(7)
◆◇
「…………」
最西の部屋に一歩踏み入れたところで公雅は言葉を無くした。
まず彼を襲ったのは、臭気。部屋のあちこちから立ち込める血生臭さ。
胃を乱暴にかき混ぜられたような吐き気を覚え、公雅は慌て庭に駆け込んだ。
胃液を吐き出し、咳き込めば、口の中の苦さより何倍も強い嫌悪感が、彼を襲う。公雅の脳裏に、一瞬で、凄惨な殺人現場の情景が焼き付いてしまっていた。
藤乃があそこで首をはねられた。そのむごい情景が、簡単に想像できるほどおびただしい量の鮮血が、部屋の中央からあちこちに飛び散っていた。なんともおぞましい光景だ。
父の話では、藤乃は盗賊を姉の部屋へと手引きし、抵抗する義兄を縛り付け、盗賊逃走の手助けをしたという。そのため姉の誘拐後、藤乃は扶によって処刑された、と。
公雅は再び、変わり果てた姉の部屋に足を進めた。
「…………」
部屋の入り口に立った公雅の顔が、苦々しく歪む。
彼のよく知る姉の部屋だというのに、その面影はどこにも無い。
倒れた記帳。
粉々に砕けた油差しの皿。
その日も皺一つ無く床に敷かれただろう寝具は、ぐちゃりと折れ曲がり、枕もあさっての方にある。
どれほどに、激しい格闘がくりひろげられたのだろうか。
きっと義兄が、体を張って盗賊から姉を守ってくれたに違いない。容易に、義兄がその背に姉を隠し、それでも、多勢に無勢ではなすすべがなかったのだろう。
扶の無念や、姉の恐怖にふるえる顔が目に浮かび、公雅の胸はぎりぎりと締め付けられた。
(それにしても……信じられない)
本当にあの藤乃が姉を裏切っていたというのだろうか。あの、姉が人生のすべてだ、と全身全霊で訴えている女官が!
だが、そう簡単に、警備の目をかいくぐり、多くの女官に気付かれることなく、姉の部屋へ忍び込むことができるだろうか。その上、乱闘の末に姉を拉致していくなど、不可能だ。
確かに内通者がいれば、話は別だが……。
(……本当に、あの藤乃が……姉上を裏切っていたのかな……)
公雅が、腕を組んで思い悩み始めた時、にわかに屋敷の外が騒がしくなった。
はっとした公雅は、すぐさま、きびすを返す。
(父上が帰ってきたに違いない!)
もっと詳しいことが父から聞きたい。何かが引っかかる。
大股で廊下を歩きながら、建物の外へと出た。
すると、すぐに、門のところにいる父の姿が目に入る。
(……え!?)
公雅は、自然と駆け足になりながら、だんだんと大きくなる父に視線を送り続けた。
だが、そこには、馬にまたがった父の姿と、明らかに狼狽えている馬番しかいない。馬番は、父が敷地内に姿を見せた直後に駆け寄ったのだから、つまり、父がたった一人で戻ってきたことになる。
あれほどに家臣を従えて出ていったというのに。そもそも、国の主たる父が、単独行動をすることがありえない。同行した家臣たちが、それを許すわけがないのだ。
しかも、父の様子もおかしい。
まるで、どこをどう通ってきたか覚えてないというように、呆然と一点を見つめている。馬を降りようとしない。
不思議に思った馬番が首をかしげ、おそるおそる馬上の父に声をかけたのが見えた。
「と、殿……」
しかしまったく反応がない良兼に、馬番ほとほと弱り果てた顔になる。きっと、父は戻って来てからずっとこの調子なのだろう。どうしていいかわからないようだ。
「父上!」
やっと、声の届く距離に来た公雅は父を呼んだ。父が首だけを動かし、こちらを見る。
しかし、やはり様子がおかしい。
(まさか……!)
公雅の全身をざわざわとした悪寒がかけ上がった。
何かあったのだろうか。天下一、気丈な父が心を壊すような、衝撃的なできごと、──愛娘の死──のような!
(姉上が死んだなんて、そんなことあってたまるかっ!)
「あ、姉上は!? 一緒ではないのですか!?」
公雅は声を荒げながら、すばやく姉の姿を探した。そして、はっとなる。騎乗している良兼の背後に、何者かの下半身が見えたからだ。
「……姉上!?」
弾かれたように、公雅がその人物を馬から引き降ろして、息を呑んだ。見覚えのある顔だ。
すぐに、姉の背後にいつも控えていた男だという考えにいきつく。
「これは……姉上の……」
ぐったりとしたその男は、かろうじて息をしていた。
なぜ、姉の共が一人で!?
しかも、瀕死の状態で!
「おい、姉上はどうしたのだ!! おい、しっかりいたせっ!!」
力任せに公雅は男をゆすったが、完全に意識を手放しているため反応が無い。すると、頭上から父のかすれた声が振ってきた。
「手当てをしてやれ」
それだけ言うと、良兼は馬を引き返した。再び、ゆっくりと屋敷を出て行こうとする。
「父上!?」
公雅はあわてて、父の背中に声をかけたが、父は見向きもしない。
「お、おまちください!! お一人では危険です! であええーー!! 急ぎ、父上の供をせよーーっ!! であえ、であえ!!」
夜盗が逃走したと騒がれている中、父を一人で行かせるわけにはいかない。
だいたい、今の父は抜け殻のようだ。いつもの父のように、息子の自分ですら震え上がるような、恐ろしさがない。そんな父を一人で行かせていいわけがない。
(父上……何があったのですか……)
良兼が振り返ること無く、街道を西へ進んでいく。
間もなく、公雅の呼びかけに答え、屋敷に残っていた兵たちが姿を見せた。すぐに父を追うように、指示を出す。
その様子を見守りながら公雅は胸が詰まる思いがした。彼には父の背中が寂しげに見えた……。