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赤い月が見ている  作者: 日向あおい
第五話 風にのせて
36/47

(4)

 ◇◆

 

 

 規則正しい(ひづめ)の音が聞こえる。薄暗い街道を、行きよりも若干、早いスピードで一頭の馬が青年を乗せて駆け抜けていく。

 青年は、長い髪を後頭部で一つに結び、ところどころ穴の開いた、世辞にも綺麗とはいえないような、粗末な服装をしていた。

 だが、衣服とは、不釣合いとでも言おうか、青年の肌は好けるように白く、キメ細やかだ。肌触りもよさそうで、人差し指でつつけば、かなりの弾力を味わえるに違いない。

 よく見れば、黒く長い髪も、不精の類ではなく、普段から手入れされていたのが伺える。難なく櫛を通しそうな、整えられた髪は、月の光を反射して見事な光の輪を頭部に形成していた。

 その彼……いや、彼女は小さな胸が張り裂けそうな気持ちを抱えたまま馬を飛ばし続けていた。

(おねがい……無事でいて!)

 すると、不意に進行方向がまぶしく光った。

「──っ!」

 あまりの強い光に、尚子は声にならない悲鳴をあげ、目をつぶった。

 その光に驚いた馬は、耳鳴りしそうなほど甲高い嘶きを上げ、後ろ足で立ち上がった。もう耐えられないというように、馬はおびえ、簡単に尚子を振り落とすと、進行方向とは逆の方へと逃げていった。

(しまった!)

 腰をさすりながら、尚子はその馬の後姿を見送る。自分の失態に、チッと舌うちをした。

(いったい何んだっていうの!?)

 八つ当たりをたっぷりと含んだ尚子の眼光が、前方をにらんだ。

 が、すぐさま、その表情から怒りは消え、驚愕に変わり、それすらもあっという間に恐怖へと転じていった。

 

 無理も無い。

 そこにいたのは──。

 

(お、狼!?)

 尚子は動けなかった。

 五メートルほど先に、大きな大きな白い獣が、じっと尚子を見下ろしていたからだ。

(食われる!!)

 全身の毛の白さが、獣の紫の舌を際だたせ、妖しく光る鋭い牙から目が離せない。

 僅かに鮮血の色を思わせる大きな二つの目が、ギロリと尚子を睨んだように見えた。ぎくりとなった尚子の細い肩が、小刻みに震え、ひざも笑い出す。食いしばった歯の僅かなすき間から、これまでずっと耐えていた不安と、恐怖と、心細さが、息と一緒にもれていく。

 ここで、この獣にかみ殺されて、食べられる運命にあるんだ。尚子はそう悟った。おいしそうな獲物を逃がしてくれるほど、自然のおきては甘くない。

 走って逃げられるわけもないし、戦うとしても、武器がない。手ごろな石も足元に転がっていてくれればいのに、小枝と砂利しか見当たらない。

 これじゃどうにもならない。覚悟を決めるしかないのだ。

(ごめん……私、みんなを助けにいけないみたい……)

 そう思ったときだった。父が自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた気がした。

 尚子は、首を回して父の姿を探す。だか、木々が作り出す闇の中には、誰も見つけられない。

 空耳だったのだろうか。

 僅かに差し込んだ希望の光は完全なる絶望の呼び水となる。

(父上……)

 尚子は目の前の恐怖から目をそらすために、瞳を閉じた。

 と、かすかな香りが尚子の鼻をかすめる。新緑の木々の香りだ。

 そして……どこか懐かしい……。

 この香りを知ってる……?

 そう思った時、再び父の声が聞こえた。

『───尚子』

 今度ははっきりと。尚子を諭すような、優しさの込められた声で。

『森には狼が住んでいるから、近づいてはいけないよ』

 あれは、まだ父が優しかったころだ。野山を一緒に馬で遠出した時に、さまざま自然のおきてを教わった。

 父はこうも言った。

 

 

『強きものは弱きものを喰らい、命をながらえている。だが、それは強きものが悪いのではない。弱きものは、その弱さゆえに、強きものに食われるのである。人も同じだ。同じこの地に生き、弱きものを喰らい、強きものが生きながらえる。

 だが、人は獣とは違う。

 獣は、己の命を永らえるためだけに、弱きものを殺す。

 人は、己の欲望のために、弱きものを殺す。浅ましい、愚かな生き物だ。

 しかし、同時に美しい生き物でもある。弱きものが、強きもののために喜んで命をささげるのも、人なのだから。

 母は子のために、喜んで命を投げ打つであろう。そして、良い君主を持った者は、自らの意志で君主のために、その命を使う。

 お前は、どちら側の人となるであろうか』

 

 

 父は、まだ歳が二桁にならぬ我が子を、自らの馬に乗せて、遠い目をしたものだ。

 

『父上はどちら側なのですか?』

 

 娘は、無邪気に聞いた。

 あの時、父の顔が少し曇ったような気がしたのを覚えている。

 その答えは、なんだったのか。思い出せそうに無い。

 ただ、父は嘆いた。お前が男であったなら、どんなに良かったか、と。そして、静かに続けた。

『弱者であっても、強者であっても、“人”であることを忘れてはいけない。それが人である、ということだ』

 幼い尚子には、難しくてよくわからなかった。だが、その言葉は、今思えば父が自分自身に言っていた言葉だったかもしれない。

(……なんで、そんなことを今思い出すのだろう)

 父のことが気がかりでならない。

 村に残してきた者たちの顔がちらついて、落ち着かない。

 幼い少年と、大事な腹心と、母代わりであった女官とのたくさんの思い出が、次々に湧き上がってきて、とまらない。

 尚子の目頭からあふれた涙は、きらきらと光、地面に落ちていった。

 ぽた。ぽた。ぽた……。

 言葉にならない、思いがあふれていく。

(ごめんなさい……役に立たない子で……ごめんなさい……父上……女でごめんなさい……)

 ぼろぼろと大粒の涙をこぼす尚子を、獣の赤い、大きな目が静かに見つめていた。

(!)

 すると、獣は足音も立てずに、ゆっくりと尚子に近づいてくる。

 一歩、また一歩……。

 気持ちが混乱しているあまり、足を後退させることすら思いつかない、尚子。

 獣の歩幅は大きく、あっと言う間に尚子の顔に獣の生臭い息がかかる距離になる。

 次の一歩を獣が踏み出そうとしたので、尚子はぎゅっと目を閉じた。

(────っ!)


 もうだめだ。

 食われる。


 覚悟を決めた尚子の鼻を、つんと嫌なにおいが襲った。

(血のにおい……)

 視覚が遮断されたせいで、ほかの感覚が研ぎ澄まされたのか、生臭さの中にうっすら血の匂いが混じっている気がした。

 この匂いに自分の血の匂いも混じるのだ。

 そう思った。

 

 静かな時が流れた。

(あれ……?)

 予想される痛みが、こない。獣の鋭い牙が、尚子を容赦なく切り刻むはずだ。

 恐る恐る目を開けようとした時だった。

 ふわふわとした柔らかいものが、尚子の頬に触れた。ぎょっとして、目をあける。

 視界は、一面、白銀にきらきらと輝いていて、それがまた尚子を驚かせた。

(白い……毛?)

 よく見れば、白く輝く毛は、規則正しく上下にリズムを刻んでいた。

 尚子はそっと手を差し出して、目の前の白銀の毛に触れてみた。

 柔らかい。

 猫の毛のようだな、と尚子は思った。

 この毛の上に寝転んだら、きっと気持ち良いに違いない。

(あたたかい……)

 すると、目の前の毛の塊が動いて、尚子のすぐ顔近くに大きな目が二つ現れた。尚子はどきりとした。

 真っ赤な、二つの宝石は、尚子の姿を鏡のように映しこんでいる。

 不思議と、先ほどまでの恐怖はどこかに吹き飛び、変わりに尚子の心を懐かしさが埋めていく。

 すると、獣は自然な動きで鼻先を尚子の顔にこすりつけたかと思うと、ぺろり、甘えるように舐めた。

(…………)

 何かが尚子の記憶のかけらにひっかかった。

 紫の長い舌で付けられた、たっぷりのヨダレが尚子の頬を、ねっとりと伝っていく。

 それが顎に達し、べちゃっと地面に落ちた時、尚子の口から自分でも信じられない言葉が零れ落ちた。

 

「…………雪白?」

 

 何も考えずに飛び出した言葉。発した尚子が一番驚いていた。

 まさか、この獣があの白猫のはずが無いのに。

 しかし、獣の反応は、尚子の予想に反して、まるで喜んでいるように、三つに分かれた尻尾を右へ左へ動かし、再び頬擦りするように鼻先を尚子の頬にこすりつけてきた。

「ほ、本当に雪白なの? なんでこんな姿にな………わっ!」

 尚子は最後まで言うことが出来なかった。突然、鼻先で尚子の体を軽く押したからだ。

「な、何?」

 じっと獣の様子をうかがうと、獣は体を右回りに九十度動かし、尚子に長い胴体が見えるようにした。そして、首をくいっと動かし、尚子の顔を見つめる。

「背中に乗れっていうの?」

 

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