンガの建物を華やかにしている。
この町はイギリス本土より特別区に指定され、この町に訪れるために検問が行われる。国境を越える際に受ける入国審査よりも遥かに厳しい検査をクリアすれば、目の前に広がるのどかな風景が訪れた者を魅了する。
ここは、そんな楽園。
名を、アキンタウンという。
1 邂逅
ⅰ
朝日に照らされた、ステンドグラスが眩しい。
週末である。今日もアキンタウンの礼拝堂は満員御礼。
「はぁ、なんてお美しいお姿だわ……」
「本当に素敵だわ~」
参列している、エレガンスなドレス姿の女性たちの視線の先に立つのは、聖書を片手にスラスラと詠唱している黒髪の青年だ。
艶ある黒髪の隙間から見える伏し目顔は、日々飽くことなく美貌を追求している女性たちに、今日も甘いため息をつかせている。
このクレスラス・ハイドロヂェンという身目麗しい青年のことを、このアキンタウンで知らない者といえば最近移住してきた者か、旅行者くらいだろうと誰もが口をそろえて言う。金髪碧眼の貴族たちが七割を占める町で、茶髪や銀髪が疎らにいる中、彼だけが唯一、漆黒の髪色と、日食を思わせる金環に縁取られた美しい黒い瞳を持っているからだ。
世界中に仕事を持ち収入を得ている貴族たちが、ロンドンではなく、敢えてこんな辺鄙な町に住んでいる理由の一つに、この町に一つしかない教会で行われる、毎週末のミサで会える彼の存在があった。
酔狂なほど熱心なカトリック信徒であるクレスラスは、教会に住む神父ととても仲がよく、神父の補佐として一緒に教壇に立つことも多く。その美しい姿を一目見ようと出席者が絶えず、貴族たちがこぞって金を出し合い、昨年教会が大きくリニューアルしたのは、ロンドンでも有名になったほど。
聖書の大半の暗唱。キリスト教に関する書物について博学。東洋人のような美しい黒髪と、誰もがため息をつくほどの美貌。そして、独身。
神父ではない為、結婚OK子作りOKという点で、彼は老若男女に愛され、特に町娘や、許婚もいる清い貴族女性たちからの想いを、今一身に受け止めざるを得ない状況になっていた。
「は~。今日もハイドロヂェン様の詠唱に聞き入ってしまったわ~」
「あなただけに向けられているものでは無くてよ!」
「それは、あなたも同じでなくて?」
「それでいったい誰ですの?あの方の意中の方は!」
「そうよ!抜け駆けなんてご法度よ!」
そんな彼に、女性の影が見えるという噂が立ったのは、つい最近のこと。
ミサの最中だというのに、クレスラスの詠唱から神父の談話へ交代したとたん、女性たちは神父の話をそっちのけで、ひたすらクレスラスの姿を目で追いかける。
クレスラスの視線の先に噂の女性がいるかもしれないと、互いが互いを見張るような状況が続く。
ミサが終わると、いつものように女性たちは姿を消したクレスラスを探した。
「神父様、ハイドロヂェン様はどこへ行かれたのかしら?」
「さあ、どこでしょう」
「神父様、ハイドロヂェン様のお住まいを教えてくれませんこと?」
「それはできません」
神父に問いただしても、息を荒くして迫ってくる二十人ほどの女性たちを前に、彼が自宅を教えるはずもない。仕方なく、今日もまた来週のミサまで女性たちの中で牽制しあう羽目になる。
「クレスラス……もう大丈夫。ご令嬢方はいなくなったよ」
参列者が居なくなった礼拝堂。
窓際の蝋燭の火を消して歩きながら、神父はくすっと笑い、教壇の隅に話しかけた。
こっそりと出てきたのは銀髪の少女だ。艶のある緩やかなウェーブのかかった銀髪を背中に流して、翡翠のような大きな丸っこい瞳を、きょろきょろさせている。
「本当だわ。みんないなくなったわよ」
十歳くらいの少女の後から、ゆっくりと出てくる先ほどの青年。
肩を少し過ぎるくらいの、丁寧に整えられている黒髪。それに反するように色素が薄い肌。金色で縁取られた瞳は、蝋燭の火を鮮やかに反射している。
「神父様、いつもありがとうございます……」
困り顔のクレスラスは、そう言って軽く頭をさげた。
反対に、痩せた優男の神父はにっこりと笑い、
「今日はお嬢様たちが集まるのも、いつもより多かったからね。あれだけのご令嬢方を一人で相手にするのは、さすがに気の毒だし」
君をここに立たせているのは他でもない自分だし、と苦笑顔。
「まさか、このレディの噂がこんなにも早く伝わるなんて、思ってもみませんでしたから……」
クレスラスは、隣に立つ銀髪の少女をちらりと見る。
「私がクレスに遇ったのは、二週間前よ?」
視線を受けた少女は対抗するように腕を組み、クレスラスを見上げた。
「夜以外は外出していないし、その外出だって人の目を避けているじゃない!今日だって、クレスがついて来いって言うからいるだけなのに。ああっ!クレスがこんなに有名人じゃなければもっと穏やかに安心して過ごせるのにぃ!」
「フロムローズに言われたくないね……。俺よりも目立つ存在なのは、そちらのほう」
少しイライラ気味のお姫様相手に、躊躇することなくずばりと言い切った。そうなれば、口げんかをしたことが無い彼女に勝ち目は無い。この二週間でクレスラスが学んだことだ。
対して、少女は大人の男に口で言っても勝てないことが不服だと言わんばかりに不機嫌になる。
確かに、自分の見た目が目立つのは重々承知している。翡翠と呼ばれるほどに美しい瞳は初めて見た人に物珍しさを与え、着ているドレスも相まって、彼女が爵位の高い貴族なのだと知らせている。個人的にあまり近所付き合いはしてこなかったが、自分のことを知っている住民はそれなりに多い。
家族と郊外の屋敷に住んでいるときは、さんざん我儘放題だった。だが今は、目の前の二人の大人の男を前にして、いかに自分が無知で無力な存在なのかと嫌でも思い知らされてしまっている。
つい二週間ほど前まで、少女は貴族の一人娘として、毎日を大変裕福に過ごしていた。
ところが突然襲った悲劇により、彼女の幸せな生活は、みごと打ち砕かれたのだった。
***
ⅱ
その屋敷は、町の南方に位置していた。
窓から差し込む満月に照らされた、二階の部屋。
ベッドの上で本を読んでいたダラス侯爵家の一人娘フロムローズ・スピリットは、突然扉の外から聞こえた物音に、どきりと心臓がはねた。
「……何の音?何かが倒れたような……」
今日買ってもらったばかりの分厚い本にしおりを挟み、天蓋付きのベッドから降りる。その後何の音もしなくなった扉の向こうをじっと見つめ、恐る恐る近づいた。
―――……何故だろうか。胸騒ぎがする。
普段は感じない恐怖感が、突如フロムローズを襲う。
誰か、女性の悲鳴ともとれる声が、遠く聞こえる。
「……マム?」
ドクンドクンと、自分の鼓動が次第に大きくなっているのがわかる。フロムローズは無意識にごくりと唾を飲み込んだ。
また女性の声が聞こえた。やはり悲鳴だ。泥棒に入られたのだろうか。
何が起こっているのか気になり取っ手に手を伸ばすが、ぶるぶると震えて掴むことができない。
誰かが廊下を走っている音がする。そして、それはだんだんとこちらへ近づいて来ている。
いよいよフロムローズは恐くなって、まだ温かいベッドの中に潜り込んだ。布団を頭まですっぽりと被り、音だけの怪物に見つからないように指を組み、声に出さずに神への祈りを必死で唱えながら、この不安と恐怖が立ち去るのを待つが、
「……!」
この部屋の扉が、少し開いた……。
息を潜めて、この怖い夜が早く過ぎ去ってくれることを願った。
「フローズ、起きてる?」
「マム?」
自分のことをこの名で呼ぶのは、彼女の家の者のみだ。布団の中からそっと顔だけを出すと、目の前に荒い息をつく母親がいた。
「フローズ……。ここから出るわ。急いで着替えてちょうだい」
「どうしたの?マム」
口を閉ざした母親に首をかしげながらも、何か切羽詰っているような雰囲気がして、フロムローズは急いで布団を押しのけ、ウォークインクローゼットに走った。お気に入りのドレスを手に取ると、
「ドレスは駄目よ!」
と、母親がスラックスを引き出しから出してきた。
「これに着替えなさい。早く!」
普段のドレスを着られない。それが、フロムローズに尋常ではないことが起こっていることを教えていた。着ていたネグリジェを脱いで、渡されたスラックスを穿き、シンプルな長袖シャツを着た。黒のトレンチコートに袖を通す。
着替えている間に母が用意してくれていた小さなリュックに、数枚の下着とエチケットセット、そして財布を言われるままに投げ入れた。
準備を終え母親のほうを見ると、天蓋やシーツの端を結び、強度を確認しては窓から垂らしていた。長さが地面から少し浮くくらいにまで繋げ終えると、二人は窓枠を飛び降りた。
薄い布を繋いだだけだが思っていたより強度があったよう。フロムローズが地面に足をつけたことを確認すると、母は愛娘の手をしっかりと握り、裏門より外に走り出た。
ふと背中に視線を感じたが振り返る勇気はなく、痛いほどに引っ張る母の手に引かれ、フロムローズは転ばないように走ることに集中した。
どれだけの時間を走っていただろうか。町の中央に位置する、商店や貴族たちの邸が建ち並ぶ界隈へ入ったところで、母は足を止めた。日の出前にはまだ早すぎる時間で、まだ辺りは暗く、空に浮かぶ満月と街灯のか細い明りに照らされた母の背中は、頼もしかったはずなのに、今は何とも小さい。
荒く息をつく母は、先代ダラス候の一人娘だった。生まれながらのお嬢様のため小さいころよりレディとしての教えしか受けておらず、長い距離を走ることはもちろん、自分の足でここまできたことも初めてだ。途中で足がもつれて、何度も二人そろってこけそうになった。
「フローズ……、大……丈夫?」
ようやく家を出てはじめて話しかけてくれた。
「大丈夫よ、マム。山で動物たちと駆け回っていたから……そんなには疲れていないわ」
それよりも、突然夜逃げのようにして出てきて、苦しそうに深呼吸を繰り返す母のほうが心配で、リュックの中からハンカチを取り出すと、尋常ではない汗をかいている母の額に充てた。
「……ありがとう。よく聞いて、フローズ。私たちは、もうあの屋敷へは戻れない……。みんな、侵入者の犠牲になってしまったから……!」
「え?みんな……?メイアは?ケットは?ラクシーは?……みんな、みんな?」
産まれたときから一緒だった、姉のように慕っていた侍女のメイア。同い年で一人前の庭師のケット。おいしいご飯を作ってくれる、コックのラクシー。そして……。
「ダッド……は……?」
置いてきた父のことを問う。
「……」
母は、フロムローズの目をまっすぐ見つめ愛娘の手を握り締めると、厳しい顔をしてゆっくりと、自分にも言い聞かせるように呟いた。
「あの人のことは忘れなさい。これからは、この町を出て、私たち二人だけで暮らすのよ。ひとまずベルファストへ向かうわ。」
まずは北アイルランドの中心都市へ。そのあとイングランドに渡る。母は、貴族令嬢にしてはしっかりと前を見据えている女性だった。そういえば贅沢好きの父とは違って、母は現実思考で質素な生活を好んだ。
領地の統治こそ国に還してはいたが、今もなお力のあったダラス侯爵家の爵位と財産目当てに、子爵位の貴族だった父親は結婚した。すでに名前だけとなってしまっていた子爵家に、歴史ある北アイルランドの有名諸侯の一つであるダラス家の資産は魅力的だった。
ようやく口うるさい親戚連中が数少なくなり、ダラス家の財産がすべて自分の手の内で踊るようになった父は、とうとう妻の存在が疎ましくなったよう。周りの目には仲睦まじい関係に見えても、実際は最悪に冷え切っていたということだ。
細々と点されている街灯の下を、とぼとぼと二つの影が歩いていく。もうすぐ、住宅地のあるメインストリートも終わりに差し掛かり、後は駅へ続く石畳が伸びるばかりだ。確かその途中に、アキンタウン唯一のホテルがあったと、結婚前にあの人と石畳を散歩した記憶を思い巡らせながら、母は娘の手を引いて暗い夜道を進む。
握られた手は母のコートの中で熱くなっていたが、フロムローズはその熱が失われることを恐れた。
まだ胸のうちで燻り続けているモヤモヤを母に気づかれてはいけない。きっと、気づいたら母は自分を置いて行ってしまう……そんな気がした。
***
ⅲ
この世に生きる人間の中で、まれに天才と呼ばれるものが現れる。彼もまた、その中の一人だった。
八歳で大学に合格し、十二歳で医学大学院へと進むと十六歳で終了し、医師免許を取得。新米ながらもいくつもの新しい手術方法を考案し、画期的な機械の開発に携わって世界中で特許を取るなど、医学会の注目の的として、主に外科の世界で三年ほど手腕をふるい名声を我がものにしていたのに、ある日突然姿を消した男。
間違えるはずなどない。まさか、こんな場所で再会できるとは、夢にも思わなかった。
ずっと会いたいと思っていた男を偶然見つけた時、ケイト・アルフレッドは歓喜に震えた。
「ワイズ!」
呼びかけると、前を歩いていた長身の男が、振り向いた。
彼の名は、ファウンダー・W。
「…………ケイト……?」
大学院の寮で、一年間と短い期間だったがいつも一緒にいたルームメイトの顔を、天才の後輩は覚えてくれていたよう。
ロンドンのチャイナタウン。お互いにとって、まったく縁のない場所での再会だった。
「久しぶりだな!十年ぶりくらいか?相変わらず目立つ髪色をしているから、観光客だらけの中でもすぐわかったぞ」
と、ケイトは少し色薄くなった自分のブロンドに触れた。
近づいてきた、“ワイズ”と呼ばれた美丈夫の美しい、日の光を反射して紺碧に見える、腰近くまである青銀色の髪に手を伸ばす。
「伸ばしているようだが髪質もかわっていないし、年齢不詳だな!」
「……あなたほどではないですよ……。三十五を過ぎたのでしょう?」
「まあな!結局大学院卒業後も研究室に残ることにして、今もやってるのさ」
ロンドンの歴史あるK大学文学部人文学科に籍を置いていたケイトは、いつも寮で本を読んでいて、幼いワイズにとって、とても物知りな兄のような存在だった。
彼の文学に対する熱意は半端ではなく、英語やフランス語の起源、果ては古代文字ヒエログリフの研究といったところまで進出している。当時十カ国以上の挨拶程度の日常会話を身につけていたはずだ。ワイズが在学中、ドイツ語習得に手を貸してくれていた。
「私は言っていましたよ。あなたはこの道から一生逃れられないのだと……」
ワイズが大学院を終了し退寮するときに、最後の餞として皮肉を言ってのけたケイトに対して、ならばこちらも予言してやると、周りの寮生たちと一緒に盛り上がったのだった。
「ああ。俺も言ったことは覚えているぞ。お前は医者として名を上げるか、狂人としてゴシップ紙の一面を飾るか……ってな。そのとおりだったな。俺はこの道以外に行く先を見つけられず、お前は世界中に、良くも悪くもその名を知らしめて、医者の世界から姿を消した……」
あまりにも有名。名医。それは世間を騒がせるには十分な内容だった。
いくつもの世界初の症例の手術を目前に、突然姿を消した医者の代わりに執刀した病院の医師たちは、周囲の不安を一身に背負う羽目になりすべて失敗に終わった。突然行方をくらませた若い美形医師について、当時は世界中のパパラッチが何度も話題に取り上げた。
「まあ、あのときのお前が悪いなんて、ワイズを知っているやつは思ってないよ。お前の苦悩は、他の奴らには分からないだろうしな」
ニッ、と日に焼けた肌と違って白い歯を見せて笑う。その仕草も昔と変わらないままだ。
「そうそう。俺は今L大学で准教授やってるんだけど、偶然面白い映像を見つけてな。今から上映会するけど、お前も見るか?興味が湧くだろうし、来るやつらもお前のことも知っているやつらだから、話も合うだろうし。暇なら来いよ」
面白いものを見つけた少年のように、楽しそうな表情だ。ウキウキとしていて、昔も旅行先で見つけた化石を見つけたのだと、ケイトがよく話題に事欠かず楽しんでいたのを思い出す。そして彼のいいところは、不躾に人が言いたくないことに触れないことだった。今も医師を続けているのかなど、彼は訊いてはこない。ありがたく、ワイズも特に障りのない答えを返した。
「……興味はあるな……。今は休暇中なので大丈夫ですよ。行きましょうか」
「決まりだ!さあ、新しくなったキャンパスだ。案内するよ。道すがら今まで何していたか聞かせろ!」
そうして、二人はキャンパスへと向かった。
***
つい最近完成したという、大学敷地外の三番目の研究用キャンパスは、まだ新築独特のにおいが漂っていた。
第一研究室へ入るケイトの後に続いて、ワイズも足を踏み入れた。
部屋の中を見渡せば、最新鋭のコンピュータや化学検査薬などが目に入る。いうなれば科学研究所のようなところなのだろう。
奥に進むと、三人の白衣を着た男たちが一台のパソコンを前に向かって座っている。
「よう。待たせたな」
ケイトが声をかけると、三人が振り向いてきた。
「遅いぞ、ケイト!お前がしっかり見たいって言うから手に入れたんだから……おい、ワイズか?!」
「本当だ。ワイズ!久しぶりだな!」
「相変わらず美人だな!」
彼らはワイズに気づくと、いつもつるんでいた後輩との再会を喜んだ。本当に偶然の出会いだった。ケイトもいい気分になる。
彼らは二人分の椅子を用意すると、一人がDVDを再生し始めた。
「ワイズのために一言。これは一年前に、二代目キャンパスで撮られた、貴重なものだ。驚くぞ~!」
画面の中は、彼らの昔の研究室だった。
『これより、未来予知についての臨床実験を行います。』
無機質な白い部屋の中央に、病室で見るようなベッドが置いてあり、ひとりの少年が横たわっている。
漆黒の髪をした少年は目を閉じたまま、規則正しい呼吸を繰り返していた。
『麻酔をかけて、十分が経ちました。……始めます』
固定されたデジタルビデオカメラに向かっているのは、もみ上げが印象深い、白衣の男だった。
少年の周りに三人の白衣を着た男たちがいる。全員、さほど歳をとっているわけではないようだが、L大学の教授だった人たちなのだそうだ。
『……彼は眠っている間に、未来を見るという』
『起きたぞ!』
短時間の全身麻酔が消え、少年の目がゆっくりと開かれる。
「ーー……!」
画面の中の双眸と目が合った気がして、ワイズは喉を鳴らた。
漆黒の瞳に、まるでリングを嵌めているような、金色の縁。ワイズが見ても美しい色をしている。
『さあ、何を見たか……言ってくれるか?』
『…………割れ……る……。薬品が……燃えている……』
白衣の男たちが、もっと詳しいことを、と迫る。彼の視線が男たちへと向けられたのが不満になる。そんな自分の感情に気付き、ワイズは嘲笑した。
『火災が発生する……。……そこにいる人たちは、助からない……。早く、助けに行ってあげないと……』
少年は起き上がると、研究室の外を指差した。その先にあるのは、第五研究所。
『もうすぐ……』
虚ろな表情をしているが、指は窓の外に見える第五研究室を捉えたままだ。
途端、何かが爆ぜた音。次にたくさんのガラスが割れる音が耳に入った。
『予知……だ……!』
『なんの研究をしていたんだ……?』
『人間の油の燃焼率じゃなかったか?』
『なんて実験なんだ!』
ここはとりあえず後から持ち運べばいいとして、第五研究室の火災を止めないと自分たちの避難経路まで閉ざされてしまうと、四人は少年を置いて、消火活動に向かった。
そして、取り残されたビデオカメラは空室を撮影したまま、映像は途切れた。
「……これが、当時は事故で処理されていたキャンパスが焼けた原因か……」
「タバコのポイ捨てとか言われていたよな?」
「ああ。薬品を多く置いているから、引火したのは仕方がないとか噂は聞いた」
「掘り出し物だったな、ケイト!……しかし、よくこれだけ残っていたもんだよ……」
「あの研究室だけが無事だったんだ。建物全焼に教授たちも体内が火傷して死んだのにね」
「あぁ、大学で突然葬式があるって騒動になったやつか」
「……ワイズ。お前なら、どう思う?」
映像が流れている間、一度も表情を変えなかったワイズに、ケイトが声をかけた。
「こういうのは、初めて見たので……」
つまらない返答だ。以前はもっと面白い返し方をしていた。訊き方を変えてみる。
「お前は、あの黒髪の少年が、事前に何か細工をして実行してやったと思うか?……それとも、本当に偶然起こった事故で、それを当てたのか……?」
「……さあ。何とも言えませんね。あれだけでは……」
「そうか……。さすがのお前も、あれだけじゃわからないか……」
「彼は、何も触っていませんでしたから……。なにか接触があれば、なくはないでしょうけど……。未来予知……ですか」
ワイズは腕を組み、無言になる。
ケイトはそれを横目で見ながら、連れてきて正解だと思った。彼なら、自分たちよりも早くにこの少年の正体を突き止めてくれるだろう。学生時代のころからそういうことには長けていた。
「ワイズ、興味が湧いただろう?分かっているのは、あの少年が当時住んでいたという場所だけだ。どうする?」
と、新しいおもちゃを見つけた子供のような笑みを浮かべるケイトの手には、少年の名前とロンドン市内の住所が記されているメモ用紙がある。
ワイズは、ケイトの狙いがわかった。
出会ったのは偶然だっただろうが、適任者がいれば誰でもよかったようにも思える。
ワイズは微かにくちびるを歪ませただけで、紙に書かれた住所をチラ見した。
「……まあ、会えれば会ってみたいかな、というところですけど……」
黒いままのパソコンの画面に視線を送る。が、すぐに飽きたように、
「そこまで興味は湧きませんね……。目の前の現実のほうが、私の興味をそそるんですよ、残念ですが。珍しいものを見せてくださりありがとうございます。いい時間つぶしになりましたよ。では、またどこかで」
たとえ少年に直接会おうと思ったとしても、それを他の輩に教える必要性は感じない。
無表情のまま踵を返し、研究室の扉を開く。長い青銀の髪が緩やかに風になびく姿を、彼らは見えなくなるまで見ていた。
ワイズが去って、ケイトがもう一度見ようと再生ボタンを押した。が、
「おい、これ再生できないぞ……」
「なに?……本当だ」
「電源は切れていないんだろうな……」
「……どういうことだ?」
いくら再生を押しても、電源は入っているのに画面は現れない。他のDVDを入れたらきちんと画面は出てきた。だが、問題の映像だけは、どうしても見ることが出来なかった。
「気味悪いぜ……」
「呪われていた……とか?」
「おいおい、俺たちまで伝染するじゃないか!」
三人はケイトの方を見る。ケイトはため息をつき、
「……とにもかくにも、俺たちがこれを証拠にあの少年を連行することが叶わなくなったことだけは、確かだな」
と、呟いた。
***
ワイズが早めのランチを取ってカフェを出たところで、ちょうど手に持っていたスマートフォンの着信音が鳴った。ディスプレイには仕事仲間の名前が表示されている。
『依頼が入りました。北アイルランドにて至急にお会いしたいそうですが、いかがされますか?』
「北アイルランド?ずいぶんと田舎だな」
『それも、あの楽園の町からです』
「つくづくお前はタイミングがいいな……。まさかこのスマホに盗聴機能が付いているんじゃないだろうな?」
スマートフォンを片手に煉瓦壁に凭れてクッと一笑する姿に、道行く女性たちが恍惚となって眺めて去っていく。
『恐れ入ります』
「まあ、いい。ちょうどアキンタウンにいる人物に会いに行こうと思っていたところだ。あの場所は少々厄介だ。クライアント様に早急に連絡を取り、町の入り口で出迎えてほしいところだが……」
『それについては、クライアントへ確認してみます』
「ああ。そうだな明日の夜と伝えてくれ」
『承知しました』
通話を切ると、ワイズは北の空を見上げた。
ーーさあ、会えるな……。
「クレスラス・ハイドロヂェン……」
***
ⅳ
「今日の授業はここまで。お疲れ様」
「ありがとうございます。クレス先生!」
「気をつけて帰るように」
「はーい!」
子どもたちは早々と席を立ち上がると、夕食前の空腹を我慢できずに、我先にと帰って行く。
アキンタウン中心街にある小さな空き店舗で、クレスラスがこの町の子どもたちに塾を開いてから早半年。商売をしている親や、貧困で学校に行けない子どもの親から頼まれてはじめたことだった。
子どもたちが全員帰ったか確認すると施錠し、足早で商店が建ち並ぶとおりへと向かう。今日は、週に一度野菜をまとめ買いする日だ。授業をする前に一度立ち寄って、買う物は伝えているので後は引取るだけだが、今日は問題の解説に時間がかかり、少し遅くなってしまった。
案の定八百屋は、常連のために半分だけシャッターが開けて待っていてくれていた。
クレスラスが近づいたのに気づいた閉店作業中の店主は、にっこりと笑い大きな紙袋を奥から持ち出してきた。
「時間外なのに、いつもありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。クレスラスさんのおかげで、うちの子供たちは貴族の方々と同じ学習が出来ていますので、このくらい大丈夫です」
そう言って八百屋の女主人が渡すのが、青々とした野菜とみずみずしい果物だ。林檎はおまけにしていると小声で。
クレスラスの塾には、ここの子ども二人も通っている。昼間は店の手伝いをし、夕方塾に通う。二人は女手ひとつで切り盛りする母を支えたいそう。そのため、二人は文字の読み書き、計算を中心に勉強しているのだ。
先日行った簡単な記述問題にも二人は積極的に取り組み、高得点をマークしていたことを褒めると、店主は嬉しそうに涙を流した。
それを見て、クレスラスは親子の情の深さを感じる。
「ああ、すみません」
「いえ、僕は……勉強していい成績を取ることが、親からの愛情をもらえることでしたので……正直、羨ましいです」
と、クレスラスは目を伏せる。
「……私は、自分ひとりだけであの子達を育てたわけではないわ……。この町みんなに育ててもらっているの……。もちろんあなたからもよ」
「……!」
「子どもは一人では成長できないわ。あなたのご両親は、きっとあなたに期待しすぎていたのかもしれないわね。外見がずば抜けているんだもの。我が子には二物じゃ足りないと、三つ四つと考えていらしたのかも。でも、近くに置かず、家の外に出してくれたのは親の愛情だと思うわよ」
と、笑顔の店主に見送られたが、実際は、親の愛情なんてありえなかった。
ただ、家にいられなくなってしまったから、家を出るしかなかったのだ。
「……俺は……親の愛情に飢えているのか……?」
内面に問いかけても、答えは出ない。
気持ちを切り替えて、家路を急ぐ。きっと、同居人の少女がお腹を空かせて待っている。
町の景観を損ねないために、地下に張り巡らされている地下道へ入ると、まっすぐ北へ進む。
突き当りの階段を昇れば、教会の脇に出る。いつの間にか夕日は落ち、夜空に変わっていた。礼拝堂の明かりが灯されており、ステンドグラスの輝きが、外にまで漏れている。
「綺麗だ……」
思わず足を止め、窓の向こうでゆらゆらと揺れる蝋燭の火が綺麗で。
気がつけば自分の吐く息は白く、心なしか寒いような気がする。
教会が夜に蝋燭を灯しているのは、クリスマスに向けてだ。もうすぐこの町は、雪に包まれ、白銀の世界へと姿を変える。
ブルッと身震いすると、ジャケットを持っていないことを後悔しながら、走って家に向かった。
その姿を見張られていることに、クレスラスは気づくことはなかった。
***
「すまない。遅くなった」
家に着くと案の定、同居人がリビングのソファに膝を抱えて待っていた。燃える暖炉の火によって暗めに見える翡翠色の瞳が、クレスを捉える。
「いいのよ。クレスが人気者で、多忙なのは承知しているわ」
彼女なりの譲歩だろうが、そこには皮肉が混じっている。
「お腹が空いただろう?すぐ作るから……」
そこは軽くかわし、ダイニングに向かうと、
「……手伝うわ」
応戦してくれないとつまらないと、整えられた爪先が綺麗な裸足で、カーペットを踏み出してくる。
「スープくらいは作ろうかなと思ったけど、食糧庫に何も入っていなかったから驚いたわ」
「ああ……そうだね。買出しに行く前日には使い切ってしまうから」
納得して、クレスラスから渡された林檎をダイニングテーブルにあった籠へと入れる。
その間にクレスラスは紙袋から野菜を数点取り出し、手際よく切り分ける。鍋に作り置きしていたブイヨンを温めると、切り刻んだ野菜と乾燥ベーコンを入れ、解き玉子を流し込み、最後に片栗粉でとろみをつけた。
ダイニングテーブルではフロムローズが、バタールを数センチ幅に切り、暖炉で暖めていた金網の上に広げている。クレスラス手製のガーリックオイルを上から塗っている為、部屋中に食欲をそそる匂いが漂った。
「クレスは焦げ目無しがいい?」
「ああ」
「わかったわ」
フロムローズの好みは少し焦げが付いたくらいなのだが、全体的に水分が無くなってしまう為、ぱさぱさとしていて食べた気がしないとクレスラスは言う。
「今日のメインディッシュは何?」
焼けたパンを皿に取り、テーブルに置いてからキッチンを覗く。
「チキンの香草焼き」
「……クレスって、凝ったものが好きよね?」
「駄目?簡単なものは一通り作って飽きたからね。……味付けを変えたら、同じ食材だって見違えるだろ?」
そう言って最後の仕上げとばかりにオリーブオイルを一掛け。
「それはそうだけど。マムは作ってくれたことなんてなかったわ……いつもコックのラクシーが作ってくれていて……。私は毎日ラクシーの後ろで、何ができるかわくわくしながら見ていた……」
急に黙ってしまったフロムローズのほうを見る。
「…………」
「クレス……焦げてない?」
「……ああ」
慌てて、用意していた大皿にバランスよく盛ると、色付けにクレソンを添えた。
それっきり、フロムローズは先ほどの話に触れることはなく、静かな食事にありつくことになった。
「フロムローズ……教会のライトアップが今日から始まっているんだけど見に行く?」
「行かないわ」
この家に来て、二回目だ。
日中は暇すぎるからと、クレスラスが反対しても外出したがるのに、夜の外出はクレスラスが誘っても行こうとはしない。それどころか、まるで怖いものを見るかのように、俯いて震えだすのだ。
「……」
ナイフとフォークを置き席を立つと、正面に座っているフロムローズの側まで行き、
「大丈夫。……無理強いはしない。ゆっくり休んでいるといい」
と軽く頭をぽんぽんと叩いて席に戻った。
「……ないで……」
「え?」
ぼそっと呟く声色を聞き取れず、聞きなおすと、
「行かないで!独りの夜が怖いの!」
涙を流しながら叫んだ。
「……クレスまで居なくなっちゃ……嫌……」
がたん、と勢いよく椅子を引くと、クレスラスの胸に飛び込み、声を上げて泣き出した。
「フロム……ローズ……?」
「ああー……っ!マム……っ、マムがー!」
ずっと堪えていたものが突然あふれ出したように、フロムローズの涙は止まらない。
あまりにも小さく見える背中をほおっておくことは出来ず、彼女を引き寄せた。
「……たくさん泣いていいよ……。涙が枯れるまで、泣き続ければいい……」
「……!……」
一度弛んだ涙腺は壊れたように、クレスラスの服を濡らしていく。
「今日は一緒に寝よう。そのほうが落ち着くなら……」
「う……ん……っ。く……ひく……」
やがて少女が眠りにつくまで、柔らかい銀髪を撫で続けた。
ようやく寝息が聞こえると、軽すぎる体を抱え、二階にある彼女の部屋へ運んだ。
フロムローズの分はラップに包んで冷蔵庫へ入れた。明日の昼に食べるだろう。
冷えてしまったガーリックトーストを頬張りながら、最近目を通していなかった、アキンタウンで配布されている不定期新聞を探し出し、何かなかったか調べる。
「これ……か」
フロムローズと遇った日に、アキンタウンの南部にあった侯爵家が一家全滅したという記事。そこには、住人すべてが殺されており、犯人のめぼしはついていないとある。侯爵も干からびるようにして死んでおり、奇怪な事件だと取り沙汰されていた。
さらには侯爵婦人は、屋敷から遠く離れた、駅へと続く石畳の上で、引きずられたような跡で息絶えており、一人娘は近くの川に、顔が分からないようにして死んでいたという。
「ラクシー」
記事には、先ほど聞いたばかりの名前もあった。
フロムローズがその一人娘だとしたら、その死体は誰なのだろう……。
「……調べてみるか……」
フロムローズに直接問いただしてみたい気もあったが、これ以上泣かせるのも辛い。
彼女と会えたことは神の思し召しなのだと、暖めなおしたチキンを口に運んだ。
***
ⅴ
週末。この町唯一の教会に、市民たちが集まっていた。
相変わらず礼拝堂は満員だ。女性たちは今日も楽しく会話をしつつも、周りを見渡し噂の女性を見つけるのに血眼になっている。
そんな様子を壇上の袖口で見ていたクレスラスはため息をつき、それを見た神父は楽しそうに笑った。
「今日はレディは家に?」
「はい……。心配なんですけどね……」
今まではたびたび邸の外に出ることがあったが、あの日の夜から、彼女は一歩も外へ出ることはなかった。
平常を装ってはいるが、たまに目を腫らしていることがあったので、クレスラスが居ないときに泣いているのだろう。
少女の力になれないことがはがゆい。だからといって、取り寄せた新聞の内容をいく調べても、新しい情報は出てこない。唯一真実を知っていて黙っているフロムローズに優しく接することで、彼女の強張った表情をほぐすことくらいしか出来なかった。
「……悩める男もいいね~」
「……神父様?」
「ん~。君みたいな男が悩んでいるのを見ると、女性は見過ごしてはくれないよ?って話だよ」
そう笑って、神父が壇上に向かう。
「……」
「主は皆さんとともに」
「また司祭とともに」
静かに祈りと説教を述べ始めた。
シン、とした中で聖書を唱え始めた神父の横顔を見ながら、クレスラスは、自分がそんなに人に愛される人間ではないと、壁に寄りかかり、ため息をつく。
「俺は……所詮忌み子だ……」
神に縋ってしか生きていけない、ただの、弱い人間だ。
神父の流れるような詠唱に、心が洗われるような気がする。
「アーメン……」
胸の前で十字を切り、首にさげていた十字架に触れた。大きく深呼吸をして。ステンドグラスのカラーに染まった神父の隣に歩いていく。神父がちらりとこちらを見たが、すぐ斉唱に入ったクレスラスは、自分の仕事をこなす事に専念した。
聖体拝領が済み聖歌を歌うと、ミサは終了。
クレスラスが途中から参加したことで女性たちの志気が高まり、みなすがすがしい表情で帰って行く。
「本日は、礼拝ありがとうございました」
参拝者に挨拶をしながら、使用済みの聖水を交換しようと入口傍へ向かう。
「……クリスマス・ローズ」
町民が活けてくれたクリスマス・ローズの花瓶の前に、見知らぬ女性が立っていた。ジッと花を見つめている。
「いかがされましたか?」
初めて見る顔に、クレスラスは声をかけた。
声に気づいて振り向いたアッシュブロンドの美人は、
「……好きな花だったので。失礼いたします」
それだけ言うと、去っていった。
「……」
彫刻のように、頭からつま先まで白に覆われた、不思議な人だった。また会えたら花の話をしてみたいと、クレスラスは聖水盤の栓を抜いた。
***
「……失礼ですが、ハイドロヂェン様……。少々お時間をいただけないでしょうか?」
コーヒーブレイクの間、壇上の脇に設置してあるパイプオルガンの前で会話をしていた神父とクレスラスの側に、午前中のミサに参加していた女性が声をかけてきた。
見事な金髪は緩やかに巻いてあり、シンプルなロングドレスを身に纏い、フェイクファーのコートを着て寒さ対策をしている。
だが、彼女の表情は強張っている。何か相談事だろう。
指名されたクレスラスは頷くと、神父に教会奥の談話室を借りた。そこに案内すると、暖炉に火をつけ、備え付けのポットにお湯を沸かし、ティーの準備をする。
彼女は必要ないと言ったが、少しでも気分が落ち着けばと差し出した。思っていた以上に今日は冷え込んでいる。外に出る前に風邪をひかれても困ると言うと、彼女は笑って口にしてくれた。
「それで……話というのは?」
深く座ったソファから身を乗り出して、彼女が話を切り出すのを待つ。しばし考えた後、彼女はクレスラスに視線を合わせ、戸惑い気味に呟いた。
「…………申し遅れました。わたくし、町長の娘のダリアと申します。不躾とは承知しているのですが……。最近町に出回っている噂の真相を教えていただきたくて……」
「噂……ですか?」
彼女は頷く。
「あの、ハイドロヂェン様が、銀髪のかたと……ご結婚されたとか……」
「………………はい?」
寝耳に水だ。思わず目が点になる。
反対に、彼女は涙を浮かべてハンカチーフを手にしっかりと握ったまま、真実を問いただす姿勢。
「噂は……本当なのですか?」
「ちょっと……落ち着いてください!」
テーブルから身を乗り出して寄ってくる彼女を手のひらで制して、
「私は、何も知りません……。とりあえず、その噂とやらを聞かせていただきませんか?その上で訂正等あれば、この場でお返事しますので……」
そういうと納得したのか、ダリアは恥ずかしそうにソファに座った。
「……すみません……。興奮してしまって……」
「……いえ。話をきかせていただけますか?」
顔全体を赤らめるダリアに、優しく問いかける。
「はい……。確か、先月のミサの後のお茶会で友人たちと話をしていたときでした……」
町で商人をしている家の娘の話だったと思う。
『夜眠れなくて、窓を開けて月を見ていたら、深夜だというのに道を二人連れが歩いていたの。月明かりのみだったけど、一人は間違いなくハイドロヂェン様だったわ。月の下で見る漆黒もお素敵で……。で、ハイドロヂェン様と手を繋ぐようにして歩いていたのが……』
「銀髪の女性だった―と?」
クレスラスが続けると、しっかりと頷いた。金髪碧眼のダリアたちは、とにかくその目撃証言を確かめたかっただけだった。そうして捜しているうちに噂となってしまったという。それに尾ひれがつき結婚の話にまで進展し、その話が一周して「クレスラスが結婚した」と噂で聞かされたため、動揺してしまったというのだ。
「私たちは、噂にするつもりはありませんでした……。ただ、銀髪の女性に、ハイドロヂェン様と二人だけで街路を歩いたことはないか……と。申し訳ありませんでした……っ!」
深く頭をさげるダリアに顔を上げて欲しいと頼むと、涙で膜が出来たように潤んだ目で、クレスラスを見上げてきた。
「……まったく、噂は誤解だと申し上げておきましょう……。ご安心ください。ダリア嬢。まだ私は勤勉の身……。結婚など、到底先の話ですよ」
嫌な予感がして早く立ち去りたいといわんばかりに、口先のでまかせを言ってみる。
「そんなことはないですわ!私……ずっとクレス様をお慕いしておりますの……!」
結果、クレスラスの標的を大きくはずれ、逆に逃げ道を塞がれてしまった。
***
「あははは……っ!」
「神父様、笑いすぎですよ……」
お腹に手を当てて笑う神父を前に、クレスラスは先ほどのダリアとの会話を報告していた。今後他の女性たちが彼女のようにクレスラスに詰め寄らないとは限らず、逃げ道を確保するには、神父の協力が不可欠だった。協力するかわりにと、こんなことになってしまった状況を教えてという交換条件を飲んだのだった。
神父の部屋にある応接ソファに二人、向き合ってランチ兼用のお茶を飲む。ミサ後の習慣だ。
はじめは告白かと思って構えていたところに、噂の真相の話になり、安心しきっていた話のネタを自らぶり返すことになり、挙句の果てに告白されてしまうという大どんでん返しに神父は大うけ。墓穴を掘ってひとり後悔しているクレスラスをさしおいて、先ほどから思い出しては笑い続けている。
「あー。ごめんごめん。涙がでてきたよ」
一口お茶を含む。沸騰したてだったのに、話に集中しすぎていつの間にか冷え切っていた。
「……」
「ほんと、ごめん。君が困っているのは十分承知したよ。私はこれまで以上に、君に近寄ってくる美女たちから護ればいいんだよね?」
「護るほどでもないのですが……。まあ、そんなところです」
「いいよ。わかった。引き受けるよ」
神父は約した事を違えたりはしないから、一度了承を得れば後は大丈夫だろう。
クレスラスは立ち上がると、神父の方を見る。
「……ありがとうございます。とりあえずお嬢様を待たせていますので、今日は帰ります。では」
「うん。気をつけてね」
ひらひらと手を振って労う神父に、軽く会釈して部屋を出た。
更衣室で着替えて教会の裏口から出ると、冷たい風で身震いした。コートを持ってきていて正解だった。晴れ空ではあるが、日陰になっているところでは予想以上に寒くなっている。
「……誰かいるんでしょうか?」
ふと、視線を感じた。参拝者ならば挨拶をしなければと、グルッと見回してみるが、人の姿はない。
「……気のせいか」
特に気にすることもなく、クレスラスは、腕に持っていたロングコートを羽織ると、急ぎ足で自宅へと戻る。
今日はフロムローズと、テラスでランチをする約束なのだ。朝、家を出るときにパンを軽く炙って、好きな野菜を切っておいてくれと伝えておいた。
お嬢様育ちの割にはキッチンに立つことが好きという彼女は、率先して炊事をしてくれる。そして、自炊暦が長いクレスラスが脱帽するくらいに、包丁捌きが上手い。
今日は寒いから温かいスープでも作ろうと、頭の中に具材を浮かべながら、クレスラスは通い慣れた道を登った。
町より少し丘になった緑が多い中にあるクレスラスの家は、たまたま母方の叔母が持っていた別荘を譲り受けたもので、貴族たちが住まう豪華に建立された邸と、暖かくなればカラフルな絨毯へと姿を変える庭園を見渡すことが出来る。
ロンドンで両親と住んでいた家はどちらかといえば古く小さいものだったので、今の邸は一人で住むにはあまりにも広すぎた。
家の周りには絡まる様に蔦が生えており、一見するとホーンデッドハウスのようで町の人たちはみな近づかない。たまに訪れる珍客には、以前から取り付けられていた防犯設備で対策をしている。これも譲り受ける前からのものだったが、多分町中の邸に付けられているものよりも重厚なものだろう。フロムローズが居るようになってからは、更に強化したが、あまり心配はしないでよさそうだ。
家に戻ると野菜はすでに切り終わっていて、フロムローズは火の前で鍋を覗いていた。
「ただいま。なにを作っているの?」
「ゆで卵」
「いいね」
「着替えてきたら?もういいぐらいだから潰して手伝って」
「了解しました」
卵の殻をすべて剥き終わったところでクレスラスがラフな姿でやってきて、フロムローズの隣に立つ。
踏み台の上に立っても、まだ彼の身長には届かない。だが、いつもよりも見上げる角度が小さい点は、少し気分が良かった。
プッシャーで潰した卵に、マヨネーズと香味ソルトで味付けして完成だ。
余っていた野菜でスープもつけた。
器に盛った具材をカートに載せ、テラスに運ぶ。テーブルはすでにセッティング済みで、皿とティーカップも用意されていた。
「準備万端だったね」
「……今日は早く目覚めたの」
器をテーブル中央に並べていく少女を見て、少しは悪夢から逃れ始めているのかと嬉しくなった。毎夜魘されていたので、これからは少しずつ明るくなってくれればいい。
十二歳と言っていた。その割にはあまりにも感情がなかったので心配していたのだ。自分と同じ目には、遭わせたくないと。
「早く起きるのは、いいことだよ」
そう言って、沸騰したての湯をカップに注ぐ。
席に座ったフロムローズの目は、慣れた手つきで紅茶の準備を進める少し骨ばった手を追う。
「今日は、マイセンの白に合うように、濃いめに淹れてね」
「かしこまりました、お嬢様」
この家に来たときには食器はそのままだったので、ありがたく使わせてもらっているが、あまり銘柄には興味はないクレスラスだったが、フロムローズがマイセン好きと知ってから積極的に使うようになった。それは彼女の母がマイセン好きで、よくドイツまで仕入れに行っていたから。これを見ていると、母親のことを思い出すのだろう。
砂時計が下に落ちたのを確認すると、熱されたカップから湯を捨て、ポットの湯を注ぐ。ほのかな香りと共に、琥珀色の液体が流れ出した。
「お待たせ。アールグレイだけど、よかった?」
フロムローズは一口飲むと、正直な賞賛を彼に送る。
「美味しいわ。本当に意外よ。クレスがお茶をこんなにも美味しく淹れることができるなんて」
「……神父様に付き合ってもらって、ロンドンで開催された『茶葉を見極める講習会』に行ったことがあってね。無知だったのに、帰るころには誰にも負けないくらい美味しいお茶になっていたよ」
「ふーん。神父様も面白い人よね」
「……そうだね……。さあ、食べようか」
「うん」
クレスラスはフロムローズの正面に座ると、胸の前で十字を切り、食前の言葉を唱えた。
「―……アーメン……。いただきます」
「いただきます」
二人は狐色のきれいなパンを手に取り、中に具材を入れてサンドしていく。前日に買っておいた天然酵母のパンは、そのまま食べても美味しいが、表面を焼くことによって食感や香りを楽しむことができたので、フロムローズのお気に入りだ。
はみ出してしまうほどに具材を挟み込むと、小さい口で頬張りついた。しばらくもぐもぐした後、
「クレスすごいわ!すごく美味しい!朝ごはん抜きで待っていた甲斐があったわね」
早口で言った後、二口目に入っている。
クレスラスも口に運んだ。しっかりと噛んで味を確認する。昨晩から野菜を切ってマリネしておいたのが効いたようだ。
「このドレッシングはまた作っておこう。魚料理にも使えそうだね」
「うん!私、この味好きよ」
「それはよかった」
満腹になるころには、パンはすでに無く、具材もほとんどが空になっていた。
「おご馳走様でした。また作ってくれる?」
「もちろん」
「ふふ……。お願いだから、クレスは私の前からいなくならないでね……?」
笑っていたフロムローズが、突然意味深なことを言い出したので、クレスラスは表情には出さないようにフロムローズの続きを促した。
「クレスには話さなきゃと思ってたけど、なかなか言葉にできなかったの。ごめんなさい」
「ああ」
「私も、詳しくはわからない。けど、マムもダッドも……メイアもケットもラクシーも……みんな、みんな私を置いて死んじゃった……。私一人だけを置いて行っちゃったからっ……。クレスは私の前から消えたりしないでね……?」
「しないよ。そんなこと……」
やはり、フロムローズの家だったと頭の中で冷静に考えつつも、彼女の心の拠り所になりたいと願う自分がいた。
「本当?」
潤んだ瞳で返されて、昔の自分に重なった。
彼女は……犠牲者だ。
「本当に」
非道な殺人鬼に、家族をすべて殺された。きっと、彼女自身も殺人鬼に追われていたのではないだろうか?
フロムローズと出会ったあの日の夜。
その日は雲一つない、月が輝く夜だった。
***
事件があった日も、クレスラスは深夜の教会にいた。できるだけ神の御前にいたいクレスラスへ、いつでも礼拝堂の鍵を開けているからという、神父の親切だ。
日が落ちて、蝋燭で照らされた神の像に会いに行き、日付が変わるころまで祈り続ける。その時間が一番好きだった。目の前に神がいる空間が。
幼いころから、神の言葉を聞いて生きてきた。
人からは予知夢だと言われはやし立てられたが、そうではなく。神の啓示なのだと。“現代のジャンヌ・ダ・ルク”とあだ名が付けられるほど、クレスラスの言ったことは確実に現実に起こった。それが元で危険な目にも遭った。だがそれすら切り抜けてこられたのも神の言葉のおかげだ。
いつものように壇上だけに明かりをつける。
「神父様……今日も感謝します」
壇上に一番近い位置に座ると、胸に十字を切り十字架を握る。瞳を閉じ、深呼吸。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった……」
旧約聖書の前文を小声で唱えはじめれば、もうなにも、微かに聞こえていた風の音すら耳に入らなくなる。己の中に入れば周りはすべて遮断される。絶対的な集中力。
そして彼は、御神の聖なる声を聴く……―。
天地もわからないほどの漆黒の世界に、自分の意識だけがある世界。そこに、ふと浮かび上がる一つの光の玉。手を伸ばしてそれに触れる。途端にそれは弾けて、代わりに瘦せぎすな老人が現れ、クレスラスへ言葉をくれるのだ。
「……出会い……。悲劇……。洗礼……」
目を開けて、一呼吸置いた。
教会の窓がガタガタとなっている。来たときより風が強くなっているよう。
「出会い……悲劇、洗礼……。いつもより漠然としているな……」
椅子の背もたれに頭を置き、天井を見上げた。いつもなら美しい絵を見せるステンドグラスも、月が雲に隠れているのか、今はどんよりとしている。
「……これ以上はなにも見えないか……か」
先ほどのように目を瞑り暗闇を作ってみたが、何も見えなかった。
腕時計に目を向けると、思っていた以上に時間が過ぎていることに気づく。あまり遅くなると神父に迷惑がかかると、クレスラスは蝋燭を消して暗い教会を後にした。
外に出ると、雲の影から抜けた満月が輝いていてもう少し見ていたくなる。が、予言についても考えたかったので、遠回りをして帰ることにした。
青白く輝く月は、外灯がまばらにしかない道でもしっかりと照らしてくれている。
閉鎖的なこのアキンタウンは、貴族たちの力の象徴を放散させないように、誰も彼もが入れないようになっている。
イギリス国内で、納税率一位を維持している貴族の町は、あらゆる被害から彼らの生活を護る為、町全体が完全な防犯設備となっているのだ。
そのため食べ物などは自給自足が多いし、外から入ってくるものに関しては国境を越えたり飛行機の搭乗前検査以上のものが行われる。貴族たちは、何かが起こって自分たちの生活が危ぶまれることを何よりも恐れた。
だから、クレスラスがこうして独り夜道を歩いているからといって、危険なことは無い……はずだった。
「なんだ……?」
石畳の途中で倒れているものがあった。すぐに、人が倒れているのだと気づく。月に照らされて淡白く輝く美しい銀髪。卵のように白い肌。そして、地味な色の服にはべっとりと赤いものが付着していた。
「……大丈夫ですか?」
これが予言の“出会い”なのかと、慌てて駆け寄り驚いた。
まだ幼い。
そっと近寄ると首筋に指を沿え、脈があることを確認して一息つく。錆びた鉄の臭いがして、赤いものが血液だと知る。目に見える場所に大きな傷は見当たらない。どうも、服のおびただしい血液は彼女のものではないらしい。
ただ眠っているだけなのだろうか。朝になれば治療院へ連れていけるなと思い、少女を起こすことにする。念のため、頭を打っていたりするとまずいと思い、頬を軽く叩いた。
「ん……」
「気分悪くは無いか?」
「マ……ム……?」
そっとあけられる双眸は深い翡翠。月光を受けて淡く輝く宝石のようだ。
「残念だが、マムではないな」
「……そうか……。あなたは……?」
「……クレスラスだ。頭を打った記憶は?」
「無いわね」
「それなら安心だ」
腕を抱きかかえ立たせると、頭や背についている砂を落とす。着ていた上着を脱ぎ、小さな肩に羽織らせた。
「名前は?スノーホワイト」
「私は……フロムローズ。元貴族の捨てられっ子よ」
「……ならば、俺と来る?」
「…………」
腰を落として目線を合わせるクレスラスが、真剣にフロムローズを見つめてくる。
「……後悔しても知らないわ」
差し出された、異性の大きな手の平に自分の手を重ねたのは、突然突きつけられた現実から逃げたかったからだったし、独りが嫌だったから。
貴族たちの邸が立ち並ぶ辺りを過ぎるまでは、手をつないで歩いた。
フロムローズの歩みが遅くなってきたことに気づいた。疲労困憊で眠そうな顔だ。地下道へ入ってからはフロムローズの体を抱えた。ここから先は人に見られることはほとんど無い。
「しっかりつかまっていて」
足早に丘の邸を目指す。振動が気持ちいいのか、まもなくして微かな寝息が聞こえてきた。
家に到着するなりリビングのソファに少女を横たえると、浴槽にたっぷりのお湯を沸かす。
コートを広げると、結構な範囲が赤く染まっていた。さすがにこれをどうにかする気にもならず、ゴミ箱へ投下した。
先にシャワーを使うと、水気を切っただけの髪にワイシャツとジーパンを着て、少女の様子を見に戻った。
彼女はすでに起きていて、体を起こしてきょろきょろと周りを伺っていた。
「おはよう。スリーピングビューティー?」
「……そんな綺麗な名前で呼ばないで。フロムローズって名乗ったわ」
女性に何度も名乗らせないでと睨んでくるが、丸っこい瞳ではいかんせん力がない。クレスラスは苦笑をこらえて、
「それは失礼。浴室に案内するよ」
背に手を添えた。膝裏にも手を添えると、先ほどのように子ども扱いはして欲しくないと抵抗されたが、
「部屋を汚されたらたまらないからね」
と一蹴し、有無を言わさず抱えて浴室へと向った。
「あいにく、君に貸せる服がシャツしかないんだが……」
脱衣所にタオルとワイシャツを持ってきた。
「十分よ。バッグに最低限の下着とかは持ってきてる」
「それは良かった。そしたら、明日は服を見に行こう」
申し訳ないが着ている服は捨ててくれるかと、部屋の奥のゴミ箱を指差してクレスラスは扉を閉めた。残されたフロムローズは、ゆっくりと血がこびりついた服を脱ぎ落とし、ゴミ箱のコートの上に重ねると、シャワーを出した。
頭からぼろぼろと砂が落ちて、床のタイルが赤く染まっていく。体中を見てみるが、どこも怪我をしているところはないようだ。痛いところもないので、すべて母の血なのだろうと、現実を突きつけられた。
涙は出なかった。
十分に髪を湿らせると、備えてあったシャンプーをありがたく使わせてもらうことにする。しっかりと泡立てて赤色の泡を洗い流した。ストレート髪はすぐに泡が落ちてくれるから好きだ。髪の毛を人房掴むと、血の匂いが残っていないか嗅いでみる。大丈夫なようだ。銀色の髪はたまに巻いたりするが、自分の体の部位で一番好きだから、一番きれいにしておきたい。
からだも念入りに洗った。いまだに鼻につく、母の最期の形跡を綺麗に落としてしまいたかった。
その頃、クレスラスは暖炉に薪をくべ、夕食に作り置きしていたスープを温めなおしていた。
少女の体は長い間あの場所にあったようで全身が冷たくなっていたので、しっかり風呂に浸かってくるだろう。
ダイニングのドアが開くくらいに、タイミングよくスープが出来た。
「お疲れ様。ソファに座って」
「?……」
髪はタオルに包んだまま、持ち出した下着の上にクレスラスが用意していたワイシャツを着て入ってきた。言われるがままに、先ほどまで自分が寝ていた場所に座る。
見渡した部屋は、全体的にモダン調。自分の家にあったような煌びやかな家具や調度品は一切無く、最低限の家具と白を基調とした壁が静かと感じられる部屋だ。
「手当てが必要なところは無いか?」
「えぇ。大丈夫」
「なら一安心」
クレスラスが盆を持ってやってきた。盆の上には湯気が立つオニオンスープ。
「芯から温まらないと、風邪をひくから。……召し上がれ」
コンソメベースのオニオンスープだ。パセリのみじん切りを浮かべている。
「……いただきます」
スプーンで一掬い、軽く冷ましてから口に運んだ。
「……美味しい」
「それはよかった。君の寝床の準備をしてくるから、ゆっくり食べていていいよ」
「……ありがとう……」
「……どういたしまして」
階段を上がり、春に桜の花が見える部屋にしようと、二階の奥の部屋に入った。
こまめに家じゅうを掃除しているので、ベッドにシーツを張るくらいで済みそうだ。
食べ終えたフロムローズを部屋へ案内して、クレスラスはようやく長い一夜に幕を下ろすことが出来た。
***
ⅵ
あの日、道端にいたのはフロムローズだけだった。だが、新聞では母親と娘らしき死体があったという。
フロムローズが纏っていた血液はきっと母親のものなのだろう。彼女が痛がることはしなかったし、実際本人も平気だと言っていたし傷もなかった。
気になるのはそれだけではない。フロムローズの父親であるダラス侯爵が、干からびるようにして死んでいたことだ。彼は、ダラス家の屋敷の自分の寝台の上で死んでいたという。
珍しいことだが、強盗に入られたのか?なぜ干からびていた?
いくら考えてもこれ以上は見えてこない気がして、泣き疲れて眠ってしまったフロムローズを部屋へと運んだ。
「……」
まただ。なぜだろうか、窓の外。誰かに見張られているような気がする。
ダラス侯爵家を根絶やしにするつもりでフロムローズを狙っているのだろうか。なおさら彼女から離れては危ないと、一度食器を片付けに戻ると、フロムローズの机で塾の問題を作ることにした。
どのくらいの時間がたったのだろう。
フロムローズはふと目を覚ました。目だけを動かすと、自分に宛がわれている部屋だ。
むくっと起き上がると、そこには机に伏せっているクレスラスがいた。
「クレス……?」
音を立てないようにして近づくと、規則正しい寝息が聞こえる。
クレスラスが、まだ日のあるうちに寝ているところを初めて見て思わずクスリと笑う。机の上に途中にされた問題プリントの一枚をフロムローズは手に取った。
「……凄い几帳面……」
綺麗な字体で書かれた問題は、まるでパソコンで打ったかのように乱れなく並んでいる。
どこまでこの人は女性に愛される要素を持っているのだろう。
綺麗で優しくて、家庭的で。なのに、クレスラスからは、女性のにおいが一切しない。会話にも一度も出てこない。
何度か気が向いたときに、教会の教壇裏に隠れてクレスラスを見ていたときもあったが、すべて女性から逃げるようにしていた。あくまでも自然に、誰にも気づかれないようにだが。
「……同性愛者……?」
その割には男の影も無い。すべてが謎だらけだ。
「……私以上に秘密だらけなんて……ずるいわ……」
「……そんなことはないと思うけど?」
「!」
突然聞こえた声に、フロムローズはドキッとした。別に悪いことをしたわけでもないのに、心臓がドクンドクンとうるさい。
「……いつから……」
「几帳面辺り」
首を動かしてフロムローズを見上げてくる。
「……最初からじゃない」
「気配にはなるべく気を使っているんだ。音を立てずに来られても同じだよ」
クレスラスは意地悪そうに笑っている。
そんな姿も初めて見る。
「俺のことなんて、君以上に興味が湧くものではないし。それに、君に言ったからといって、今更君にどうこうできるものでもない……。君もそうじゃないの?」
「……」
「俺はフロムローズ・スピリットというダラス侯爵家の一人娘が、どうしてあんなところであんな状態でいたのかを知りたい」
フロムローズの少し顔が強張った。間違いなく、この子が侯爵家の一人娘……。
「……やっぱり調べたの?」
「数日前に新聞を読んでいて気が付いた。元貴族と言っていたしね。……君と会ったあの夜に事件が起こったんだろう?」
隠すことも無くすらすらと事実を述べるクレスラスに、フロムローズは無意識にため息をついた。
……こんなに早く知られてしまうなんて……。
そう思うと、知らずに涙がこぼれていた。
「私のこと調べたのは、やっぱり追い出すつもりで……!」
やはり、クレスラスもダッドたちと一緒なのだと、世界が暗転するようだ。
「調べようにも、新聞には君の家はすでに壊されているとあったし、跡継ぎがいないため爵位も戻されたとある。親戚筋も消されていたんだろう。これが公な事件になっていないのが不思議なくらいだ。それに……君をここから出すわけにはいかないと思っているよ」
「……え……?」
フロムローズの涙を指でそっと拭うと、クレスラスは慎重な面持ちで、
「君が事情を黙っているのは、まだ犯人に狙われていると考えているからなんだろう?けれど、あの日君の身に何が起こったのか、知っていることを話して欲しいんだ」
少しでも、君の心を軽くしたい……。
「……何も、無いわよ……」
「フロムローズ!君が、生きている唯一の事件関係者だろ?」
「いい加減にして!」
少女の悲鳴にも似た叫びに、クレスラスはその先を続けることが出来なかった。
翡翠の目には、すでに見慣れてしまった涙が止まらない。
「……クレスは酷いわ……。私は何も知らないのに……。必死に逃げて、気がついたらクレスラスが助けてくれていたの……。それだけよ……。私は何もわからないわっ!」
踵を返してベッドに飛び込むと、布団を頭からかぶってしまった。
「…………ごめん」
それ以上言うことが出来なくなって、クレスラスは静かに部屋を出る。
また泣かせてしまったことに胸が痛むが、やはり彼女は関係者だった。
話を聴くことが出来なくなってしまったことが少々残念だが、彼女の心の傷を更に深くしてしまったことにはかわりは無い。廊下を歩きながら、これからどうしようかとため息をつく。ふと顔を上げたその先に、教会の仄かな輝きが見えた。
「…………」
フロムローズの部屋まで戻って扉を開けずに、
「フロムローズ、外出してくる。施錠して行くから勝手に出ないように!」
それだけ中に聞こえるように叫ぶと、バタバタと階段を下りた。
薄暗い部屋の中、布団に包まってぐずついていたフロムローズは、バタンと遠い音がしたのを確認すると、もそもそと這い出て窓の外を見る。
駆けて行く背中を確認すると部屋の電気を点け、扉の横についている全身鏡の前に立って自分の姿をまじまじと見た。
雪が輝いているような銀髪。翡翠を埋め込んだかのような瞳。ほんのり色づいた白い肌。クレスラスと神父がロンドンまで行って買ってきてくれた、ピンクのイブニングドレス。
手を伸ばして、鏡の手に触れた。
この手は血に染められている……。
どんなに逃げても、その血からは逃れられないような気がした。
***
少女は、姿の見えぬ恐怖から必死に逃げていた。
なぜ、外に出てしまったのだろう。なぜ、自分は追いかけられているのだろう。
「ハイドロヂェン様……!」
これは罰なのだろうか?一人で麗しい人に会いに行った。
少し前に、誰か若い子が殺されたと聞いた。両親が、すごく心配していた。
自分は大丈夫だと高をくくっていた。
夜道を歩いている途中から、自分のすぐ後ろを誰かが付いてきていることに気が付いた少女は、建物の角を曲がってすぐに駆け出した。
なのに、どんなに細い路地に入っても離れず追いかけられている。
自分以外の足音が、だんだん近くなってきた。
「……っ……!た……たすけ……!」
とうとう、少女は夜の袋小路に追い込まれ、断末魔の悲鳴をあげた……。
***
クレスラスは荒い息を整えて、静かに教会の裏口を開けた。
今日は約束をしていなかったし、ライトアップの時間も終わっている。きっと、神父も奥の部屋で就寝いるだろう。
礼拝堂の中は静かで、月明かりに照らされたステンドグラスの明るい影が出来ている。
祭壇中央へと歩いて、並んでいる椅子に腰掛けた。
今なら神の声が聞こえる。そう思った。
ゆっくりと目を閉じ、深呼吸を繰り返す。
「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
御国がきますように。
みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう……」
フロムローズとの諍いに尖っていた神経は、少しずつ少しずつ穏やかになっていく。
「……出会い……悲劇……洗礼……」
これ以外の言葉が見えてこない。つまり、まだ出会いもしていないことだ。フロムローズとの出会いが出会いでないとするならば、いったい……。
その後に待ち構える悲劇が気になって、どうしてもフロムローズの身に何かがあると勘繰ってしまい、彼女にきつい言葉を与えてしまう。そうしても、何の解決にもならないというのに……。
「俺は……嫌でも繰り返してしまうのか……」
指を組んで足の上に肘を立てる。
数年前。予言したのに人々の命を救えなかったことがあった。その時の自分の行動が本当に正しかったのか、クレスラスは今も自問自答しては苦しんでいる。
「……俺は、何も成長できていない……」
「そうだな」
「―――……!」
突然教会内に響いた男の声に、クレスラスは顔を上げた。入ってすぐに内側から鍵をかけた。礼拝堂には入られないはずだ。
カツン、と後ろから足音が聞こえる。
寒い。全身の体温が下がっていっているよう。だが寒さによる悪寒ではない。走った時の汗も引いている。
「……」
ゆっくりと振り返ったのは、怖いもの見たさに。
「……神?」
外の月に照らされた、ステンドグラスのスポットライトの中に佇んでいる一人の男性。
腰まである、きらきらと輝く美しい髪、広い肩幅。スーツが似合う長い脚。
人かと、髪に隠れている顔を見てみたくて、クレスラスは立ち上がり、侵入者に向き合った。
「…………どちらさまでしょうか?」
「やはり、現物のほうがいいな……」
「……?」
男は、自分のことを知っているふう。
「……クレスラス・ハイドロヂェン。成長して、思っていたより綺麗な顔立ちをしているんだな……」
そう言いながら、近づいてくる。
何故だか分からないが……怖い。
「逃げるか……?」
片足を後ろへ動かしたからか、男はますます近づいてくる。
「……お前の予知夢映像を見たぞ……。それは本物か……?」
「―――……!」
この男は、自分を追ってきた?
「……っ!」
目の前に自分の秘密を知っている人間がいる。男の口元は笑ったまま。そのことが、普段のクレスラスには無い慌てぶりをみせた。
アブナイ。
ココハキケンダ。
彼は、自分を捕まえにきた……!
逃げようと壇上へ駆け出そうとするが、まるで金縛りにあったように指先さえも動かせない。なのにだんだんと近くなる声に、鳥肌が止まらない。
「クックッ……。そんなに怯えるな……。お前に興味が湧いただけで私はまだ、お前をどうしようとは考えていない」
信じられるわけがない!
クレスラスの脳裏には、過去に散々甚振られたことがフラッシュバックして、男の言うことなど、まったく入ってこなかった。
「あ……。あ……」
恐怖色に染まる顔。それだけで、クレスラスの現状を物語っていた。
「……それほどまでの……過去……か」
男はスッと目を細め、クレスラスの正面に立つと手を差し出して、動けないでいるクレスラスの顎を掴んだ。
自分では動かせないのに、彼は指一本と軽い力で上を向かせる。
「…………」
「本当に珍しい目の色だな。金環日食か?なかなか興味深い能力を持っているようだし……。今は、多少曇っているのか?」
息がかかるほどの至近距離で紡ぎだされる美声。逃れたいのに逃れられない。それなのに、オペラで感動した時のように脊髄を駆け抜け、全身が歓喜に震えている。
男は一笑すると、クレスラスの目を己の手でふさいだ。
「曇りを払ってやろう……」
耳朶のそばで聞こえた美声に、クレスラスの体から力が抜けていく。ぼんやりとしている間に男は離れたのに、まだ触れられたところだけが熱かった。
相手からふわりと香るライトブルーに惑わされたとしか思えない。動かないままのクレスラスをそのままにして、男は踵を返した。
扉に向かう足をいったん止め、振り返る。
「私はファウンダー・w・フォーミュラー・ワン……。覚えておけ。また近いうちに会うことになる……」
それだけ言うと、暗闇の中に消えていった。
姿が見えなくなると、がくんと膝が動いて、クレスラスは床に座り込んだ。
触れられた顎に指を伸ばしたのは、多分無意識。朦朧としていて、夢か現か判断がつかない。
***
2 凄愴
ⅰ
「君は、誰だ?」
真っ白な視界の中に、長い後ろ髪が風に靡いていた。美しい金髪だ。その女性が振り向いてこちらを見た。自分は彼女を知っている。
そう。つい最近、彼女と話をした。
「私を見て……」
そう言った彼女の服は赤く染まっていた。
「クレスラス!」
「っ……!」
目が覚めた。見えるのは、教会の奥に位置する客間の天井だ。
「気が付いたかい……?とてもうなされていたよ。熱は下がったみたいだけど……」
脇から優しい声色の神父が訊いてきた。少し冷たい手が額に触れ、気持ちいい。
体温計を渡されて、クレスラスは脇に挟んだ。
ここは町外の神父や、宿がない人たちにと解放されているところで、簡易ベッドと洗面所がある小さな部屋だ。
「ああ。すみません……迷惑かけて……」
「……迷惑をかけているのはお互い様よ」
神父の後ろから、腰に手を当てて立っているフロムローズが答えてくる。
「ほらほら、レディ。相手は病人だから」
神父は苦笑いをしながら、クレスラスに水の入ったグラスを渡し、プーと膨れるフロムローズを部屋から出した。
「彼女がまったくここから動いてくれなくてね……。風邪が移るよと何度も言っても聞いてくれなかったから、もしかしたら菌が移っているかもしれない……」
「……構いませんよ……。彼女も多分そのつもりだったんだと思います。フロムローズが寝込んだら俺が看病しますよ」
「ははは……。そうだね。そうでもしないと彼女は許してくれないだろうし」
「……ところで、俺は、何日くらい寝ていたんでしょうか?」
「…………今日で十日目……日付が変わる前から倒れていたとしたら、十一日だね」
第一発見者の神父は、朝になり礼拝堂に倒れている人物がいることに気づいた。それがクレスラスだったため、町一番の医者に来てもらい、点滴と解熱剤を投与し続けていたのだったという。体温計のメモリを見て安心する。もう安定している。
最初の三日間は四十度近くまで熱があり、氷を作っても次々に溶かしていた。そのあとは熱は下がっていたが、いくら声をかけても反応せず。医者もお手上げで、今日目覚めなければロンドンまで運ぶことにしていた。
「まだ、起き上がらないように。ピッチャーは反対側のサイドボードにあるからしっかり水分補給して。洗面所はそこだけど、まだしっかり歩けないかもしれないだろうから、行きたいときは声をかけてくれ。それと……決して、私の後ろの扉を開けてはいけない」
「……?」
フロムローズが出て行った、礼拝堂へ続く扉なのに、なぜだろうと首をかしげた。
「君が元気になったらいいよ。それまでのお楽しみだ。……あと残念な報告が一件。君も憶えているだろう、町長の一人娘ダリア嬢。彼女が殺されたそうだ……」
「え?ダリア嬢が……?」
「君がいなかった先週末のミサは、いろんな噂が飛び交って大変だったんだよ。彼女が発見されたとき、酷い状態だったらしくて、クレスラスに一人で会っていたから、恨んだ女の子の誰かに殺されたんだって……」
「バカな話だ……!まさか、そんなことで……」
仮にあの男との出会いが予言の「出会い」だとしたら、そのあとの「悲劇」が彼女のことなのか?だとしたら、夢での警告が間に合わなかった。一週間以上も動けなかったことが悔やまれる。
自分と一人で会った彼女が犠牲になるかもしれないなんて、予知夢を見ていた自分なら想像ができたかもしれないだろうに、クレスラスは顔を曇らせた。
クレスラスがそんなことを考えているとは気が付いていない神父が、気にするなと、病人の肩をポンポンと叩く。
「彼女たちにとっては大事ことだよ。お葬式は済ませたよ。……まあ、狂犬でもいたんじゃないかってことで、みんな憔悴しきっているが、最近物騒だから、町長が自警団を出動させて捜索中だよ……。詳しい情報が知りたいだろうから、後から新聞を持ってくるとしよう。そういうわけだから、君も安易に窓等を開けないことだ」
まだゆっくり休むようにと、布団を首元まで掛けて神父は出て行く。
「神父様!」
「はい?」
「あ……」
思わず呼び止めてしまった。
「どうしました?」
「いや……ありがとうございます……。フロムローズを、……お願いします」
「……もちろんですよ」
神父は微笑んで、部屋から出て行った。
「これをどうするか……」
神父は目の前に広がる光景に困り果ててため息をついた。
通路には、長机が壁に寄せて置いてあり、その上には溢れんばかりの花や果物、菓子の詰め合わせがめき合っていた。
どこからかクレスラスが倒れたという話が町内に広まり、貴族たちはもちろん町の女性や塾の生徒達が教会に押し寄せた。
自宅を教えろと恐喝まがいまで起こったのだが、噂の本人がここで療養中だと知ると、彼女たちはおのおのが持ってきた見舞い品を神父に預けおとなしく帰って行った。
残された神父は、彼は本当に愛されているなと思いながら、物置小屋から年に一度くらいしか使わない長机を持ってきていただきものを陳列し、生ものは冷蔵庫に入れ、今に至る。
「それにしても……この量」
クレスラスは、人の感情にとても臆病だ。
特に異性の、恋に恋している状態のときは、側に近寄ることすらしない。さらに言うならば、二十歳前後の女性にだけは、分かりやすいほどに距離を置く。その差は歴然としていた。
学生時代は毎日のように物が無くなり、家を突き止められたり心中させられようとしたりと、酷いストーカーに遭っていたと吐露したことがある。一人でも耐えられないだろうに、同時に何人もの女性たちに狙われていた。何度警察に駆け込んでも次々と
現れる恋する女性たちに、警察官はもはや無力だった。
クレスラスがアキンタウンにやってきて間もないころに、神父がカトリックの聖職者なので家族をもてないのだと話すと、彼は自分も聖職者になりたいとまで言っていた。これまでの生活から逃げるように、彼は神にのみ愛されることを強く望んだ。
本来なら所定の修業が必要になるが、勤勉なクレスラスの態度と才能。なによりこの町の人々に望まれている現状にバチカン市国の枢機卿が感服し、特例で見習いとして認められることになった。
この町の女性たちは、ロンドンの女性たちのような争いは起こさなかった。この時世に残る貴族階級の名残なのか、内心は分からないが、表立って問題が起こることが無かったのがクレスラスには良かったのだろう。
だがそれも、フロムローズの登場で火種が生まれ、今なおくすぶり続けている。
またため息をついた。落ちそうになっていた林檎を盛りなおして、神父は礼拝堂に向かった。ふと顔を上げると、廊下の壁から銀色のテールが見えている。
「レディも、休んでくださいね」
「……ばれていたの……?」
わざとらしく舌を出して姿を現したフロムローズに神父は苦笑すると、彼女の柔らかい頭をぽんぽんと叩いた。
「看病でほとんど寝ていないのでしょう?目の下の隈は、一朝一夕では消えませんよ?」
「……分かったわ。クレスがいないのも嫌だけど、益々過保護になっちゃうのも嫌だもの……」
「さあ、ミルクティーを入れますので、その後ゆっくり休んでください」
神父も過保護だわと、呟いて手を伸ばす。神父は敬いフロムローズの手を取るとダイニングへエスコートした。
「大人二人って甘やかしすぎよ」
香りよいティンブラのミルクティーは、頂き物のチョコレートによく合った。
濃い目に作られたストレートティーならば苦いと思うが、ミルクティーにして煮立ててあるとなぜか甘くなる。
いつもなら砂糖をたくさん入れるのに、このときはティースプーン一杯で済んだ。
「甘やかしているつもりはありませんよ?」
お茶を口に含んでは、これまた頂き物のクッキーを頬張っている神父が笑った。
「嘘。日が昇る前に私に、クレスが倒れたことを教えてくれたのは、どうして?」
知らん振りして、フロムローズを独りぼっちにさせることも出来た。いや、本来ならそれがいいのだ。所詮、自分はクレスラスのお荷物でしかないのだから。
「……言わないでおこうと思っていましたが、クレスラスが、君を呼んだのですよ……」
向かいに座る少女を見た。フロムローズも神父を見ていた。信じられないことを聞いたように。
「朝、私がクレスラスを見つけたとき、まだかろうじて意識がある状態だった。彼に熱があることを確認した私は、町医者に来てもらうことを承知させた。そのとき、息もまともにつけない中で、彼は君をここに連れてきて欲しいと言ったんです。自分がいなくなったら、必ず泣いてしまうからと……ね」
それから意識を失ってしまったので、クレスラス家の警備の解除方法を知らない神父は、どうにかしてフロムローズへ手紙を届けなければいけないと考え、貴族たちに愛されている伝書鳩に手紙をくくりつけ、飛ばしたのだった。
手紙は無事彼の邸に到着。桜の枝に降り立ったらしい。そして、そこはフロムローズの部屋の前だった。
「だから、私はクレスラスの言うとおりにしたまで。それだけですよ」
ポットからお茶を継ぎ足し口へ運ぶ。嚥下してからフロムローズを見ると、少女は翡翠色を滲ませていた。
「……クレスはズルいわ……。結局、私はクレスに何も返すことが出来ない……」
「世話になっていることについて?」
神父の優しい口調に、少女は困り顔で笑った。
「クレスが優しすぎるから……私は嘘を付き続けるの……」
「…………」
無言の神父に何かに気づいたように、フロムローズは手振り身振りで、神父に乞うた。
「……神父様、忘れてください。……私、クレスが安心して休めるようにいい子でいるから!」
「…………」
少女にタオルを差し出すと、神父はもちろんだと、涙を拭く彼女の頭を撫でた。
***
クレスラスはベッドの背もたれに重心を掛け、ベッドサイドで林檎を剥いている包丁捌きをぼんやりと見ていた。
視線に気がついたのか、上手く兎形の林檎を作ったフロムローズは、クレスラスを見上げる。
「……?……はい。できたわよ。召し上がれ!」
「ありがとう……。相変わらず上手いね」
目覚めて数日。ようやく物を食べられるようになったクレスラスだったが、林檎のような固形物を口にしたのは二週間ぶりだろうか。久しぶりの食感が嬉しい。
すべてを兎形に切り、フロムローズも瑞々しそうな林檎を頬張った。うん、美味しい。
「……少し腕が落ちたわ……」
「……十分じゃないの?」
何回も角度を変え見ては、ため息をつく。何がそんなに許せないのだろうか。
「だって、均等な八等分ではないし、本来なら、お目目は必須よ!耳だってもう少し曲線で……」
「そんなことしたって、すぐ食べるんだから、気にしないほうがよくない?」
そういうことには興味が無いクレスラスは、包丁を扱う職人たちにとっては重要なことなのだろうと、安易に言うことは止める。
彼女は立派な包丁職人だ。自分の目で何度も確認している。真剣な双眸で操る凶器だが、まるでバレリーナのように優雅に舞う。
「んー。納得いかないけれど……クレスがそう言うならいいわ」
クレスラスと離れている間に、彼女のほうにも変化があった様。以前に比べると突っ込んでくることが無くなったように思える。
神父の影響だろうか。彼はフロムローズをレディと呼ぶので、もしかしたら彼女の中でそれに見合う様にと成長しているのかもしれない。
「そういえば、廊下には何があるの?」
「……もう動けるし食べれるから大丈夫ね。ちょっと待ってて」
と言って椅子から下り、扉を開ける。
「なんだ……?」
彼女が引っ張ってきた、キャスター付きの長机に並べられた溢れんばかりの花が、部屋の空気を一瞬で変えてしまった。
次に持ってきたのが果物やワインなどが並んでいる机。
「全部見舞い品よ。受け取って」
「え?全部……?」
「そうよ。生ものは冷蔵庫にも入れてあるわ。まあ、クレスが食べられないうちに悪くなりそうなものは、私と神父様でもらったから。あとは、クレスの分」
「……結構、人が来た?」
ベッドから出て、一つずつ品物に貼付されているメッセージカードを確認する。次に会ったときには何かしら礼をしなければいけない。
「さあ。神父様が対応してくれたから人数は知らないわ。私は噂の件があるから表に出ないように言われていたし」
「……噂のこと、聞いたの?」
「……銀髪は珍しいものじゃないし、クレスの彼女だけならよかったけど、さすがに殺人犯は……ね?言うこと聞くしかないじゃない。丘の邸に大勢来られても困るし……」
少しは申し訳なく思っているようだが、それでも口調は強い。
「助かったよ。ありがとう」
「どういたしまして」
換気のため窓を開けると、肌寒い風が吹いてきた。花々の香りと共に、風邪もあの日の出来事も吹き飛んでいけばいい。
「フロムローズ。邸に帰ろうか……」
後ろから聞こえた声に、フロムローズは振り返った。
「え?」
窓の外を見ているクレスラスの表情は見えない。
以前よりも背中が小さくなった気がして、フロムローズはベッド脇においてあった上着をクレスラスに差し出した。肩に掛けるまで身長が無いのが残念だ。いつもなら歳相応の身長だと思っていても、このときばかりは大人と子どもの違いをまざまざと見せつけられてしまう。
「また風邪ひくわ」
「ああ……そうだね」
上着を受け取る際、フロムローズの暖かい手が触れた。冷たい風に当てられた体は少し冷たくなっていて、彼女の温もりが気持ちいい。
袖を通し襟を整えると、隣で心配そうに見上げてくる少女と目が合った。
「きゃあ!」
突然抱えあげられた体は不安定で、フロムローズは思わず縋りつく場所を探し、腕を伸ばしてしがみついた。
「大胆だね……」
そういう声がすぐ傍で聞こえる。漆黒の頭に捕まっていたフロムローズは、慌てて離れると、とぼけている大人に叱咤する。
「!……クレスが悪いのよ!」
不意打ちで抱えられ、気づけばクレスラスの左腕に座っている状態。
クレスラスは服を着ていても細い体で。更に痩せたというのに、襞がたくさんついたドレスを着ているフロムローズを軽々と抱えて立っている。
普通にお姫様抱きされた方が、バランスはいい。
立っているクレスラスを初めて上から見下ろすせいか、今までされたことが無いことをされたからか、フロムローズの心臓はドキドキが収まらない。クレスラスに、男を感じた瞬間だった。
「帰ろう?」
見上げられて、視線が絡まる。
「……ええと。ほら、二週間も掃除してないし……。食べ物も駄目になっていると思うの。まだここにいるほうが、クレスの調子もよくなると思うんだけど……」
「……俺と二人きりじゃ、嫌なの?」
「……っ!」
互いの吐息がかかるほどまでに近寄ってきたクレスラスの真剣な顔を見るのは初めてで、緊張してしどろもどろになってしまうのを止められない。
突然変貌したクレスラスに思考が追いつかず、黙ったままでいると、あいている方の指が伸びてきた。頬を掠め、銀糸を巻きつける。高熱のせいでおかしくなったのだろうかと勘繰るが、長くは続かない。さっきから、彼の仕草一つ一つに張り裂けるくらい動悸が煩い。視線も絡み合ったまま逸らせないでいた。
「い……嫌じゃないわ……」
言葉になっただろうか。口も震えている。多分、クレスラスには伝わっているはずだ。きっと、今の自分は赤面しているから。
「………………」
「……クレス?」
「……神父様を、呼んできてくれるか?帰る前に礼を言いたいんだ。多分、礼拝堂にいらっしゃると思うから……」
「分かったわ……」
微笑んで少女の体を静かに下ろすと、クレスラスは再び窓の外に視線を向け、口を閉ざした。フロムローズは措いていかれたような気分になったが、神父を呼ぶ為部屋を出た。
神父がフロムローズに連れられ部屋に戻ったとき、クレスラスは着替えを済ませてベッドに腰掛けていた。
「クレスラス。寒くはないですか?」
そう問いかけると、神父とフロムローズの姿を漆黒の瞳に捉えてきた。
「神父様。長い間お世話になりました。もう大丈夫ですので、フロムローズと帰ります」
「……構いはしないけど、急だね~?」
「これ以上これが増えても困りますので……」
と、視線の先には長机。
やはり見せたのはまずかったと、胸のうちで舌打ちする神父だ。
「本当はもう少し体力が回復してからがいいかと思うんだけどね……」
「いいえ。花は教会に飾ってください。食べ物は……フロムローズ、食べたいものを持って帰っていいよ。生ものは神父様食べてください。残りは休みのときに参拝者に振舞王と思っています」
「クレスは?」
好きなものを持ち帰ってもいいと言われても、この部屋にあるのは果物や焼き菓子類しかない。小さいころからお菓子を食べつくしているフロムローズには、あまり魅力は無い。それに……。
「本人が食べないと駄目だわ。女の人って後から感想聞きたがるのよね~。ね?神父様」
「そうですよ、クレスラス。少しずつ分けますので持って帰ってください。後はミサに来てくれた子どもたちに振舞うことにします。あなたのことですので、今週末のミサは出席するのでしょ?」
「……分かりました」
二人に説得される形でしぶしぶ承諾したクレスラスは、掌サイズの小袋の焼き菓子だけを手に取った。
「神父様、もしダリア嬢の事件について続報があればまた教えていただけますか?」
「わかった。来た人たちにも噂など無かったのか訊いてみるよ」
「ありがとうございます、神父様。さあフロムローズ、行こうか……」
「えぇ」
フロムローズの手を繋ぎ、神父に軽く会釈した。
「では、日曜に……」
「さよなら」
「はい。二人とも、気をつけて」
ぶんぶんと手を振るフロムローズに合わせるようにして、神父もニコニコしながら手を振った。
裏口から出ていく二人を廊下の窓から見おろして、神父は嘲笑し呟いた。
「……純真無垢……な人だ……」
***
久しぶりの邸に着いてすぐに、フロムローズはクレスラスをリビングのソファに座らせると部屋の換気をし、暖炉に火を入れた。それぞれの部屋のシーツを新しいものに替え、使用済みを洗濯機に放り込む。
「俺も動けるんだが……」
「私がするから、クレスは黙ってそこにいること!」
「はい」
こんなに働きまわるレディを、今まで見たことがない。
自分が熱にうなされている間に、彼女を変えたものがあったはずだ。それが自分ではないことが少し寂しい。
「クレス~、終わったわよ~!……って、……」
洗濯物を干し終わりリビングに戻れば、ソファに座ったまま眠っているクレスラスの姿があった。急に動いたりしたからきっと疲れたのだろう。
「…………」
彼の部屋から毛布を持ち出し、静かに寝息を立てる少し火照ったからだに被せた。
ようやく大きくなった暖炉の火が、部屋を暖めだしている。窓を閉め、クレスラスの隣に落ち着いた。
じっとその寝顔を見つめる。
ほんの一時間ほど前にすごく緊張した、魔性の瞳は閉じられていて、また近くで見たいと錯覚を起こしてしまう。
クレスラスはいったい、どんなつもりで家に戻りたがったのかと。
「…………」
クレスラスに気づかれないようにそっと顔を近づけ、目の前にある頬にチョンとくちびるで触れた。
それくらいの衝撃では目を覚まさないらしい。ドキドキしながら、次は軽く開いたくちびるへ、そっと指を伸ばした。
とても綺麗な人……。
顔が赤くなっていくのが分かる。胸の音がうるさい。
どうしよう。
この気持ちを、どうすればいいのだろう。
親切で優しい人だけなら良かった。なのに、子どもを心配するような顔ではない、大人の顔を至近距離で見せられて、意識するなという方が無理がある。
私だけ。自分だけが特別。
あの、誰にも見せないだろうクレスラスの表情を、一番近くで見られる。彼の微笑みを、優しさを、誰にも見せずに独占したい。
「……クレス。私があなたを好きになったって言ったら……、私を追い出す?」
この二週間で痩せて、骨が目立つようになったクレスラスの肩にこつん、と頭を添えて、フロムローズは初恋が実ることを祈って眠りについた。
「…………」
フロムローズから聞こえるか細い寝息が一定になった頃に、クレスラスは目を開けた。
まさか、そんな告白をフロムローズからされると思っていなかったので内心驚いていた。
クレスラスにしてみれば、彼女を保護したのは、未成年が独りで生きることができないからだし、強引な手で教会から帰るように仕向けたのも、見舞い品をこれ以上受け取りたくなかったからだ。長く留まれば、それだけ品数は増えてしまう。
まだ幼い少女を懐けるには、物で釣るか、大人にさせることだろう。フロムローズははじめから子どもらしくなかったが、大人ではなかったので後者を選んだに過ぎない。
たったそれだけで恋心を持たれてしまうのなら、恋心を持たないような方法を逆に教えてほしいくらいだ。
はっきりといって、クレスラスは恋というものは必要ないと思っている。愛だの恋だの言っていても所詮言葉のアヤというもので、幸せなどではないものだから。これまでの人生がそれを証明している。
肩を動かさないように、縋るように寝ている少女の寝顔を見ると、その考えが曲げられることはないと再確認できた。
「フロムローズ。君がもし、俺のそばにいたいと願うのならば、これ以上俺のことを好きにならないでくれ……」
それだけが、二人で過ごす唯一の条件だと提示したら、君はどんな顔をするだろうか。
***
ベッドサイドの電気が仄かに照らしているホテルの部屋。
窓の外に街頭の明かりが見えるが、さすがに部屋の中を煌々と照らすまでは光は届かない。
夜も遅い時間だが部屋の電気をつける気にはならず、スーツを脱ぐと椅子の背もたれにかけた。高級スーツにしわが寄るからと、世話人が眉間にしわを寄せてハンガーにかける姿が浮かぶ。早く世話人と合流したいものだ。
ベッドサイドのランプによってキラキラと青く輝く銀髪の男は、綺麗にメイクされたベッドにもたれるとスマートフォンを手に取って、着信履歴に折り返し電話をかけた。3コール目で相手が出る。
「待たせた。ようやく目的のものを見つけたぞ……」
楽しそうに一笑するその声は、女性が惚れるほどに魅惑的だ。
「クライアントとは一部内容を変更したが契約済みだ。金ではなく、ダイヤモンドだな。……ああ、本物なのは間違いない。エリザベス女王も喜ぶサイズだ。人生をかけた復讐だ」
ベストを脱ぎ、ネクタイをほどいてはベッドに投げ捨てる。
電話の相手といくつか話題を交わした後、自らもベッドに沈んだ。
「さあ、私を楽しませてくれる存在か?クレスラス・ハイドロヂェン……」
男の左中指には、大きなダイヤモンドが輝くリング。
***
ⅱ
翌日。
「クレス。友達が出来たの……。連れてきていい?」
「友達……?」
丘の上の邸。
久しぶりに二人で食べるランチの、デザートを食べている最中に、フロムローズが突然言い出した。
友達がいるなんて、聞いたことも無ければ見たことも無い。もしかしたら自分が寝込んでいる間にできたのかもしれないと、クレスラスは了承した。
「急で悪いけど、もうすぐ来るの」
「構わない。俺は部屋にいるから」
食べ終わった食器をキッチンに運び、洗い出す。
「クレスは?」
ソファに移動したお嬢様は、病み上がりの体を労わることはすでに無いよう。大事な友人なら、できれば病原菌がうようよしている所に連れてくるのも間違いだ。そこはやはり子どもだ。
「俺は万全じゃないから、風邪をうつす危険性もある。君の大事な友達にね?」
「…………」
フロムローズの態度が、以前と変わりは無いようだが、どこかよそよそしくなっているのは、このことを言おうと思っていたからだろうと、クレスラスは考える。恋に恋するのは勝手だし、友人ができるのも喜ばしいことだが、友人ならば女性だろうから、できれば関わりあいたくなかった。
「その人ね、この街の住人じゃないの。旅行でココに立ち寄ったら、すごくカトリックの信仰が熱いって感動していて、教会に行ったら参列者からクレスのことを聞いたらしくってクレスに会いたいって……。顔をあわせるだけでも駄目?」
そんなに必至になることなどないだろうに、新しく出来た友人を本当に気に入っているのか、妙に力説だ。拳にも力が入っている。
「……わかったよ。お茶くらいは出すつもりだからその時だけ。あとは部屋で休ませてもらうよ」
観念したように言うと、フロムローズは駆け寄ってきて、嬉しそうに礼を言った。
「じゃあ、門まで迎えに行ってくるわ!」
「ああ。行っておいで」
同い年くらいの友達だろうか……。あのころは自分にもたくさんの友達がいたことを思い出した。だが、今となっては付き合いもなく、昔のことだと割り切れる。
洗い物を終え、ポットで湯を沸かし始める。
茶葉をポットで蒸らし始めたころに玄関の扉が閉まる音がして、二人分の足音が近づいてきた。
リビングの扉が開き、フロムローズがただいまと入ってきた。
おかえりと言って入口を見る。
「……!」
フロムローズの後ろにいたのは、クレスラスが思っていたような友達ではなかった。
彼女をはるかに上回る長身。長い青銀の髪。蒼とも緑とも取れる、不思議な色の瞳。
あのとき教会で会った男が、そこにいた。
「クレス、彼が私のお友達の……」
「ワイズです。初めまして」
男は優しそうな笑みを浮かべて近づいてくる。あくまでも身なり、歩き方などは貴族と言われても違和感は無い。声も、礼拝堂でのあの時とは違って柔らかい。
初めましてということは、あのときと瓜二つの別人か……。それともとぼけているのか……。忘れているはずは無いと思った。あのとき、男はクレスラスを捜していたと話した。
絡んだ視線を外そうとすれば、再び見つめるよう緊張を強いられるよう。
「さあ、ワイズ座って」
そんな空気から解き放ったのはフロムローズの声だった。
ソファに座る姿も堂々としていて、動く指にも視線がついていってしまう。当の本人はクレスラスの緊張に気づかない様子で、フロムローズと談笑している。あくまでもこちらは初対面という扱いだ。
「美味しいお茶ですね」
そう言って微笑む美丈夫に、あの夜に感じた、相手に威圧感を与える雰囲気はどこにも見当たらない。
よく似た別人なのか。
気がつけば、記憶の中の人物と何度も重ねている。
ひとつ深呼吸して、教会から持ち帰ってきた菓子を広げた皿を、テーブルに並べた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。フロムローズと仲良くしていただいて、ありがとうございます」
ソファに腰掛け、礼を言うのはこちらのほうだと頭をさげた。
「とんでもないです」
話が続かないことは、分かりきっていた。
それを払うように、フロムローズがお菓子を食べていた手を止め、
「ワイズ、はやくクレスに言ったほうがいいわ……。クレスは病み上がりだから……」
「それは……失礼。それなのに突然押しかけてすみません」
「いえ……俺も訊きたいことが……」
訪問者に気を使うように、フロムローズが部屋を出て行った。
二人きりの空間に、緊張が走る。
「あなたが、熱心なカトリックと聞きまして。ぶしつけかと思いましたが、頼みごとがしたくて伺いました」
この男はカトリック信徒になろうとしているのか?だから、クレスラスにどうやって神父補佐になれたのかを訊きに来た?
それとも、誰かの家族なのだろうか……?たとえば、町の貴族の女性たちに通じる人物。幾度の交際の申し込みを片っ端から断り続けてきたから、その兄弟が身請けを迫りに来た?
頼み事というのだから、聖地バチカンへの手引きが欲しいのか。もしくは……。
「現代の……『ラ・ピューセル』。お前が欲しいんだ」
「……!」
この声色。この口調。そして、この冷笑!
「あんたは……!」
「教会で遇っただろう?私の名を覚えているか?」
一瞬で、自身を包んでいた『いい人』の空気を見事に脱ぎ去った。
事態の流れについていけず、気が付けば目の前に鮮やかな蒼が広がっていた。
「……っ!」
肩をソファに押さえつけられ、もう片方の手で顎を固定された。
「な……」
青く輝く銀糸の幕に覆われている気分だ。
「私はお前の力を知っている。それによって知り得た苦しみも知っている。ほら……私のほかに誰が、お前の力を理解し許容できる……?」
不思議な色の瞳が、クレスラスの動きを封じ込める。
「面白い瞳だ……。感情によって、縁取っている金環が、暗くも鮮やかにもなる」
「……?」
瞬きをすることでさえ、体が恐れおののくほど。
全身の血が滾るほどに、体が熱くなっていく。
ドクン、ドクンと、うるさいのは己の鼓動か。
「……」
彫刻のように美しい顔が、目の前。微かにからだが震えているクレスラスに、男はくちびるを歪めた。
「ククッ……。思い知れ。お前の神の愛とやらは、所詮お前の思い上がりだということを……」
「あんたは、いったい……?俺が、神の愛を信じることは、あんたに関係のないことだろう?」
思い上がりなど言われたくもない。
「そういえば……私に、聞きたいことがあったんだろう?」
「もういいっ!」
肩を押さえつけていた手を払いのけすっくと立ち上がると、クレスラスは急ぎ足でその場を去った。
残されたワイズは、カップに残っていた冷たい紅茶を一気に飲み干し、ソファに座った。
思っていたよりも侵食しているらしい。
「さて、どうしたら……お前は手中に堕ちてくる……?」
「だから、言ったでしょ?強敵よ……って……」
クレスラスが出て行った入口に視線を向けると、フロムローズが立っていた。
「あんなにクレスが感情的になるなんて……。あなたがクレスをどうしようと構わないけど、彼が私の前を去ったら許さないから」
「フロムローズ。……そこにいたのか……?」
「もちろんよ」
十二歳とは思えない、妖艶な笑みを浮かべるフロムローズに、
「ああ……言い忘れていた。あの男に伝えておけ……―――に気をつけろと」
「分かったわ」
ワイズはそれだけ言って部屋を出ていった。
「…………」
残された少女はソファに座ると、皿に盛られたチョコレートを口に入れた。少し解けていたチョコレートは、絹肌の指を嫌らしげに汚していた。
「クレス……。あなたは、ワイズを受け入れられるかしら?」
***
二階の奥。クレスラスの部屋の前に立つと、フロムローズは開け放たれていた扉を軽くノックして入った。
カーテンを引いたままの暗い部屋。クレスラスそのものを表しているような、シックでモノトーンな、数少ない家具だけが置かれた部屋。
「クレス……?」
ベッドに腰掛けていた部屋の主の隣に、少し離れて座る。
「クレス。ワイズから伝言よ」
びくっ、と肩が少し震えた。よほど強烈だったのだろうか。
ゆっくり顔を上げ、フロムローズを見た
「……何?」
「……『神父に、気をつけろ……』ですって」
クレスラスの表情は怪訝なままだ。
この町の人々を信頼しているクレスラスには、酷な内容だ。
声を張り上げて反論するようなことは無さそうだが、きっと、バカなことを言わないでくれと思っているのだろうと、フロムローズは考える。
「なぜ……?」
「さあ。ワイズの考えていることは私もわからないわ」
「……」
フロムローズが思っていたよりも落ち着いているらしい。それでもいつものクレスラスより、わずかだが感情がこもっている感じだ。
「ワイズはしばらくホテルに滞在しているらしいから、気になったら訊きに行ってみて?」
「……」
パタンと扉が閉まり、足音が遠くなった。フロムローズが出て行ったことを確認すると、ポケットにいれたままの十字架を、ぎゅっと握り締めた。
―――神父に、気をつけろ。
何をバカなことを言っているのか。なぜ神父に注意する必要がある?あんなに心優しい善人を疑うなど、正気とは思えない。
それよりも気をつけるのは、あの男に対してだろう?
あの男がフロムローズと知り合いという点では理解したが、友達というのは嘘だ。それよりも、なにか同志といったほうがしっくりする。
いったい何が目的なのか?
あの男に見られると、自分の体がおかしくなる。
空のような海のような、永遠に続く錯覚にとらわれる瞳に見つめられるだけで、無意識に体が動かなくなる。自分の体を、意思に反して好き勝手にいじられるのは、二度とごめんだ。
自分を欲しいと言ったが何が目的なのか。どこかの誰かへ売りつけようとしているのか?
この鎖国された町で、ようやく自分の居場所を、信頼をこつこつと育てているのだ。ここの人たちに嫌われて出て行くようなことにはなりたくない。
あの男は、自分を惑わす悪魔なのだと、むりやり体に植えつけた。
「二度と近づいてはいけない」
二の腕を力の限り握る。
神が、自分を罰しているのだ。
「……っ」
指を離し袖を捲くると、指の型どおりに赤くなった腕が現れた。それは神の心の痛みの痕なのだ。
俺は神のみを愛し、神のみに愛されている……。人の言葉に揺り動かされてなど……。
***
男は機嫌よくグラスを揺らし、血の色のワインを一気に飲み干した。ゆったりと座ることの出来るソファに身を預けている。
つい先日も、若い女の血を吸い体を食らった。汗をかいている柔らかい肌を舐め上げ、声も出せずに震えている喉元に、鋭く大きな牙を食い込ませた。あの時の感覚を思い出しては、舌なめずりをする。
手を伸ばした先にあるテーブルに広げた幾枚もの資料には、一人の男の名が記されていた。
“クレスラス・ハイドロヂェン”
男はその中から一枚写真を取り出すとほくそ笑む。明らかに隠し撮りだと分かるそれには、ミサ中の禁欲的な眼差しのクレスラスが写っていた。
「もう少しだ……。もう少しで手に入る」
にやりと笑ったその口元には、光る牙。
***
ⅲ
久しぶりに参加したミサも、あまり集中できずにいた。
このままではいけないと思いつつも、神父の姿を見るたびに、あの男の一言が頭の中を過ぎる。
休んでいた間に痩せこけてしまった頬が、参列者たちの母性本能を擽っていることに気づくこともなく、クレスラスはいつもの仕事をいつも以上に黙々と過ごした。
ミサが終わり、いつもならすぐ壇上から去るのだが、礼も含めてまだ席に座っている人々の元へ歩く。
少しざわついていたのに、クレスラスの姿が近づくとシン、と静まり返った。参拝者の表情を一通り見渡し、
「みなさん……ご心配をおかけしました。……このとおり、復帰できるまで回復いたしました。これも、皆様からのご厚意のおかげだと思っております……。ありがとうございました……」
深く頭をさげ、満面の笑みで微笑んだ。
その姿を横から見ていた神父は思う。『自分』のうまい遣い方だ、と。
「お礼といたしまして、奥の広間にてささやかではございますが、軽食をご用意させていただいております。もし、お時間に都合がよろしければ、ご賞味くださいませ」
「ハイドロヂェン様の手作りですの?」
「はい。腕によりをかけて作ったメニューで……す」
クレスラスの言葉を最後まで聞かずに、女性たちが我先にと飛び出した。
「……」
呆気に取られて残されていた男性たちや教え子たちに、クレスラスは近づいた。
「皆さんもぜひどうぞ。君たちにはお菓子も用意しているよ」
「やったー!」
「クレス先生!さっすがー!」
子どもたちも飛び跳ねて走り出した。
残った年配の参拝者には、少し狭いが談話室で温かいお茶をと、促した。
「いやはや、ありがたい」
「……ありがとうございます……」
「ハイドロヂェン殿。病み上がりにもかかわらず、こんな老人にまで気を遣っていただいてありがとうございます」
「いえ、いつも皆様には支援していただいていますし。私はこういったことしかできませんが、喜んでいただいて安心いたしました」
十数人の紅茶フリークの年配者たちには、自家製のアールグレイと、やわらかい口当たりのチャイを用意した。寒いこともあって、体が温まるよう基本のスパイス配分以外にジンジャーの量も試行錯誤して作った自信作。
朝に焼いたばかりの、手作りのスコーンはプレーンとココナッツ、シナモンの三種類。クロテッドクリームと数種類のジャムも手作りだ。
人々の笑顔を見てほっとしたところに、子どもたちが早く大広間に来いと呼びに来た。年配者たちに抜けることを詫び、三人の子どもたちに両手をぐいぐいと引っ張られ、大広間に到着する。
扉を開けると、一斉の拍手に迎えられた。
びっくりしていると、子どもたちが声を合わせて、叫ぶ。
「クレス先生、お帰りなさい!」
「…………!」
堪えられない、感情が、内側から溢れてくる。
心配をかけたのはこちらなのに。何よりもかえがたい賛辞を、一身に受けた。
「ハイドロヂェン様は愛されているわね~」
「え……?」
これが、愛されている感覚なのだろうか。
自分は人に愛されている。そう捉えてもいいのだろうか?
愛なんて、その場しのぎの言葉でしかないと思っていた。
フロムローズの気持ちですら、無かったことにしようと……。
「…………」
「クレス先生……?」
突然黙ったクレスラスを心配するように、子どもたちが顔色を覗いてくる。
「まだ具合悪いの?」
「……あ……いや」
大丈夫だと言って、婦人たちの中に入った。
「ハイドロヂェン様が無事にミサに戻ってくることができて、よかったですわ」
「そうですよ。子どもたちがつまらないから行きたくないと駄々をこねて……」
「神父様が、次のミサにはいらっしゃるように、神様に祈りましょうと言ってくださったから」
「本当に」
「ありがとうございます。皆さんの祈りのおかげですよ。一時は熱が高すぎてあまり覚えていないのですが、たくさんの声を聞いたような気がしました。きっと、皆さんの声だったのですね」
「まあ!」
「私の声よ!」
「い~え!わたくしだわ!」
「……」
誰も、嘘も方便という言葉に気づいていない。
「……ちょっと、失礼します」
私だ、私だと争っている輪から抜け、食事をしていた神父の元に辿り着いた。
「神父様」
「クレスラス。料理、本当に美味しいですよ!皆さん絶賛されていました。どうかしましたか?もしや、また体調が優れないのでは?」
楽しそうだったのに、すぐ顔色を変えて聞いてくる。
それは違うから大丈夫だというと、ほっとした様。
「ちょっと用ができまして、出て行きますので、皆さんをお願いします」
少し早口で伝えると、駆け出した。
残された神父は呆気に取られていたが、姿が見えなくなると冷笑を浮かべた。
その笑みに気づいたものは、いなかった。
***
教会を飛び出して大通りへ。馬車を捕まえ、行先を告げた。
走り出して、ようやく落ち着いたように背もたれに重心をかける。まだ思っていた以上に体力の回復が乏しい。もうしばらくかかるなと、頭の中に栄養の高い具材を思い浮かべた。
町のメインストリートを北から南へ。東西の道と交差する場所にある、市役所を過ぎたところで、馬車を止めるように伝えた。運賃を払って降り立つ。
この町唯一のホテル、ル・シャトー。あの男が滞在しているホテルだ。
「……」
気を引き締めフロントへ行くと、愛想のいい受付の女性が、最上階への行き方を教えてくれた。
五階建てで各フロアに四部屋ずつしかないが、旅行者もさほどいないのでちょうどいいらしい。宿泊者がいないときは賃貸マンションとしても利用されていて、クレスラスが初めてこの町にやってきたときも一日利用したことがある。
エレベータが浮上する間も落ち着かず、このまま退き帰そうかとも思ったが、それでは何のためにここに来たのか分からない。そんな葛藤をしている間に、無常にも最上階に到着してしまった。エレベータを降りて辺りを見渡すと、扉がひとつしかない。
「ここだけワンフロア?VIP用のスイートルームということか……」
そんな待遇を受けている相手に会いに来たかと思うと、無意識にため息が出る。
彼はいったい何者なのだろう。
そして、フロムローズとの関係も……。
扉に備え付けの鐘を鳴らした。
「……いないのか?」
返事があるかと待っていたが、出てくる気配はない。
フロントで訪問の連絡を入れてもらったし、エレベーターは一つだけなので、行き違いということは無い。
普通なら部屋の主が出迎えるのではないのかと一瞬よぎったが、こんなことで腹を立てているのかと、皮肉めいた口調で返されそうだ。
「勝手に入れということか……」
重厚な自動扉の開閉ボタンを押すと、扉は静かに左右へ開いた。
部屋に入るとすぐに、大の大人が二十人ほど入るようなアーチがあり、正面に伸びる広い廊下の壁には、有名な絵が飾られていた。
奥に進むとまた自動扉になっており、そこを通ると半端なく広いフロアと、目の前にはこの街を見渡せるパノラマウィンドウ。
右手の扉を開けるとベッドルームが見えた。
「不法侵入だ」
「……っ!」
突然後ろから聞こえた美声に、思わず振り向いた。
「……」
濡れた髪をタオルで巻いているバスローブ姿で、この部屋の主が壁にもたれて立っていた。
「何を驚いている?風呂の電話で連絡を受けたんだ。これでも客人を待たせないように早く上がったんだが……」
「……それは、すまない」
広い肩幅。鍛えられている、バスローブの隙間から覗く厚い胸板。水分を含んだ青銀の髪を知らず知らずに目で追いかけている事に気づいて、目を逸らした。
「奥のサンフロアで待っていろ……。すぐ着替える」
「ああ……」
クレスラスの体を押しのけるようにしてベッドルームに入ると、男は扉を閉めた。
バタンという音にハッとして、サンフロアのソファに腰を下ろして待つことにした。ホテルの割には豪華な装飾品が数多く陳列されていて、異様に落ち着かない。
「待たせたな……」
顔を上げると、白いシャツにスラックス姿で部屋の主が出てきた。
「いや……」
「ワインでいいか?」
「酒は嗜めない……」
「……」
目の前を通り過ぎ、バーカウンターの奥へと入っていく。まもなくして片手に白ワインを注いだグラスと、もう片手に小瓶を持ってきた。渡されたのはペリエだ。
「……ありがとう」
髪も軽く乾かしてきたらしい。外からの光を反射している髪は、先日よりしっとりして艶めいている。
「さて。ここに来た理由を聞かせてもらおうか?先日聞き損ねたことか?」
「……」
クレスラスから少し離れた席に腰を落とし、白ワインを一口含んだ。
「用が無いのならお引き取り願おうか」
「……っ」
クレスラスの、小瓶を握る手が震えた。
「……この町へは仕事で来ている。そんなに暇ではないのだが」
「なぜ、俺のことを……?どうやって知った?」
ようやく口を開いたものの、その声色は弱々しいものだ。だが、肯定したことになる。クレスラスが、予知夢実験動画の被験者なのだと。
ワイズは目を細める。
「訊きたいことは、それだけか?」
「……」
「……昔の悪友に偶然遇ってな。大学の火事を予知した映像を見せられた。お前はその実験映像に覚えはあるか?」
クレスラスは頷いた。相手はすべてを知っているようで、今更否定しても逆説の裏づけをしてしまうだけだ。
「そこに映っていたのがお前だという確証はあるか?」
「俺の目を見れば、間違いなく本人だと分かる。それに、邸に同期生と撮った写真が数枚ある。あと、イングランドの俺の実家に……まだ家が残っていれば、研究に参加する時に書かされた契約書もあると思う……」
伏せっていてクレスラスの表情は暗い。
「それだけあれば充分だ。お前は、未来予知ができるとして、在籍していた大学の研究対象になったがあの火事が発生。どさくさにまぎれて逃走。今に至ると考えていいのか?」
「ああ。その通りだ。父は酒癖が悪くていつも母と喧嘩をしていた。『未来予知』については、両親と俺だけが知っている家族内の秘密にしていたのに、俺が大学に入って間もないころに、とうとう父が大学に俺を売った。大学での火事の後、俺は偶然にも母方の叔母に会って、母が精神を病んで入院したことを知った。父は俺を売った金でますます酒におぼれたらしく、その後どうなったかは知らない」
火の影響が出ないところで消防へ連絡し、待っている間に火を消すことに必死になった。だが、予知夢通りだった。
「……」
「丘の上の邸は叔母の別荘で、大学のあるロンドンであのまま住み続けるのは酷だろうからと、譲ってくれた。今も、ロンドン市内に行くのは少々勇気がいる。……できれば、一生隠しとおしておきたかった」
ワイズの表情に変化が見られない。やはり自分のことを知られていた。これ以上古傷を抉られたくはない。気を紛らわせようと、ようやくぺリエの蓋を開け、一口飲んだ。
冷たい液体が咽喉を通ると、気持ちも少し落ち着いてきた。
「……私は、お前の能力を売るつもりはない……ただ、欲しいだけだ」
「欲しい?」
「お前の居場所の所有権が欲しいと、言っているんだ」
意味が分からないと言うとワイズは一笑し、クレスラスの隣に移動した。
左の掌を広げ、そこに透き通ったワインを溢す。
「何を!」
掌に向かって落ちた液体は、手を濡らす前に、球体となって空中に浮かびあがった。
「……!」
クレスラスは幼い子どものように、ふわふわと浮かんでいる球体を眺めている。ワイズは空いた右手でその内の一玉を手で掴むと、
「口を開けろ」
クレスラスのくちびるへ押し当てた。
「ん!」
触れただけだったはずのワインの玉が、クレスラスの口の中へと吸い込まれていく。だが、微かにあいたくちびるの隙間から溢れ、顎を伝い、胸元へ流れた。
「……っ」
たまらなくなって嚥下した。
料理で使う以外に酒を含んだのは初めてだった。アルコールを飛ばしている料理とは違う。
「ほら、もっと含め」
と言って、ワイズは次から次へブドウのようなワインの玉を、クレスラスの口元へ寄せていく。口元を手で覆いいたくても、腕をつかまれ止められない。次第にのどが熱くなり、酸素を上手く吸い込めないことも災いしてか、だんだん酔いが回っていく。
濡れたワイズの指が、顎から外された。
「ふ……っ……」
荒い呼吸を繰り返している、クレスラスの目に涙が浮かんだ表情に、ワイズは口を歪ませた。
「……なかなかに、ほおっておかれない逸材だな」
「……どう……いう……意味か……?遊び相手が欲しいなら、他を……」
息を整えながら、濡れたくちびるを手で拭った。
「……安心しろ。私は男を組み敷く趣味は無い」
「なぜ……酒を……?」
体中が熱い。
訝しげなクレスラスを嘲笑うかのように、ワイズはいつかの言葉を繰り返した。
「……神父に気をつけろと、フロムローズから聞いただろう……?」
「だから、それとこれとどういう関係があるんだ?」
ワイズは立ち上がると窓辺に寄り、窓に背を預けるとクレスラスの顔を見る。
「それは、のちのちのお楽しみにしておこう。さあ、他に訊きたいことがなければ帰るといい。それとも……火照りを開放していくか?」
ワイズの綺麗な顔に、背筋がぞくっとする。
「……っ。帰るっ!」
からかわれたと分かり、クレスラスは豪華な部屋を飛び出した。
「気をつけろ」
と、背に安否を気遣う声が聞こえたのは、きっと気のせいだ。
***
エレベーターがフロント階に停まったのを確認して、クレスラスは箱の外へ出た。入れ替わりで、エレベーターに乗り込んだ人物の顔を、思わず目で追いかけてしまったが、後ろ姿しか見れなかった。
「……他に旅行者か……?まだクリスマスでもないのに珍しい……」
フラフラしながらも、ホテルのエントランスに停まっていた、客待ちの馬車へ乗り込んだ。急に走ってエレベーターの浮遊感に追い込まれたクレスラスは、これ以上酔いが回らないように体を丸めて、石畳を通る振動に堪えていた。
こんな状況を見られたくなくて、教会の裏に回ってもらい、なるべく人の目に会わないように隠れるようにして馬車を降りる。
「お帰り。クレス」
リビングに入ると、暖炉の薪を足しているフロムローズと目が合った。
「ただいま……」
上着を脱ぎ、気が張っていたのが弛んだのか、顔からソファにダイブした。
「どうしたの?奥様たちの志気に圧倒された?」
まだそちらのほうがいいかもしれない。
「……君の友人は何者だ?」
「友人ってワイズのこと?え?会いに行ったの?」
クレスラスの呟きにも似た問いかけに、フロムローズは思い浮かべた男の名を挙げた。
からだを起こし、すべてを話してくれと、友達と言い張った少女を見る。
フロムローズは少し考え、いい案が思い浮かばなくなると、観念したように話し始めた。
「前に『友達』と言ったのは嘘。ごめんなさい。私が知っているのは、世界に何人かしかいないクラスの天才で医者ってことかな」
ワイズとは知り合ってそんなに久しいわけではないし、お互いの情報なんて、知らないことのほうが全然多い。所詮フロムローズの知識だって、クレスラスとさほど変わらない。ただ、クレスラスのためにも、今ワイズが請け負っている仕事の内容は言わないでおく。
「会ってきたんでしょ?聞いてくればよかったのに。彼、きちんと事情を話してくれる人よ?」
「どうしても聞きたいことだけ聞いて……。後は、恐くて口にも出せなかった……」
「恐い?」
フロムローズの中では、そんなこと思ったことも無い。
―――キレイナヒト……。
「あの目に見られただけで自分がおかしくなる気がする。俺には神しかいないのに、まるで、目の前に神が実在して、俺の脳裏の中の神がまがい物みたいに思えてしまう……」
そんなことは許されない。
あんな、善人を疑えと言ってくるような人間が、自分を欲しているなんてこと。
「……」
あの男のことについては、フロムローズとは平行線のままだろう。
「少し部屋で休むことにするよ」
「うん」
起き上がり、壁にもたれるように階段を上がっていくクレスラスの姿に、なぜかフロムローズは今までにない寂しさを覚えた。
***
忘れてしまいたい過去が、ある。
思い出したい人がいる。
それがいったい何なのか。誰なのか。
今まで気にもしなかったのに、なぜ今日に限ってこんなにも気になるのか……。
「あ……食事の支度を忘れていた」
体は疲れを訴えていたのに眠ることが出来ず、空腹に気付いて食事を作ることにした。きっと、フロムローズもお腹を空かせているだろう。
地下の食料庫に入るとチーズがあったので、片付けが面倒だが、簡単に出来るので夕食はチーズフォンデュだ。
フォンデュ鍋の内側にニンニクをこすって香り付けをし、白ワインを入れる。二種類のチーズを摩り下ろし入れて、かき混ぜて溶かす。さらにとろみをつけ、卓上コンロに設置すると完成だ。
横のコンロでフロムローズが調理してくれた鶏肉と、蒸し野菜と合わせて皿に盛り付けた。
串に野菜やパンを刺し、チーズの中に入れ、口に運ぶ。
「ワインは強くない?」
飲酒はしないが、料理にワインを使うことは好きだ。だが、今日はぼんやりとしていたので、ワインを入れすぎたと思って聞いてみたのだが。
「……大丈夫よ。ちゃんとアルコールは飛んでいるわ」
二口目を入れるフロムローズを見て、クレスラスはようやくほっとして自分も串に手を付けた。
「ねえ、クレス。ワイズのこと考えている?」
「え?」
「クレスがぼんやりしてる姿ってあまり見ないから、ワイズのことかな?って思っただけ」
「……別に、そんなことはないよ」
「ただのヤキモチよ。どんな人だってワイズの姿を一目見れば虜になっちゃう。あんな人間離れした美形が自分の近くにいるってことが恐ろしいって思うわ。どんなに女の子が着飾ったってワイズの前では霞んで見えちゃうもの」
さすがにそこまではないと言ったところで、あの美しい顔を前にすれば、確かに誰もが竦んでしまうだろう。フロムローズの口調は普段通りだが、表情は女の敵だと言っている。
「あんなに綺麗なら、地球一の美女じゃないと相手できなさそうだし。あ、でもクレスは別よ」
「え?」
「ワイズとクレスが二人で並んでいる姿はとても神々しくて素敵だったもの。絵画を見ているようだったわ。ダ・ヴィンチも真っ青よ」
「それはさすがに……」
言い過ぎだろうと苦笑する。
「私、クレスはいつも微笑んでいてほしいわ」
そう言ってフロムローズは悲しそうな表情をする。
「ワイズは、心の内に深い闇を持っているの。一生忘れることが出来ない闇をね。その闇を私は拭うことが出来なかった……。クレスなら彼を救ってくれるかもって、私思っちゃったのよね」
「闇……」
串に刺す野菜が底をついて、フロムローズが新しくパンを細かく切っていく。
「その闇は……いまもあるのか……?」
「……そうね。晴れ空になった話は聞いてないから。その闇が心地いいばっかりに、ワイズはその闇を捨て去ることが出来ない……」
「本人がいいと言っているんなら、他人が必至にならなくてもいいと思うが……」
「……その闇がとんでもなく狂暴で、周りにも危害を加えるものだとしたら……?」
「狂暴……?」
手を止めるクレスラスに対して、フロムローズはたっぷりのチーズを纏わせたパンを口に運ぶ。
クレスラスが見ているのを承知して、あえて目線をさげたまま、
「周りの私たちにも影響があるとしたら……?」
「まさか……俺や、君にも?」
「んー。少し違うかな。私たちに影響が及ばないように、彼なりに気を遣っているって言うほうが正しいのかも」
「……わからないな……」
正直、なぜ会ったばかりの人間にこうも思考を奪われるのかわからない。
考えれば考えるほど謎は深まるばかりで、あの男の存在そのものが謎の塊だ。
そもそも、あんな彫刻のように美しい人間が、この世に存在しているのか……?
あの視線を向けられるだけで、呼吸をすることすら躊躇われる。瞼を閉じても、あの時に感じた感情や鼓動の大きさを思い出し、平常心でいられなくなりそうだ。
「……」
食べる気が失せてしまい、串を置いた。
もう、鍋の中のチーズも焦げて固まってきている。
「フロムローズ、最後まで食べるだろう?」
「うん」
持ってきた深皿にパンを入れ、上からチーズを流す。オーブンに入れて軽く表面を焦がせば、パングラタンの完成だ。
「思っていたより量があるかも。太っちゃうわ……」
「君は全然気にしなくていいよ。まだまだ食べたほうが、大人になったときに魅力的な女性になるんじゃないか?」
「……クレスがそう言うなら食べるわ……。もし私が太っておブスさんになったら、お嫁にもらってくれる?」
「……いいよ……」
「やった!そしたら遠慮なく食べるわっ!……ああ、片付けは私がするから、クレスは休んでいいわよ。ただでさえ病み上がりなのに、たくさん無理したでしょ?」
「……ありがたいね。お言葉に甘えさせていただきます」
鍋を湯につけると、シンクの周りを簡単に片付けて部屋を出て行った。
食べ終えたフロムローズは、食器棚に映る自分の姿をしげしげと眺めて呟いた。
「私、結構グラマーなのにな~」
やはり十二歳の少女だ、と念頭に置いているからだろうか、クレスラスが取る態度は、あくまでも妹的存在だからだ。
本当のことを偽っているとはいえ、婚約までこじつけることが出来て、フロムローズの願いは順調に叶っているということにしておこうと、小さく両手でガッツポーズをした。
***
神父は、教会の奥にある自室で苦悶の表情をしていた。
「何ということだ……」
予想外のことが起きていた。
初めてその姿を見たときからずっと、時間をかけて自分のものにすることを考えていた。
虐待を受けた動物に接するように、彼にも本心をうまく隠して、優しく接して警戒を解きほぐし、全信頼を得るまで手を出さずにずっと我慢していた。
それが、どうしたというのか。
あの日。
教会で倒れているクレスラスを介抱した。抱きかかえ一目見て、クレスラスの体から自分の力が薄まったとわかった。
自分がかけていた術に気が付いて解除した?どうしたらそんなことができたのか。クレスラスにそんな技術や能力は無いはずだ。ならば、他の誰か。そんなたいそうなことができる存在が、この町に自分以外にいるとでもいうのか?
「このままでは……私の計画が……」
美しい……。美しい青年。
こうなれば再度術をかける必要がある。どうしても欲しいのだ。あの、老若男女問わず虜にする美しい顔。程よくついた筋肉をまとう細い体。そして、彼の不思議な力。
彼のすべてを、男は強く欲していた。
この、長いこと生きて朽ち果てようとしている体を捨て、クレスラスとして生きる。
「あのクレスラスが人を襲うなど……誰も考えないだろう?」
クレスラスが相手ならば、神の教えに背かずに肉欲を満たせる。
「こうなれば、すべてがダメになる前に喰ってしまうか……」
先日も若い女を喰った。最期までクレスラスの名を呟きながら、彼女は命を落とした。葬儀を行っているときも、恍惚な気分に浸っていた。
フロムローズはまだ成熟してからでと思っている。あの少女はきっと、あと5年経つといい女になるだろう。想像するだけで舌なめずりする。
クレスラスになり替わるのは簡単だ。ずっと見ていた。彼の言動をそのまま真似てすり替わる。クレスラスを喰った後は、最近アキンタウンで発生している殺人事件の犯人として、謎の男の遺体が発見される。
間の悪いことに、こんな時期に一人の若者がこの町に旅行に来ているのらしい。
悪魔にでも乗り移られていたのだと、それをクレスラスになり替わった自分が退治すれば、これ以上の展開は無い。
そうと決まればすぐさま実行に移さなければ。若者がアキンタウンを去る前に片付けなければ。
今まではずっと死期が近い老人で我慢していた。これからは若い娘を喰える。神父は嘲笑した。
***
ⅳ
雪の日の教会は、蝋燭ではなく蛍光灯が点される。その代わりに暖炉で薪を燃やす。少々冷えている位の室温になると、ミサが始まった。
神父の装いは、いつものシンプルな司祭服に、厚手の羽織と毛皮の襟巻きを着込んでいる。クレスラスはロングコートに厚手の手袋を嵌めている。
胸元に輝く十字架をしっかりと握り締め、神父の言葉を受け止める。だが、神父のことが気になりすぎてまったく身に入らない。賛美歌を歌う時も、いつも感情移入してしまうのに、今日は棒読みのようだった。
「クレスラス、ミサ終わりに少し話をしましょうか」
「……はい、神父様」
やはり、神父に問いただされる羽目になってしまった。
誰も居なくなった礼拝堂で、長椅子に座るふさぎ顔のクレスラスの前に、神父が立ちはだかる。
「どうしたんですか?君がこんなにも集中していないのは初めてのことですね」
「……すみません。考え事をしていて、頭から離れなくて」
「考え事?それだけですか?それとも、体調がまだ戻らないのではないですか?普段から言っていましたよね。体調が悪い時は無理せずに休みなさいと」
「はい。体は大丈夫なのですが」
「そんな状態で祈っても、神のお情けはいただけないでしょうに」
今、神父は何と言った?
突然のことに、クレスラスは動揺を隠せなかった。神父が「神のお情け」と言ったのか?
「何をおっしゃって……」
慌てて見上げた先の神父の表情が分からない。いつも穏やかな神父の変貌を見るのが初めてで、クレスラスは混乱していた。
「あなたの心の拠り所は、神のお情けでしょう?」
「……」
「…………あなたが分かっていないのなら、教えて差し上げますよ!」
「え……?……っ!」
気がつけば長椅子に押さえつけられていた。
右肩と両足を、左手と両足でそれぞれ固定され、右手で顎を掴まれる。
「美しい……美しいクレスラス……。あなたは私の思い通りにしていてくれればいいのです……。この私のために……」
今まで聴いたことの無い、低い声。
押さえつけてくる力の強さ。
笑っていた目が眉近くまで捲れ上がり、ぎょろっとした眼球が露になっている。開けた口からは、顎に届くような尖った犬歯。もはや人とは言えない、恐ろしく、醜く豹変した顔。
「っ……!」
口の端から垂れてくる雫が、クレスラスの首の真横に落ちた。ジュッ、と音と煙を立て、ツンとした臭いとともにそれが酸性だと示す。
「お前がこのまま、私に身も心も委ねれば、お前を取り込んでさらに強大になれたものを……!」
「……神父様……最初から……そのつもりで……?」
「決まっているだろ!お前の顔と体だけが必要なのだ!そうでなければお前のような、爆弾のような生き物……誰が……!」
「ーーーっ!」
クレスラスを抑えている手の爪が、鋭く伸びている。色白だった肌もだんだんと醜い色に変わっていく。
「あなたを……信じていたのに……!大学に弄ばれた俺を……優しく包んでくれた……っ、あなたを……!」
目の前の神父だったものの姿が、揺らいで見える。気が付けば涙が零れていた。
「初めて会った時から、あなたのことを狙っていましたからね……。まったく人を信用しようとしないあなたから、信頼を掴むのは、正直骨が折れましたよ……。だがそんな苦労も今、この時のための布石だと思えば安いもんです。さあ、あなたを取り込み、あなたの代わりに私がクレスラス・ハイドロヂェンになる!」
口が大きく、狼のように前に伸びてくる。それを開くと子ども一人が余裕で入ってしまうほどになった。
「恐怖に怯えればいい!救けなど来ないのだから!」
口が迫ってくる。
自分の一生はここまで……。
クレスラスは目を閉じた。せめて叫び声をあげないように……。
神よ……!
***
3 洗礼
ⅰ
「ガハァッ……!」
苦しみを含んだ声と同時に体が軽くなった。
「……?……」
まだ自分は生きているようだ。目を開けた先には礼拝堂の天井しか見えない。
「……いったい……」
「間に合ったようだな……」
「……あなたは……」
そこには、初めて会ったときのように、ステンドグラスに彩られた美丈夫が立っていた。解けた外の雪が反射して、いつもより神秘さが増している。
上げていた片足を下ろして、両手をコートのポケットに入れたまま、ワイズがゆっくりクレスラスの元へ寄ってくる。
「……だから、忠告しておいただろう……。神父には気をつけろ……と」
「お前は誰だ!」
ワイズに蹴り飛ばされて礼拝堂の壁まで吹き飛ばされた、かつて神父だったものの顔は屈辱と憤怒にまみれていた。
「まだ起きていたか。……俺の顔を知らないとはおめでたい奴だ。……だが」
「私のことを忘れたとは言わせないわ!」
ワイズの後ろから現れた銀髪の美女に、神父だったものが異常なまでの反応を示した。あの日の夜に手にかけたはずの侯爵令嬢が、そこに立っている。
「き、……貴様っ!なぜ生きている……?!」
「お前が殺したのが、別人だったからに決まっているだろう?」
ワイズに腕をひかれてクレスラスも上体を起こすと、フロムローズに似た美女の姿に驚いた。
「ずっと近くにいたのに、あなたは気づくことはなかったから拍子抜けしたわ。楽しかったわよ」
と、美女は妖艶な笑みを浮かべる。
「お、おのれ……」
かつて神父だったものが、ゆっくりと体を起こす。
ワイズより前に出た美女が叫んだ。
「クレス!……この化け物は、神父様と姿を偽ってダディを誑かし、マムを、屋敷のみんなを殺したの!」
「フ……ロムローズ……か?」
確かに彼女と同じ銀髪と翡翠色の瞳だが、目の前にいる美女がフロムローズだと言われても、雰囲気がまったく違って見えて、頷くことは出来なかった。
「マムが殺されて……私は、ワイズのおかげで逃れることが出来たけど、代わりに偶然通りかかった、同じような外見をしていた子が犠牲になってしまった……!」
「そしてお前は、ダラス家だけで止めていればよかったものを、市長の娘も殺したな」
「……神父様が……」
ダリア嬢のことはクレスラスもずっと気にかけていた。病室で臥せっている間に見た新聞にあったのだ。彼女の事件も、ダラス侯爵家惨殺事件のときと犯行が似ていたと。
仰いだワイズは冷酷な笑みを浮かべていて、クレスラスは自分が殺されるような感覚に陥る。
「お前は何者だ……!なぜ私の邪魔をするっ!」
神父の成れの果てが叫ぶ。
「私のことを知らなかったのは、本当に運が悪かったな……」
と、ワイズはクッと一笑し、右の耳朶に下がっている十字架のピアスを外した。
そして、一瞬で姿を消した。
「なっ!……グッ……!」
腹に受けた衝撃に気がつけば、青銀の髪が、神父の目の前。
先ほどまで耳朶にあったのと同じデザインの、だが腕の長さほどにまで巨大化した十字架が、神父の成れの果てを貫通していた。
「最期まで分からなかったか。私の名は、ファウンダー・W・フォーミュラー‐ワン。お前たちのような化け物の始末屋だ……」
「お……お前が……あの、国の……」
ズボッ、と慣れている様子で、ワイズは十字架を引き抜いた。
「っ……」
勢いよく飛んだ血飛沫が、クレスラスの頬を汚す。
どす黒いそれを指で拭うと、現実から逃げるように聖書を唱えだした。
いったい、何が起きたのか。
自分は何を見ていたのか。これは夢か?いつものようにこれから起こるやもしれぬ予知夢なのか?
神父は神父ではなかった?いったい、いつから?……最初から騙されていた?
過去に、人を信じきれないほどに打ちのめされていたクレスラスを救ってくれた。親身になって話を聞いてくれて、ようやく心から信頼できるようになった神父が実は醜い化け物で、食べるためにずっと機会を窺っていたのだと、明かされた内容を頭は理解できても、思考は追いついてこない。
「……」
ワイズは深いため息をつくと、いまだ赤く染まった壁から視線を逸らさないクレスラスの顔に手を伸ばした。フロムローズも不安げな表情で近寄ってくる。
「おい、クレスラス」
「クレス……?」
顎をつかんで覗いてみるが、焦点が合っていない。
「厄介だな……」
「やっぱりクレスには衝撃よね……」
「そうだろうな。私やお前と、付き合ってきた年数が違う。この男の身になって考えれば親に裏切られたようなものだろう?」
「……クレスを元に戻してよ」
術をかけて解除するわけではない。本人の自己防衛本能ともいう現状を、外から他人が手を加えて無事でいられるのだろうか。
確かにワイズには、常人にはありえない能力がある。
クレスラスの目の奥を覗くと、何も無い深い闇色が拡がっているだけだ。あの日ですらあった金環が、今はほとんど見えず、新月のようだ。
「お前が至近距離まで近づけばいい。嫌悪しているものが近づけば、ショックで現実に戻るかもしれんぞ」
「その時は確実に、クレスは私を避けちゃうじゃない。せっかくお嫁さんにしてくれるって約束してくれたのに!」
「……それは、その姿を知らない頃の話だろう?」
「っ!そうよ!分かってて言うんだから!ほんと意地が悪いわ」
こうしている間も、クレスラスは瞬きもせずにぼんやりとしている。夜明けを過ぎてもこのままなのはまずい。誰かが礼拝堂へやってくる可能性もある。血に汚れた凄惨な状況を見て、そのあとの対処と説明を誰がするのか。
「まあ、さすがに正気に戻ってすぐに、目の前にお前がいたらまたショックを受けるかもしれんからな……。試しに私の血でも入れてみるか?」
そう言ってワイズは自らの指を噛む。じわりと血が溢れてきた指を、こじ開けたクレスラスの口へ押し込んだ。
「ワイズの血って、便利ね」
「……」
血にさえも己の力が及ぶことを知っているワイズは、あくまでも他に手立てがない時のためでしか血を流さない。そして、ワイズの血はクレスラスの体内で力を解放する。
微かにクレスラスの体が痙攣したことを確認すると、ワイズは指を抜いて、ペロリと傷口を舐めた。
「なんだ?物欲しそうな顔をしているな」
「いいえ。いらないわ」
フロムローズをからかっている間に、跡形は綺麗に無くなっていた。
ようやくクレスラスの焦点が合い、瞬きを繰り返す。
「あ……俺は……」
「クレス!よかったわ!もう駄目かと思ったわ……!」
心配顔だった美女が、ワイズを押しのけてクレスラスの傍に近づいた。
「気分はどうだ?悪くは無いか?」
ベンチに座って訊いてきたワイズの口元が、赤く濡れているのはなぜだろう。
「ああ……大丈夫だ。ありがとう……」
「……礼なら、こいつに言え。こいつが、神父が怪しいと睨んでいたんだからな」
と言って、クレスラスの前に座り込んでいる美女を見る。
「えっと、君は、本当にフロムローズなのか?」
「ええ。黙っていてごめんなさい。マムたちを殺した犯人を見つけるために、ワイズの術で正体を偽っていたの……」
結果ずっと騙し続けていたことを謝られたが、クレスラスの中ではまだそこまで考えられなかった。
「日の出が近いな。フロムローズ、場所を変えるぞ。嫌な血のにおいが充満する。ここの片付けは自警団に任せればいいだろう……」
「そうね……。クレス、行きましょう」
「ああ……」
「着替えと……シャワーも浴びなきゃね」
ワイズに手を引かれ、クレスラスは立ち上がった。
***
長いこと寒い礼拝堂にいたため、体が冷え切っていたクレスラスが先にシャワーを浴びた。
着ていた服は処分するからと、シャワーを浴びている間にフロムローズがシャツとスラックスを持ってきてくれた。テキパキと動いて、クレスラスが出る幕もない。
リビングに入ると、フロムローズが湯を沸かしていた。
「ちゃんと体は温まった?今お茶を淹れているから、ソファに座ってて」
今までとは異なる視線の高さ。大人のフロムローズに、少し緊張している。ソファに座ると、カモミールベースのハーブティーが運ばれてきた。
「ワイズが戻ってくるまで、私の話をするわね」
クレスラスの前にあるテーブルに湯気の立つティーカップを置くと、フロムローズはクレスラスから少し離れたソファの角に座り、自分のハーブティーを一口含んだ。
「ああ。ぜひ聞きたいね」
一度深く深呼吸して、彼女は口を開いた。
「……ずっと以前から、両親の不仲のことを、私は気付いていたわ……。そして、ダディがマムを殺そうとしていることも……」
きっかけは、眠れない夜に書斎から聞こえた父と誰かの話し声だった。母を殺す計画を知ってしまい、なんとか母を助けようと対策を練ろうとした矢先だった。その密談を聞いた日からたった数日のうちに、皆が殺されてしまった。
母と必死で屋敷を抜け出したが、駅に続く真夜中の街道で殺人犯に追いつかれた。
『これからは、二人でがんばろう』
と、誓った直後だったのに……。
「マムは、私を庇うように倒れ、周りにまだ人影が無いことを確認した私は、マムの体から這い出して物陰に隠れたの……。そこを偶然に通りかかった少女が、追いかけてきた人影に惨殺された……。私は声に出さないように、くちびるを必死に噛んで逃れたわ」
母親と見知らぬ少女を殺した犯人を、この手で暴くことを胸に刻みながら……。
「でも走り続けていたから、途中で力尽きて倒れていたところに、クレスが来てくれたわけ」
神様の使いだと思った。自分の命はまだ終わっていない。まだ復讐できる。
「こどもの姿は、ワイズが事件前に、危険が迫った時用に施してくれていた術だったの。結果的にクレスを騙してしまうことになってごめんなさい。それについては悪いことをしていたと思っているわ」
犯行計画を知ってから、どうやったら父の計画を防ぐことが出来るのか、それだけを考えた。ワイズのことを知ったのは、偶然目に入った、過去に起こった事件などを紹介した新聞の記事だった。
連絡手段がわからなくて、問い合わせた新聞社にコンタクトを取りたいと広告を掲載してもらった。そして、その日のうちに連絡がきて、次の日にはこの町まで来てくれた。
「父は昔から言葉だけの人だった。今の生活ができるのはマムのおかげなの。だから、父にこれ以上好きにさせないでとワイズに依頼したわ!」
『ファウンダー・W・フォーミュラー・ワン』。
それは、かつて世界でその名を轟かせた天才医師。そして、世界中の犯罪者を手にかける不思議な力を駆使する殺人者。
「危険な人だってわかっていたわ。だけど、マムを殺すことだけは許せなかった。だから、代々ダラス家に伝わる一番高価な宝物を交換に、依頼を受けてもらって……。それなのに、殺人犯が神父なんて……!」
初めは分からなかった。今までもミサに通っていたはずなのに。クレスラスに連れられて少女の姿で初めて対面するまで。
ミサで聞いた神父の声をきっかけに、記憶のフィルムが巻き戻された。父と話していたあの声。そして、半信半疑だったところに、クレスラスがいない間に遭遇した、決定的な神父の犯行現場。
「クレスが倒れた日。クレスが教会に行った頃合をみて、私もワイズに会うために抜け出したの。でも途中で、外出する神父を見かけて、こっそり後を追ったわ。そこで市長のご令嬢が殺されるその瞬間を見てしまって……。運がいいことに、そのときも私は見つからずに済んだ。でも、これで復讐ができる……!そして……」
「無事、成し遂げたということだ」
そう後を引き継いで、ワイズが歩いてきた。教会に置いている来客用のガウンを纏っている。フロムローズが用意していた、冷たいミネラルウォーターを片手に、寛いだ風の美丈夫は美女の隣に腰を下ろした。
いつも背で泳がせている鮮やかな青銀の髪が、片方にまとめられていて三つ編みされている。ちらりと見えたうなじに、優雅に足を組む姿も美しかった。
「ちょうどロンドンにいた時だった。お前の実験映像を偶然にも見る機会に遭遇した日に、私への依頼広告があると部下がよこしてきた。あわせて、お前がこの町にいることも知った。それで今回の依頼を受けたわけだ。すぐにフロムローズと落ち合った。話を聞いて依頼を承諾し、父親の仲間の正体がわからぬうちは念のためにと、これを護る術をかけた」
犯罪者と直接顔を合わせたことがないとフロムローズから聞いて思いついたのが、姿を偽る術だった。
「フロムローズがお前のところにいることは知っていた。……偶然の重なりというものは恐ろしい。お前のことを尋ねてみようと訪れた教会にも、結界がそもそも無かったのか、なんの苦労もなく入ることができ、目的の一つを達成できたというわけだ」
今となれば、聖なる空間でなかったのも頷ける。神父は清く正しいものではなかった。
目の前にある形良いくちびるが笑っているように見えるのは、気のせいだろうか。
「お前は気づかなかったようだが、神父はお前に近づくたびに、ある呪いを振りかけていた……」
「まじ……ない?」
「教会内部に備え付けてある聖水盤があるだろう?何らかの方法で、あの神父は聖水を呪いの水に変えていた」
いぶかしい表情のクレスラスを無視するようにして、ワイズの話は続く。
「皮膚からその水を摂取することにより、その呪いは効力を発揮する。神の御心を聞くなどの噂の男を手に入れるために、何年もかけてお前の体を毒素に侵させ抵抗力をなくし、神父の餌になるところだったのさ」
クレスラスが一人で礼拝堂へ来る時間帯を見計らっていたのだろう。他の住人に同じような影響が出ていない。
そしてワイズは、その毒素を吐き出すために、自分の力をクレスラスの中に注いだ。
「それで……」
衝撃的な邂逅は、今でも脳裏から離れない。
「私の力とお前の体に巣くう呪いが、拒否反応を起こして倒れてしまったというのが私の判断だ。それでも一度ではすべてを抜け切れないくらい強い呪いになってしまっていたから、ワインでアルコールの成分を利用して完全浄化させた」
体が少々軽くなっただろう?と訊かれても、この男からされたことの方が非現実的で、体の症状まで分からないのが実情だ。
「神父様……。人ではなかった……。俺は……これからどうしたら……」
「……」
フロムローズは、苦悩するクレスラスの表情に耐え切れなくなり、部屋に戻っているわ、と言って部屋の外に消えた。
「…………」
反対にクレスラスは、沈黙が続いたままのこの空間にほっとしていた。ワイズもずっと黙ったままだ。
しばらくして、ようやくクレスラスの口が開く。
「俺の親は、俺が原因で離婚して……。俺は一人、誰も俺を知らないところへ逃げたかっただけなのに……。ようやく……。俺は……これから何を信じて生きていけばいいんだ……?」
「―――……自業自得だ。現実の人間を見ようとせず、夢の中の神とやらに依存しすぎるからそうなる」
「あっ、あんたになにがわかる!親すら見放した俺を、神以外に救ってくれないと教えたのは、神父様ではなく他の人達だ!親なんてものは、神に愛されてはいないから、神に近い俺のことを憎くなったに違いない……!」
自分が崇拝する神を冒涜されて、クレスラスは頭に血が登り、気が付けば立ち上がって叫んでいた。
やはり、誰も神のことを分かっていやしない。
当たり前の存在なのだ。神がすぐ近くにいることは。悩み、苦しいとき、いつも傍に感じることが出来た。夢の中でしか会えないが、すぐ傍に……。
クレスラスの今までは、そうやって培ってきたものだ。それを真っ向から否定されて、いいはずがない。
ところが、前の男は嘲笑を浮かべる。
「理解したいとも思わん。私の人生だ。私が決めるさ……。神や仏に一生を左右されて、自分の人生を決めきれないなどと、笑止。……かくいう私も、周りの大人に振り回されて育った。あまり子どもとして大人と接したことがない」
それが神が導いた道などというのならば、その神を真っ先に殺しに行く。それほどまでの嫌悪。
「……どういう意味だ?」
「天才を育てる為には、幼いころから天才が徹底的に指導する形を取る。……天才と馬鹿は紙一重というだろう?それぞれが違う思考回路を持っていて、それを絶対的な位置としたとき、他の考え方にケチをつけたくなる。それがそれぞれに集まってみろ。まだ一桁の歳の間に多方向から教えられていくうちに全体的な観察どころか、あらゆる矛盾点に気づき、何が正しくて何が間違いなのか判断がつかなくなってくる」
「それが、あんたか……?」
目の前の男は、相変わらず口の端を持ち上げて笑っている。
「F1(フォーミュラー・ワン)の名が証だ。あれは限られた狂者に贈られる皮肉の銘。仕事で必要になって名乗らせてもらってはいるが、大した効果はなかったな……」
「最高規格……何の?」
「……さあな。……話が逸れた」
ミネラルウォーターを飲み干したワイズはゆっくりと場所を移し、どことなく落ち着いていない様子のクレスラスをじっと覗く。
「え……?」
「……お前の中に巣食っていた魔の気は……あの時全部浄化させたつもりだったが……」
まだまだしぶといと、ワイズの造形のような顔が近づく。
「あ……」
離れようとするが、いつの間にか手をつかまれている。
「離してくれ」
「さすがに、あんなに酔っぱらってしまっては酒での浄化は止めたほうがいいだろうし」
「あんたが俺に近づかなくても浄化する方法があるのならそれを」
「クックッ。面白いな。それでこそ探していた逸材だ」
そう言って、パッと手を離した。
「……?」
「お前を、欲しいと言っていただろう……?」
そういえば……。
フロムローズがこの男を連れてきたとき、確かにそう言われた。
「私と契約を結んでもらうぞ……」
「契約……?」
ワイズは左の掌を開き、握った右手を乗せた。
「Держите силу черного глубже, чем ворона, и силу белого, чем луна」
ぼそぼそと小声で呟き、右手を開いてみせる。そこには、
「……ピアス……?」
「黒曜石という。これが、いくらかお前のからだを浄化する。その対価として私の目的への協力が条件だ」
「……目的……?」
「お前の予知夢の研究」
「……研究などできるのか?それにわかったところで、あんたには何のメリットもないはずだろう?」
意図が分からないというクレスラスに、ワイズはただ一言、興味があるだけだと言い切った。
「たとえば、普通の夢と予言の夢をそれぞれ見る環境や精神状態、できることなら脳波なんかも測りたい。まあ、この町にそれだけの施設があるとは思えんが退屈しないだろう?」
「……他の誰にも公開しないのなら受けて構わない。正直、ずっと家族以外に秘密にしていたんだ。だが大学に知られてしまった……。ここへきて、またマッドサイエンティストたちに研究対象にされるのはごめん被る。それと、予言と言われるものは、俺の夢だったり瞑想しているときに神託を受ける。いいことも悪いことも必ず現実に起こる。以前試したことがあるが、それを前もって当人に知らせると、未来が変わったりして、正直予想もつかない結果が待ち受けている……。だから、研究は俺が見える範囲でしてくれ」
くれぐれも罪なき犠牲者を増やすことだけはやめてほしい。そう言った。
「……いいだろう。契約成立だ。耳朶に穴をあけていないのか?」
立ち上がり、クレスラスの両耳朶を挟む。その部分が次第に熱くなってきて、ワイズの指が離れたときにはすでに、そこに小さな黒曜石のピアスが輝いていた。
「……痛くはないだろう?これで、毒に染められた体は元に戻る。また、あれくらいの聖水の呪いや、この先起こるかもしれない現象からも微力だが護ってくれる。そして、少しお前の夢をコントロールすることにした。これからは熟睡できる日が増えるかもな……」
「……その代わり……あんたの興味に協力する」
「そういうことだ」
にやりと笑う男を前に、クレスラスはため息交じりで了承した。
ところで、とワイズがわざとらしく両手を広げた。
「今日は部屋を貸してもらえるんだろう?この格好で外を歩けとは言うまい?」
「ああ。この隣に客間があるから使ってくれ。寝具などはクローゼットにあるから、必要なものを使ってくれて構わない」
ワイズを連れて、隣の部屋へ移動する。こじんまりとしているが、ソファベッドと前の家主が置いたままにしている書棚と読書用の椅子があるだけの部屋だ。
「礼を言う」
「夕飯はあんたも食べるだろう?食べられないものは無いか?」
「特にはないな」
「わかった。食事になったら呼ぶ。ゆっくりしてくれ」
そう言ってクレスラスは部屋を去っていった。
去り際に見えた、耳朶の黒い石。それをワイズは面白そうに見つめて、
「……嫌なものは、すべて忘れ去るといい……」
一言だけ呟いた。
ソファベッドには横たわらず、窓際に寄せてある椅子に腰掛ける。
「……」
充電していた携帯を手に取り、着信履歴の一番上にある名前を呼び出した。
『ワイズ様、ご無事でしたか?』
「……ほう。お前が私のことを心配してくれていたのか?」
付き合いの長い仕事仲間の、心配そうにしているとは到底思えない声色に、ワイズも皮肉を返す。
『……まさか。あなた様に限って』
「服を捨てる羽目になった。ホテルから着替えを持ってこられるか?」
『それは構いませんが、私たちのことを邸の主に紹介してくださるおつもりでしょうか?』
「……それもいいな」
『かしこまりました。ホテルのフロントに鍵を借りてからになりますので、しばしお待ちいただけますでしょうか』
「ああ」
ワイズより数日遅れて、この町にやってきた青年。ホテルのスタッフや道行く町民に「旅行者」として接していた。あの神父が殺人に仕立てようとしていた彼は、情報収集をメインに動いているワイズの「部下」だ。
通話を切ると、ワイズは立ち上がり窓の外を眺めた。
右の耳朶に嵌めている十字のピアスに触れると、何も飾られていない左手の中指に、豪華な装飾が施されたリングが現れる。
フロムローズと交わした契約は、大切な人を殺そうとしている殺人者を殺してほしい、というもの。そして彼女は、見返りにこれを渡してきた。
―――大きなダイヤのリングで構わないかしら?ダラス家の家宝よ。ダッドも知らない、侯爵家の証。マムの宝物だわ。
情報が少なすぎたために、彼女の第一の望みには間に合わなかったことは残念だったが、フロムローズはそのまま契約続行を求めてきた。
指輪の中央に嵌っている大きなダイヤモンドにくちびるを落とし、ワイズは優しく微笑んだ……。
「……ようやく、手に入れた……」
***
ⅱ
クリスマスイブ。
町内の空き部屋で行っていた、今年最後の塾の授業が終わった。年が明ければ場所が変わるのもあって教室を片付けていると、まだ残っていた生徒達が集まってきた。
「クレス先生、このゴミ袋外に持って行ってやるよ」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
「私はテーブルを拭くね!」
「じゃあ、私は窓を磨く!」
「僕も!」
クレスラスが用意していた掃除用具を各々が手に取り部屋中に散らばっていく。
「ぴかぴか~♪」
「使わせていただいてありがとうって感謝しようね」
「町のみんながくれたものだもんね!」
「そうだね」
この部屋を使う際に、家で不要なテーブルや椅子を譲ってもらっていた。これらはまた、別の必要な人の元へと渡っていく。
大掃除が終わると子どもたちを外に出して、最後に人数が間違いないか確認した。
「ねえ、クレス先生。今夜のミサも、先生がしてくれるんでしょ?」
「そうだよ」
「やったー!」
子ども達は飛び跳ねて喜ぶ。クレスラスが雪で滑らないようにと叫ぶと、彼らは大きく手を振って帰って行った。
「……神父様の代わりも……ざっとないな……」
ふー、と軽くため息をつき、クレスラスは戸締りをすると、家路を急いだ。
クレスラスの記憶は、ワイズによって操作された。と言っても、自分の過失に考え落ちないようにしただけだったのに、なぜか事件そのものがクレスラスの記憶からごっそり抜け落ちていた。
今までいた神父は、急にバチカンに帰ることになったらしく。代わりに近くの教会から神父を派遣することになっていたのだが、数年ぶりの豪雪に見舞われ電車が止まったため、急遽クレスラスに白羽の矢が立った、という、ワイズが作った偽の説明を聞いたクレスラスは、義務感に駆られて動き出した。
昨年も準備も手伝っていた為、道具の場所やイルミネーションの飾りなど、幾人かの町の人々の手伝いもあって、ようやく準備が整い、無事に今夜執り行われることとなったのだ。
邸に到着すると、早速風呂の湯を沸かし、からだを清める。
この日のために、貴族の女性たちが丹精込めて刺繍した司祭服を纏い、乾かした髪は椿油で軽く後ろに撫で付けた。耳朶には鈍く光る黒曜石。
純白に銀糸の刺繍が施されている豪華な司祭服に、純金の十字架と純銀のリングを嵌め、教会に向かった。
礼拝堂には、雪の中をやってきた溢れんばかりの人々がクレスラスを待っていた。
緊張してはいるが、自分に任された仕事をキチンとこなすことを唱える。
壇上の脇にある、聖水が入っている器に指をつけ、胸の前で十字を切った。
「……アーメン……」
壇上中央にゆっくりと歩いていく。
教壇の前に立つと、ゆっくりと周りを見渡した。
「皆様、このような寒い日にお集まりいただき、神の誕生を一緒に祝うことができましたこと、心より感謝いたします……」
深く頭を下げ、聖書を開いた。
「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。
主は、大海の上に地の基を置き 潮の流れの上に世界を築かれた。 どのような人が、主の山にのぼり。
聖所に立つことができるのか。
それは、潔白な手と清い心をもつ人。
むなしいものに魂を奪われることなく 欺くものによって誓うことをしない人。
主はそのような人を祝福し 救いの神は恵みをお与えになる。
それは主を求める人 ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。……―――」
皆、静かに十字架を手に持ち瞑想に入っている。
聖堂の外は、まだ静かに雪が降っていた。この分だと今夜は止まないだろう。神の誕生を祝う会も、いつものくらいまで続けると、間違いなく皆が教会から出て行くことはできない。高齢者もいるのだ。切がいいところで止めるのが善だろう。
「―――……アーメン……」
十字を切る。
ふと参列者に目を向けると、前列の隅にワイズの部下二人と、幼少姿のフロムローズが座っていた。
『夜分遅くに失礼いたします。我が主のお着替えをお持ちしました』
と言って、黒縁眼鏡の青年と、教会で出会ったアッシュブロンドの美女が丘の邸に訪問してきたのは、事件のあった日の夜のこと。
ホテルのエレベーターでお会いしましたねと、青年が挨拶してきた。珍しい人物だと気になっていたクレスラスは安心した。
ニコニコと笑う青年と対照的に、美女はこの時も表情を変えることなく、家の中へ誘ったが、二人は遠慮して帰っていった。
二人ともミサというものが初めてというので、降誕前夜祭なら、初心者でも楽しんでもらえるだろうと招待した。
フロムローズは、初めて大勢の人前に出るということで、正体に気づかれないよう、金髪のカツラを嵌めて出席している。まだクレスラスの噂の火が消えきっていない為だ。
そして、フロムローズには申し訳ないと思いつつ、また幼い姿でいてほしいと頼んだ。
他の女性と同様、距離を置けば大丈夫だったが、邸の内で距離を取るのは難しく、なんとか克服できるようにすると言ったクレスラスへ、
「いいわよ。クレスが一緒にいてくれるなら、小さいままで構わないわ」
と、彼女も今までの関係を求めたため、二人の意見が一致した形だった。
そんなフロムローズの、誰よりも必死に十字架を握っているその姿は、まるでかつての自分だ。
周囲の人間に裏切られ、誰も信じられなくなったとき、自分に残されていたのは物言わぬ神の像だけだった。
たとえ、他の宗教の信者に偶像崇拝だと罵られても構わないと思うほど、クレスラスは必死だったのだ。それしか縋るものがなかったのだから……。
きっと、家族や愛するものをすべて亡くしてしまった彼女が、ようやく現実と向き合えるようになったのだと、クレスラスは少し嬉しくなった。
今まで周りを偽っていた少女が、初めて自分を曝すことができたのは、神の予言のおかげなのだ。
やはり、今でも神はクレスラスを見て、護ってくれているのだ。だが今回のことで、自分を護ってくれるのが神のみではないことに気づいた。
人と触れ合うということは、その人を護ることなのだと。
何年も、自分の殻に閉じこもって、神のみに縋り、周りを見られなくなっていたクレスラスを、無理やりだが殻を壊し、周りに目を向けさせたのは、フロムローズが断固として譲らず、今も丘の邸に留まっているあの男だった。
愛情を持つことが、大変だがとても大切だということを教えてくれたのは、フロムローズだった。
だからクレスラスは、彼らや、自分を慕ってくれる人たちを護っていこうと思うのだ。
ふとステンドグラスを見上げると、いつの間にか雪がやんでいた。
「……神……?」
雲の隙間から姿を現した月の光で、ステンドグラスが色鮮やかに輝いている。
壇上の後ろにある御神の像は、眩しいほどに照らされ、まさに神秘な光がクレスラスを、参拝者を包んだ。
「……神が……」
「神の光よ……!」
「神……!」
光に気づいた参拝者たちが目を開き、壇上を見上げる。
「クレス……!」
フロムローズの頬には、自然に流れた涙があった。
「あなたが……私を救ってくれた……」
『出会い、悲劇、洗礼』
人々に祝福され、神に愛される。
そこには、優しい光に包まれ、笑顔の美しい、新しい聖職者の姿があった。
FIN
《引用文献》
口語新約聖書 マタイによる福音書第六章6-10~6-14