(8)
◆◇
「迎えに?」
鷲太の声が聞こえない鮎太郎には、松吉が独り言を言っているようにしか聞こえない。気でもふれたのかと、鮎太郎が声を荒げた。
「松吉さん!? いったいどうしたっていうんだ」
「鷲太だよ!」
松吉は、強い力で鮎太郎の腕をつかんだ。
「この獣は、鷲太だと名乗ったんだ、ワシに!」
「……なんだって?」
鮎太郎が険しい顔で松吉を見下ろしている。
そうだろう。信じられるはずが無い。松吉とて、信じ切れない。
あの鷲太が、この恐ろしい獣であるはずが無い。
鷲太のはずが無いのだ!
(だけども、鷲太なんだ! 誰がなんと言おうとも、ワシにはわかる。これはワシの息子の鷲太だ!)
その根拠ならある。
だが、それを言ったところで、鮎太郎は納得しないだろう。
獣に触れた手から、暖かな何かが流れ込んでくるのだ。
懐かしい気持ちが松吉に注ぎ込まれていく。胸が、つまるほど、懐かしい。
鷲太がいて、多恵がいて。
三人で笑い合い、狭い我が家で体を寄せるようにして、寝起きを共にした。
あの日々が次々に、そして、鮮やかに蘇ってくる。
(鷲太が、これを見せているのか?)
思わず、心の中で松吉はつぶやいた。
『そうだよ。僕は、こんな姿になってしまったけど、何も変わらない。僕はあなたの息子の鷲太です。松吉さんと多恵さんの、息子の鷲太です』
言葉にしていないのに、返事があったことに松吉は驚いた。だが、もう疑うことはない。
赤く穏やかに輝く二つの目を、まっすぐにとらえると、松吉はこくりと頷いた。
『みんなを僕の背中に乗せて』
(わかった)
松吉は、勢いよく鮎太郎を振りかえった。
その鮎太郎の肩ごしに、ツネ婆を含む六名の村人と順々に視線を合わせていく。
「鮎太郎。ワシらは助かった。鷲太と一緒に逃げよう」
「正気か!? こんな獣が鷲太のはずがないだろう! 殺されちまう!」
「大丈夫。見てみろ、ワシが触っても死なないじゃないか」
「……だけど!」
「わかったよ。獣が鷲太だと信じられないなら、ワシを信じろ。ワシが皆を助ける。だから、信じてワシの言うとおりにしろ」
「…………わかった」
「さあ、皆を獣の背中に乗せるんだ」
鮎太郎は、じっと松吉を見つめ返した。
信じられないのはわかる。鷲太の声が聞こえないのなら、なおさらだ。
だが、今は松吉の言葉を信じてもらうしかない。それが、生き残った村の皆を助ける唯一の方法に思えた。
だから、自分の言葉を信じろ。
松吉の瞳に、強い光が宿る。それは、鮎太郎の中で何かを動かした。
鮎太郎は、力強くうなずく。そして、松吉の指示に従うために、背後の村人を振り返ったちょうどその時。
何かが頭上を通り過ぎていった。
はらはらと鮎太郎の毛が、数本地面に落ちていく。
松吉も、それを目で追った。
ギャイイイイイ。
この世のものとは思えぬ音が、空気を揺らした。
金属をこすり合わせたような甲高い音に、耳を塞がずにはいられない。
それでも、聞こえてくる。
どうやら、耳を通して聞こえているわけではないらしい。まるで頭に直接響くようにも感じた。
松吉が、耳を塞ぎながら、振り返ると、白き獣の首もとに一本の矢が突き刺さっているのが見えた。
獣は激しく、もがき苦しんでいた。そのせいで、矢の根元から止めどなく、紫色の液体が流れてくる。
「……鷲太ーーっ!!」
松吉は鬼の形相で、その矢を射た人物を振り返った。
「なんだ。刺さるではないか」
斜め後方に、口端に不適な笑みを浮かべた扶が仁王立ちしていた。左手には弓を握ったまま……。
「手こずらせおって」
扶は、吐き捨てるように言った。そして、己の兵が、主を守る義務と一緒に放り投げた矢を、片手で拾い上げると、すぐさま獣に向かって次々に放つ。
右後ろ足を集中的に狙った矢は、吸い込まれるように、足首、もも、ふくらはぎに命中していく。
ギャイイイイ。
「鷲太ーーっ!! やめろ撃つなーっ!!」
松吉は必死で叫んだ。
獣が激痛に、身をよじるたびに、矢傷から飛び散る体液が純白の毛を黒く染めていく。
獣の右後ろ足のアキレス腱に矢が刺さった時、ついに獣はバランスを失うように膝をついた。
「鷲太ーっ!!」
やめろ。
やめてくれ!
息子が死んでしまう!!
扶が再び、弓を構えた。
「やめろーーっ!!」
悲痛な松吉の叫び声が、村に響き渡った。
松吉には、幼き子供が痛みに泣き叫んでいるようにしか見えていないのだ。
松吉は、這うようにして、肩で息をする獣に近づく。
ただでさえ一本しかない足。その残された足はほんの少し動かすだけで、先ほどの刀傷が焼けるように痛い。それでも松吉はやめない。
体をできる限り起こし、両手をいっぱいに伸ばすようにして、獣と扶の間に入った。
だが、扶はかまわず弓を構え、矢を放つ。松吉は力の限り左に飛んだ。
矢は松吉の左腕の脇すれすれのところをすり抜け、獣の体に突き刺さる。獣が悲鳴をあげるのと同時に、松吉の体は、重力のままに、地面に強く体を打ち付けることになった。
「……くっ」
再び苦しみに鳴き叫ぶ獣の声は、松吉の胸に突き刺さって、激しい痛みを生んだ。全身を襲う怪我の痛みよりも、はるかに強烈に。
まるで胸をえぐられたように、痛んだ。
「……しゅう……た……」
貧血で、うまく力の入らない体を引き寄せ、上半身を起こそうとした。
腕が小刻みに震え、言うことを聞かない。
それでも、松吉の意志が勝った。絶望と痛みよりも。
ふらふらと、松吉は立ち上がった。
いったいどこに、そんな力が残されていたのだろうか。傷ついた片足で、両手をいっぱいに広げ、自らを的にするように。
松吉の黒々とした目に、炎が宿った。その炎は、誰も容易には消すことはかなわない。
もう、これ以上息子を失うのはごめんだ。そんな思いが、今の松吉を動かしていた。
(今度はワシが守ってみせる……!)
松吉には、三人の子がいた。が、いずれも幼くしてこの世を去っている。
最初の子は生まれた時すでに息をしていなかった。その後生まれた息子たちは、いずれも利発な子で、夫婦はこの子たちを実に可愛がった。
だが、末っ子が言葉を覚え始めた頃、村に蔓延した流行り病で、二人の息子は同じ日に息を引き取った。
その日から、多恵は、丈夫な子に生んでやれなかったと、自分を責めた。そんな多恵が日に日にやつれていく様を見て、かけてやる言葉を捜すのに苦労する毎日だった。
松吉も、悲しみの底なし沼から抜け出せないでいた。頭から離れないのだ。
末の子が、息を引き取る間際に、言った言葉が。
あの光景が。
高熱にうなされ、松吉に伸ばされた助けを求める小さな手。
────とぉちゃ……。
覚えたて言葉で、この父を呼ぶ声が……。
それからというもの、夫婦で話し合ったわけではなかったが、もう子供は持つまい、と二人とも思っていた。
良尚と出会ったのは、その後のこと。
よく笑い、よく泣く、実に素直な子供だった。
松吉は、そのまっすぐな少年の姿に、失った自分の子供の姿を重ねていた。きっと、末の子が生きていれば、あのくらいの年になっていたはずだ、と。
多恵に笑顔が戻ってきたのも、その頃からだったと記憶している。
その、息子同然であった良尚が、本当の息子を連れてきた。
事情はよく聞かなかったが、多恵が笑っているから、それでいいと思った。
そこから、松吉たち夫婦は、毎日が幸せだった。
たとえ血がつながっていなくとも、長い月日を共にしていなくとも。自分たちは親子だった。
きっと多恵もそう思っていたに違いない。
(多恵を一緒に探しに行くって約束したんだよ、鷲太と二人で!)
松吉はぎろりと扶を睨んだ。
二度と子供を奪われるわけにはいかない。
苦しむ息子の姿を。
助けられず、ただ見守ることしかできないもどかしさを。
己の命を失うよりも、苦しい痛みを味わうくらいなら……。
(ワシが死んだほうがましだ!)
松吉の気迫は、確かに扶を驚かせたようだ。不思議なものを見るように、扶の視線が小さく揺らいだ。
なぜ、松吉が傷だらけになりながらも、この獣をかばうようなそぶりを見せるのか理解できないのだろう。
『松……吉さん……!?』
獣の荒い息が松吉にかかる。松吉は、振り返らずに心の中で強く叫んだ。
(逃げろ!! お前がここを離れるまで、ワシは動かん。早く逃げろ!!)
『でも……僕は良尚様と約束……したんだ』
(ばか者! 父の言うことが聞けないのか。ワシはお前に、若様の命を託したんだぞ。お前の役目は、若様を守ることだ!! お前が本当にワシを父だと思うならば、父の命令に従え!!)
『でも!!』
(さあ、行け!! ぐずぐずするな!)
『わかったよ……父さん』
松吉の背中がびくっと揺れた。
……父さん……。
最後の言葉が松吉の胸に響いた。
松吉はゆっくりと獣を振り返った。松吉を見つめ返す獣。
ふわりと松吉の顔が笑顔に包まれた。
(行け)
返事をせず、獣は姿を消した。
つむじ風のような激しい風を後に残して──。
(……父さん……か)
松吉の頬を、一筋の、熱い雫が流れていった。
己の最後に聞く言葉が……息子が自分を呼ぶ声だというのも……。
「悪く……ない……な…………」
「松吉さん!!」
張り詰めていた糸が切れたように、松吉の体がぐらりと揺れ、その場に崩れ落ちていく。すかさず鮎太郎が受け止めた。
気を失った松吉の顔は、生きていることが不思議なくらい土気色をしていた。
その時だった。
この国の当主、平良兼が、この滅びかけた村に姿を現したのは──。