(10)
◇◆
草の匂いがする。
小次郎は、両手両足を投げ出し、川原に寝転んでいた。頭上の桜木の葉の間からは、憎らしいほど美しい満月が覗いている。
「……オレはいったいここで何をしているんだ」
そんなつぶやきも、川の水音に浄化されて、心地よいリズムだけが川原に刻まれていく。
五感のすべてが麻痺してしまいそうだ、と小次郎は思った。
自分のいた日常からは、想像できない世界だ。
草の匂いと土の温かさに抱かれながら、落ちてきそうなほど美しい月や星の光を浴び、さらさらと流れる水音の子守唄は小次郎をまどろみの世界へと誘惑していく。
「あとは酒と女がいれば、文句ないな」
独りごちた小次郎は、苦笑に顔をゆがめた。
(このまま、逃げてしまおうか)
小次郎はふと思った。
命をかけても手に入れたいと思えるような女と、このままどこかに身を潜め、二人で生きていこうか。
この腰の刀も、身分も捨て、名すら捨て。
かわりに農具を手にし、二人で子を育て、その日暮らしな生活を営む。
そこには、贅沢な食べ物も、柔らかな絹着物も、イグサの香る新緑の畳もない。
おなかが空く前に用意されるご膳も、思わずなでたくなる毛並みの駿馬だって手に入らない。
だが、同時に、失うものもないのだ。
自分の心を削る必要はない。
したいことをして、好きな者と一緒に、大して変わり映えのしない日々を、笑いながらただ生きていけばいい。
(きっと、そんなオレを見たら、あの伯父上殿はここぞとばかりに笑い倒すのだろうなぁ)
小次郎は本当にうれしそうに笑った。
なんと、落ちぶれたことか。あの平良将の嫡子ともあろう男が。そう世間は笑うだろう。
だが、どうだろう。
小次郎はさっと体を起こし、胡坐をかいた。そして辺りを見回す。
(そう笑うやつに限って、本当の贅沢というものを知らないのだろう────かつての俺がそうだったように)
小次郎は尚子に出会った。
身分卑しき村の民と混じって、大声で笑い、喉がかれるまで泣く、懸命に“今を生きる”少女に。
己の感情のすべてを体いっぱいで表現し、他者の感情を心のすべてで受け止める。
小次郎には、尚子の表情一つ一つが、まぶしく見えたのだ。
そうか、対話というのは、こういうものか。
言葉とは、これほどに心を伝え、染み入るものだったのか。
世辞と偽りの言葉しか知らなかった小次郎には、人を操るためにしか使うことの無かった言葉たちが、なんと新鮮なものとして生まれ変ことか。
他者には理解することは決してできないだろう。そう小次郎は確信する。
それほど、尚子を通して見た世界は輝いていた。
美しい世界で、自分も生きて行くことはできないのだろうか。
そんな淡い夢すら抱いてしまう。
(オレに、そんな生活が送れるだろうか?)
──ザワワ。
不意に通り抜けた秋風。
ゆれた頭上の桜木に、笑われたような気がした。
お前には、この世界に留まる資格はない。
人の血の味を糧に、人を欺き、落としいれ、出し抜くことで高みを目指す。
そんな世界に生きるお前が、なぜ“ここ”に残れると思うのだ。
お前は、誰よりも赤い血を好むのだろう?
生き血を吸わねば生きていけぬのだろう?
五感を通して伝わる自然たちの姿が、自分を拒絶するためにざわめいたように感じた。
それまで小次郎を満たしていた心地よさが、次々に血なまぐさいものに変わっていくようだった。
口の中まで鉄くさい。
「…………」
わかっている。自分は、もうあの闇の世界から抜け出すことはできない。
一度、血の味を知ってしまった獣は、野生の、弱肉強食のおきてにしたがって生きていくしかいのだ。
わかっているのだ。
だが……。
真っ暗の世界を照らす、あの月のように、尚子は自分を導いてはくれないだろうか。
自分が、道を見失うことのないように。
人であることを忘れないように……。
ふと、小次郎の全身に緊張が走った。
ヒズメの音がする。
(追っ手か!?)
身構えたが、追っ手にしてはヒズメの音が一頭分しかない。
(尚子か!?)
小次郎は体を跳ね起こし、街道へ躍り出る。
前方から猛スピードで駆けてくる馬が見えた。ずっとしがみついていたのだろう、乗っている尚子にかなりの疲労が見える。今にも投げ落とされそうだ。
「尚子!!」
小次郎の叫び声を聞いて、馬の上の人影が顔を上げた。もうろうとしているように見えた。
意識がそれたおかげで、ついに尚子は馬から振り落とされる。
小次郎は必死で駆け寄り、強く地面を蹴った。いっぱいに伸ばした両手に、確かな重みが加わる。
「おい、しっかりしろ!!」
「……う……馬は……」
小次郎は、言われて初めて、自分の失態に焦りを覚えた。
馬がなければ、この後二人で逃亡するのも、困難となるというのに、尚子にばかり気をとられてまったく忘れていた。
尚子を腕に抱きながらも、ばっと半身をひねり、背後に馬の姿を探す。
「……な……に?」
小次郎は拍子抜けした。
馬は、小次郎が先ほどまでいた、桜の木の下で水を飲んでいる。
てっきり、あのまま一目散に街道を駆けていってしまったものと思ったので、その姿がにわかに信じられない。
信じられないが、助かったのは確かだ。
運が味方している。
得体の知れない、何かが、小次郎たちの背中を押している。そう確信した。
小次郎は、力強く尚子を抱き上げると、足早に馬の方へと歩み寄った。
今しかない。
時が見方してる間に、国へ帰るのだ。
腕の中で、尚子が呻くような声をだした。
川の水を口移しで飲ませてやると、尚子はすっと和らいだ顔を見せた。
「行くぞ。国まで飛ばす」
「……ま……て……」
「もう、しゃべるな」
少しの間、尚子は、なおも何かを伝えようとしていたが、ついに意識を手放した。
その強情さというべきか、芯の強さというべきか。
思わず小次郎は肩をすくめたが、その目には愛しさがあふれていた。