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赤い月が見ている  作者: 日向あおい
第四話 赤い月が見ている
22/47

(2)

 

 

 

 ◆◇

 

 

 

 鷹雄が良兼の前から姿を消した少し前のこと。

 

 独り最西の部屋の前に残った藤乃は、静かに顔を上げた。

 どのくらいそうしていたのだろう。見据えた先には、すでに尚子の残り香すら感じられない。冷たい夜風が、連れ去ってしまったようだ。

 祈っても、祈り足りない。

 尚子だけが、藤乃の生きている意味であり、幸せそのものだった。

 

 姫の笑顔が守れるならば、こんな命――安いもの。

 


(さあ、ぐずぐずしてはいられない)


 そこからの藤乃の行動は、さすが筆頭女官と言うべきものだった。

 部屋に横たわる、アザだらけの男――(たすく)――の手足を縛り上げ、柱にくくりつけた。さらに、猿ぐつわをし、完璧を期す。そして、その惨めな姿を隠すために、部屋に几帳を並び立てる。

 藤乃が、油差しの灯りを吹き消せば、部屋は光の届かぬ世界と化した。

 

 これで、しばらく時間が稼げるだろう。

 

 暗闇の中、扶に向かって座る。

 静かだ。

 このまま、時が過ぎてくれれば。

 日が昇るまで。

 

(見えるかしら……)


 藤乃は几帳の向こうにあるだろう、窓の向こうへ思いをはせる。

 目が自然と細くなる。

 柔らかに微笑むその藤乃の脳裏には、見えるはずのない、キラキラと輝く日の光が映し出されているのだろう。

 閉ざされた薄暗い最西の部屋から、おそらく、藤乃にとって最後となるだろう、日の光が。

 

 そして、それを同じくらい眩しい、尚子の笑顔が――。

 

 ああ、なんと自分は幸せだったのだろう。

 これまで、尚姫(たかひめ)、そしてその母君、華姫(はなひめ)と二人にお仕えし。

 毎日が夢のようだった。

 

 もう、これ以上何も望まない。

 

 

 ──華姫様、私ももうすぐそちらへ参ります。

 

 

 ただ一つ。

 心残りは、尚姫のこと。

 

 尚姫が小次郎のことを思っているのは気づいていた。相手は、主である良兼が目の敵にする良将の息子。信じたくなかったが──止められないのもわかっていた。

 

 お家のために、姫の笑顔を奪うことは自分にはできない。そんな姫の姿を目の当たりにするくらいなら……。


「姫様……お幸せに……」


 祈るように藤乃が胸の前で手組んだその時、部屋の外で大きく風がざわめいた。

 藤乃の顔がぴりっと凍る。

 

「まさか、筆頭女官が裏切っているとはな」

 

 そんなまさか……。

 

 藤乃ののどがごくりと鳴った。

 聞こえるはずのない男の声。

 藤乃の大きく見開かれた目が、動揺に揺れる。

 もう目を覚ましたというのか。しかし、しっかりと両手を縛り上げて、柱に固定したはず!

 おそるおそる振り返ると、暗がりでも分かるほどすぐ目の前に、扶の怒りに満ちた顔が浮かび上がっていた。


「あんな縛りかたでは、すぐにほどけるぞ。筆頭女官たるもの、捕縛の仕方くらい学んでおくんだな」


 次の瞬間、藤乃の顔に激痛がはしる。強い力で殴り飛ばされたのだ。

 老いた藤乃の小さな体は、簡単に吹き飛んだ。

 藤乃と一緒に倒れた几帳が、ガタンと大きな音を立てる。

 口の中が切れたのか、血の味がする。足も痛めたらしい。少し力を入れただけで激痛がはしる。


(今この男に騒がれては、殿に気付かれてしまう……できるだけ姫様が遠くへ逃げるまで……何とかしなくては……)


 しかし老体は、今の一撃で十分すぎる衝撃をうけていた。体を起こすこともままならない。

 なおも男の蹴りが腹部を攻撃してくる。


「……っ」


 闇の中、たまらず漏れる声は、苦痛に満ちた藤乃の顔を容易に想像させた。

 必死で声を出すまいと耐える老婆のそのけなげさもまた、ますますに男の狂気を煽ることになる。


「まあ、それももう必要なかろう」


 頬に冷たい金属の感触。一瞬で背筋がぞくりと凍る。

 視線だけを右頬へとずらすと、鋭い刀が怪しく光っているのが見えた。

 だが、藤乃の悪寒はその刀に対してでも、間近に迫る自分の死に対してでもない。


(なんて男!)


 男の変貌ぶりはどうだろう。

 確かに好青年であった。殿の前では!


(こんな男に大事な姫様を渡すわけにはいかない!)


 殿はこの男の何を見ていたのか!

 あれほどに尚姫をかわいがっていたというのに、それもこんな男の慰みものとするためだったというのか。

 男のこの本性を見たとしても、平然と尚姫を嫁がせるというのか!?

 野心の前では、父性も無力だということなのか!


(なんと、お可哀想な姫様……)


 確かにお家も大事。

 殿にも忠義はある。恩もある。

 だが。

 たとえ、この上総の国と殿が、扶の実家である常陸の源氏と対立したとしても、自分は。

 

 ――自分だけは尚姫の幸せを選ぶ!

 

 そろりそろりと藤乃の右手が、自分の懐の短剣へと伸びる。その右手は、扶から死角となって気付かれることはない。


「姫は私が、“大切”に慈しもう。安心して逝け」


 背後から、狂喜に満ちた男の声が降りかかる。

 チャンスは一度。藤乃は短刀を握る右手に力を込めた。


(この男は、私が一緒につれて逝きます――)

 

 すべては一瞬にかかっていた。

 扶が刀を振り上げたのと、藤乃が勢いよく振り返り、力の限り短剣を突き出したのが同時。

 まさかこんなに機敏に反撃される力が残っているとは予想もしていなかった扶は、完全に不意をつかれた。

 だが、老いた藤乃の最後の思いは、寸前のところでかわされる。

 扶は反射的に身をひねり、回避していた。

 みるみるうちに、扶の表情が驚きから怒りへと変っていく。

 

 そこからは、まるで時間が止まっているかのように、扶の一つ一つの動きがはっきりと藤乃には見えた。

 再び、扶の刀が振り上げられる。冷たく光る切っ先が藤乃めがけて落ちてくる。

 

 だが。

 藤乃のどこにも恐怖は感じられない。


(尚姫様……役に立たぬ私をお許しください)


 藤乃の顔が柔らかにほころぶ。

 

『藤乃ー!』

 

 幼い頃の尚姫の笑顔が見える。その横で藤乃を呼ぶ、華姫の姿が見える。

 

(あぁ…私は幸せにございました。姫様にお仕えして、本当に幸せにございました)

 

 容赦なく振り下ろされる刀。

 赤く染まる闇。

 崩れ落ちる藤乃の……祈り。

 

 

 ――願わくば、私の死が、姫に優しく伝わりますように……。

 

 

 儚い夢が、ここに一つ、その役目を終えた。





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