心の声を(3)
小次郎は、拳を大きくふりかぶったかと思うと、勢いよく振り下ろした。聞いてるだけで痛くなってくるような、ごん、という鈍い音が部屋に響きわたる。間髪いれずに再び小次郎がふりかぶる。
「俺の許可無く」
──ごん。
「俺の嫁に触るな」
──ごん。
「俺もまだ、全部見てないんだぞっ!許せん!」
──ばき。
おそらく、最後のが渾身の一発。それでも、殴り足らない。再び拳に力を入れた時。
「──小次郎!」
尚子が小次郎の胸に飛び込んできた。
「うおっと」
小次郎が怒りに我を忘れていたために、不意をつかれた形になる。少しよろけながらも、しっかりと抱きとめた。
尚子の香りが小次郎の怒りをなだめる。小次郎のたくましい腕が、尚子の恐怖で凍り付いた心を溶かす。
まるで、溶け合っていくようだった。二人の、心も、それを留める器も、同じ温度になっていくように──。
小次郎は尚子の頭をあやすように撫でてやる。
「よく頑張ったな」
「……来るのが遅い」
強がるもの尚子の声は、かすれて今にも消えそうだ。
「すまん。色々、手間取った」
「……帰れって言ったのに……」
小次郎はきょとんとなった。さっきは来るのが遅いと言ったかと思えば、今度は帰れという。まったく、どうしたいんだ。いや、両方とも本心なのか。思わず口元がほころぶ。
尚子は尚子で、もはや何が言いたいのか尚子自身もわからない。目頭が熱くて。胸がいっぱいで。小次郎の腕が暖かくて。
「帰るさ」
小次郎はふわりと笑った。その表示の柔らかさとは逆に、尚子を抱きしめる腕に力がこもる。
「姫さんを連れて、な」
「……だからっ」
尚子は、とっさに顔を上げる。帰れと言おうとした。今すぐ帰れ、と。
なのに……。
小次郎の優しい眼差しに、紡ぎかけた言葉が形を失った。
(そんな顔しないで──)
尚子の瞳から、はらりと一筋の滴が落ちる。
また一滴、また一滴。キラキラと輝きながら、尚子の心を裸にしていくように。
言わなくては。
今なら間に合う。早くこのまま立ち去れ、と。
父が気がつく前に。でないと──殺されてしまう。だから言わなくては。
尚子の小さな口が、ぱくぱくと形のない言葉を紡ぐ。
(どうして……言葉が出てこないの……?)
逃げて。
死なないで。
お願い、死なないで。
「――っ」
後から後から溢れる涙。嗚咽を我慢して、唇がふるえる。
どう伝えたらいいの?
あなたに生きていて欲しい。
そしたら……きっとまた会えるから。
だから、逃げて──。
たまらず泣き崩れる尚子を抱きとめ、小次郎は腕の中でふるえる尚子に笑いかけた。
わかってるから。全部言わなくていい。わかってて、それでも来たのだから。
その柔らかな瞳がそう言っていた。
「泣くな」
暖かな声に包まれれば、ますます尚子の感情は涙となって溢れ出る。ついには、口元を押さえても嗚咽がこぼれた。息ができないほどに。
「ほら、泣くな」
そんな尚子の顔を再び胸に抱きしめながら、小次郎は小さくため息をついた。一人で抱え込むからだ。まったく。しょうがない姫さんだ。
そんな小次郎の気持ちが尚子に流れ込むようだった。
しかし、実際に小次郎の口からでた言葉は全く別のもの。
「泣くなって。いつまでも泣いてると。押し倒したくなるだろ」
「──!?」
小次郎の言葉に尚子は思わず体をひきはがす。突然、何を言い出すのだ、この男は。
「だってさ。ただでさえ、姫さん何も着てないわけ。俺、今、すっごい耐えてるの。わかるー?」
言われて初めて我が身を振り返る。慌て小次郎から離れると、尚子は真っ赤になって、自分の着物を探した。そして小次郎に背を向け、慌てて着込む。
「あ、着ちゃうの?」
「あたりまえだっ!」
そんな緊張感のないやりとりも、どこか優しさがにじんでいて、いつのまにか尚子に笑顔が戻っていた。
いそいで尚子が身なりを整え終えた頃、そこにいたのは小次郎ではなく“もののふ”の顔をした男だった。
(まったくなんて顔なんだろう)
生き生きとしたその表示に、高揚感が伝染してくるようだ。
「さてさて、尚子殿」
小次郎はいつになく真顔だ。すっと尚子の正面に立つと、手を差し出した。その大きな手のひらに、確かな自信が見えた。
「……だ、だめだ!」
「何を今更。行ったろう? 今宵必ず迎えに行くって」
尚子の周りから音という音が消え、自分の鼓動だけが響いている錯覚に陥る。
二人は薄明かりの中、見つめ合った。
――――目の奥がキラキラしてる。尚子はそう思った。
「これからはおまえの好きなように生きろ。でもそれは俺の隣で、だ」
「好きなように……?」
いいのだろうか。
自由に生きても。許されるのだろうか。
そんなものが、自分に与えられるのだろうか。
「俺が、おまえにその自由をくれてやろう。俺の妻になれ」
小次郎が笑いかけた。その眩しさに目を細める。磁石に引かれるように、ゆっくりと尚子の手が小次郎の差し出した手の方へ伸びていく。
(待って、でも……)
この手を取るということは。
(父上を捨て、この国を捨て──小次郎を選ぶということ)