(5)
獣はまるで肯定するように、口端を少しあげた。微笑んだように取れなくもない。
そう思うと、急にその大きな恐ろしい獣の姿が、先日までひざの上で丸くなって昼寝していた白い猫の姿にかぶって見えた。
(ほんとに……雪白なんだ……信じられないけど)
ごくんと、尚子は唾を飲み込んだ。色々な疑問と一緒に。
「わかった。でも、どうやって乗れば……」
乗れといわれて乗れる高さではない。背伸びしても手が届かない高さに、どう乗れというのだろうか。尚子が腰に手を当ててため息をついた時、尚子の体が浮いた。
「……ちょ、ちょっと!」
うまいこと、尚子の着ている着物だけをくわえて、獣が尚子の体を持ち上げたのだ。
ばたばたと手足を動かして暴れている尚子を、獣は何食わぬ顔で、ぽいっと自分の背の上に放り投げた。
「う、うわああ……あれ?」
ぐるりと空が一回転したかと思えば、ふわふわな白銀の毛の中に尚子はいた。
『つかまって』
「!?」
尚子の心臓がどくんと脈打った。
(今の声は──鷲太!?)
尚子はきょろきょろと辺りを見回した。しかし、尚子の探していた少年の姿はどこにもない。
空耳だったのかと落胆した尚子に、再びその声は“聞こえた”。
『動くよ!』
「鷲太!? 鷲太なの!?」
尚子は必死で少年の笑顔を探した。だが、自分以外の人の気配はまったくしない。
『大丈夫、ちゃんと聞こえているよ』
その声は、尚子の頭の中に直接響いてくるようだった。
「どうなってるの? 鷲太はどこにいるのだ!」
落ちないように、しっかりと獣の毛をつかんだ尚子は、体をひねり、死角になっていた獣の足元付近に視線を落としたが、結果は変わらない。
『僕は大丈夫。それよりも、早く逃げよう。追っ手がこっちにも向かってるはずだよ』
ぐらりと尚子の体が大きく揺れる。獣が立ち上がったのだ。尚子の視野がさらに高くなり、広がった。村から立ち昇る煙が、はっきりと見える。
「だめだ、行けない。村が!」
『村には連れていけないよ。姫様のお命を守ることが、僕が“ここ”にいる理由だから。危険なところには連れて行けない』
「それでも、私は行かなければならない。皆が危険な目にあってるというのに、私だけ守られるわけにはいかない」
『それもダメだよ。松吉さんにも、姫のことを頼まれてるんだ』
「ならば、一人で行く」
尚子は自分の背丈の倍はある高さから躊躇せずに飛び降りようとした。が、間一髪、ため息交じりの声が制止する。
『わかったよ。僕が行く。僕がみんなの様子を見てくるから』
「え?」
『姫は先に小次郎様の国へ逃げて。僕はすぐに追いつくから大丈夫。それでいい?』
鷲太の声は有無を言わせない強さがあった。しかたなく尚子は従うことにする。
とは言え、尚子が一人で行っても大して戦力にならないだろうことは目に見えていたし、自覚もあった。
尚子ではなく、この大きな狼が姿を現せば、父の軍勢も戦意を喪失させるに違いない。
父の従える追っ手も、尚子にとっては、大切な自国の民。誰一人、死んでほしくないのだから、戦わずして皆を救えるならばそちらのほうがいい。
そんな打算があったのも確かだ。
「わかった。でも、馬も逃げてしまったし……」
『……雪白』
鷲太は、白猫の名前を読んだ。
すぐさま、白き獣は大きなとがった耳を左右に動かしはじめた。そのたびに、獣の左右それぞれの耳から出た二束の長い毛が、まるで触覚のようにゆらゆらと揺れている。
数秒の後、尚子たちの前に、一頭の馬が姿を現した。先ほど逃げていった馬だ。
尚子は信じられないと、目を丸くする。
「どうなってるんだ!」
『驚かせてごめん、て謝っておいたからもう大丈夫だよ。さあ、行って』
今はそんなことを気にしてる時間はない。そうでしょ?
そう鷲太の声に必死さがこめられていた。だから尚子は渋々、うなずく。
獣が再び姿勢を低くし、頭までもを地面にぴたりとくっつけ、伏した。
『さあ、頭の方からすべり降りて』
尚子は言われるままに、獣の頭部へよじ登り、両耳の間を四つんばいになって通ると、大きな額の上にすわり直した。
そして、鼻筋を滑り降りるようにして、軽やかに地面に足を付けた。
「この先に、少し開けたところがある。そこから川原の方へ向くと、一本の木が見えるはずだ。その木の下で小次郎と一緒に待っている」
言い終えると、尚子はさっと馬に飛び乗った。そして頭上を見上げる。
先ほどよりだいぶ高くなった月が尚子たちを見下ろしていた。あと一刻(約2時間)ほどで、真上に達するだろう。
「あの月が真上にくるまでに、村の皆を連れて戻ってきなさい。その広い背中なら、皆を乗せることもできるでしょう。私が新しき国で、皆の面倒を見るから、安心してつれておいで」
獣は、返事の変わりに、すくっと立ち上がった。
獣の耳が、再び先ほどのように、ぴくぴくと左右に動いた。
突如、尚子を乗せた馬が、小次郎のいる桜の方へと向かって走り出す。
何の指示もしていないというのに、まるで自らの意思で、尚子を運んでいるようだった。
あわてて、尚子は馬に捕まりながら、後ろの獣を振り返った。
「約束だ。誰も死んではいけないよ!」
獣は赤い目でじっと尚子を見送っている。
「待っているから!! 皆を、ずっと待っているから!!」
尚子がそう言い終える前に、馬は全力で走り始める。すでに遠く離れた尚子からは見えなかったのだが、獣の耳がまた動いていたのだ。
突然のことに、尚子は振り落とされぬように、必死に馬にしがみつき、舌をかまないように、黙るしかなくなった。
それから数分、身動き一つせずに、尚子の後姿を見つめていた赤い目が動いた。
次の瞬間、そこには獣の姿はなく、代わりに、不自然な風が木々を揺らし、かすかな血の匂いを舞わせていた。