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赤い月が見ている  作者: 日向あおい
第五話 風にのせて
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(2)

 


 ◆◇

 

 

 一人、暴風と熱波に立ち向かっていた良兼は、突如、目がくらむような閃光に襲われた。

 とっさに、腕を顔の前にかざし目をかばったが、それでもまぶしく感じるほどの強い光だ。直に見ていたら、網膜がやられていたかもしれない。

 まぶたの裏に、自分の血管が赤く写って見えていた。

 

 十数秒後。

 世界はあっさり一変した。

 

 それまで体に感じていた、すべての進入を阻むようだった熱気も、姿無き強大な壁と化した風圧も、文字通り、消し飛んだ。数十秒間の閃光が、すべてを消し去ったのだ。

 良兼は、完全な静寂の中にいた。先ほどまで、鼓膜が破れんばかりだった炎の唸り声も、強風が木々を揺らす音も、ぴたりと止んでいた。

 今、唯一聞こえるのは、肩で息をする自分の鼓動のみ。

 恐る恐る良兼は目をあけ、辺りを見回した。

 見回したはずだったのに、目をつぶっていた時と何も変わらない。辺り一面に漆黒の闇が広がっていた。

 自分は、本当に目を開けているのか疑わしくすら思える。だが何度、まばたきをしたとしても、状況はかわらない。

 先ほどの閃光で、目がつぶれてしまったのだろうか。そんな不安がよぎったが、それも一瞬のこと。すぐに、己の視神経が正常であったことが証明されることとなる。

 良兼は、十メートル程先に“それ”を見つけた。

「……」

 思わず、ごくりと喉が鳴る。

 恐怖が良兼の体を一気に取り込み、感じたことの無い寒気が足元から頭上へと駆け上がっていった。

(……お、狼か!?)

 そう、彼は、一人闇の中で立ち尽くしていた。

 人よりはるかに大きな、一匹の獣と対峙するようにして!

 獣は、良兼の知るどんな獣とも違った。

 暗闇に浮かびあがるような、白い毛並みは、まるで己で光を放つ恒星のように、美しくまばゆい。

 全身、長い毛で覆われているというのに、人の拳よりも大きな真っ赤な二つの目が、毛の間からしっかりと良兼を見下ろしていた。

 その瞳は、宝石のようにきらめき、引き込まれるような魔力すら感じる。

 実に美しい獣だった。

 いや、美しすぎた。妖美なその姿は、一瞬で多くの人を虜にするだろう。

 良兼も、その魔力の餌食となりつつあった。

 だが、そこは、良兼の強靭な自制心がものを言う。手を伸ばし、触れてみたい気持ちを、かろうじて残った自制心が押さえ込む。

 しかし、何よりも、良兼の正気の命綱となっていたのは、恐怖心であった。

 獣の紅蓮の瞳の下に見える大きな口と、鋭い牙の存在には、さすがの良兼も、息を呑む。

 口は目元近くまで裂け、紫色の長い舌がだらりと伸びていた。ぽたりぽたりと滴り落ちるよだれは、良兼に更なる恐怖をあおる。

 それでも、徐々に、普段の冷静さの1割ほどを取り戻していく良兼は、さすがというべきであろう。

 良兼の優秀な脳細胞も、落ち着きを取り戻していくほどに、良兼の視野も広くなってくる。

 おかげで、その獣の体全体を見やることができるようになってきた。

 そして、あることに気がついた。

 たしかに、四足で立つその姿は、狼のそれによく似ていた。人の倍ほどある体高と、尻尾の先が三つに割れていることを除けば。

 だが、狼とは、いや、良兼の知るすべての生き物とは、決定的に違うことがある。

(……燃えているのか?)

 その獣は、全身が真っ赤な炎で包まれていたのだ。

 だが、どこも燃えていない。苦しそうな様子もない。

(なぜ生きていられるのだ! アヤカシか!?)

 良兼の喉がごくりと音を立てた。

 そういえば昔、父に聞いたことがある。

 

 この、日の本の国では、どの山でも川でも森でも、人の住まう村にだとて、その土地に昔から住みつく主がいる。

 その主を人々は、その土地の神、産土神(うぶすながみ)氏神(うじがみ)と呼び、畏れ、祀り、共存してきたという。

 その中には、長い年月を経て古くなったり、長く生きた依り代(道具や生き物や自然の物)に、神や霊魂などが宿ったものも含まれるという。それを人々は九十九神(つくもがみ)と呼んだ。

 時に、それらの神は、己の縄張りがあらされることに怒り、姿を現すこともあるという。

 

(この森の主が目を覚ましたというわけか……?)

 勝手に良兼の息が浅く、荒くなっていく。

 なぜこのような状況になっているのか、まったく理解できない。

 ただ、自分はこのアヤカシによって、命を絶たれる恐れがある、ということだけはわかる。

「…………」

 だが。

 こんなアヤカシを相手に、どう戦えばいいのか。

 このままあの牙に引き裂かれてやる気にはなれない。

 しかし、自分の刀があの神々しい毛の下に隠れる皮膚を、突き刺すことができる気とも思えない。良兼の刀より、獣の牙のほうが、よほど大きく、鋭利に違いない。良兼の肌はおろか、骨、いや、大地ごと良兼を切り裂くことも可能なのではないだろうか。

(しかし……。私にはまだやることがある。こんなところで死ぬわけにはいかぬのだ)

 良兼は目の前の巨大な獣から目をそらさないように、腰に手をやり、刀を抜くと、アヤカシの顔に向けて構えた。その刀に、獣の赤い目が映りこみ、きらりと光る。

 それを見た白光の獣は、口端をさらに引き上げた。

「……っ!」

 まるで良兼を嘲り笑ったように見え、背筋が凍りついた。

 そんなもので、立ち向かおうとするか、愚か者め。

 そう言って、高らかに嘲笑する声すら聞こえてきそうで、ぞくりとした。

 静かに睨み合う白き獣と、ヒトの形をした獣。

 その間を、すがすがしい秋のそよ風が、草の香り乗せ、優雅に通り過ぎていく。

(……?)

 そのそよ風の中に、懐かしい香りが混じっているように感じた。

 何の香りだろうか……。心地よく、それでいて胸が高鳴るような……。

 

 ──── ……様。

 

 良兼は息を呑んだ。

(今のは……!) 

 確かに、暖かな香りが、そう良兼を呼んだ。

 香りだけではない。人の気配がする。 

 だが、誰のだかわからない。知っているはずだ。この香りも、この胸の安らぎも。

 知っているはずなのに、わからない。

 懐かしいはずなのに、思い出せない。

 その香りを掴もうと、良兼の手が宙をさまよう。

 

 そう。

 自分は、かつて。

 この柔らかな香りを、手に入れようと……した?

 

 宙をさまよう良兼の手が何かに届きそうになった。

 その時だった。

 

 カシャン。

 

 良兼の手から力が抜け、持っていた刀が地面に着地し、高い音をたてた。その音で良兼は現実に引き戻される。

 なんということだ。

 敵を前にして、茫然自失におちいるとは……。

 まさか、これがこのアヤカシの力だというのだろうか。

 すくみあがるほどの恐怖と、どうしても手に入れたくなる美しさで、標的から思考力を奪う。そして正気を失っている間に、今度は命を奪われることとなるのだろう。

 

 “人の心を喰らう獣”。

 

 それがこの白き獣の正体なのではないだろうか。

(とすると……)

 先ほどの、懐かしい香りも、獣の仕業に違いない。

 もしかすると、人の記憶をも食い物にしているのかもしれない。

 標的が何に心を奪われるのか、何を欲しているのかを、いとも簡単に知り得るのだろう。そして、それを幻影として与え、夢見心地にしてしまう──先ほどの自分のように!

 良兼の額に、見る見るうちに、汗がにじむ。いかに先ほどの自分が、死に瀕していたかを思い知ったのだ。

 ついに、一滴の汗が頬を伝って顎へとたどり着いた。良兼は反射的に、それを右手で拭う。

(なんて恐ろしい獣だ……戦意を喪失させておいて、ゆっくりと食べるというわけか……)

 そんな獣とどう戦えばいいというのだろうか。何か手はあるのか。

 いや、まずは正気でいることが肝要であろう。再び相手の術にはまれば、次こそ命はないやもしれない。

 しかし、何の策も浮かばない。そればかりか、この良兼ともあろうものが、脅威の前に、小さく震えることしかできないというのか!!

 良兼が、自分の無力さに完全に打ちのめされた、その時だった。

(……なにっ!?)

 再び良兼は息をのんだ。

 白き獣の姿は跡形もなく消えていたのだ。

 正確には、獣は力強く大地を蹴り、空高く舞い上がったのだが、あまりの速さで獣が行動したため、良兼には消えたようにしか見えなかったのだ。

 良兼は、刀を構えたまま、立ち尽くした。動けなかった。

(助かったのか…?)

 急激に、言い知れぬ倦怠感が全身を襲った。

「……っ……」

 どこかで音がした。

 呆然となった良兼の耳にかすかに届いたそれは、人のうめき声にも聞こえた。

 良兼は周囲を見回す。だが完全に光源を失った視野では、容易にその声の主を見つけることができない。

 耳だけを頼りに、荒い息をする男のもとへたどり着く。

「おいっ! 生きてるのか!」

 良兼が男を抱き起こすと、ぬるりと手が湿った。血だ。手探りで確認すると、男の体には無数の矢が刺さっている。

 かろうじて生きている状態のようだ。このまま、ここにいれば、命はないだろう。

「……ひ……め……」

 荒い息の中に、紛れた男の声。良兼はそれだけで、その声の主に思い当たった。

 

「……おまえは──」

 

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