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赤い月が見ている  作者: 日向あおい
第五話 風にのせて
43/47

(11)

 ◇◆

 

 

 まるで霧が晴れるように、良兼の目の前に、川原が広がった。

 風に草花が揺れ、良兼を手招きしている。

 だが、何かがおかしい。良兼は首をかしげた。

 前方の草木が次々に揺れて、波のように連なっている。風は、徐々に良兼へと近づいてきて、一気に通り過ぎた。良兼の着物が、ふわりと舞う。

 それで、やっと良兼は異変の正体に気がついた。

(そうか……草の匂いがしない)

 確かに目には鮮やかな、美しい川原が広がっている。しかし、そこに生き物の匂いはない。草木の匂い、土と水の混じる生臭さ、川音、鳥のさえずりさえもない。

 良兼は、そっと川に近づき、右手を水中へと差し入れた。何も感じない。

 流水は、良兼の指の間をすり抜けているように見えているというのに。

 片手で流水をすくい、口に含んでみた。水の冷たさ、味は愚か、何かが喉を通過したという、感覚も得られない。 

 自分の五感は、いったいどうしてしまったのだろうか。視覚しか働いていないのか?

(私が狂ったか、それとも、すべてが幻か……?)

 ふっと良兼の顔が緩む。

 まるで、美しい世界から、自分だけがつま弾きにされているようだ。

 お前には触れる資格がない。ここに留まることは許さない。

 目に見えるすべての生き物たちが、そう自分を拒絶しているように感じた。

(血なまぐさい、日のあたらぬ世界が、自分には似合いということか)

 川面が、日光を反射させ、きらきらと輝いている。空はどこまでも青く澄んで、目に沁みた。

(そうだな……もう、私には眩しすぎる。眩しすぎて、ここでは生きていけないだろうよ)

 良兼は、目を伏せ、ゆっくりと川に背を向けた。

 ここに自分の居場所はない。良兼の背が、うなだれているかのように小さくなった。

 ふと、その肩に、そっと誰かの手が添えられる。

 確かな人の手の温もり、重みを感じ、良兼は、はっとなった。 

 いつのまに! 先ほどまで誰の気配もなかったというのに!

 幾多の修羅をくぐり抜けてきた彼の体が、本能的に身構え、勢いよく首を右にひねった。

(……!)

 すぐ隣に、柔らかに、そして、華やかに微笑む女性の姿。

 良兼は息を呑んだ。

 夢でも、しばらく見ることができなかった、彼女がほほえみかけている。 

 

 

 ────見て。雪のよう。

 

 

 彼女はそう言うと、頭上いっぱいに枝を伸ばす、桜の木を見上げた。促されるように、良兼も天を仰ぐ。

 はらはらと、そよ風に舞う花びらが、二人に降り注いでいた。

 不思議なことに、良兼の頬に、今度は確かに風を感じる。

 すると、どういうわけか、臭覚まで戻ってきた。

 心が弾むように軽くなった良兼は、桜の華の香りをいっぱいに吸い込む。澄んだ空気が体中に沁みわたって、桜色に染まっていくようだった。

 

 

 ────花を愛でる心は、人を愛でる心の中に咲くそうです。

 

 

 良兼は、そっと彼女の横顔を見つめた。

 彼女は目の前に舞い降りた、一枚の花びらを両手ですくった。

 

 

 ────今、私がこんなに花を美しく思えるのは、お慕いする良兼様に、慈しまれているからですわ。良兼様の隣にいるから、こうして美しい桜を見ることができるのですわ。

 

 

 良兼は、天上に広がる桜華を見上げた。そして、なるほどと思った。

 熱くなる目頭を意識しながら、自然と笑みがあふれる。

 

 君の隣にある桜は、実に美しい。

 

 財をはたいて手に入れた、宝石よりも。

 血に手を汚してまで、奪い取った権力という美酒よりも。

 

 何よりも暖かい……。

 

 

 ────また、ここに桜を見にきましょう?

 

 

 再び、彼女に視線を落とすと、満開の桜よりも、ずっとまぶしく見え、思わず良兼は目を細めた。   

 忘れていた、君の言葉を。

 

 君はここに今も生きているのだね。

 そうだ。

 君は私に言った。

 

 

『私があなた様の心を守ります。

 どんなに、あなた様の心が傷ついて、ぼろぼろに砕けてしまったとしても、私がそばに居ります。

 あなた様の優しい心を、この世につなぎとめるための鎖となりましょう。

 だから、あなた様は存分にお働きください』

 

 そう言って、彼女はいつも微笑みかけてくれていた。だから、良兼はかろうじて人の心を保ってこれていたのかもしれない。

 彼女が良兼の前から姿を消してから、いつのまにか、良兼の心は蝕まれていった。それが己で自覚できぬほどに。

 良兼の父や祖父、朝廷で己の欲望のままに政治を動かさんとする大臣たちの醜さを見て、ああはならないと自分の心に、彼女に、誓ったはずだった。それなのに。

 知らぬまに、権力という麻薬に飲まれ、野心の底なし沼にどっぷりと浸かって……自分では抜け出せなくなるとこまできてしまっていた、ということか。

 良兼は、ふっと笑った。

 

「そうだな。また桜を見に来よう」

 彼女は、一面の花々が一気に咲き誇るような笑みを良兼に向けた。

 

 

 ────ええ。この美しい、桜を。来年も再来年も、ずっとずっと、一緒に……。

 

 

 

「うおおおおおおおおっ!!」

 

 

 良兼は、地獄のそこから唸るような扶の声で我に返った。

 良兼の脳が正常に働くようになるまで、少しの時間を要した。

 自分は河原にいたのではなかったのか?

 隣にいた彼女は……!

 いや呆けている場合ではない。そうだ、自分には獣との死闘が待っていた!

 良兼が思考回路を再起動させる間に、扶は良兼の脇から刀を抜き取り、白き獣に向かっていった。

(何っ!)

 予想外の扶の行動に、良兼は度肝を抜かれた。良兼の刀一本で、手負いとはいえ、この強大な獣に立ち向かうとは、無謀としか言えない。

 そんな男に、懐から刀を奪うことを許すという、隙を作った自分も悔しい。

 良兼が、苦々しく口元を歪めた時だった。

 

 ────良兼様……。

 

 良兼の心臓がどくんと脈打つ。

 良兼は真っ直ぐに獣の目を見た。

 

 ────良兼様は、人を愛でる心を持つお優しい方。

 

 獣の目がきらりと瞬く。

 もう恐ろしさを感じない。己の身の危険すら微塵に感じない。

 この獣が自分に害をなすはずがない!!

 なぜなら、真っ赤な瞳の中に、良兼は見たのだ。 

 確かに、はっきりと────桜の花びらを……!

 

「バケモノめぇぇーっ!」

 

 扶が大きく刀を振りかぶった時だった。

 ドン、と鈍い音と共に、扶が倒れた。後頭部を強打され、一撃で気絶している──良兼の手に握られた鞘によって!

「…………」

 倒れた扶の姿と、鞘を持ったまま微動だしない良兼の姿を、交互に見比べる村人たち。彼らの視線を感じながら、良兼は言い放った。

「源殿を、“丁重に”屋敷にお連れしろ」

 それまで、後方で固唾を呑んで見守っていた従者たちが、弾かれたように扶に駆け寄った。

「それから、この者たちを屋敷に。至急、薬師を呼べ。ほかにも、息のあるものは急いで手当てをするのだ。手分けをして、遺体の収容も同時に行え」

 てきぱきとした良兼の指示で、兵士たちが村を駆け回る。

 そんな村の様子を、獣は静かに見守っている。

 良兼の家臣の一人が、獣を意識しながら、良兼の足元にひざまずいた。

「村人を問い詰めますか。姫の居場所を吐かせましょう」

 確かに村人たちは、何かを隠しているにちがいない。だが良兼は首を横に振った。  

「よい」

 良兼は短く答える。

 それを聞いた家臣は、ぽかんとした顔をした。

 先ほどまでの、剣幕はどこへ行ったのだろう。地を這ってでも、草の根を掻き分けてでも、探し出せと、息巻いていた人と、同じ人だろうか。

「しかし」

「よい。そんなことをしている暇があれば、遺体の収容をせよ」

「……はっ」

 兵士が去っていくと、そこには良兼と獣だけが取り残された。

「これでよいか」

 良兼は、ふわりと表情を和らげ、獣に語りかけた。

「私も、娘の幸せを祈る気持ちは同じだ。相手があの男でなければ、素直に喜べたのだが。確かに骨のある男ではあるがな」

 小さくため息をついた良兼は、静かに天を仰ぐ。

「いや、単に、娘に見損なわれたくないだけかもしれぬ。卑怯な手を使って、あの男を亡き者にするのでは、情けない。それに──」

 良兼は言葉を切った。

 人は人であることを忘れてはいけない。

 自分は愚かで浅ましく、無力だ。

 だからこそ、強大な力を手にしようとする。そのために、自分を見失ってはいけない。

 自分が自分であることを。

 自分の弱さ、醜くさ、愚かさも。

 すべてが自分の一部であり、目を背けてはならない。

(君を亡くした寂しさを、いつしか野心で埋めようとしていたのかもしれないな)

「次は、この平良兼らしく。正面から、堂々と、あの男の領地を手に入れてくれよう」

 それまで娘は預けておこう。

 扶とその一族の謀略の可能性が浮上した今、大切な娘をその渦中へと放るわけにも行くまい。

 それに扶があのような多重人格であったとは、全く気がつかなかった。

(全く私の目も、ずいぶんと曇っていたようだな……華姫が化けて出てくるわけだ)

 さも可笑しいというように、口端を緩めた。

 良兼は、再び夜空に妖しく浮かぶ満月を見上げる。満月は、天頂で煌々と輝いていた。

「それにしても……娘の父親とは、つまらぬものだな」

 すぐに大きくなって、この手をすり抜けていってしまう。美しく、優しく、愛でて、慈しんだ華は、いつの間にか誰かの手で手折られ、奪い去られていくのだから。

 良兼が再び獣に視線を落とした時には、もうその姿はどこにもなかった。



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