(9)
◇◆
瀕死の男を息子の公雅に預け、ふらりと単身、屋敷を後にした良兼は、馬に揺られていた。馬はある場所へと、のんびり向かっている。
良兼は小さく息をこぼすと、心のなかでつぶやいた。
(あの香りは……もしや……)
彼は、白き獣に対峙してからというもの、ずっと一つのことに捕らわれていたのだ。
あの香り。
そして、あの気配。
確かにあれは……。
だか、そのはずはないのだ。
しかし……。
その答えを探しに、自分はそこへ行かなければならない。
あの桜のもとへ──。
ふいに、背後に多くの気配を感じた。屋敷に残っていた家臣たちのようだ。
公雅が、自分の身を案じて、後を追わせたのだろう。嫡男としては賢明な判断ではあるが、今の良兼はそれを必要としていない。一人になりたかった。
(そうもいかぬか……)
当主に何かあれば、国が傾く。虎視眈々と領地を狙うものがこの板東には多すぎるのだ。
(……ままならぬものよ)
もう一度、小さくため息を吐き出すと、良兼は西の空を仰いだ。
すると、暗闇の中に、さらに漆黒の煙を吐き出す火柱がいくつも上がっているの見えた。
あれは、先日、尚子が盗賊に襲われたと言っていた村の方角。今そこには、扶が居るはずだ。
なぜ炎が上がっているのだ。
何が起きているのだ。
ふと良兼の脳裏を、扶の妖しい笑みがよぎった。先刻感じた嫌悪感と警戒感が、さっと全身によみがえる。
「…………」
良兼の顔に険しさが戻る。
(調子にのるなよ、若造)
この国の領地で、好き勝手するものは、誰だとて許さない。
たとえ、強大な力をもつ源氏の嫡男だとて、悪戯がすぎれば容赦はしない。
「村へ急ぎ参る。後から参れ」
良兼は従者にそれだけ言うと、馬の腹を蹴った。
村の入り口に姿を現した良兼は愕然とした。
「扶殿。これはどういうことだ」
首を左右に動かし、村を見渡す。
すでに、まともに形をとどめる家屋はない。その上、炎に包まれた家屋の脇には、多くの遺体が転がっている。
ひどい有様だ。とても、人が住む場所ではない。
「これはこれは。義父上様。どうしてこのようなところに?」
さわやかな笑顔を携えて、扶がゆっくりと歩み寄ってきた。
その白々しさに、良兼の口元がかすかに歪む。
「村から煙が上がっているのが見えた。これはどういうことなのだ」
「この村の住人が、得体の知らぬ獣を飼いならし、近隣の村々を襲っていたということを突きとめましてございます」
「う、嘘だ!! そんなの嘘だっ!!」
扶と良兼のやり取りを見守っていた一人の青年が、急に声を荒げた。
身なりから、この村の住人だとわかる。よく見れば、腕には中年の男を抱えていた。中年の男は血の気の失った顔で、意識もない。虫の息といったところだ。長くはもつまい。
「ここは私にお任せくださり、良兼殿はお屋敷にお戻りください」
敵意むき出しで、村人が扶を睨みつけている。しかし良兼には、彼が嘘をついてるようには見えない。
どちらの言葉を信じるべきか、明らかだった。しかし良兼は静かに扶に問いかけた。
「つまり、こやつらが、近隣の村を襲っていた盗賊だったということか?」
「そのようです」
「ということは、私の娘をさらったのもこやつらなのか?」
「そうかもしれませぬ。私が必ずや、姫の居所を吐かせ、助け出してみせましょう。安心して屋敷にお戻りください」
良兼は、黙って扶を見つめた。そして、再び村人たちに視線を落とす。
(どうも、私を追い返したいようだ。私に知られたらまずいことでもある、かのようにな)
いったい何を隠そうとしているのか。
暴き出して欲しいらしい。
皆の前で恥がかきたいのなら、その要望に応えてやらぬこともない。
良兼は、扶にかまわず馬を下りた。
そして、村人たちに向かって足を進める。
「殿様!! こいつにだまされちゃいけねぇ!!」
後方の老婆が、良兼に向かって声を張上げた。
「殿様!? あんたが良尚様の!?」
けが人を抱えた青年が、良兼をまじまじと見た。
「いかにも。私が、この国の主だ。今、良尚と言ったか?」
「そうです。俺らは、良尚様に命を救われたから、こうして生きていられるんです! 良尚様が、俺らを盗賊から救ってくださった!」
「ほう。そなたたちが盗賊なのではないのか?」
良兼は、それはおかしなことだ、と眉をひそめて見せた。
どちらかが嘘をついている。
この国の当主に。
それは死にあたいする不敬。
さあ、いったい、どちらが真実なのだ。
良兼は、わざとらしく、腕を組み、悩むふりをした。
すると老婆が、駆け寄ってきて青年の横に並んで、ひざまずいた。
「盗賊のわけがないっ! この老いぼれまで、お救い下された若様を、ワシらはお慕いしております。そんなワシらが、若様の大切に思う民の命を、民の生活を脅かすとお思いか!?」
「…………」
「殿……様……」
そこで、青年の腕の中で、中年の男がかすれた声を出した。気絶しているのかと思っていたが、意識はあったらしい。
「……盗賊に……村を襲わせたのは、そのお方です」
中年の男は、重そうな瞼を半分だけ開けて、視線だけでそのお方──扶を指し示した。
「……なに?」
良兼の眉がぴくりと動いた。彼も予想していなかった言葉に、耳を疑う。
扶が村を襲わせた?
それが本当ならば、捨ておくことなどできない。
扶がひとりでやったことか。それとも──父の源護がやらせたことか!?
(源護め! よもや、この国の力を弱め、この私を殺そうとしているわけではあるまいな!)
良兼は静かに扶を見た。扶の顔には動揺は見られない。
「たわ言でございます。耳を貸しますな」
表情を変えずに扶はそう言ったが、この男ならば白を切り通すことなど容易いだろう。
それに、もし扶が村を襲っていることが真実だとしても、証拠なく問い詰めれば返り討ちにあうに違いない。
(どうしたものか……)
良兼は再び村人たちに視線を戻した。
その真剣な瞳には、偽りの色は微塵もない。
良兼の視線をうけ、中年男は再び、かすれた声で訴える。
「殿さま……この方が……盗賊を……」
男は痛みに顔をゆがめ、ついに、言葉がつむげなくなった。代わり、老婆が続ける。
「盗賊を使って、村を襲わせ、女子供、食料を奪い、村に火をつけて回ってるのです。さっき自分でそう言っていた!」
「無礼な! 私を盗賊と言うか! 切り捨ててくれる」
扶が、逆上し、刀を振り上げた。いや、逆上したように見せかけて、この者たちの命を奪おうとしているようにもみえる。
これ以上余計なことを言うな。そう扶の目が妖しく笑った。
「待て!」
良兼は制したが、扶はかまわずに刀を振りあげた。反射的に、村人たちは体を硬くし、身構える。
刀の軌跡は完璧な弧を描く──かと思われた!
ギャイイイイイイ
悲鳴が空気を真っ二つに裂いた。
老婆のではない。
青年のでもない。
悲鳴の主がわかった時、良兼ははっと息を呑んだ。
(先ほどの!)
真っ白な獣の首もとに、扶の振り下ろした刀が、深々と刺さっていた。
獣は、足元に三人の村人をかばうようにして、仁王立ちしている。
「この、死にぞこないがっ!!」
獣に食い込んだ刀を、扶が引き抜こうとした。再び獣を攻撃し、息の根を止めようと考えたのだろう。
だが、思ったよりも深く食い込んだ刀は、思うように抜けない。
そうこうしているうちに、獣が頭を大きく振って扶を振り飛ばした。良兼の頭より高く、扶の体が宙を舞う。
残った良兼を、威嚇するように獣は歯をむき出しにした。
良兼の体は、石化したのかと思うほど、思うように動かなくなった。
額には、いつの間にか汗が噴出し、手もぐっしょり濡れている。
ギロリと赤玉の瞳がわずかに妖光を放ったような気がした。
すると、不思議なことに、良兼は、胸の奥底から何かが湧き上がってくるのを感じた。
見る見るうちに、陽だまりの中で寝転ぶ時のような、暖かさが体いっぱいにあふれていく。
(まずい……)
このままでは、先ほどと同じく、心を喰われる。
そう思ったが、もう遅い。
良兼は、いつのまにか、在りし日のぬくもりの中へと、さらわれていった。