(1)
「それでは、相馬の小せがれは死んだのだな」
良兼の目が怪しく光る。暗がりの庭に静かに立つその背中を見た者は、まるで良兼の独り言のように聞こえただろう。
「あの高台から川に落ちたのを、しかと見ました」
月夜だというのに、光の届かぬ場所に身を潜めた男が淡々と答えた。
このあたりの川は流れも速く、水量も多い。しかも、高台から川面までゆうに5mはある。川に落ちたのなら、海もそう遠くないから、助かることはそうそう無いだろう。
「そうか」
今度こそ。これでもう二度とあの甥の顔を見なくてすむ。憎んでも憎みきれない実弟と生き写しの、あの顔を!
秋風が良兼の頬を撫でていった。
ずいぶんと心地良い風だ。いや、実にすがすがしい。
「そなた、名は何と言ったか」
「鷹雄にございます」
「それでは、そなたが尚子の」
尚子が実に聡明で武芸にも秀でた優秀な家臣だと言っていた。尚子が嫁ぐ今となっては、良兼の直々の家臣として取り立てるべき逸材かもしれない。
「そなた」
「はっ」
「褒美を取らそう。わしの家臣として取り立ててやる」
「ありがたき幸せにございます」
色よき返事に、良兼の顔が満足げにゆがむ。
「ですが、殿。殿の命をまだ果たしておりませぬ。その命を果たしてからでなければ、そのような名誉をお受けすることはできません」
「命……だと?」
はて、このような男に命など直々に下した覚えはない。懸命に細くなってしまった記憶の糸をたどってみる。
「はい。私が姫に拾われ、初めて殿にお声をお掛けいただきましたおり、『己の命をかけて、姫の命を守れ』そうおっしゃいました。姫がご無事に常陸へと嫁がれるその時まで、この命を果たすのが自分の使命と心得ます」
「ふん。もって回った言い方はよせ。はっきり言うがよい」
「私めも、姫の常陸行きの護衛にお加えいただきたく」
「……まったく、尚子の躾がずいぶんと行き届いているようだな」
ため息まじりに、良兼は許可を出した。
本当に。
あの子は生まれてくる性別を間違えたな。
息子だったなら……何度そう思ったことか。
「殿。今宵の風は冷えます。どうぞお戻りください」
「うむ。もう寝るとしよう」
良兼が身を反転させ、自室へと戻ろうとしたその時、屋敷の西の方からガタンという大きな音が聞こえた。すぐさま険しい顔で良兼が庭を振り返る。
遠くに見える部屋はすでに灯りが消えていて中の様子を探ることはできない。
「……何事か」
まさか、婿が尚子に手荒なまねをしているのではないか。いくら婿でもそれは許さぬ。
政略結婚とはいえ、娘の幸せを願わぬ父はいない。
良兼の足が西へ向かおうとした。が、すぐさま背後から声がかかる。
「殿」
「しかし」
「殿が見込んだお方です。ご心配はないと存じます。それに、無粋な真似は控えた方がよいかと」
「だが……」
「恐れながら申し上げます。ここで殿のお力を発揮されたところで、万が一、婿様が言いがかりをつけてきては面倒なことになります。無理な条件を押しつけられるような事あらば、両国の関係に暗雲がたちましょう」
まったくその通りだった。
しかし、それをよくも堂々と言ってのけたものだ。普段ならば、言葉はおろか視線すら交わすことができぬ身分の差だというのに。
だが、欲しいのはそんな家臣。物怖じせずに、主人をいさめることのできる度量と知力が無くてはならない。
「そなた、尚子を送り届けたら、必ず上総に帰ってくるのだぞ。お前まで常陸にくれてやる気はないからな」
「はっ」
「それにしても……娘の父になど……なるものではないな」
静かに月を見上げる良兼の顔は、どこから見ても娘を愛しむ父親のそれだった。
「走り回るあの子の顔が見れなくなるのは寂しいのう……」
ぽつりと呟くように独りごちると、自室へと向かっていった。そのうなだれた背中を見送ると、鷹雄はすぐさま踵を返し、暗闇の中へと消えていった。