(13)
◇◆
心地よい揺れの中に尚子はいた。朧気な意識は、なんとも頼りなく、再び手放してしまいそうだ。
うすら開いた瞼は重く、その瞳に届く光は弱々しい。あたりは闇に包まれていた。木々にさえぎられ、月明かりもほとんど届かない。
完全に意識のない尚子を落とさぬように腕の中に抱えながらでは、流石の小次郎も馬を飛ばせない。人目に付かぬように、街道を離れ、薄暗い林の中を進むしかなかったのだ。
「目を覚ましたか?」
尚子が僅かに身じろぎを、小次郎は見逃さなかった。そっと尚子の頬を叩く骨ばった手は、鉄さびの匂いがした。
「喉が乾いただろう。これを飲め」
小次郎から手渡された水筒を受け取ろうと、手を伸ばす。腕が鉛のように重い。
水筒をうまく水平に保てず、中の水がこぼれそうになる。
「しっかり持て」
慌て小次郎の大きな手が尚子の手を包むようにして、添えられた。首をひねり、振り返ると、優しい色をした瞳に見つめられた。
尚子の胸がぽおっと暖かくなる。
「どうした? 早く飲め。楽になるぞ」
ふわりと微笑む小次郎の姿に見とれたまま、尚子は一向に動かない。しびれを切らした小次郎は、照れたように笑った。
「たく。寝ぼけているのか? いつもの勇ましさはどうしたのだ。急に塩らしくなると、ちょっかいを出したくなるぞ」
そう言って小次郎は尚子の手から水筒を奪い取ると、自分の口に水を含んだ。
ぼけっとその様子を尚子は眺めている。
小次郎のたくましい腕が、ぐっと尚子の腰を引き寄せたかと思うと、小次郎の顔が目の前にゆっくりと降りてきた。
どきりと尚子の胸が弾む。
互いの唇がふれそうな、すれすれの位置で止まる。尚子から口づけよ、というのだ。
尚子はとっさに顎を引き、真っ赤な顔で小次郎を睨む。残念なことに、どうやらしっかり目が覚めたな、と小次郎は思った。しかたない、この続きはまた国に帰ってから……、と悪ふざけをやめようとした時、柔らかな感触を唇に感じた。
驚きに見開かれる小次郎の大きな瞳。
ごくり。
のどが鳴る。尚子に口移しで飲ませてやろうと、口に含んでいた水をうっかり飲み干してしまった。
数秒ふれただけの唇が、そっと離れていく。小次郎は固まったまま動けない。
尚子も、前方をむき、真っ赤な顔で、手の甲で自分の唇を隠すようにしている。
「……」
「……よくわかんなかったから、もう一回」
「……阿呆っ」
「ちっ。正気にもどりやがって」
小次郎はまだぶつぶつ言っているが、尚子が目を覚ませば、飛ばせる。あっという間に小次郎の頭は、逃走の謀略がかけ巡り、それどころではなくなった。
と、その二人の目の前に、ふわりと何かが舞い降りて来た。
赤い。
小さな。
暖かな──炎だ。
それは、二人を見つけたことを喜ぶかのように、くるくると飛び回る。
害はなさそうだが。
何だろう?
見合わせた二人は、少しの間それを目で追っていた。
ふと、炎がぴたりと尚子の目の前で止まった。
「何か私に伝えようとしているのか?」
尚子は、何とはなしに、水をすくうように、両手を広げた。すると、意志があるかのように、炎は尚子の手の中へと降りてきた。
──良尚様……。
「鷲太!? 鷲太なのかっ!?」
はじかれたように叫ぶ尚子に小次郎はビクッとなった。
尚子には何か聞こえているらしいが、自分には何も聞こえない。小次郎は首を傾げた。
──みんなをつれていけなくてごめんなさい。
「皆……村の皆はどうした! そうだ、桜のもとへ行かねば!」
尚子は勢いよく小次郎を振り返った。
「皆も一緒に連れていく!」
「……無理だ。俺たちだとて無事につくかわからないのに、大勢を連れてはいけない」
「何か方法があるはずだ!」
──良尚様。村のみんなは心配ないよ。殿様が何とかしてくれる。
「父上が?」
確かに父なら村が焼かれるのを黙ってなどいないだろう。だが、それは以前の父ならば、だ。
今の父は尚子の尊敬する父とは違ってしまった。
──大丈夫。あの方がいる。殿様にはあの方がついてるから。だからもう大丈夫だよ。
「あの方?」
尚子はつぶやいた。
「あの方とは、誰のことだ」
父に忠言できるような家臣はいない。義母だとて、結局は生家の源氏の言いなりだろう。
ほかに、誰があの父に進言できるだろう。
尚子の眉間のしわが深くなる。
──あ。あの方が呼んでる。もう行かなきゃ。
小さな炎は、ふらふらと浮遊し始めた。あわてて尚子が声を上げる。
「待って、鷲太!」
尚子の声を受けたように、小さな炎はくるりと尚子の周囲を一回転した。
──自分の心に従いなさい。それが、皆の願いです。あなたの好きなように、生きなさい。
「……え」
尚子は呆然となった。
今のは、明らかに、鷲太の声ではなかった。聞いた事の無い──でも、どこか懐かしい……。
小さな炎はもう一度だけ、くるりと尚子の回りを一周すると、すうっと天高く舞い上がっていった。
「……尚子」
その炎を目で追う尚子に、小次郎はいたわるように声をかけた。
「……母上……?」
「何?」
「母上が、心のままに生きよと。そうか……母上が、父上のそばにいらっしゃるのだな……ならば……」
疑問に顔をしかめながら、小次郎は尚子の視線の先を追った。もう炎を識別することはできない。
鷲太だと言ったり、母だと言ったり。いったい誰と話をしていたのだろう。
何者かの魂が、尚子を思って、後を追ってきたのは間違いないようだ。
「父上に任せておけば、上総は大丈夫だろう」
尚子はそう言って、すがすがしい微笑を小次郎に向けた。
「そうか……」
小次郎は、内心ほっとした。再び、村人を助けに行くと駄々をこねるようならば、気を失わせてでも、尚子だけを連れて行くきでいたからだ。
そんなことをすれば、後々、恨み言を言われるのはわかっているが、手段を選んではいられる状況でもない。
だが、尚子自身で納得してくれたようだ。
確かに何か、強大な力が二人を守っている、そう感じずにはいられない。
ならば、この期をありがたく使わせてもらおう。
自分と尚子の、これからの生きる道を拓くために。
「皆のためにも、これからもお前らしく生きていけ。おまえはそのままでいいんだ」
「……」
「それには、お前と俺が、自分らしく生きていくための、国が必要だ。そのために俺が、自分を見失うこともあるかもしれない」
尚子は静かに小次郎の言葉を待った。小次郎も不安なのかもしれない。
自分でいられなくなることが、怖いのかもしれない。
「そのときは、私が殴ってでも引き戻してやる」
尚子はにっと笑った。
小次郎と一緒ならば、自分らしく生きていける。そんな国を一緒に作れるような気がする。
「……お手柔らかに」
ふっと小次郎は笑う。
きっと尚子と一緒ならば、己の望む国を築いていけそうな気がする。自分を見失わずにいられる。
「落ち着いたら、里帰りしてもいいか?」
「…………それで、俺は舅殿に殴られるわけだな」
口を引きつらせて、肩をすくめる小次郎を見て、尚子は本当に可笑しそうに笑った。
「仕方ないだろう。一人娘を夜逃げ同然で奪ったのだから」
「何を言う! 俺は、盗賊から姫を助けて、自国へお連れするだけだ。そうに決まっている」
言い終える前に小次郎が馬の腹を蹴ったので、尚子は前のめりになり、小さく声を上げ、小次郎の腕に捕まった。
小次郎を睨むと、にやりと笑みをたたえている。わざとだ。
「さあ、姫。我が国へご案内しよう。飛ばすぞ」
二人を乗せた馬は、再び風に乗って、下総へと向かった。
これから、坂東八カ国を巻き込む大きな戦が、二人を待ち受けているとも知らずに。
今はただ、希望だけを胸に、二人は駆けていった。