エピローグ
翌朝、何年ぶりかに、ひとり、その桜木を訪れた良兼が、根本に小さな小さな白猫が冷たくなっているのを発見した。
良兼は、複雑な顔でその猫を両手に抱えたとき、その体に無数の傷跡があることを知る。
「…………」
しばらく呆然とその傷跡を見つめていたが、ふと目の前にきらきらとした何かが舞い降りて来たような気がして、頭上の桜を見上げた。
(まさかな……花びらのはずがない)
桜はこれから落葉する支度に忙しい。最近はずいぶん朝も冷え込むようになっていた。
そういえば。
いつからこの桜を見ていなかったのだろうか。
君との約束を、守らなくなったのはいつからだっただろうか。
心から笑うことができなくなったのは……。
「……私はまた」
良兼はぽつりと呟いた。
「……君を独りで逝かせてしまったのだね……」
良兼の顔は悲しみと寂しさにゆがみ、必死で何かをこらえるように口元が震えていた。しかし、そっと秋風が彼の頬を撫でて行った時、彼には珍しいほど、優しく微笑んでいた。
「そうだな。春にはここに来よう……君と桜を愛でに、な」
まるで彼だけに風が何かをささやいたようだった──。
白猫は良兼の手によって、桜の木の下に丁重に埋葬された。
そして、数日後。
平小次郎将門が、『京から下総の国へ戻った』という知らせが上総の国にもたらされたという。
序章『赤い月が見ている』 完
一章『災厄の姫君』に続く。