(4)
◆◇
屋敷が異変に気づき騒ぎだしたころ、2頭の馬が、小さな村へと到着した。多くの働き手を惨殺されたその村は、それでも生き残った者たちによってゆっくりと息を吹き返しつつあった。
「ツネ婆!」
尚子は村の入り口で、落ち着きなくうろうろする老婆の姿を見つけ、わけもなく泣き出しそうになる。
馬から飛び降りツネ婆へ駆け寄ると、ツネ婆がその小さく折り曲がった体をいっぱいに伸ばし、抱き止めてくれた。尚子の頭をなでる、老婆のマメだらけの手はどんな言葉よりもほっとした。
「けがはないかい? どれ顔を見せてごらん」
微笑みながらツネ婆は尚子をのぞき込む。まるで別人のような優しい声も、尚子の心に染みこんで目頭を熱くさせる。
「手首にアザができちまったね。怖い思いをしたんだね」
「……ツネ婆……」
「泣きたい時はお泣きなさい」
しかし、その優しさに甘えてはいけない気がした。だって……自分はずっと村人を欺いてきたのだから。
「ツネ婆……私……ずっとみんなを騙していたの……。本当は屋敷の嫡男なんかじゃない。なんの力も持たない、ただの女なんだ」
父の権威をかさに、次期当主であると思わせ、期待させた。尚子の意図せぬところで、その見えない権威は村人たちから選択権を奪い、おそれさせていたはずだ。嫡子だからこそ、従ってくれた者だっていたはずだ。
「本当にすまない」
尚子が頭を下げた時、ついに一滴の涙がこぼれ落ちた。だがツネ婆はすぐに、尚子の頭をあげさせる。
「そういえば、姫様のようなかっこをしているねぇ!」
わざとらしく、ツネ婆は声を張り上げた。
「ツネ婆……」
「ばかだね。そんなこと気にしてたのかい? わしらは、わしらの命を救おうと、煤だらけになったり、わしらの食い物が少しでも増えるようにと、畑で泥だらけになる“良尚”というお人が好きなんじゃよ。だからこうして、お役にたてるのが嬉しくて仕方ないのさ」
老婆は尚子の細い肩を、ぽんぽんと叩き笑いかけた。尚子はつられて泣き笑いになる。
そこへ、それまで二人のやりとりを静かに見守っていた小次郎が、尚子の隣に歩み寄ってきた。
「準備はできているか?」
小次郎は強ばった表情をツネ婆に向ける。
しっかりしろ、泣いている場合ではないぞ。小次郎の横顔が尚子にそう言っている。
「もちろんじゃ」
「そうゆっくりもしていられない。見ろ」
小次郎は屋敷の方を顎で指す。
促されるままに、尚子は屋敷の方向を見やり、はっとなった。再び小次郎と視線を交わす。小次郎は小さく頷いた。
遠くにぼんやりと明るくうつしだされる屋敷。かがり火があちこちで炊かれている証拠だ。普段、寝静まったこの時分にはありえないこと。
「予定よりずっと早いな」
小次郎の頭に老女官の顔がよぎる。
屋敷の客人を縛り付けていたとあらば、無事では済まないだろう。
尚子の為に、と本人からの申し出ではあった。だが、屋敷の女官を束ねる者として、何より、尚子をこのような見事な女性に育てあげた者として、自国に招き入れたい優れた人材だった。
正式な嫁取りならば、間違いなく尚子に同行させたものを……このような形で命を落とさせるとは……。
「真に惜しいことをした……」
小次郎は、屋敷の方を見つめながら何気なく呟いた。
尚子は訝しげにその顔を見上げる。必死にその横顔から、小次郎の思惑を引きだそうとした。
だが、それを察した小次郎は、心配するな、と笑った。気を反らすために、そっと尚子の肩を抱き、頬に口づける。
「……なっ!」
尚子は真っ赤になって口づけされた頬を手で押さえる。
ツネ婆のぽかんとした顔がまともに見れない。うつむきながら、小声で小次郎に抗議する。
「ひ、人前ではやめろっ!」
「何、恥ずかしがっているんだ? 誰の目も気にすることないぞ? 俺らが愛し合っているのを皆に教えてやればいい」
「あ、愛し合ってなどいないぞ、まだ!」
「……ああ、そっちの“愛し合う”をお望みなら、下総の国に帰ったらたっぷりと……」
にたりと笑った小次郎の顔が、再び近いてきたので、慌て両手で拒否しながら尚子は叫んだ。
「望んでないっ!!」
「またまた〜〜」
「黙れっ!! その前にそれ以上近寄るな」
今にも小次郎の唇が尚子の耳たぶに触れそうな距離に、尚子は気が気でない。心臓が、飛び出そうなほど、高鳴って目が回りそうだ。
もしかしたら自分は選択を間違えたかもしれない。いや絶対、はやまった!
これからずっと、毎日、毎晩、四六時中、小次郎にこうやってからかわれて生きていくなんて!
(……ま、毎晩!?)
思考の袋小路で、あの夜のことを思い出し、ますます赤面する尚子。残念なことに、自ら“袋のねずみ”に志願してしまったことに気が付いてない。
「おぉ? なんか色っぽい顔してる。これは許可がでた!」
「なっ……ばっ……やんっ……」
と、まともに抗議にならない尚子と、いよいよ調子にのりはじめ、もともと効きの悪い自制心をあっという間に破壊した小次郎の脳天に、突如、鉄拳が振り下ろされた。
「ええ加減にせぇっ!」
そういえば、ツネ婆は口より先に手がでるということを、すっかり忘れていた。尚子も小次郎も子供のように小さくなって反省するしかなかった。