(11)
◇◆
その瞬間、尚子は確かに何かを感じた。
(胸がざわざわする)
後ろを振り返りたいが、小次郎がつむじ風のようなスピードで馬を飛ばすので、振り落とされないように、小次郎の背中にしがみついていなくてはならない。
尚子は激しく上下にゆすられながら、声を出した。
「こじっ……っ……」
少しでいいから馬の速度を落としてほしい、と広くたくましい背中に訴えかけようとしたのだが、舌をかみそうになった。
二人を隔てているものは、お互いの着ている衣服だけだというのに、尚子の声はまったく届いていないようだ。馬の足音がうるさすぎる。
尚子は小次郎の腹に巻きつけていた自分の腕を、片方だけなんとか動かし、小次郎の胸元の衣服を強く引っ張った。
やっと気がついた小次郎は、ちらりと尚子を振り返った。だが、小次郎とて、このスピードで馬を走らせながら、油断すれば振り落とされてしまうのは必定。
しかたなく、小次郎は手綱を引くこととしたようだ。
馬は嘶き、顔を横に向け、数秒後、足を止めた。
「どうどう……」
馬に向けて、小次郎があやすようにかけた言葉が、尚子にも落ち着きをもたらす。深く息をつく。
それでも、胸のざわめきが消えない。
小次郎は、ゆっくりと馬を歩かせるようにして、尚子を振り返った。その顔色の悪さに、小次郎は驚いた表情を見せた。
「……どうした?」
尚子は胸を押さえながら、もう一度深呼吸する。そして震える声で小次郎に訴えた。
「何か聞こえた」
「何が……?」
「わからない……」
と、そのとき。
『姫様ーっ!!』
どくんと尚子の心臓が跳ね上がった。
(──!?)
尚子は反射的に、背後を振り返る。
心臓がどくん、どくんと強くなっていく。
右に、左にと首をひねり、尚子はあたりを見回した。必死に、その声の主を探す。
小次郎は尚子の豹変ぶりに、ぎょっとして馬の足を止めさせる。
「なんだ、どうした!?」
「聞こえなかったのか!? 鷲太だっ!!」
「…………なに?」
小次郎は険しい表情を作った。
普段の尚子ならば、そんな小次郎に敏感に反応しただろうが、今の尚子はそれに気づく余裕がなかった。
小次郎は小さく首をひねった。
鷲太の声が聞こえた? それはおかしい。
鷲太たちは、自分たちよりも遅くに村をでたはず。しかもこことは真逆の、森の方向へ走っていったはずだ。
その二人が、どんな駿馬にのったとて、こんなに早くに追いつくわけがない。
小次郎はそう思ったが、あえて口にはださなかった。
尚子はその間も必死に、少年の姿を探していた。そして、すぐに二人は尚子の胸騒ぎの理由を知ることになる。
突然、大地が揺れた。
ズドーンと、腹に響くような音がそれを追いかけるように、尚子たちを襲う。
驚いた馬が、暴走しようとしたのを察した小次郎は、あわてて手綱を引き締める。
尚子は、間一髪、小次郎にしがみつき、落馬を免れた。しかし、衝撃で唇をかんでしまったようだ。尚子の口の中に鉄の味が広がった。
小次郎が、まるで女性を口説き落とすときのように、心地よい低い声で馬をなだめれば、すぐに馬は落ち着きを取り戻した。
「今のは、何!?」
今度は、背中に張り付くじゃじゃ馬をなだめる番か、とこっそり小次郎は思った。
小次郎が妙に落ち着いていたのは、それが地震だろうと思ったからだ。尚子がパニックを起こすのも無理は無い。揺れは相当、大きいものだった。
しかし、辺り一帯の木々が倒れてくる様子もないし、海も遠いので津波の恐れも無い。このあたりには、押しつぶされるような家屋も一つもないのだから、頭上から屋根や柱がおちてくる心配もない。
つまり、これ以上案ずる必要はないと踏んだのだ。
だが、尚子を落ち着かせようと、体をひねって振り返った時、目に飛び込んできた空の色に息をのんだ。
「……赤い……」
小次郎は、目を見開いて、しっかりとそれを見た。
遠くに、まるで空高く駆け上る龍のような、真っ赤な火柱を!
「空が……怒ってる……」
尚子がぽつりとつぶやいた。
はっと我に返った小次郎は、尚子の顔に目をやった。
尚子は呆然と空を東の空を見上げていた。
無理も無い。
その火柱から放たれた赤い閃光を中心にして、東の空が血の色に染そまっていたのだから。
なんとも不気味な光景だった。
夜だというのに、東側半分の空から、星は一瞬にして姿を隠し、月だけが不自然に浮かび上がって見える。
「森が燃えてるの?」
背中から小さな振動が伝わってくる。小次郎は体をひねり、そっと尚子の肩を抱いてやった。尚子は、わずかに表情を緩めたが、体の震えはとまらないようだった。
それにしても、森といえば、あの二人が逃げ回っているはず。何かあったのだろうか。
小次郎の脳裏に、あの日の少年の姿がよぎった。
炎に包まれ、宙に浮き、そして眠り続ける少年。あどけない、その寝顔が、小次郎にはなおさら脅威に思えた。
あの子供が、ヒトでないと言われても小次郎は驚かない。ヒトでなければ何なのかといわれても、答えられない。それは、尚子だとて同じだろう。いや、尚子ならば、あの子はヒトだ、と言い張るだろうが。
つまり、こうだ。
不可解な子供が森にいる。そして、森で何かおかしなことが起きているようだ。
ということは、この不可解な現象とあの子供がなんら関わりがある、と考えるのが自然だろう。
いや、この火柱の中心にいるのはあの子供なのではなかろうか。
「見て、あれっ! 煙が!」
突如、先ほどまで力なくふるえていた尚子とは思えない、機敏な動きを見せた。
尚子は身を乗り出すようにして、勢いよく、火柱よりも少し北の空を指差した。
落ちるのではないかと、尚子を支えつつ、小次郎もその指の先に目をやる。黒煙が立ち昇っていた。
「村が燃えてる!」
がばっと、体全体をひねり、尚子が小次郎を振り返った。鼻がこすれそうな位置に、整った尚子の顔がある。
小次郎は、はっと息を呑んだ。尚子の瞳の奥に、強い意志がきらめいていた。
助けたい! 村のみんなを!
尚子の目が、全身がそう小次郎に訴えている。
小次郎はすっと、尚子から目をそらした。
「だめだ……」
「いやだ! このまま私だけ行くなんてできないっ!」
「だめだ」
「みんなは私のために、殺されるかもしれない。今だって、危険な目にあってるに違いないんだ!」
「しかし、それが彼らの意志だ。それを望んで、彼らはそうしている…その気持ちを大事に……」
「そうだとしても!」
尚子は小次郎の言葉をさえぎった。
「誰かの犠牲の上にある幸せなんぞ私は望んでいない! 誰かがくれた自由なんぞ、いらない! ……当主の娘として生れたから、誰かの命を利用していいのか? そんなわけない。身分と権威が、誰かの血と涙で出来ているというのなら、そんなもの私はいらないっ!」
小次郎は胸を矢で射抜かれたような衝撃を受けた。
いつから、自分は人の犠牲を“しかたない”と思うようになったのだろう。
小次郎がはっと我に返った時には、もう遅かった。小次郎の視界がぐらりと揺れ、天地が逆転した。
(なっ!?)
ドサッ、という音と共に、体中に激痛が駆け巡っていった。一瞬息が詰まって、意識が遠のく。が、そこは頑丈な体を誇る、坂東武者。すぐさま、体制を整えたが、その痛みのあまり、尚子に突き飛ばされ馬から落とされた、と理解するまで少し時間がかかってしまった。
「この先のサクラの木で待ってろ! 月が真上に昇るまでにはもどる! それまでに戻らなかったら、先に行け!」
尚子は、そう言い終える前に、馬の腹を蹴り、走り出していた。
(いって〜……)
小さくなる尚子の後ろ姿を眺めながら、小次郎は胡坐をかき、頭をさすった。
完全に油断していたため、受身が取れなかったのが悪かった。
下手したら、骨折していたぞ、と文句を言ってやりたいが、すでに尚子の姿は親指より小さくなっていた。
「助けだした姫に、蹴落とされたあげく、大人しく待っていろだと!? しかも、なんて言った!? 先に行けー? たくっ。俺を誰だと思ってやがる、あのじゃじゃ馬めっ!!」
不意をつかれたのも悔しい。
油断していた自分も情けない。
置いていかれたのは、なお悔しいし、情けない。
何より、そんな女に惚れた自分が悔しい。
「ちきしょーっ!! 国に帰ったら、覚えてやがれっ!! 文句は言わせん!! 一晩中、いや、一日中ああして、こうして……」
その後も小次郎は、見えなくなりつつある尚子の背中に向かって、何かを懸命に叫んでいたが、清らかな秋の風に浄化され、尚子にはとどかなかったようだ。
東の空には、なおも煌々と火柱が立ち上り続けて、その横にある月は、まだまだ低い位置にある。あの月が真上に上がるまで待てと、尚子は言った。
小次郎は月を睨んだ。
まるで、小次郎をあざ笑うように──赤い月は、小次郎を見下ろしていた。