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赤い月が見ている  作者: 日向あおい
第三話 心の声
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  心の声を(2)

 

 頭でそう認識するより先に、尚子の体がびくりと反応する。

 

 つつ……つつ……。

 

 絹連れの音が近付いてくる。

 尚子の体中がこわばる。

 

 緊張のあまり後ろを振り返ることもできない。

 

 ……つつ……つつ……。

 

 自分の鼓動が大きく早く聞こえる。まともに息ができない。窓の縁を握る手が、かってに震えた。

 そんな尚子の背中に、ねっとりとした視線が絡みつく。頭の先から、絹裾まで、じっくりなめ回すような、そんな視線だ。

 

 ……つつ。

 

 ついに絹連れの音がピタリと止まった。

 真後ろに人の気配。

 ごくり。生唾を飲み込む尚子の喉が鳴った。

 

 その瞬間。

 

 

「尚姫、お待たせしたかな」

 

 

 聞きなれぬ男の声。

 最後の音が発せられるより早く、尚子は強い力で引き倒された。

 

「――――っ!」

 

 叫びそうになった声をかろうじて飲み込む。

 

 その拍子に、尚子の打ち掛けの裾が、まるで舞うように弧を描いて床に落ちる。

 尚子のまとう香りが、部屋いっぱいに広がった。

 油差しの明かりで、赤黒く映し出される男の顔。口端がにたりと歪むのがはっきり見て取れる。

 

「…………」

 

 一瞬にして沸き上がる恐怖に吐き気すら覚える。全身の肌がざわめく。

 尚子は今すぐにこの男を蹴り倒して、逃げ出したい気持ちを何とか押さえる。必死で。そして大きな目で扶を睨みつけた。

 

 ――簡単におまえの好きなようにはさせない。例え体を征服できたとしても、心は誰にも奪えやしない。私は私のものだ!

 

 しかし相手が悪かった。少しでも触れれば噛みつきそうな尚子の気迫も、この男には逆効果となる。  

「いい目だ」


 さも嬉しそうに男が笑う。


「尚姫は笛をたしなまれますかな?」


 尚子は返事をするかわりに、睨みつづけた。


「従順な笛はもう飽きてね。こんどは私の手で作って見ることにしたのだよ。この笛はなかなか難しくてね」


 ゆっくり男の手が、尚子の腰元へ移動していく。腰紐がほどかれる音が、尚子の恐怖を煽る。それでも目を逸らすものかと思った。


「不思議なことに、手が掛かる笛の方が愛着がわくのです……いい声で鳴くまで、優しく丁寧に何度も愛でてやらねばな、笛も女もっ!」


 そういい終えると同時に、扶は一気に夜着を左右に引き開ける。露わになった尚子の白い肌に、男は舌なめずりをした。

 尚子はなおも無言で睨み付ける。が、床を握り締める手の震えは止まらない。


 男の顔が近づいてくる。

 首筋に息がかかる。


 まるで味見でもするかのように、男の舌が首筋をたどっていく。ナメクジが這うような、その感触に、ぞくりと背筋が寒くなる。勝手に体が強ばって、小刻みに震え出した。


(ひっ……気色悪いっ)


 その小さな震えに気づかない扶ではない。悲鳴をあげない尚子の気の強さに、泣き叫ぶ様を見てみたい衝動が湧き上がってくる。もはや扶の口元から笑みが消えるはずもない。

 徐々に胸元の方へ移動していく男の舌。

 

(いやああああっ!)


 悔しい。

 悔しい! 悔しい!

 気持ち悪い!

 強い感情が溢れ、尚子の細い体には収まりきれない。勝手にまぶたから涙が溢れてくる。

 

(助けて! 助けて!!)


 しかし突如として、鎖骨のあたりで男の舌がぴたりと止まった。

 恐る恐る尚子が目を開けると、鎖骨あたりを凝視する男の顔に怒りが浮かんでいる。


「これはどういうことだ」


(……これ?)


 訳が分からず、自分の胸元を見た尚子は──息を飲んだ。


(……何だこれは──!)


 胸元にうっすらと、でも確かに、赤い花びら──小次郎の唇の証──が咲いていた。

 

(い、いつの間に!……あの時!?)


 あの夜。小次郎と唇を重ねた、あの時。

 あの男は、全く口で歯の浮くような事ばかり言って、ほんとに手が早い。こんなところに跡を残していくなんて。


 ――――期待してしまうではないか。迎えになど来るはずないのに。


「何がおかしい」

 

 尚子ははっとした。

 しまった、と思ったが、もう遅いことも同時に悟る。先ほどまであんなに強張っていた尚子の顔が自然に緩んでいたのだ。

 明らかにプライドを傷つけられ、嫉妬と屈辱に支配された男が、鬼の形相で自分を見下ろしている。


「そなた、他に男がおるのか! そうなのか!?」


 男は乱暴に尚子の胸のふくらみを掴んだ。


「いたっ!」


 思わずあげた悲鳴は、ますます男をエスカレートさせた。


「いつもこのようにどこぞの男に弄ばれていたのだろう?」

「やめっ……うっ」


 乱暴に足を捕まれ、口を手でふさがれる。息ができない!

 苦しさにもがいてもがいて。抵抗するもむなしく、男はびくともしない。

 やっとのおもいで口から手がはなれたと思えば、男の口で塞がれる。

 小次郎のとは違う。

 同じ行為だというのに、全然ちがう。これはただ征服するための行為でしかない。

 

 こんな……こんな扱いを受けるために……。

 生きてきたというのか。生きていかねばならぬのか。

 女に生まれたがために!

 

「いやあぁぁぁ! 小次郎ーっ!」

 

 無意識のうちに悲鳴をあげた。もう口にすることもないと思った、その名が飛び出した。


 無我夢中だった。もがいてもがいて。

 力の限りもがいて──。


 

「うっ」


 

 突如、男がと小さく呻いた。そして尚子の上に倒れ込む。

 その結果、ただの重石と化した男の体。

 本能的に恐怖から逃げられると感じとった尚子は、男の下で一層じたばた手足を動かした。

 しかし、次にはふわりと重石が宙を浮く。尚子の体が、反射的に、さらなる恐怖に身構えるように小さくなった。

 

(──!?)

 

 そうか。何者かが、自分の上に覆い被さっていた男を、どけてくれたんだ。そうとわかるのに少し時間がかかった。

 

(夢かな……)


 だって。

 目の前に現れたのは──。

 

「遅くなったな」

 

 尚子が心から望んだ笑顔の小次郎──ではなく般若のように怒り狂った小次郎だった。

 


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